第19話 盤の空洞、戻る道
供物盤の裏蓋は、もう鍵を必要としなかった。名が刻まれ、秩序が返納され、穴が音もなく塞がってからの木は、こちらの叩きかけに低く澄んだ返事を寄こし、四隅の楔は、あらかじめ決められていた握手の順番を思い出すように、順に緩んだ。柊と紅葉、かがり(宮司の孫)、片桐(教師)、そして湊が指を添え、息を合わせて持ち上げると、裏蓋は板の重さの通りにすべって外れ、底に口を開いた空洞は、冷たい空気を一杯に含んで、こちらの顔を静かに見上げた。
空洞の奥に、薄い包みが一つ眠っていた。紙は古いが脆くない。油を含んだ布でくるみ、さらに桑皮紙で包み直した丁寧な層。紅葉が手袋をはめ、角を一つずつ起こしていく。包みに触れる彼女の指の動きには、いつも患者の皮膚に触れるときと同じ、力を使う前の力がある。力そのものではなく、力の前口。柊はその手の癖に少し笑って、手燭を寄せた。
開くと、中には三つの道具が眠っていた。最初のものは小さな鈴。真鍮のようで真鍮ではない鈍い光を持ち、胴は薄く、舌は糸に結べるよう穴が通っている。鈴の傍らには細い青糸が巻かれ、糸の一端には、結んだ先が必ず最短の帰路を鳴らすよう、姿の見えない仕組みが入っていると示す古い注釈が添えられていた。名は“戻る道の鈴”。
二つ目は、小さな印章。木の柄は言葉の油を吸い込んで黒く光り、印面は赤くも青くもない、紙の白さに沈む色で刻まれている。かがりが顔を傾け、印面の文を読み取る。「注の印」——合唱の時だけ赤く光り、個の声を前に出す。名は“合意破り(ごういやぶり)の印”。
三つ目は、手のひらに馴染む大きさの綴じ。皮表紙の内側に淡い線が引かれ、糸で綴じた端に短い栞が下がっている。表には何も書かれていない。開くと、一枚目の上部に小さく刻まれた文字が見えた。——“空札の帳”。空札を綴じる帳面。能力なしの夜を記録し、無力の重みを消さない。紙は厚いが、重くない。重くないのに、手に載せると背骨の奥で音がする。
「神事の後始末だ」かがりが微笑んだ。「祭は終わってからが長い。匿名の後遺症をゆっくり治すための道具たち。道具は、治療の手順を人に思い出させる」
片桐が小さく頷き、古い講義ノートの端を指で押さえた。「言葉は手順。手順は外れて初めて見える。……道具は、手順を見える位置に戻す」
柊は鈴を手に取り、耳元でそっと揺らしてみた。舌は鳴らない。鳴らないように作られているのだろう。結ばれた糸が、結ばれた先の方向だけを選んで響かせるのだ。戻る道の鈴は、勝手には鳴らない。こちらが結び、こちらが歩き、戻れなくなったときに、鳴る。看護の道具だ、と紅葉が目で言った。
◇
「外への道が開く前に、村の“戻る道”を敷こう」柊は言った。盤の上の薄い人影は朝の斜光の中で淡く、拝殿の梁に映る影はすでに人の背丈を測るための物差しに戻っている。狼は倒れ、仮面は退いた。けれど、習慣は生き残る。匿名の快楽も、整った言葉の誘惑も、冬が終わっても戻る。……戻るものは、仕組みで受ける必要がある。
「戻る道の鈴を、村の動脈に通す」かがりが地図を広げ、井戸→拝殿→各家→見張り台と線を引いた。「迷うのは悪いことじゃない。迷ったあとに戻れるのが良いことだ。仕組みで戻せるなら、迷いは罪ではなくなる」
「合意破りの印は、拝殿の黒板……」と片桐が言いかけ、言い直した。「黒板は無いんだった。写し板の端に置こう。誰かの言葉が合唱に変わりそうになったら、印に触れて、注として“別の一声”を必ず挟む」
紅葉は頷いた。「印に触れるのを、恥にしない。看護の呼び鈴みたいに、誰でも触れる。子どもでも。……湊、鳴らす役、できる?」
湊は胸の鈴を握り、「ぼく、やる」と言った。鈴は鳴らさない。鳴らすのは別の鈴。彼はその区別を自分の中に丁寧に作って持っている。
「空札の帳は、いちばん読みやすいところに置く」柊は帳面を開いて、薄い紙の香りを吸い込んだ。「最初の頁に、ぼくから書く。“何もできない夜があった”。次に、紅葉。“守れない夜も看護のうち”。空札は恥ではない。記録すべき弱さだ。……そう書いておけば、能力の快楽に溺れない線が引ける」
「“終わった”って顔をしてる人もいる」紅葉が拝殿の戸を半ばだけ開け、外の白さを指でなぞった。「雪解けの道を確かめに走りたい。焦りは分かる。けれど、戻る道がないまま離散すれば、祭は形を変えて戻る。匿名も、合唱も。——片桐さん」
片桐はうなずき、机に両手を置いた。「週に一度、名前で集まる会を。長々と話す場じゃない。ひとりひとり、ひとことずつ。順番を決めない。名を呼んで、呼ばれたら返す。ぼくは番を取り過ぎないように、鈴で時間を測る。湊、合図を鳴らす役、どうだ」
湊は「うん」と短く頷いた。頷きは軽いが、鈴の舌を握る指はしっかりしている。
古老は眉をひそめた。「集まりは重い。人は疲れている」
紅葉が笑って肩をすくめた。「短く、温かいスープ付き。寝る前に喉まで温まるなら、悪くないでしょ? 私、鍋を持ってくる。味は薄すぎず、重すぎず」
志乃が「わしの乾物を出そう」と言い、井戸の番の弥市が「水は任せろ」と頷き、村の空気は少しだけ柔らかくなった。柔らかさは合唱の柔らかさではなく、湯気の柔らかさ。湯気は呼吸の高さを下げてくれる。
◇
午後、鈴の糸が通された。戻る道の鈴は、井戸の丸石の縁の下に、拝殿の梁の角に、各家の戸口の鴨居に、見張り台の梯子の脇に、それぞれの高さで吊るされ、結びは固くなかった。子どもでも鳴らせる高さ。背伸びすれば届く高さ。鳴らした音は遠くまで響かない。響かない代わりに、近くの人間の胸骨の間に直接触れる高さだ。
「合図を決めよう」柊は言った。「二度——迷った。三度——戻りたい。長く一度——誰か来て。……鳴らすのは、迷いの告白だ。鳴らしたからといって罰しない。鳴らさないのは我慢強さじゃない。鳴らすのは呼吸の練習だ」
湊が各所を回り、子どもたちと一緒に試しに鳴らす。鈴の小さな音は、雪の上でよく転がり、屋根の氷柱の根元をかすめ、拝殿の板にふわりと落ちた。音は、誰のものでもない。けれど、鳴らす指は誰のものかがはっきりしている。そこが、合唱と違うところだ。
“合意破りの印”は、写し板の右下に置かれた。印の柄には、布を巻いて持ちやすくする。輪の誰かの言葉が合唱に傾きそうな角度で重くなったとき、印に触れる。触れた者は、注として短い“別の一声”を挟む。否定ではなく、別の角度。たとえば「怖い」と言葉が膨らんだとき——「悲しい」でも「怒っている」でもない別の感情でもなく、「寒い」とか「腹が減っている」でもいい。合唱を割るのは、理屈ではなく、別の体温だ。
かがりは印面の文様を布に押し、赤くも青くもない、その場の湿りを拾う色で“注”の印影を試してみせた。印影は目立たない。目立たない代わりに、あとで読むとき、指が止まる。「注は声の隙間だ」と、彼は言った。「隙間があると、合唱は息継ぎに失敗する」
“空札の帳”は拝殿の奥に置かれた。柊が最初の頁に『柊:何もできない夜があった』と書く。筆圧は強くない。強くないのに、線は残る。次に紅葉が『紅葉:守れない夜も看護のうち』と書き、片桐が『片桐:言葉を抜いた夜があった』と続け、かがりが『かがり:読み上げない夜を選んだ』と記し、湊が『湊:ならさなかった夜』と小さく書いた。
帳に書くとき、誰も笑わなかった。笑う必要がなかった。代わりに、呼吸の順番をゆっくり整えた。無力は恥ではなく、重さだ。重さは、地図の等高線のように、戻る道を見やすくする。重さの無い地図は滑る。滑る地図では、長い冬を歩けない。
◇
夕暮れ。最初の“名前の会”。拝殿の中央に鍋が置かれ、志乃の乾物と弥市の水で作られたスープが湯気を立てる。薄すぎず、重すぎず、塩は控えめ、香りは強すぎない。湯気は、匿名の合唱に慣れた喉をゆるめるのに向いている。
人は輪になって座った。順番は決めない。番の合図は湊が鳴らす小さな鈴の二度打ち。片桐は時計を持たない。代わりに湊の鈴と、自分の胸の中の拍で時間を測る。話すのはひとこと。名で。長くしない。合唱を生まないために。——柊が湯呑みを手に、最初に口を開く。
「柊です。……雪が割れはじめて、焦りが出ています。ぼくも外へ走りたい。でも、戻る道を敷くのが先だと、いまは思っています」
湊が鈴を二度。志乃の番。「志乃。——泣くのは、今はあんたらじゃなくて、鍋の湯気でいい」笑い。笑いは合唱にならない。
かがり。「かがり。——面の裏の文と盤の底の文が同じだったこと、記録した。名で読む。読むことは、呼ぶことだ」
片桐。「片桐。——印は手に馴染む。注は、声の隙間だ。挟むのは勇気ではない。習慣にする」
紅葉。「紅葉。——サワの脈、夜に落ちすぎない。落ちそうになったら鈴を鳴らす。鳴らない夜を目指さない」
子どもたちが続く。「たろ。——鈴、二回ならした」「みよ。——こわい、より、さむい」「湊。——ぼくはここ」
拝殿の空気は厚くならない。厚くならない代わりに、薄い層が幾重にも重なる。薄い層の重なりは、合唱の壁とは違う。通りやすく、戻りやすい。
樫山(村長)は、最初、視線を落としたままだった。湊が鈴を二度鳴らす。彼は顔を上げない。紅葉が鍋を持って樫山の前にしゃがみ、湯気の向こうで目を細めた。「少しだけ。塩は控えめ」
樫山は頷き、椀を受け取り、湯気の厚みの向こうにいる自分の名を探すように、ゆっくりひと口すすった。柊が隣で“空札の帳”を開き、彼の前にそっと差し出す。ページは白い。白いのに、重さがある。
樫山は筆を持った。手は震えない。震えないのは、今日に限っては良い兆しだ。震えが必要なときと、不要なときがある。彼は震えない手で、震えの代わりに遅い速度で、書いた。
——『樫山:何も言えない夜があった』
誰も息を飲まなかった。飲む必要がなかった。飲む代わりに、湯気を吸い、椀を置き、湊の鈴が二度鳴った。
「わし、弥市。——水は、戻る」
「お兼。——子の名で怒った。自分の名で謝る」
「お杉。——合唱に乗った。鈴が鳴って、止まれた」
片桐は番を取り過ぎないよう、時折印に指を置いて注を挟み、「寒い」「腹が減った」「眠い」を言葉にして、合唱の芽をそっと摘み取っていった。摘むのではなく、横に並べただけだ。並べると合唱は勝手にほどける。ほどけると、それぞれの名が見える。
会の終わり、拝殿の天井の隅に吊られた“戻る道の鈴”が、自然に一度だけ鳴った。誰の指もそこにはない。けれど、結ばれた糸の先で、何かが最短の帰路を選び、こちらへ戻ってきたのだろう。音は短く、乾いていない。外道の雪がもう一歩退いた合図のように聞こえた。
◇
夜。柊は家の戸口に、一本の鉛筆を立てかけた。最初の夜、彼が占い札を持った時に握っていた筆記具だ。黒鉛は短くなり、木の香りは薄い。彼はそれを掌で転がし、指の腹に引っかかる角の位置を確かめる。角は少し欠け、欠けは無力の記憶に似ている。無力は、言葉ではなく、触れる感触で残る。
通りかかったサワが足を止め、鉛筆に目を留めて微笑んだ。「名前を呼んでくれて、ありがとう」彼女の声はもう、喉の前口で鳴らない。鳴らない鳴りは、笑いの前口に場所を譲った。
「返礼は?」柊が冗談めかして言うと、先に紅葉が答えた。「体を大事にすること。それがいちばん高い返礼」彼女はわざと少し真顔で言い、すぐ笑ってから、サワの手首の脈を一度だけ指で触れた。脈は落ちすぎない。落ちすぎないのは、夜に良いことだ。
「うん」サワは頷き、「鈴、鳴らすね」と言った。「鳴らさない夜を目指さない。鳴らして、戻る」
柊は「そう」と短く答え、鉛筆を戸口の柱にそっと押し当てた。押し当てたところで、明日の朝の自分の指が触れる位置を一度だけ覚え、鉛筆を元の場所に立てかけた。立てかける角度は浅い。浅い角度は、帰りがけにひじで落としても折れない。
湊が鈴を小さく鳴らして通り過ぎ、「おやすみ」と言い、片桐がノートを胸に抱えて歩き、「おやすみ」と言い、かがりが青糸を巻き直しながら、「明日、盤の裏の空洞のさらに奥を見よう」と言って去った。紅葉は鍋を拭い、蓋を乾かし、拝殿の火を落とし、最後に戸を半ばだけ開けて外の冷たさを胸いっぱいに吸い、おなかから吐いた。
笑いは静かで、冬の匂いは薄い。鈴は鳴らない。鳴らない夜は、休む夜だ。休む夜に人は育つ。
◇
翌朝。外道の雪が割れた。見張り台から降りる道が一本、まっすぐに通った。雪は端から薄く崩れ、日向の部分だけ少しだけ緩んで、土が呼吸を始めていた。かがりが見張り台に上り、柊と紅葉と湊がその背を追う。片桐はノートを懐に入れ、志乃は乾物の倉を確かめ、弥市は井戸の縁の氷を割って薄い氷片を手に取った。
見張り台の上から、遠くの稜線の向こうに、細い狼煙が上がるのが見えた。高くない。高くないが、細く、まっすぐで、同じ高さで、同じ間隔で、二度、三度。風が強くないのに、煙は揺れない。揺れない狼煙というのは、どこかの村の指が、まだ合唱の高さを手放していない証だ。そこにも供物盤があるのか——柊は無意識に戸口の鉛筆を握り直した。
「行くべきか?」片桐が小さく問う。問う声は軽い。軽いが、背骨で音を立てる。
「焦らない」紅葉が手を伸ばして、戻る道の鈴をひとつ軽く持ち上げた。鈴は鳴らない。「まず、ここの“戻る道”を敷き終える。週に一度の“名前の会”を三回やって、空札の帳に“鳴らした夜”を三行ずつ増やす。……それからだって、遅くない」
「戻る道の鈴は、連れていける」湊が言う。「鳴らせば、帰れる。ぼく、鳴らす」
かがりは目を細め、遠い狼煙と村の地図を頭の中で重ねた。「戻る道は、外へも伸びる。けれど、外に伸ばす前に、内側に結び目を増やす。……“合意破りの印”も、持ち運べる。注は、外の合唱にも効く」
柊は深く息を吸い、吐いた。「行く。けれど、行きかたは“名前で”。向こうで合唱が始まりそうなら、名を呼ぶ。呼びかけて、注を挟み、鈴を鳴らし、空札の帳を開く。……刃を持たずに済むやり方を、ここで手のひらに納めてから」
「うん」紅葉が頷いた。「返礼は体を大事にすること。外へ行くならなおのこと」
柊は鉛筆の角を爪で軽く撫で、そこで初めて、自分の胸の中で言葉が自然に並ぶのを感じた。——名で、行く。名で、戻る。そのために、いま、鳴らさない鈴を、鳴らせる位置に吊るしておく。
拝殿の戸が、朝の風でほんのわずかに鳴った。鳴りは小さい。小さい鳴りは、遠くまで残る。
柊は鉛筆を胸の前で握り直し、顔を上げた。狼煙は細く、空は薄く、雪はまだ白い。けれど、道は一本、通っている。足跡は、まだ無い。足跡は、これからだ。
戻る道は、もう敷かれ始めている。指で、鈴で、印で、帳で——名で。