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匿名投票の村――吊られた者の名前は、翌朝消える  作者: アコンプリスの人


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20/20

第20話 雪解けの出口、鉛筆の儀

 雪解けの道がひと筋、谷の腹をゆっくり割って外へ通じた。夜の間に凍りついた白の継ぎ目が、朝の光で解かれ、土の色が糸のようにのぞく。見張り台の下から吹きこんでくる風は、これまでの冬じゅうの風とは違っていた。刃ではなく、手のひら。頬を撫でて拝殿へ滑り込み、吊り灯の火を「普通の明るさ」で揺らす。これまでの揺れは、儀式の揺れ、緊張の揺れ、合唱に吸い寄せられる揺れ。今は違う。息の長さで揺れる。人の生活の高さで揺れる。


 供物盤は静かだ。穴は塞がり、薄灰の犬影も、人影もない。代わりに、盤の上には十二の名が刻まれ、周囲の切れ目が柔らかい角になっている。名で触れられた木は、匿名の爪あとより温かい。角という角に残っていた尖りが、指の腹で撫でられているうちに丸くなり、光を柔らかく返すようになった。切り目のひとつひとつに、呼吸の跡がついている。かがりが撫でて、「木が、人の温度を覚えた」と小さく言った。


 村人はそれぞれ荷をまとめていた。杉皮で補強した背負い籠に乾物や薬草の束を詰め、手紙の束を胸に差し、家の戸口に短い書き付けを残す。「行っています」「戻ります」「湯は拝殿」。誰もが、誰かの呼吸を忘れないように、ひと目で分かる目印を置いていく。匿名の時代の「素早い合意」は過ぎ、遅い合意の時代が来る。遅いが、折れにくい。朝の輪の中で、片桐がそう言った。彼の声は整っているが、もう整然と揃えるためではなく、ほどよい間を持つために整っている。


「——祭を閉じる」かがりが巻物の末尾を指で撫でる。「古文の最後に名がある。“鉛筆の儀”。最初の夜から、この村をつないだのは剣でも仮面でもなく、書くことだった。写し板、青糸の縫い、票の言葉、名の刻み、空札の帳。最後に鉛筆が祭を閉じる」


「鉛筆の儀」紅葉が口の中でゆっくり繰り返し、笑って両手を打ち合わせた。「字の手当てで祭を終えるの、うちららしいね」


 古老の一人が、拝殿の柱にもたれて呟く。「書けば、嘘も書ける」


 片桐は頷いた。「書かなければ、嘘は“空気”で回る。空気の嘘は、誰のものか分からない。書かれた嘘は、名が届く。注が挟める」


 紅葉は笑って、鍋の蓋を少しずらした。「まずは温かいものを。緊張してる胃には薄いのからね」湯気が、名の刻まれた木の面をそっと撫でる。サワは胸元の鈴をひと鳴らしして、「ここ」と告げる。柊は拝殿の隅から短い鉛筆を取り、刃で削る。芯の先を拝殿の灯でさっと温め、「冷たい字は、読みにくい」。誰かがくすりと笑い、別の誰かが肩で笑い、湊が鈴の舌を指で押さえて笑いを一つだけ飲み込む。笑いは合唱ではなく、それぞれの呼吸の音だ。


     ◇


 鉛筆の儀——順番は決めない。誰からともなく、一行ずつ“戻る道の約束”を書く。かがりが写し板の余白を拝殿の柱に留め、青糸を二点で軽く結ぶ。結びは固くない。外せる結び。戻れる結び。印の朱が脇に控え、空札の帳が受け皿のように開かれている。湊の鈴は、今日は鳴らさない。鳴らすのは、番を決めないときだけだ。


 柊が最初に鉛筆を受け取り、短く書く。「合唱になりそうな時は、注を挟む」。鉛筆の腹が紙を撫でる音が、拝殿の木の鳴りと重なって低く続いた。柊は書いた一行を声に出して読み上げる。低く、短く。誰かが同じ高さで続けないよう、少し間を空けて「以上」と付け加える。声が止まり、空気が傷まない。


 片桐が続けた。「名が負担の時は、鈴を鳴らして休む」書いた後で、印に指を置き、印面を紙の端に軽く押した。赤ではなく、紙地より少しだけ濃い影が「注」を残す。注には「休みは弱さではない」と小さく添えた。読み上げるときも、その注を読んだ。言葉の流れを、ひと息分だけ変える。


 紅葉が鍋の柄を片手で持ったまま、「“できなかった夜”は空札の帳に残す」と書く。彼女の字は、やっぱり看護の字だ。簡潔で、読みやすく、飾らない。読み上げる声も、患者の枕元で水を差し出す時の声の高さだった。湊が少しうなずき、空札の帳の第一頁に指を置いて、その欄に今日の日付を書き足す。


 かがりは鉛筆を持つと、少しだけ顔を上げ、拝殿の梁を見た。「他所から“仮面”が来たら、形で写す」写し板に書いたその行を、印の影で囲み、下に短い説明を添える。「声で焦らない。形で受ける。——道具の道を先に置けば、人は道に迷わない」


 サワは胸元の鈴に一度触れてから、鉛筆を握った。指はまだ細いが、震えは長くは続かない。「呼ぶときは名で」彼女は書き、読み上げた。読み上げる声に、あの遠吠えの前の鳴りはもうない。代わりに、笑いの前口に似た湿りがある。湿りは紙に落ちない。落ちないから、良い。


 湊が、「迷ったときは二度、戻りたいときは三度、鈴」と絵で補った。小さな丸の中に二本線、三本線。子どもでも見た瞬間に分かる記号だ。たろとみよが横で真似をし、たろは鈴の周りに笑顔の顔を、みよは涙の粒を描き込んだ。笑顔の顔は破顔ではなく、口角の少しの上がり。涙は一粒だけ。泣きすぎると合唱になるから。


 古老は「字は苦手だ」と言いながら、棒の先に焼き印の端を押し当てて、簡単な記号を残した。「耳」「目」「手」。彼は読み上げのときに「聞いて、見て、触れる——順番を間違えない」と言い、湊が印に触れて小さな注を挟んだ。「寒い時は、耳より手が先」


 弥市は「井戸の道、夜は閉じる。昼に開ける」と書き、志乃は「泣くのが仕事の日は、泣いたと書く」と書いた。「泣かなかった日も、書く」と湊が補い、印が「注」を受ける。注の影は目立たないが、読み返した時に指が止まる。指が止まるところに、戻る道ができる。


 樫山は輪の最後で鉛筆を受け取った。視線は落ちているが、声は落ちていない。「戻る道を、私が塞いだことがある。——これからは、開ける役をする」それだけ書いた。短い。けれど、短い言葉が、彼の背中の筋を正しい位置に戻すのが見えた。彼は立ち上がり、拝殿から広場へ向かう通りに“戻る道の鈴”の紐を張り直す。高すぎず、低すぎず、子どもの背伸びで届く高さ。結び目は子どもに任せた。たろが一つ、みよが一つ、湊が最後に確認の結びをする。戻る道は、子どもの手で明るくなる。


 書かれた各行は、必ず読み上げられた。声は合唱にならない。重ならない。同じ高さで続かない。湯気が流れるのと同じ速度で、各人の口から出て、拝殿の梁の上で薄く寝かされる。寝かされた声は、重なって壁になるのではなく、縁のない布になって広がった。布の上を、これから来る誰かの呼吸が安全に滑れるように。


 最後に、湊が写し板の端に「今日の印——合唱の芽を摘んだ回数:三」と小さく記し、印を一度だけ軽く押した。印面が紙を撫でる音は、雪解けの水が石の下の隙間を通る音に似ていた。


     ◇


 出立の刻が来た。最初に外へ向かう一団は、片桐、かがり、柊、紅葉、サワ、湊。拝殿の戸口で、志乃と弥市と古老たちが、湯気の立つ椀をもう一杯ずつ差し出す。「行っておいで」「戻っておいで」。言い方はそれぞれ違うのに、指先の温度は同じに揃っている。戻る道の鈴が、風ではなく人の息で危うく鳴りかけ、鳴らなかった。


 見張り台を越えるとき、彼らは振り返った。拝殿の柱には、写し板が残り、青糸が風にほんの少し鳴っている。鳴りは短く、鈍く、心地よい。合図ではない。見送りだ。かがりが面の包みを片桐に預け、柊は鉛筆を高く掲げた。剣の代わりに、挨拶の形で空へ向ける。鉛筆の黒い芯が、小さな塔の尖塔のように冬空に立ち、日差しをほんの少し吸って、指に温度を返す。


 そのとき、湊がポケットから小さな面の欠片を取り出した。「こわい時、これを持ってた」それは仮面の端の、木目がかすれた薄い板片だった。もう灰にならない。ただの薄い木片。片桐が目を細め、「道具を道具の高さに戻したね」と言う。紅葉が「重かった?」と尋ねると、湊は首を振った。「重くない。……でも、手汗で滑りそうな時があった」


 柊は頷き、荷の上から“空札の帳”を取り出した。最後の頁を開き、そこに木片を糊で貼る。湊が押さえ、紅葉が布で余分な糊を拭い、かがりが印で端を押さえた。柊は鉛筆で、その貼り付けの下に書いた。

 ——「怖かった。けれど、名で呼べた」

 帳は重くない。重さは、皆で持つ。片桐が帳の背を軽く叩き、「重いのは“順番”だ。順番は、皆で持てば軽くなる」と微笑む。


 かがりが見張り台の欄干に肘を置き、遠くを指した。谷を下る途中、別の村の狼煙が近くなる。高くはない。けれど、細く、間隔が揃いすぎている。そこにも供物盤があるかもしれない。仮面がいるかもしれない。けれど、彼らには青糸があり、連結紐があり、写し板があり、空札の帳がある。何より、名で呼び合う習慣が芽吹いた。芽は冬のうちに土の下で太くなり、春の準備をしている。春が名で呼ばれる日が来る。


「また、喉が鳴りそうになったら、呼んで」サワが小声で言う。雪の上の光はやわらかく、彼女の横顔の影は薄い。

 紅葉は即答する。「その前に、呼ぶ。——いつでも。呼びかけは、症状の手前で届くのが一番効くからね」


 片桐は笑い、まっすぐな雪道の先に黒い板のような遠景を指差した。遠く、雪が溶けにくい北側の斜面が、濡れた板のように見える。「あれが次の写し板だ。紙はいつも、ここにある」彼は胸のノートを軽く叩き、湊が鈴の舌をひと撫でして「ぼく、注を挟む」とうなずく。


 樫山は拝殿の前に立っていた。広場へ張り直した鈴の紐は、彼の肩の高さを基準に、子どもの背伸びで届くように調整されている。結び目は柔らかい。触ればほどける。戻る道は、触っていい。彼は柊の掲げた鉛筆に小さくうなずき、声を張らずに言った。「——いってこい。帰ってこい」


 「いってきます」六つの声がばらばらに、けれど同じ方向へ滑っていく。合唱ではない。呼びかけの返事だ。


     ◇


 谷を下る。雪は端から薄く崩れ、道の真ん中だけ一本の白い帯になった。足跡は互いに重ならない。重ならない代わりに、ひとつひとつが次の足を呼ぶ。見張り台の鐘は鳴らない。鳴らないことが、安心の合図になっていく。鳴らすべき音は、各自の胸の中にある。戻るべき鈴は、村に吊られている。結び目は柔らかく、触れば思い出す。


 湊が時々、背伸びをして遠くの狼煙を見た。かがりが道の両脇に小さな目印を書く。枝の先に短い線。「注」。雪の上に「耳」。風の向きが変わるところに「手」。それは誰の目にも優しい地図になり、足が迷ったときに戻る方向を、声より先に示してくれる。


 紅葉はサワの歩幅に合わせ、サワは紅葉の呼吸に合わせ、片桐は二人の間の間合いを崩さないように歩いた。柊は先頭で、時に後ろを歩いた。順番は固定されない。固定すれば、合唱の芽が出る。変えすぎれば、秩序が疲れる。変えたり戻したりするのが、いちばん長持ちする秩序だと、今は身体で分かる。


「ねえ」湊が立ち止まって、雪面にしゃがんだ。「書いていい?」


「いいよ」柊が鉛筆を渡す。鉛筆は短い。短いけれど、芯はまだある。湊は雪明りの上に指で円を描き、鉛筆でその円の内側に小さく「ここ」と書いた。雪は紙と違って、字が滲む。滲むけれど、滲みが地図の等高線みたいに、場所の厚みを教えてくれる。「ここ」と書かれた場所は、湊の指の温度で少しだけ光る。


「よし、じゃあ——こっちの“注”はぼくが」と片桐。彼は円の外に「休む」と小さく書き、印を押す真似をした。雪には印は押せない。押せないことが、笑いを生み、笑いは合唱にならず、背中の筋肉の固さをやわらげる。


 遠くの狼煙が、少し近くなった。煙は高くないが、揺れない。揺れない煙に、人の声は乗りにくい。乗りにくいところへ行くのだと、彼らはそれぞれの胸で受け止めた。仮面がいるかもしれない。供物盤があるかもしれない。けれど、こちらには青糸があり、連結紐があり、写し板があり、空札の帳がある。名で呼び合う習慣が、芽吹いている。芽を持って行く。芽は、よそでも春を呼ぶ。


「柊」紅葉が呼んだ。その呼び方は、夜の看護のときの呼び方ではなく、昼の台所の呼び方だ。

「ん」

「あなたの鉛筆、今日は誰のため?」

「ぼくら全員のため。——それから、まだ名前を呼ばれていない向こうの誰かのため」


 かがりが笑い、片桐が「良い注」と言い、サワが胸の鈴に触れて「鳴らす」と小さく言い、湊が「鳴る前に、呼ぶ」と繰り返した。言葉は短い。短いから、折れにくい。


     ◇


 風が少し強くなり、頭上の雲が薄く裂けた。青が出る。青は冷たいが、希望の温度に似ている。見張り台はもう遠く、背後の村は小さく、拝殿の屋根は白の中に溶けかけている。それでも、戻る道の鈴の位置は、身体が覚えていた。鳴らさないで戻れる。鳴らしても戻れる。どちらでも、戻れる。


 柊は立ち止まり、鉛筆を握り直した。木の面の角は、彼の指の腹に馴染むように磨り減り、芯は拝殿の灯で温めたときのわずかな煤の匂いをまだまとっている。彼は雪明りの上に腰を落とし、白の紙に見立てた斜面に、ゆっくりと腕を伸ばした。動くのは肩ではなく、肘。筆圧は強すぎず、弱すぎず。呼吸に合わせ、呼びかけに合わせ、彼は大きく一文字——


 名


 ——と書いた。


 鉛筆の腹が雪の粒をやさしく撫で、残された黒の線は滲んで、周りの白と混じり、しかし消えなかった。湊が鈴をほんの少し鳴らし、紅葉が笑い、サワがその声に笑いを合わせ、かがりが古文の余白に新しい一行を心の中に書き足し、片桐が「手順は外れて、見えたね」と囁いた。遠くの狼煙はまだ揺れず、しかし、揺れない煙の下に、これから呼ばれるであろう誰かの名のための余白が、確かに広がっていた。

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