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第1話 雪崩の村、枕元の札

 山の裾にかかる雲は、朝から低かった。雪は夜のうちに音をなくし、白という白で村の形を均した。人の出入りは一本きりの外道そとみちだけだが、その細い動脈は夜半の雪崩で完全に塞がっている。見張り台の鐘は氷で口を閉ざし、棒で叩いても乾いた金属のひび割れを返すだけだった。


 いつもなら、朝餉の匂いとともに犬が吠え、煙突の煙が山肌にたなびく時間だ。けれど今朝は、犬は低く唸るばかりで、煙ははぜる前に雪に吸い込まれた。村全体が、凍てついた肺で息を止めている。


 異変が目に見える形になったのは、昼の少し前だった。中央拝殿の床下から、古びた木箱が軋みを上げてせり上がってきたのだ。誰も引き上げてはいない。目に見えない力に押されるように、ゆっくり、しかし確実に姿を現した。箱の名は“供物盤くもつばん”。天板には丸い穴が十二、時計の文字盤のように彫り込まれている。輪郭は磨り減っているのに、穴の縁だけは妙に新しく、そこにだけ時間が繰り返し触れてきた痕跡があった。


 「……出た、のか」

 最前にしゃがみ込んだのは、村長の鳥海とりうみだった。白髭に霜を宿した顔色は悪い。彼の背後で、宮司家の少年・かがりが古語の写しを抱えて立っている。篝は宮司の孫で、村で唯一、拝殿の古文書を読み下せる。


 村の人々は距離をとって輪をつくり、箱から目を離せずにいた。誰もが、古老の言い伝えを口の中で転がしている。「雪に閉ざされし夜、神は嘘を喰らう」。文字通りに受け取るなら、これから必要なのは“嘘”。それも合計が必要らしい、と。


日が傾き、祠の影が長くのびたころ、さらにおかしなことが起こった。



 夜、家々の枕元に、知らぬ札が一枚ずつ転がっていたのだ。札は手のひらよりすこし小さく、薄い木でできていて、片面に墨で一文字。「占」「霊」「護」「共」「狼」「空」。墨は乾いているのに艶をもっていた。裏側には小さな刻印があり、爪先でなぞると、指の腹に古い文字の凹凸がはっきり移った。


 ひいらぎがそれを見つけたのは、猟犬の低い唸り声で目が覚めたときだ。板間の冷たさが布団越しに伝わってくる。息を吐けば白い。

 枕元、畳のへりの上に、札が置かれていた。

 ――占。

 喉がひゅ、と鳴った。

 柊は嘘が苦手だ。正確にいえば、嘘をつくとすぐ顔が熱くなって、声が上ずる。幼いころ、「嘘をつくときの柊は耳が赤い」とよくからかわれた。だから、札に「占」とあるのを見た瞬間、体が先に拒んだ。占いは真と偽を言う。ときに、村を守るために嘘をつく役目でもある。


 外では、猟犬がまた唸った。雪の積もった軒を風がこすり、ざらり、と細い音を立てる。遠く、見張り台の鐘を叩く棒の音が一度、二度、空振りのように響いて消えた。


 朝の集会。拝殿には村の成人がほぼ全員集まっていた。子どもたちは奥の間にまとめられ、年寄りは火鉢を挟んで座っている。中央にはせり上がった供物盤。

 宮司の孫・篝が、札の裏の刻印を読み上げた。

 「『嘘の合計が神の穴を満たす』……とあります」

 「合計、とは」誰かが訊く。

篝は唇を噛み、続けた。「盤の穴は十二。日を数えるのか、人を数えるのか……。古文書には、昼に議論、夜に札の力、朝に“匿名の供物つり”を一名、とありました。供物は、拝殿中央の盤に小石を落として数えると」

 ざわ、と空気が動いた。誰かが小さく「また、だ」と呟いた。雪崩の年にだけ現れる儀式――そう言い伝えられてきたことを、みな知っている。


 村長の鳥海が立ち上がった。

 「外道は塞がれた。救助は望めぬ。われらはわれらでやるほかない。昼は議論して嘘を数え、夜は授かった札で力を使い、朝には供物を盤に落とす。小石は匿名だ。誰が誰に落としたかは、神だけが知る」

 その口調は固く、どこか祈りに似ていた。


 議論ははじめからぎくしゃくしていた。互いの息遣いに耳を澄ませるように、言葉は慎重に選ばれたが、慎重さはかえって緊張を厚くする。

 「占いを授かったのは、誰だ」

 沈黙を割ったのは、穏やかな声だった。村の教師・秋津あきつ。四十半ば、落ち着いた物腰で、読み書きを教え、祭りでは進行を取り仕切る男だ。

 秋津は一歩前へ出て、軽く会釈した。

 「私です。初夜に一人占い、猟師の銀次ぎんじを見ました。黒、でした」

 黒――狼である、という意味だ。

 空気が揺れた。銀次は逞しい体の男で、普段は冗談好きだが、今は顔を真っ赤にして立ち上がった。

 「てめぇ、なに言ってやがる!」

 拳が机を叩き、乾いた音が拝殿に跳ねた。火鉢の灰がひとつまみ舞い上がる。

 秋津は眼鏡の位置を直し、声を荒げない。

 「落ち着いてください。私は授かった役目を果たすだけです」

 「やかましい!」銀次は足を一歩踏み出したが、隣の若い衆に肩を押さえられた。


 ここで、柊は立つべきか迷った。自分も占い札を持っている。しかし、嘘が下手な自分が口を開けば、何もかも台無しになるかもしれない。

 けれど、黙っていることが最も悪い嘘になる気がした。

 柊は喉の渇きを一度、飲み込んだ。

 「……俺も、占いを授かった」

 目が集まる。耳が熱くなる。

 「けど、今言えることは多くない。だから、言わない。今は、発言の形の話をしたい。初日に偽黒を打つ狼は、議論を誘導する自信があるやつだ。説得の形が整いすぎて、反論の余地を与えない弁は、むしろ危ない」

 自分の声が少し震えているのが分かった。

 「銀次さんは怒ってる。狼なら、もう少し冷たく立ち回るんじゃないか。怒りが素直すぎる」

 銀次がこちらを振り向いた。怒りの中に、ほんの一瞬、救いを求める目が揺れた。


 「言いがかりだ」秋津が穏やかなまま言った。「私は早く確実に一匹を吊るために情報を出しただけです。議論を恐れる必要はありません」

 「情報」と「恐れ」という言葉の並べ方が、美しかった。美しいが、綺麗すぎてどこか滑る。

 柊は内心で、紙に検算するように言葉を並べ替えた。占いが真である確率、銀次のリアクションの自然さ、秋津の構文のかたさ。

 「……俺は、銀次さんには入れない」最後にそう言った。


 匿名の供物――投票は、拝殿中央の盤に小石を落とす方式で行われた。白い丸石がひとつ落ちるたび、盤の内側で鈍い音が鳴る。誰がどこに落としたのかは見えない。穴は十二あるが、落ちる石はひとり一つ。

 結果、供物に選ばれたのは、銀次だった。


 儀式室は拝殿の裏、板壁の向こうにある。古い木の匂いが濃く、足音が吸い込まれていく。誰も血を見ることはない。供物はあくまで儀礼として、静かに進められる。

 柊は祈ることしかできなかった。掌を合わせると、指先がひりついた。供物盤の穴が一つ、音もなく減ったと、外で誰かが囁いた。

 「罪の穴が、ひとつ埋まった」

 そう言ったのは誰だろう。声は、どこか遠い。


 夜。家に戻ると、枕元にまた札があった。

 今度は「霊」。

 供物の色を視る力――と、篝が昼に説明していた札だ。柊はそっと札を掌に載せ、息を整える。

 「……見る」

 目を閉じると、まぶたの裏に雪の白が広がり、それから、銀次の姿が浮かんだ。彼は笑っている。鍋を囲んで、くだらない冗談を言って、肩を揺らしている。

 その周囲の空気は透きとおっていて、黒いもやはどこにもない。

 ――白。

 喉の奥が熱くなった。

 「ごめん」誰にともなく、柊は呟いた。謝る相手は、銀次に違いないのに、そこに神や、村全体の影も重なって見えた。


 雪は止んでいない。屋根から落ちる音が、時折、ずしんと腹に響く。

 柊は夜が明けるまでに考えをまとめなければならなかった。朝になれば、また拝殿に集まる。霊能の結果を告げるかどうか。告げれば、秋津と真正面からぶつかる。告げなければ、嘘の合計は違う形で積み上がる。


 枕元の札を裏返し、刻印を指でなぞる。

 『嘘の合計が神の穴を満たす』

 “合計”という言葉が、耳の奥で何度も反響した。各人がつく小さな嘘の総和なのか、それとも、議論の過程で生まれる誤解や省略まで含む大きな嘘なのか。神は、どちらを喰らうのだろう。

 もしも後者なら、沈黙もまた嘘の一部になる。


 明け方、柊は浅い眠りに落ちた。夢の中で、供物盤の穴は砂時計のように砂を落とし、十二が十一、十、と減っていく。穴がすべて埋まったとき、台座の下から新しい道が開く映像が見えた。雪に埋もれた外道が、音もなく掘り返される。

 目が覚めると、夢の鮮明さのわりに、心はさらに重くなっていた。


 朝、拝殿。

 昨夜よりも人の顔色は悪い。火鉢の炭は減り、咳が増えていた。供物盤の縁に、赤い染みがあった。誰かが指先で触れ、素早く拭ったが、拭いきれない。木目に沿って、血がしみこんでいるように見える。

 「……誰か、夜に、別の血を」

 柊が呟くと、近くの老婆が首を振った。「見てない、見てないよ。夜に拝殿へは、誰も」

 言いながら、老婆は目を逸らした。柊はその逸らす角度を、覚えておこうと思った。検算に必要な数値は、発言だけではない。視線、手の震え、沈黙の長さ。嘘は言葉の外側にも積もる。


 篝が拝殿の真ん中で宣言する。「霊能の札を持つ者は、供物の色を告げてください」

 柊の喉がきゅっと縮んだ。秋津の視線が、どこかから静かに乗るのを感じる。

 昨夜、柊は白を見た。

 「……」

口を開けば、村の空気の形が変わる。秋津は反論し、論は美しく構築されるだろう。柊が嘘を下手に扱えば、ただただ“下手な人間の言い訳”として流される。

 だが、黙っていれば、銀次の死は“黒かったから仕方がない”という嘘で固まる。それは、合計に含ませてはならない種類の嘘だ。


 柊は一歩、前に出た。耳が熱くなり、手のひらの汗が冷える。

 「俺が霊能を授かった。昨夜の供物――銀次は、白だ」

 拝殿の空気が凍り、割れた。

 誰かが「嘘だ」と呟き、別の誰かが「じゃあ占いが嘘だ」と返す。

 秋津はゆっくり眼鏡を外し、布で拭いてからかけ直した。

 「柊くん。きみは昨日、占いを自称した。今朝は霊能を自称する。役職を二つ名乗るというのは、神の盤に反する」

 「札が、来たんだ」柊は言った。「枕元に、別の札が」

 「誰にでも、そう来ると?」

 「分からない。だが俺には、来た。銀次は白だ。間違いだ」

 秋津はため息を落とし、やわらかな声で言う。「幕引きのための、やさしい嘘、という可能性はどうですか。人は死者に甘くなる」

 その言い草に、柊は一瞬、言葉をなくした。やさしい嘘――それは確かに最短経路だ。村の納得のために、死者を白く塗る。だが、それを認めてしまえば、合計は加速する。穴は、あっという間に埋まる。神は満腹し、何かを開くかもしれない。だが、その代わりに、村の骨は空洞になる。


 「俺は、やさしい嘘はつかない」

 自分でも驚くくらい強い声が出た。

 「昨夜、銀次の周りには黒はなかった。俺はそれを見た。だから、ここからは、嘘を数える。言葉の外側も含めて」

 秋津の目が細くなる。そこに初めて、わずかな敵意が宿ったのが見えた。


 会議は混乱した。柊を信じる声、秋津を信じる声、どちらも信じない声。盤の縁の赤い染みを巡って、夜回りの報告が交わされ、誰かが「雪崩の音に紛れて何か聞いた」と曖昧に言い、別の誰かが「外道の方から足跡を見た」と主張した。

 足跡は雪にすぐ埋もれる。見たものの記憶も、すぐ上書きされる。

 柊は筆と紙を借り、拝殿の隅で項目を書き出しはじめた。

 ・秋津の弁は整いすぎる。

 ・銀次の怒りは直線的。

 ・盤の縁の赤い染み――夜の訪問者。

 ・見張り台の鐘は凍って鳴らない。

 ・猟犬は夜に低く唸った。

 ・篝の読み上げた古語「嘘の合計」。

 項目に番号を振り、線で結び、考えの抜けを探す。検算は、恐れを少し遠ざけてくれる。


 昼が過ぎても、外道は掘り返されない。雪はときどき粉を降らせ、屋根はさらに重くなる。

 柊は、供物盤の穴があと十一であることを、心のどこかで常に数えていた。十一という数は、奇妙に不安だ。偶数よりも、村の均衡を崩しやすい。議論はすぐ分割され、少数派は声を失う。

 「今日はどうする」

 村長の鳥海が、夕刻、問うた。「霊能に従うのか、占いに従うのか。それとも、別の指標を探るのか」

 「別の指標」柊は言い、秋津も同時に「霊能」と言った。その重複は、また会場を揺らした。


 柊は深く息を吸った。「俺の提案はこうだ。今日は誰も供物にしない」

 「穴が埋まらないぞ」誰かが叫ぶ。

 「だからいい。嘘の合計を、意図的に遅らせる。夜に札の力を使う人間を増やして、内面の情報を朝に重ねて、検算の精度を上げる。供物は明日に回す。外に出られない以上、急ぐより、正しく遅れる方がいい」

 秋津が小さく首を振る。「のりに背く提案は危うい。神の機嫌を損ねる」

 「神が機嫌で動くなら、なおさら嘘の量を管理しなきゃいけない。誰かが夜に、別の血を流している。盤の縁の赤。俺たちの見えないところで、嘘の合計は勝手に増えてる」

 柊は盤を見た。穴は、やはり十一のままだ。しかし、縁の赤は、朝より濃いように見えた。


 その議論の最中、拝殿の戸がひとりでに軋んだ。

 冷たい風が薄い雪煙を運び入れる。

 境内の端で、猟犬が低く唸り、尾を下げた。

 誰かが小さな声で「神さま」と言った。

 柊は立ち上がり、戸口へ歩いた。雪は膝下まで積もり、外道の方向は純白の壁になっている。

 雪の壁に、不自然な縦の筋があった。誰かが指で撫でたような、細い、赤い筋。


 柊は振り返り、言った。

 「……今夜、見張りを交代制でつけよう。鐘は鳴らない。代わりに、犬を複数、拝殿に繋いで、唸りの回数を記録する。風の音と唸りの重なりから、境内に入った足の数を近似できる」

 秋津が目を細める。「近似?」

 「風は不規則だけど、方角は一定じゃない。犬は嗅ぎ分けができる。二匹以上、距離を置いて繋げば、唸りの位相差で位置が取れる。鐘の代わりに、犬の声で地図を作る」

 「理屈ではそうだが……」

 「理屈でやるしかない。嘘は、理屈に弱い」


 決まったのは、ぎりぎりの妥協だった。供物は行う。ただし、夜明けの直前に延ばす。見張りは交代制で四人。犬は三匹、拝殿の三方に繋ぐ。唸りの回数と時間、風向きを、紙に記す役目は篝が担う。

 秋津は最後まで異を唱え、最終的には「きみの熱心さは認める」とだけ言った。誉め言葉に見えるが、そこには距離があった。


 夜。

 柊は拝殿の縁側に座り、犬と雪の音を聴いた。犬の唸りは低く、同じ音量でも、微妙に違う意味を持つ。鼻の動き、毛の逆立ち。三匹のうち、一番北寄りの犬が、何度か短く唸り、すぐ黙った。篝が記録する。

 風は西から東へ。雪は細く、刺す。

 やがて、三匹のうち二匹が同時に低く唸り、次いで、もう一匹が遅れて二回。篝が顔を上げる。「今のは、三?」

 柊は頷いた。「境内に二。拝殿の外周に一」

 「人?」

 「人か獣かは、まだ」

 唸りの位相差は、完全な地図にはならない。だが、“何かがいた時間”を抜き出すには十分だ。

 ほどなくして、雪の匂いに混じって、鉄の匂いがした。

 柊は立ち上がった。

 供物盤の縁の赤は、夜でも暗く黒く見えた。その黒は、湿っている。


 夜明け前、供物は行われた。

 盤の穴が、もうひとつ減った。

 柊は歯を食いしばった。二つ目の穴が埋まっても、雪はまだ、村の外を閉ざしている。


 明けの色が、東の山に薄く差したころ、柊は決めた。

 朝の集会で、昨夜の記録を出す。犬の唸りの時間と回数、風の向き、赤い筋の増減。秋津の言葉の呼吸、視線の動き。

 嘘を数える。

嘘を数えて、合計の形を先に掴む。

 神に穴を満たされる前に、こちらの側で、穴の輪郭を描き切る。


 雪は、まだやまない。

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