3話 秋
公園の背が高い木々はすっかり赤と黄色に染まって、橙の空と見事なグラデーションを成している。
乾いた風が吹いた。カラカラと落ち葉が転がり、肌寒さも相俟って、訳もなく寂寥を感じさせる。
それは傍らの少女も同様で、ブルリと白い身体を震わせ、レジ袋を提げる俺の手に触れた。
無慈悲にその手を払うと、彼女は眉尻を下げ、口を真一文字に結んだ。
その情態を微笑ましく思いながら、袋を持ち替えて身軽になった右手で、彼女の左手を取る。
彼女は、ぱちくりと瞬きした後、じんわりと広がる温もりに安堵したのか、目を細めた。
「行きましょうか」
「ああ」
夏が終わって一ヶ月と少し。あの欠落を補填するようにスキンシップが増えた俺達だが、最近では躊躇いも無くなっている。友人と称するには過剰な位だ。言うなれば、兄妹だろうか。
しかし、比喩とは別に、俺はこの少女、芹生美帆さんのことを好いている。
「芹生さん」
「何かしら?」
傷心を抱えてさえ気高く生きる強かさ。重荷を背負う俺に与えた優しさ。物事を俯瞰する冷静さ。何より、時折見せる可憐な笑顔。魅力を列挙すればキリがない。
小首を傾げる様にさえ、慕情が込み上げてくる。
「...やっぱり何でもない」
「そう」
ところが、これだけ執心しているのにも関わらず、告白には至っていない。
怖じ気づいている、というわけではない。断られる懸念も無いではないが、主たる理由ではないのだ。
では、その理由とは何か。それはずばり、ムードである。
一世一代とは言わずとも、この二十年間で初めての恋心、初めての告白だ。中途半端な気持ちで臨むのも、記憶に残らないほどアッサリなのも、気にくわない。
何と言っても初恋なのだ。仮に玉砕するのだとしても、彼女の脳裏に焼き付いて離れないほど、鮮烈な思い出を刻んでやりたい。
夢見がちな童貞の妄想だとしても、カッコよく生きるためには、そのくらい必要だと思うのだ。
そんな思議を余所に、彼女の話は始まる。
「ごめんなさいね、急にバイト先まで押し掛けたりして」
「丁度上がるところだったんだ。構わないさ」
「そう言って貰えると助かるわ」
駅前のむさ苦しいラーメン屋に純白の天使が舞い降りたときは、何の冗談かと思ったが。
兎も角、特異な体質、容貌故に、日中の外出を好まない彼女が、日傘を携え、わざわざ俺を訪ねて来てくれたのだ。相応の用件があるものと考えて良い。
しかしながら、ここでせっつくのは野暮というものだ。一先ず歓談といこう。紳士たるもの、慎みが肝要だ。
「こちらこそ悪いな。買い物を待ってもらって」
「いいのよ。私が勝手にしたことだもの。それに、日が沈むまでの時間稼ぎにもなったわ」
「日傘、邪魔になるなら持とうか? 白杖を使うには無用の長物だろう」
「いいえ、結構よ。こうしていれば、白杖はお役ご免だわ」
繋いだ左手、俺にとっては右手を、ゆらゆらと前後に動かす。
あの夏以来、俺と相対する際の甘えるような言動が目立つ。
それが彼女本来の気質なのか、母を失った反動なのかは不明瞭だった。だからこそ、告白を踏み留まっていたという節もある。
だが、それは彼女の父、乾さんによって解消された。彼曰く、彼女は一度懐くと、とことんまで尻尾を振る気性らしい。その分、敵対すると、罵声が止まらないのだと嘆いていたが。
何はともあれ、彼女の幼げで甘ったるい笑みは、実に愛らしい。
「さてと。本題なのだけれど、明日予定が出来て、家に誰も居なくなるのよ」
「へぇ、そうなのか」
平然と相槌を打ったが、内心には多少なりとも動揺が走っていた。
こう言うと失礼だが、彼女には、俺と家族以外の交友関係が皆無だ。その為、俺は安心して告白の機会を窺っていたわけなのだが、新しく友人、それも男性が出来てしまっては話が別だ。そいつが彼女の魅力を観取したが最後、かっさらわれる可能性だってある。なぜなら、深層心理で、彼女は人との縁に飢えているのだから。
その予定とやらを、すぐにでも問い質さねばなるまい。
「どこかへ行くのか?」
「ええ。気乗りはしないのだけれど、父にどうしてもと頼まれてしまって、会議に出席することになったのよ。まったく、気遣いというものがなっていないのよね」
「...そうなのか」
安堵のため息を、すんでのところで飲み込んだ。過保護な乾さんのことだ。不埒な輩は決して近づけまい。芹生さんの方も、この分であれば、明日は不機嫌を隠しもせず振る舞うだろう。何処の馬の骨とも知れぬ野郎が特別な関係を結ぶ見込みは皆無に等しい。
そう考えるにつれて、だんだん寂莫が込み上げてきた。
週に一度の逢瀬が、たった一回消え去るくらいで。俺の冷静な部分がそう嘲笑する。しかし、ここ最近、俺のモチベーションはそれに依存しているのだ。週末の懇談のため、仕事にも勉学にも精を出している。
彼女と出会うまで、このようなことはなかった。人生の目標に向け、ストイックな日々を邁進していたはずなのだ。これはきっと、彼女の甘えん坊が移ったのだろう。
そう思うと、胸を締め付ける虚無感さえいとおしく感じるのだから、参ったものだ。
「だから、今日こうして会いに来たのよ?」
上目遣いで俺を見る芹生さんは、眩暈がするほど可愛かった。
◇◆◇
この住み慣れた家は、概ね無臭だ。匂いらしい匂いと言えば、玄関の芳香剤と、風呂場の入浴剤、柔軟剤が関の山だろう。
そんな我が家に、香ばしい薫りが漂っていた。
「貧乏飯で悪いな」
「そんなことはないわ。食事の美味しさに貴賤は無いもの。あなたが作る料理はどれも美味しいわ」
「はは。お誉めに預かり光栄だ」
いつぞやのように、盲人用の弁当を二人で分ける運びになった。というのも、父は前のりで現地に宿泊している為だ。会場のセッティングに手間取っているらしい。
親馬鹿を拗らせ、毎日必ず帰宅する彼が、珍奇なこともあるものだ。余程大切な会議なのか、私を迎えるために万全を期しているのか。
いずれにせよ、山端君と二人きりの時間が得られたのは僥幸だ。
「お待ちどうさま。もやしと魚肉ソーセージのピリ辛炒め改だ」
「改? 何か変わったのかしら」
「隠し味を入れてみた」
「...もしかして」
「魚醤だ」
「...どうして改造してしまったのよ」
「安心してくれ。味見はしてある」
「あなたの味覚を信じるけれど。大丈夫なのよね?」
「...」
「...ちょっと? 返事をしてもらえるかしら?」
彼と過ごす、こういう下らない時間が好きだ。一人の静かな環境では、どう足掻いても得られない愉楽が味わえる。
結局、心配していたゲテモノには程遠く、美味と評して差し支えないものだった。
「食後は紅茶かしら? それともコーヒー? ハーブティーも日本茶もあるわよ」
「コーヒーをお願いしよう。それにしても、喫茶店でも開けそうなメニュー量だな」
「お中元で頂いたのよ。ここの家主は曲がりなりにも社長だもの」
「...そんな高級品、俺が飲んでも良いのか」
「構わないわよ。と言っても、コーヒーは普通のインスタントだけれど」
熱湯を注いだカップをコトリとテーブルに置いて、彼の右隣に腰を下ろす。彼が来訪した際の基本スタイルだ。
少しだけ、彼の近くに寄ってみたりする。肩と肩が擦れ合う距離。
私の心は、彼に触れると、眠ってしまいそうなほど安堵する。逆に触れていないと、寂しくなって、彼が何をしているのか気になって、仕方がなくなる。
きっとこれが愛情というものなのだろう。
「山端君」
「何だ?」
春から芽生えたこの気持ちを、そうだと自覚したとき。胸の辺りがむず痒くなって、だが同時に、幸福感も得られた。この気持ちがいつまでも続けば良いと、本気でそう思う。
だからこそ、想いを伝えたい。存分に触れ合って、そして、二度と手に入らないあの温もりの分まで、幸せを手中に収めるのだ。
「やっぱり何でもないわ」
「そうか」
しかし、そこまで感じているのにも関わらず、それを言葉に出来ていない。というのは、女の私から、というのがネックになっている。
彼の私に対する反応を顧みると、自惚れかもしれないが、多少なりとも気があるのでは、と楽天的な推察をしてしまう。それ故に、気兼ねばかりして、積極的なアプローチをするに留めている状態なのだ。加えて、これは私の初恋。もし成就するのであれば、やはり男性、彼からの告白を受けてみたいのである。これは我儘だが。
「...ふぅ。明日、暇になったな」
もう少しだけ、待ってみよう。
それまでは、こうして彼の肩へ体重を預けて、ささやかな温もりを享受するに保しておく。
「ごめんなさいね、折角予定を空けて貰っていたのに」
「いや、元々予定なんてなかったから、気に病むことはないが」
「たまには私以外のお友達とも遊んであげたらどうかしら?」
「...どうするかな」
苦笑したのだと思う。それも当然だ。自分で言いながら、不服げに肩へ頭突きをしたのだから。
叶うならば、彼の時間を独り占めしたい。だから、早く告白してくれないだろうか。
◇◆◇
鈴虫の声が耳に心地よい、夜の住宅街。どこもかしこも薄暗く、街灯と月がよく映える。めっきり冷え込んだ大気に急かされて、歩を進める。
不意に出来た余暇をどう過ごすかに思考を巡らせながら、帰路に就いていた。どのルートを選んでも、畢竟彼女のことばかり思い当たるのだが。
「やっと帰ってきたか」
いっそ一日中惰眠を貪ろうか。そんな自棄を起こす未来を想像したところで、アパートの欄干に体重を預けた男性に声をかけられた。
「なんだ、また帰ってきたのか」
「またとは何だ。帰って来る度に顔を出すの、結構大変なんだぜ?」
「なら無理するな。寂しくない」
「俺が寂しいんだぜ」
「そうかよ。ほら、上がるだろ?」
家の鍵を開けて、俺の友人、雅人を促す。いつもなら許可する前に入り込むのだが、今日はおとなしい。
「予想外に遅かったからな。今日は遠慮するぜ。ついでに、お前が今まで何処にいたのかも詮索しないでおくぜ」
詮索せずとも、こいつなら全て察していそうだ。とはいえ、わざわざ自分から話す義理もないので黙秘しよう。
「それでお前、いつ告白するんだ?」
「...」
胡乱げな眼差しを向けるのも仕方がないと思うのだ。知らぬ間に誰かが、俺の心情を盗み見て、こいつに暴露しているのではないか。そんな邪推をしてしまう。
「はぁ。...タイミングが無いんだ」
「タイミングねぇ。食後のまったりした時間にでもすりゃあいいんじゃねえのかよ?」
「...」
もう絶句である。この野郎、俺の服に隠しカメラでも仕込んでいやがるのだろうか。
「はっはっは。ま、近々お前のお眼鏡に叶う機会もあるだろ」
「うるせえ。何しに来たんだよお前」
「怒るなよ。なあ、お前明日暇か?」
「暇は暇だが、飲みには行かないぞ。金欠なんだ」
「そうじゃねえよ。折り入って頼みがあるんだ。交通費も報酬も出るぜ」
「頼み?」
研究一辺倒だったこいつが、わざわざ持ち込む依頼。面倒事の予感がするものの、どうせ暇なのだ。加えて、手当まで出るという。友人のよしみだ。引き受けてやるのも吝かではない。
「明日、例のごとく学会があるんだが、スタッフに欠員が出たらしい」
「その補欠を俺が? 完全に無知だがいいのか?」
「質疑応答のとき、マイクを持って走り回るだけの簡単なお仕事だぜ」
どうも胡散臭い。雅人の口端が微妙にひくついているのが気になる上、俺に当たる理由がわからない。彼のヘルプなら納得もできるのだが。それ以外となると、彼が所属する会社のコネで如何様にもなりそうなものだ。
「不審なことは何もない。親友を信じるべきだぜ」
「...まあいい。明日だな」
「おう。九時頃迎えに来るぜ」
「ああ。...本当に大丈夫なんだろうな?」
「しつこい男は嫌われるぜ?」
「ちっ」
「はっはっは。行けばわかるぜ」
やけに意味深な言動が目立つ。気に食わないが、術中に嵌まってやるのも一興というやつだ。
彼女のことを考えないでいられる時間が、一番楽なのだから。
◇◆◇
日曜だというのに、朝早く、父の遣いと名乗る人、無論女性、に叩き起こされて、無理矢理お洒落をさせられた。
当然ながら、私は乗り気でない。彼のため、というならまだしも、父の見栄のため着せ替え人形にされるのは真っ平だ。代表の娘で格が必要なのはわかるが、高々会議にメイクなど。途中で落ちないようにするためか、夏祭りの日とは異なり、やけに念入りだった。
「...はぁ」
遣いの人にバレないよう、ため息を吐いた。手慰み程度のラジオが垂れ流しにされた車内は、どうにも物足りない。
後部座席で一人、深々と座っていると、無意識の内に、体が左へ傾いていた。しかし、そこに温もりが無いことを再確認するだけに終わる。
全くもって、つまらない。
◇◆◇
実質的にバイト暮らしを営んでいる俺には縁遠い、思わず見上げてしまうような高層ビル。その十階、大ホールにて、業務の指示を受けていた。尚、雅人は控え室で準備中である。
彼の言葉通り、俺の主な任務はマイク係だ。本当にそれだけ。欠員があろうと、誰かが片手間にでも出来る仕事だ。
それでも、仕事は仕事。賃金が発生する以上、真剣に取り組む義務がある。
開場時間となり、次々と入場する客人。ざっと目を通しておく。外見的特徴を捉えておいた方が、容易に事が運ぶだろうとの魂胆だ。そのせいか、来場者とよく目が合う。いくら職務のためといえど、失礼だっただろうか。
そして、開始時刻ギリギリになって。
「え?」
つい、間抜けな声が漏れた。
裾の辺りに白のラインが入った、紺のワンピース。フレアの袖が清楚さを体現している。純白の髪、陶器のような肌とのコントラストが目に鮮やかで、普段の可愛らしい印象よりも、綺麗という形容がよく似合う。それには恐らく、以前より濃くあしらわれたメイクも一枚噛んでいるはずだ。
発見から一拍遅れて口を開いたが、俺の声は開始のブザーにより上書きされた。
「会場の皆様。本日は当社の学術会議に出席頂き、誠に有難う御座います」
聞き覚えのある声。反射的にステージへ目を向ける。漆黒のスーツに身を包んだ、乾さんの姿がそこにあった。
芹生さんの家で稀に会う、鷹揚な雰囲気の彼とはまた異なり、パリッとした緊張感を孕んだ立ち居振舞いだ。
代表挨拶に続いた発表者紹介。舞台に上がり、乾さんの隣に立った雅人が、俺にウインクを飛ばす。なるほど、道理で情報が筒抜けな訳だ。まさか雅人の勤める企業が、乾さんが経営するものと同一とは。世間は狭い。
これでようやく合点がいった。あいつが俺を誘ったのは、芹生さんに引き合わせるためだったのだ。まったくお節介な。
だが、会えないと思っていたからこそ、会えるとわかったときの愉悦はひとしおだ。その点は感謝しておこう。
◇◆◇
会議中。私の体質について父から事前に言伝てがあったのか、感じる視線は僅少。そのため、気疎いということはない。寧ろ、ふかふかな場席の座り心地は抜群だ。
がしかし、退屈だ。何度欠伸を噛み殺したかわからないほどに。高校生で専門知識も何もない人間が、それを生業としている人の研究を、発表用に噛み砕かれているとはいえ、理解など出来ようはずもない。
それでも父の手前、聞いている体を保たなければならないのだから、まったく厄介な頼みを引き受けたものだ。
「こんにちは。三宅雅人と申します。それでは、発表に移らせて頂きます」
ふむ。若々しい声だ。大学生か何かだろうか。山端君と同い年くらいかもしれない。
それだけで興味がそそられ、私はそれまでにない集中を発揮した。
「脳と機械を接続し、疑似視覚を形成する動物実験は失敗に終わりました。その理由として考えられるのは」
ハキハキとした口調。解説も丁寧で、実に分かりやすい。彼が父のお気に入りという人だろうか。滅多に仕事の話を家に持ち込まない父だが、そんな話を聞いた覚えがある。
「以上で発表を終わります。ご清聴ありがとうございました」
「続いて、質疑応答に移ります。質問のある方は挙手をお願いします」
私の真後ろから衣擦れの音。手を挙げたようだ。
ぱたぱたと足音が近づいてくる。
その足音に、胸が高鳴った。それは毎週のように聞いている、特徴的ではないが、自然と耳に馴染んだ音。
すぐそばを通った。手を伸ばしたい気持ちをグッと堪える。ここに彼がいるはずはないのだ。先述の通り、彼の足音はありふれている。他人のそら似に違いない。
そう考えてじっとしていると、手元へ紙切れが投げ入れられた。
「あの、落としましたよ」
そう声をかけるも、足音は遠ざかっていった。
どうしようか。思い悩みながら紙に手を触れると、凹凸があることに気づく。
これは点字だ。ライターを用いず手書きで作ったようで、所々破れているが、内容はわかる。
「昼休憩で会いましょう」と。
きゅーっと、胸が歓喜に締め付けられる。私の耳は間違っていなかった。やはり彼だったのだ。
体内時計によれば、今は十一時半。残り三十分で昼休憩を挟む。
足をぱたぱたさせて、華やいだこの心を表現したい気持ちに駆られるが、我慢だ。きっと彼はお勤め中。であれば、私も姿勢を正さねばなるまい。
残り三十分、発表のことなど上の空だったが。
◇◆◇
「只今より五十分間、昼休憩とさせて頂きます。九階にて昼食をご用意させて頂いておりますので、どうぞ皆様。スタッフが階段までご案内致します」
そんなアナウンスの後、本来の業務には含まれていないが、手伝いを買って出た。来賓の方々を全員見届けると、背後から声をかけられる。
「侑李。どうだ? 驚いただろ?」
「はは。サプライズ大成功かな」
「雅人。乾さん」
主犯の二人がニヤニヤしながら寄ってきた。実に憤ろしいが、文句をため息だけに集約して、迎えてやる。
「まさか、こんなところに二人の共通点があるとは」
「三宅君はうちの有望株でね。懇意にさせてもらっているよ」
「くっくっく。折角の機会だから、俺たちのことは後でいいぜ。彼女ちゃんが待っているだろ?」
「...ああ」
鼻につく言い方だが、その心遣いは正直なところ嬉しいので、何も言わないでおく。
「放送でも言ったけれど、九階でシェフが腕を振るう昼食が待っているから、お腹が空いたら来るといいよ。うちは接待に手を抜かないからね」
「目の前で調理してくれるんだぜ。絶対来いよ」
「楽しみにしておきます。雅人、後でな」
今はそれよりも、彼女と会うことの方が楽しみだが。
彼らと別れ、ホールの隅に座ったままでいる彼女の元へ。
「芹生さん」
「っ!」
声をかけただけで、パアッと明るい笑顔が花開く。この大ホール全体を照らせそうなほど眩しい。下手をすれば浄化されてしまいそうだ。
「隣、いいか?」
「ええ。山端君、どうしてあなたがここに?」
「友人に手伝いとして召集されたんだ。多分、乾さんも承知の上だろうが」
「あなたが来るなら来るで、言っておいて欲しかったわ。そうしたら、もっと気合いを入れたのに」
「気合い? 何にだ?」
「なんでもないわよ」
照れたように舞台の方を眺める彼女。横顔もまた美麗だ。
「ところで、友人って誰なのかしら? スタッフの中にいるの?」
「いいや。発表者だ。三宅雅人。ビーエムアイがどうのってタイトルの」
「覚えているわ。あの人、若いと思っていたけれど、あなたの友人だったのね」
「高校時代の同級生だ。乾さんの会社に勤めているみたいだな」
「ふふ。小さい世の中ね」
くすりと微笑み合った。大ホールの開放感と対照的に、二人で産み出す小さな幸せ色の空間は他の何者も寄せ付けない。
「さて、このくらいで、私たちも行きましょうか」
「そうだな。食いっぱぐれるのは勘弁だ」
「んふ。そうね。死活問題だものね」
「お陰様でな」
俺が雅人と飲みにも行けないほど金欠なのは、毎週の芹生家訪問が所以なのである。と言っても、凝った手土産で彼女を満足させてやりたいからと、俺が勝手に始めたことなのだが。
この頃は彼女からのリクエストまで受諾しているため、尚更なのだ。常に要望の一段上を目指しているおかげか、彼女の胃袋を掴んでいる自覚が芽生えたが。
「その分、今日は好きなだけ食べて頂戴。私の手作りとはいかないけれど」
「ああ。お言葉に甘えさせてもらう」
座ったままの彼女の隣で、執事よろしく、彼女へ傅く。こんなキザったらしいロールプレイにも慣れたものだ。
「お手をどうぞ、お嬢様」
「あら。うふふ。ありがとう」
ダンスにでも誘うように、差し出しされた左手を引き寄せる。
その瞬間だった。
ジリリリリリリ。
広間に反響する、大音量の警鐘。否応なく不安を掻き立てられる。
「大丈夫だ。きっと誤作動」
言いかけたとき、照明が落ちた。
びくりと肩を震わせた芹生さんは、混乱をそのままに俺の抱き締めた。
かくいう俺も、背中を撫でて彼女をあやしながら、内心はヒヤヒヤしている。どうか、何かの間違いであって欲しい。
そんな楽観も虚しく、天井のスプリンクラーが発動し、小降りの雨を降らせる。
「九階踊り場、にて火災が発生しました。ただちに避難を開始してください」
そして、だめ押しの機械音声。
ゾクゾクと鳥肌が立った。非常にまずい。ここは十階。最も火の手が回りやすい場所だ。スプリンクラーがあるにしても、この出力では効果を期待出来ないだろう。
懐の温もりのお陰で、パニックにこそ陥っていないが、恐怖が全身を支配している。硬直する前に、アクションを起こさなければならない。
「芹生さんっ。早く避難を」
「え、ええ。そう、なのだけれど」
茫然としていた彼女の肩を揺さぶると、反応はあるものの、脚が動き出さない。ショックが強烈すぎて、立ち直ることができないでいるのだ。
「悪い。抱え上げる」
「ひゃあっ」
小柄な彼女を抱き上げて、光に吸い寄せられる虫のように、僅かな希望を求めて非常灯へ急ぐ。
首の後ろに回された腕が、俺の思考回路をクールに保ってくれる。確か、職員用の階段が、廊下の突き当たりにあるはずだ。そこからなら、発火現場を迂回できる。
焦ることはない。こんなときこそ冷静沈着に。
「電子ロック...?」
重そうな鉄製扉には、キーボード。
暗証番号は、知らない。
「パスワードなんて、んなこと言ってる場合か! 開け! 開けよ!」
彼女を抱えたままで、ドアに蹴りを入れる。案の定、びくともしない。
「芹生さん、パスワードを知らないか? 四桁だ」
「...父の誕生日でどうかしら。0812よ」
入力。...不正解。
「私の誕生日は」
0107。...不正解。
「お母さんの誕生日っ。0430!」
入力。...不正解。
「う、そ...」
「...芹生さん、立てるか」
「え、ええ。立つだけなら」
彼女を下ろし、単身で全力の突進を試みる。
反作用により、右肩へ激痛。しかし構っていられない。
このままでは...死ぬ。
「くそがっ!」
再度突進。それでも、扉は動かない。
息を荒げて、再三繰り返そうとしたとき。
袖を引かれた。
「やめて頂戴。あなたの体が壊れるわ」
「馬鹿言え。止めたら死ぬぞ。俺も芹生さんも」
「...大丈夫よ。あなた一人なら、どうにでもなるでしょう?」
「っ」
複雑なビルと言えど、階段から階段までの経路は五十メートルもない。その程度の距離であれば、火傷覚悟の全力疾走で切り抜けられる。
だが彼女はどうだ。視界は存在せず、出口がどこかもわからない。女性で運動が不得意だというのに、あまつさえ、体がすくみ、真っ直ぐに歩くこともままならないのだ。
「今からでも間に合うわ。あなただけでも避難しなさい」
打算的に考えて、それが最善の選択だ。だが、俺はその回答を、逡巡する間もなく一笑に付した。
「ははは。馬鹿言うなよ」
「笑い事じゃないわ。優しいのは良いけれど、理性的な計算ができなくなるのは愚か者よ」
彼女は拳を握り、力説する。
「私はあなたに生きて欲しいのよ。こうなったのは全て事故。妹さんのときのように、あなたが気に病む必要なんてないの。だから、早く行って」
見掛け上は冷静に諭しているようでも、体は正直だ。その証拠に、ずっと奥歯を噛み締めているし、拳は解けないまま。
黙っていると、それを肯定と見なしたのか、芹生さんは開かない扉に寄りかかり、俺の袖を離した。
「こんな私に、今まで付き合ってくれてありがとう」
彼女は涙に潤んだ目で、俺に笑いかけた。
「...さよなら」
勝手にうつむき、勝手に背を向けようとする芹生さん。
「ふざけんな」
その手首を強く掴み、抱き寄せた。
「...え?」
ぱちくりと目を瞬かせ、俺の顔を見上げる彼女。
思いきり笑いかけてやった。
「惚れた女を置いて逃げ出すなんて、できるかよ」
抵抗を許さないように、強く抱き締めた。
「俺はお前と一緒に生きる未来しか望まない。俺一人のうのうと生きるなんて真っ平ご免だ」
目を白黒させる彼女に、言いきってやる。
「好きだ、美帆」
こんなことを言うタイミングでないことは、重々承知している。しかし、告白でもしなければ、この少女は己を犠牲にしようとし続けるだろう。俺が彼女を置き去りにできない、確固たる理由を挙げない限り。
「...馬鹿ね」
「ああ。惚れた弱みだな」
抱擁を解き、微笑みを投げ掛ける。
対する彼女は、苦笑気味。緩みそうな頬を、必死で引き締めているようにも見える。
「あなたが行かない理由はわかったわ。それで、どうするの? 心中がお望みなのかしら。だったらお断りよ」
一呼吸挟み、真剣な表情で俺に臨む。
「言っておくけれど、私だって負けないくらいあなたのことが好きよ。この身一つであなたが生き延びられるなら、喜んで差し出すくらいにね」
「俺はそんなもの受け付けないがな。愛情は自己犠牲で成り立つものじゃないだろう」
彼女は悲しげに眉尻を下げた。どうあっても俺が引かないのだと、理解したらしい。
「行くぞ」
「え...どこへ?」
「正面突破だ」
再び彼女を抱えて向かうのは、先程来賓が下っていった階段。火元の直上だ。
「ふふ。...あなたって、本当に馬鹿ね」
「ああ。自分でもそう思う。...嫌なら言ってくれよ」
「馬鹿らしいのに、嫌じゃないのよね。どうしてかしら」
彼女は猫のように、頬同士を擦り付けた。
目的地へ近づくにつれ、煙と熱が増していく。
足元が冷えるのは、恐怖からか。思えば、無意識に体が震えている。それは、彼女も。
「覚悟はいいか」
問いかけると、頬擦りを止め、目と目を合わせた。
「ええ。...信じているわ」
唇に、ふんわりとした柔らかい感触。甘い香りが俺の脳を駆け巡った。
「大好きよ、侑李」
それだけ言って、落ちないよう、ぎゅうっと俺の首にしがみついた。
「...はは」
勇気が間欠泉のように湧き出てくる。震えは止まり、脈拍も正常。
根拠はないが。
失敗する気がしない。
「行くぞ」
赤い光が覗く階下へ、いざ。
◇◆◇
パァン!
覚悟を決めた私たちを迎えたのは、乾いた破裂音。飛び降りん勢いで階段を降りた侑李の勢いが止まる。
無言のまま、彼は私を下ろした。
「侑李? 一体」
言い切るより先に、圧倒的な声量で遮られてしまった。
「おめでとう!」
口々に、そんな言葉が述べられる。その声は全て、会議に出席していた者のものと思われた。
呆然自失である。それは傍らの彼も同じようで。
「...どうなってんだ」
視界もない私は余計に困惑するばかりである。
誰か状況を説明してくれないか。
願いが通じたのか、拡声器付きで、父の声が響いた。
「これで君たちは晴れて恋人同士だ。どうか皆さん、新たなカップルの誕生に惜しみ無き拍手を!」
拍手喝采が踊り場を支配する。
この役立たず。
「良かったな侑李。告白成功じゃねえか」
「待て雅人。先に状況を説明しろ」
激しく同意。
「火災はどうなったのかしら?」
「はっはっは。全部嘘だ。自作自演ってやつだぜ。お前らがいつまでも引っ付かねえからよ。社長さんと相談して、スプリンクラーに細工までして」
「そこまでする必要ないだろうが」
「その方が臨場感出るだろ? 実際」
空気を切る音がした。多分、侑李が三宅君を殴ったのだろう。正常な判断だ。
「いやあ、うまくいったね。火災再現用のプロジェクションマッピングも、その他色々な仕込みも、頑張った甲斐があったよ」
すぐそばに父の気配。何の躊躇もなく、平手を打った。正常な判断だろう。
そして、二人息を揃えて。
「死ぬかと思ったぞ馬鹿野郎!」
「死ぬかと思ったわ馬鹿親父!」
初めての共同作業が説教になるとは思わなかった。
◇◆◇
学術会議改め、俺たちの恋人成立祝賀会と相成った。乾さんが娘の恋愛事情を社内に触れ回っていたらしく、雅人の同僚だという人から、ちょっとしたお偉いさんまで、様々な人に声を掛けられた。美帆の説教は増加したが。
「やっと帰ってきたって感じだな」
「疲れたわね」
「ああ。大分な」
そんなパーティーが終わり、芹生家まで戻ってきた。ここへ来て、どっと疲れが押し寄せる。
乾さんと雅人には、反省の意を抱かせるため、二人きりでの片付けを命じている。あのときの美帆の迫力は凄まじかった。
怒らせないように、気を付けようと思う。
「少し休んで行くといいわ。お茶も出すわよ」
「ああ。ありがとう」
モノクロのリビング。いつもの体勢で寛ぐ。心なしか、彼女との距離が近い。
「はふぅ...癒されるわね」
「カフェオレの甘さが身に染みるな」
一息ついた。
ここへ寄ったのは、こうして休む為でもあるが、もうひとつ理由がある。
「美帆」
「何かしら、侑李?」
名前で呼び合う。パーティーの最中、雅人の一声により決定されたことだ。
照れ臭くて、むず痒い。けれど、幸福。
お互い頬が赤くなるのを自覚しながら、幸せなこの気持ちを噛み締める。
「改めて、なんだが」
「何よ?」
すぅ、はぁ。深呼吸をひとつ。
カッコよく、決めるんだ。
「俺と付き合ってくれ」
一世一代の告白だった。
実質的には、確認のようなものだが。
彼女は呆気にとられたように目を見開き、そして。
どんな宝石にも負けない輝きで。
どんな花にも負けない可憐さで。
どんな人にも負けない愛情を以て。
「ええ。喜んで」
大輪の笑顔を咲かせた。
◇◆◇
カーテンで日差しを遮った部屋の中。盲目の少女は迷いなく進み入り、黒塗りの椅子へ腰掛けた。
少女は、いとおしげに鍵盤をなぞる。
いつしかその優しい動きは、激しく、そして楽しげに変わっていった。
少女の口許には笑みが浮かんでいる。まるで、大切な家族と再会したときのような、慈愛に満ちた、優美な笑顔。
彼女のしなやかな指が鍵を叩く音だけが、部屋に響いていた。
◇◆◇
快い秋晴れの空を見上げながら、雨上がりで落ち葉がへばりついたアスファルトの上を歩く。その目的地は、例の如く彼女の家だ。
「こんにちは」
「いらっしゃい。待っていたわよ」
恋人同士になってからというもの、芹生家での滞在時間が倍増した。昼過ぎから夕方までだったものが、昼前から夜までへ。
というのは、日曜日においてのみ、俺が台所を預かることとなったからだ。
「お昼の献立は何かしら」
「今日は遅くなったからな。炒飯でもぱぱっと作るつもりだ」
芹生家の食卓は、基本的にあの盲人用弁当が並ぶ。それを日曜日だけ取り止め、その分のお金プラス俺の食費で料理というわけだ。
「あら。私、炒飯にはうるさいわよ?」
「上等だ。任せておけ」
互いに不敵な笑みを向け合う。
彼女がそう豪語するのは恐らく、美月さんの影響だろう。キッチンに中華鍋が安置されていたため、相当凝っていたことがわかる。パラパラチャーハンには火力が必要なのだ。
「美帆。数分で仕上げるから、お皿とレンゲを頼む」
「ええ」
頭にタオルを巻きつつ、具材の支度から始める。高火力の短時間勝負。準備不足一つで台無しになるのだ。
駅前のラーメン屋は、急ぎのお客さんも多い。それ故、最短時間で料理を提供する技術が開発された。それが俺に受け継がれている。今や、俺より上手く炒飯を作れる厨房係はいない。
長年のバイトで培った経験、ここで活かそう。
◇◆◇
彼の宣言通り、ジューッとノンストップで音がし続けること、ものの数分。
「お待ちどうさま。冷めないうちに食べてくれ」
ダイニングに着席した私の前へ、若干乱雑に置かれた一皿。漂い来る香ばしい匂いに引き寄せられるようにして、一口含んだ。
そして、嚥下した次の瞬間には、二口目に手が伸びている。
「どうだ?」
意地悪にも、彼はそんなことを尋ねてくる。見ればわかるだろうに。私は答えるよりも先に食べ進めたいのだ。
「美味しいわよっ」
「それは重畳」
そう言い残して、彼は自分の分を調理し始めた。
よもや、口の中でホロリと解けるなんて言葉を炒飯に使うことがあろうとは。それほどまでに、彼の炒飯は米と米が乖離していた。また、時折現れる焦げ目が味のアクセントになっている。
行儀の悪さを厭わず、お皿に口を付けてかき込む。無くなったと分かった瞬間、私は元気に声を張り上げた。
「おかわり!」
「はは。乾さんの分、余らせずに済みそうだな」
この侑李特製炒飯にありつけないなんて、余りに不憫だ。休日を返上してまで仕事に出かける家族不孝者には相応しいかもしれないが。
「ご馳走さまでした」
「お粗末様。よく食べたな。三人前くらいあっただろう」
「炭水化物の摂り過ぎね。お腹が膨れているわ」
そこで、嫌な考えが過った。こう過食気味では贅肉が付いてしまう。そうなれば、嫌われるとまで言わずとも、幻滅されるのではないか。乙女心が激しく警鐘を鳴らした。
「満足してもらえたなら何よりだ。あんなに旨そうに食べてもらえると、作り手冥利に尽きる」
彼は気にした様子も無く、呑気に宣っている。彼なら笑って見過ごしてくれるのだと、理解はしているのだが。私にも女子高生としての矜持がある。
「ねえ侑李」
「どうした?」
「たまには外へ出ましょうか」
食後のお茶を啜っているはずの時間。すっかり家政婦、もとい家政夫と化した侑李が洗い物を終えてから、私はそう告げた。
「日光は大丈夫なのか?」
「日傘と紫外線対策用のクリームがあれば、この時期は何とかね」
「無理はするなよ? カロリーを費やすなら、日が落ちてからでも」
「お黙り。行くったら行くのよ」
「はは。気にすることはないぞ?」
「うるさいっ。それに、ちゃんと目的があるのよ」
今口にすると後付けのようだが、前々から考慮に入れていたことだ。
勿論、エネルギー消費も目当ての一つだが、彼相手にそれを肯定するのは癪というか、恥ずかしい。
「運動以外にか?」
「もうっ。デリカシーがないわよ」
少し前までは、私が彼をからかって楽しんでいたのに。しかし、立場が逆転しても、どことなく快楽を感じてしまうのは、俗に言う、惚れた弱みというやつだろうか。
「はぁ。茶化さないで頂戴」
「悪い悪い」
「話を戻すけれど。私が行きたいのは、あなたの実家よ」
「げっ」
露骨に嫌そうな声を出す彼。その歪な家庭事情の程は、時折彼の口から耳にしている。
「お付き合いを始めたんだもの。挨拶の一つでもしないと不義理よ」
「そうは言ってもな」
「不仲だとは聞いているけれど。私は是非行きたいと思っているわ」
妹さん、茉里さんが交通事故で亡くなって以来、ギクシャクした関係が続いているのだという。そのせいで、仕送りはおろか、学費も貰っていないのだとか。
「きっと良い思いは出来ないぞ?」
「愛というのは、障害があるほど燃え上がるものらしいわよ」
「...はぁ。灰にならないことを祈るばかりだ」
「何度でも燃えて見せるわ」
「はは。勇ましいことで」
緊張が無いと言えば嘘になる。頑固らしいお義父様が、私の髪と目を見てどんな反応を起こすか。憂慮は尽きない。
もしかすると、父の親族がそうだったように、侑李にまで批難が殺到し、余計に亀裂が深まるかもしれない。
それでも、隣に彼が居てくれる。加えて、これから長い付き合いとなる方々に会うのだから、堂々としていなければならない。
私は強いのだ。特に、彼のためとなると。怯えることは何もない。
「いざ、出発よ」
背筋を伸ばして、私には明るすぎる外の世界へ踏み出した。
◇◆◇
俺の実家へは、電車に乗っても片道一時間弱。尚、乗り換えを一度含む。
今のアパートから大学までは徒歩十分。家を出たのは、この交通の便の悪さも要因の一つだ。
「美帆、大丈夫か?」
「ええ。電車は数年ぶりだけれど、やっぱり揺れるわね」
「席、譲ってもらうか?」
特急に乗っているのだが、行楽シーズンということもあり、座席は全て埋まっている。主にお年寄りで。
それでも、彼女は視覚障害を抱えた身だ。優先席で頼めば、替わってくれる人もいるだろう。
「結構よ。どうせあなたは立ったままでしょう?」
「そりゃあまあ」
彼女は兎も角、俺は一般の男子大学生。高齢者を立たせて座るには健康すぎる。
「なら私も。けれど、もし倒れそうになったら、支えて頂戴ね?」
「ああ」
右手に吊革、左手に俺の袖を握った美帆がはにかむ。照れ臭くなって顔を背けると、お爺さんお婆さんのにこやかな表情。四面楚歌だった。
「美帆、次で乗り換えだ」
「ええ」
吊革を手放し、白杖を用意する。それだけで、周囲の視線が、微笑ましげなものから気遣わしげなものへと変化する。
「行けるか?」
「大丈夫よ」
彼女は苦笑気味で、その現実を受け入れていた。
美帆は過度な配慮を好まない。その感覚は人によって様々だろうが、少なくとも彼女は不快に思うらしい。とはいえ、それを世間一般に求めるのは酷だろう。
躓くこともなく、無事に乗り換えは成功。ここからは楽だ。
田舎方面への電車であり、全て各駅停車。利用者も多くはないため、常に空席がある。
ただ、辛いことと言えば。
「すぅ...すぅ...」
睡魔に耐え抜くことだ。
心地よい振動と、設定温度の高い暖房。運転手が上手いのか、急ブレーキなど滅多にかからない。そこに間延びしたアナウンスも加わる。どうでも良いが、鉄道ファンからの呼び名は「ゆりかご」らしい。
美帆は既に惨敗を喫し、俺の肩に寄りかかって夢の中。驚くほど人が少ないので、周囲の目を気にする必要もない。それがまた、眠気に拍車をかける。
俺はと言えば、ふわりと香る甘い匂いにドキドキして、おちおち寝てもいられない。
起こさないように、こっそり寝顔を覗く。
こうしてじっくり見つめるのは初めてかもしれない。相も変わらず浮世離れした白さの、艶やかな肌。至近距離だからこそわかるが、睫毛が長い。また、色素の薄い唇は僅かに開かれ、浅い呼吸を繰り返している。
「おっと」
その口の隙間から、透明な液体。右肩を揺らさぬよう気を配りながら、ハンカチを取り出して拭ってやる。美帆はこういうところで恥ずかしがるため、証拠を残さず念入りに拭き取る。
「んぅ...?」
起こしてしまったが、彼女が覚醒しきる前に任務は達成した。
「おはよう、美帆」
「おあ、よ?」
目は開いたが、体重は俺に預けたままで、ぽやーっとしている。今までに昼寝をする日もあったのだが、ここまで呆けた美帆は中々見られない。さすがはゆりかごだ。
そんなことよりも、この極上の可愛さを今すぐ写真に収めたい。それさえあれば、三年くらいは働き詰めでも問題ないくらいだ。
「ゆーり」
「なんだ?」
呂律が回っていないのも、また愛らしい。ここが公共の場でなければ抱き締めていたところだ。
「にへへっ。すきーっ」
幼児というよりも、赤子に退行しているらしい。ゆりかごの名を冠しているだけはある、というか、効力が強すぎないか。
何にせよ、気絶しそうなほど眩しく、愛くるしい笑顔だった。
数分後。
「あああああ」
つくづく、この車両に人がいなくて良かったと思う。
羞恥に染まった顔を両手で隠し、延々と呻き声を上げる少女の姿は、見る者の度肝を抜くだろう。
「落ち着けよ。可愛かったぞ?」
「追い打ちをかけないでぇ...」
恥辱の極み。言外にそう語る美帆。その様もまた庇護欲を誘うのだが、それを口に出せば、火に油だろう。
「ううううう」
「良いじゃないか。俺以外に誰も見ていない」
「侑李でも恥ずかしいものは恥ずかしいのよぉ」
床を転がりそうな勢いで、首を横に振る。長い髪が、ぺちぺちと俺の腕を叩いた。
「新しい一面を知れて、俺は嬉しいんだが。寝起きが弱いなんて、可愛らしいじゃないか」
「...本当に?」
「当然だ。美帆がそれを汚点だと思おうが、俺にとっては愛すべき美帆の一部だからな」
「むぅ...そんな風に言われたら、いつまでも愚図っていられないじゃない」
彼女は未だに赤みが差した頬を顕にした。やはり彼女には男気がある。
「もう絶対に寝ないわ」
「ああ。そうしてくれ」
「今度は侑李が寝なさい。そして間抜けな姿を晒すのよ」
「復讐する気満々だな」
「ええ。心行くまで揶揄してあげるわよ」
久々に見た、美帆の小悪魔スマイル。若干ムッとするものの、何処まで行っても可愛いものは可愛い。
「生憎と、次の駅で降りるぞ」
「え」
「俺の寝起きはまた今度な」
「ずるいわよ」
「しょうがないだろ」
「む。帰りは絶対侑李を寝かしつけるわ」
だんだん目的が逸脱している気がする。
「さて、ここから歩いて五分くらいだ。疲れていないか?」
「ええ。お陰様で、しっかり休息がとれたもの」
「そうか。なら行くぞ」
駅前から続く大通りは、田舎らしく半分ほどしか営業しておらず、閑散としている。大通り、と称したが、他に通りと呼べるものはない。一歩通りを出れば、田園風景が広がっている。
自然に美帆と手を繋いだ。土地勘のない場所で、これからの行程に思いを巡らせると、少なからず憂いもあるだろうと考えての行為だが、美帆はあえて、そこに腕を絡めた。
「公衆の面前だぞ」
「そう言うほど人はいないでしょう?」
「それはそうだが、ゼロじゃない」
「大丈夫よ。私には見えていないから。恥ずかしいのはあなただけ」
「何が大丈夫なんだ」
「目が見えない私に心細い思いをさせたいのかしら?」
「ぐ」
そう言われると弱い。実際、美帆の手は僅かに震えている。演技という可能性もあるが、受け入れてやるのが甲斐性ではなかろうか。
「好きにしろ」
「んふふ。やったぁ。じゃあこれはいらないわね」
白杖を折り畳み、鞄にしまう。そうしてしまったら、ただのバカップルにしか見えなくなるのだが。
「不謹慎だけれど、視覚障害だと、こうして引っ付いていてもなんとも思われないから良いわね」
「その視覚障害の証を鞄にしまい込んだわけだが」
にこやかな彼女を見ていると、そんなことはどうでも良くなってくるあたり、俺はもう駄目かもしれない。
◇◆◇
侑李の温もりを半身で感じながら、地震でもあったのか、やけに凸凹の多いアスファルトを歩く。何度蹴躓いたかわからない。
「歩きにくいわね」
「おぶってやろうか?」
「結構よ。そこまでは私も恥ずかしいわ」
それに、彼が生まれ育った場所なのだ。出来ることなら、自分の足で歩きたい。
「ここを曲がるんだが、まともに舗装もされていないぞ」
「折角だもの。歩かせて。つんのめったら、また助けて頂戴」
「ああ、わかった」
一歩一歩、踏みしめる。彼の軌跡を少しでも辿るように。そして、これからのことを乗り越えられるように。
「もう少しだ。道幅が狭くなるから、気を付けてくれ」
「ええ」
日傘で相合い傘になるくらい、ぎゅっと抱き着く。途端に身も心もポカポカして、日光浴でもしている気分だ。実際にしたことはないが。
今まで。少なくとも、夏前まではそれだけの感想だったのだが、今は違う。ちょっぴりドキドキも加わった。甘い、とは少し異なる、彼の匂い。ゴツゴツとした体。それを強く意識してしまって、だんだん鼓動が早くなる。
言葉では到底表現し尽くせないのだが、有り体に言えば、幸せというやつだ。
彼も同様に感じているだろうか。もしそうなら嬉しい。
「美帆、くっついてくれるのは嬉しいが、着いたぞ」
「あ。ええ」
夢中になっていたらしい。愛というのは恐ろしいものだ。簡単に心を奪われる。
とはいえ、ここからは切り替えねばならない。何せ、侑李とご家族は仲が芳しくない。その関係を左右するのは、間違いなく私だ。そうでなくとも、我儘を言って、彼に連れてきてもらったのだから、粗相は出来ない。
緊張感に表情を引き締めたところで、彼がインターホンを鳴らした。
「...あれ?」
返事はない。そもそも、家の中に気配すらない。
「日曜日は家にいるはずなのよね?」
「ああ。そのはずなんだが。耳でも遠くなったか?」
「あまり失礼なことを言うものじゃないわよ」
とはいえ、肩透かしを食らった気分だ。強張っていた体が弛緩する。
にゃぁーん。
そして、それを助長するような、文字通り猫撫で声が、耳朶を打った。
◇◆◇
和風建築の勝手口で、俺達は間の抜けた鳴き声を耳にした。
「野良猫か?」
「おそらくだけれど、敷地内から聞こえたわよ」
美帆が鳴き声の方向を指し示す。それは的確に、母屋越しであるはずの庭先を捉えていた。
「そんな馬鹿な」
「取り敢えず行ってみましょう。どなたかいらっしゃるかもしれないわ」
まさか。この家には親父がいるのだ。茉里の懇願を一蹴した彼が。
しかし、その予想は裏切られることとなる。猫じゃらしを振って戯れる、五十手前の女性によって。
「母、さん? 何をやっているんだ?」
「この声っ。侑李?」
その女性はバッと振り向く。集まっていた猫たちは、謎の人物の登場に逃げ去っていった。それを気に留めることなく、彼女は俺と視線を合わせた。見間違うことなどない。俺の母親だ。
「侑李! おかえりなさい! やっと戻ってくれる気になったのね!」
年甲斐もなくはしゃぎ、抱き着こうとさえしてくるので、それを止める。すると母さんは、美帆と繋いでいない方の手をもぎ取り、ぐいぐい引っ張り始めた。
「そうじゃない。挨拶に来ただけだ」
「さあ上がりなさい侑李! あなたの部屋、そのままにしてあるのよ!」
「母さん、話を」
「折角侑李が戻ってきたんだもの! 今夜はお赤飯ね!」
「おい母さん。俺、用が済んだらとっとと帰るぞ」
「侑李の好きなハンバーグが良いかしら!」
全く以て、俺の話を聞かない。それどころか、視界にも入っていないのではなかろうか。未だ美帆に気づいた様子もなく、一人で仮想の俺に喋り続けている。
俺以外の前では基本冷静な美帆も、これには開いた口が塞がらないらしい。
「...はぁ。これだから美帆に会わせたくなかったんだが」
簡潔に言えば。母さんは心を病んでいる。
愛娘、茉里の死という負荷に対し、心が拒絶反応を起こしたのだ。元来気弱な性格であったため、反応も過敏になったのだろう。
「...」
そして、縁側で腰掛け、俺達の様子をじっと見つめつつ、沈黙を貫いている初老の男性。俺の親父だ。
親父もまた、茉里の死以来、変わってしまった。元々口数が少ない人だったが、更に無口になった。それこそ、曲がったことに対してさえも、黙認するようになったのだ。
「くそっ」
「...侑李?」
「悪い。我が親ながら、情けなくなってな。気にしないでくれ」
この二人の変化こそ、俺が家を出た最大の理由。
いつまで経っても自分の世界に閉じ籠る母さんと、信念を失った親父。見るに耐えない惨状だった。よくもまあ、高校時代の俺はこの家庭を生き抜いたものだ。
踵を返さないでいられるのは、隣に美帆がいるからだ。そうでなければ、こんな地獄に長居など御免被る。
「御覧の有様だ。どうする? 出直すか?」
「...いいえ。目的を果たすまで、帰らないわ」
修羅場に立ち向かうつもりらしい。身内である俺さえお手上げの、この状況に。些か無謀な決断だが、彼女はそう捉えていないらしい。
「お義母様。この度、侑李さんとお付き合いさせていただくことになりました、芹生美帆と申します」
「...え?」
お付き合い、というワードに反応してか、母さんは美帆の方を向く。存在そのものに驚いたのか、その容姿に驚いたのかは不明だが、とにかく目を見開いた。
「侑李? この人と、お付き合い?」
「ああ」
無視された挙げ句の問い掛けに戸惑ったものの、迷いなく頷く。この少女は俺の彼女なのだと、自信を持って。
「駄目」
「...あ?」
思わず、喧嘩腰になってしまう。それほどまでに、母さんの発言は俺の神経を逆撫でした。
「母さん、俺は美帆と付き合っている」
「別れなさい」
こめかみに青筋が浮かぶ。それでも美帆の手前、どうにか声のトーンを落として問うた。
「...理由を聞こうか?」
「こんなおかしな人とお付き合いなんて認めません! 髪も染めて、目にまで色をつけて!」
「母さん、それは生まれつきだ。アルビノという、色素が薄い状態で生まれた人なんだよ」
懇切丁寧に解説を加えてやり、理解を促す。
しかし。
「なら尚のこと駄目。そんな気色悪い人種と付き合っていたら、侑李まで苛められちゃうわ」
「っ!」
堪忍袋の緒が切れた。母さんの手を振りほどき、拳を形作る。あわや、そのまま振り抜いてしまうかというところで、右手が強く引っ張られた。
頭に上っていた血が、スーッと全身に回る。右手を包む柔らかな素肌の感触に、毒気を抜かれた。
「侑李。私は大丈夫よ」
「...すまない。取り乱した」
彼氏が実の母に手を上げたとなると、この清廉潔白な少女を貶めることになる。そう考えることで、どうにか怒りを鎮めた。
「母さん。言っていいことと悪いことがあるぞ」
「事実じゃない。お母さんはね、侑李のことを思って忠告しているの」
「ふざけるなよ。俺の発言権を剥奪しておいてよくもまあぬけぬけと」
「そういうわけだから。あなた、帰りなさい。侑李は今日からこっちに住むの。どうやって取り入ったか知らないけど、ちょっと顔が良いからって、うちの息子を謀ろうとしても無駄よ。侑李はハンサムだから、惹かれる気持ちもわかるけどね」
再度俺の手を取り、捨て台詞と共に手をヒラヒラとさせる母さん。悉く俺の機嫌を悪くする。
だが、俺が何か言うよりも先に、美帆の口が開いた。
「お言葉ですが」
美帆は怖じ気付くこともなく、毅然として、事実を述べるかのように堂々と告げた。
「私は目が見えていません。侑李さんがハンサムだろうがわかりませんし、例え見えていたとしても、そんなことは些事に過ぎません。私は彼の人柄に惹かれ、恋に落ちました。自惚れかもしれませんが、彼も」
「ああ。俺は美帆の全てを愛している」
そんなキザったらしい惚気が、口をついて出ていた。それも親の前で。言った後に、じわじわと恥ずかしくなる。
「...そういうわけで、私たちは相思相愛です。私の見た目のせいでとやかく言われようとも、彼が私を愛する気持ちは変わらないでしょう」
当然だ。何があろうと、この愛情が歪むことはない。自信を持ってそう言える。
「それよりも、二人離ればなれになる方が、侑李さんにとって最も苦しいことです。無論、私にとっても。ですから、どうか、侑李さんの幸福のために、交際を認めて頂けませんか」
彼女は言葉を尽くし、母さんを説得した。その反応や如何に。
「...」
母さんは、涙を流していた。けれども、理由が思い当たらない。
「おい母さん。どうして泣いているんだ」
「ちょっと、思い出したの。もう三十年も昔の話ね」
涙をサッと拭い、今度は真摯に美帆を見つめる。
「あなた、御名前は?」
「美帆です」
「美帆さん。あなたの言葉が、お父さんが挨拶に来たときに似ていたの」
今まで昏かった母さんの瞳に、理性の光が戻った。俺への執着が薄まったと言うべきか。過去の親父の言葉が、それだけ彼女の琴線に触れたということだろう。
「二人一緒にいることが、娘さんにとって最良の幸せなんです。ってね。一言一句覚えているわ。何の疑いもなく、そんなことを言ってのけるんだもの。惚れ直しちゃったわ」
腰をくねらせて、当時の感慨に浸っている母さん。息子目線では、とても気味が悪い。
「おほん。兎も角、覚悟は伝わったわ。本心で言えば、侑李が心配だけど。でも私が決めることじゃない」
「...ああ。そうだったな」
亭主関白が板についたこの家庭だ。最終決定権はいつも親父にある。
「いつまでも黙ってないで、どうにか言ったらどうなんだ、親父」
「...そうだな」
縁側で立ち上がった親父の声は妙に嗄れていて、曲がった背からも、五十過ぎにしては随分と年老いて見える。
「侑李、入りなさい。二人で話がある」
「ああ」
親父は奥の座敷へ。
恋人になった報告をするだけのはずが、結婚の挨拶のようになっている。もちろん、そこまで責任を取るつもりだが。
「美帆、母さんと待っててくれるか」
「ええ。...頑張って」
彼氏の実家という居心地の悪い場所で手を離すことに罪悪感を覚えていると、神妙な顔つきで応援してくれた。死地にでも赴くのかと苦笑する。
「お父さん、思い悩んでいたみたいだから。あまり追い詰めないであげて」
「ああ。母さんも、美帆のことを頼むぞ。絶対に怖がらせるなよ」
見守ってくれる二人に背を向けた。座敷に上がり、後ろ手で障子を閉める。
薄暗い畳の部屋。座布団が二つ敷かれ、奥には親父が正座している。手前側のそれに、俺も座した。
まずは、連絡を寄越さなかったことに叱責を受けるのだろう。それは構わない。だが、それとは別にして、何としても美帆のことは承認させてみせる。
「侑李、すまなかった」
意気込みは、そんな謝罪によって霧散した。
あの頑固でプライドの高い親父が、頭を下げたのだ。昔の彼の姿からは、想像も出来ない。
「何がだよ」
「今までの行いだ」
頭を垂れたまま、きっぱり言い切って、重荷を背負ったような低い声音で、言葉を続けた。
「茉里が死んでから今日まで、ずっと考えてきた。俺の教育、躾はあれで正解だったのか、と。俺は昔からああやって育てられてきたし、親への信頼という意味で、それを疑ったことはなかった」
「...」
「だが、茉里を失ったあの日から、その自信が揺らいだ。いや、本当はもっと前からだ。茉里から拳を向けられる度に、これで良いのかと、心の奥底で誰かが問い掛けていた」
泰然自若、傲岸不遜を地で行く親父の、初めて見せた弱音。
久々に間近で見た親父の頭は白髪が増えたように思えた。
「悩み、悩み、悩み続けて、お前があの娘を連れてきた。それで確信した。俺は間違っていたのだ」
「...美帆がアルビノだからか」
「それがないと言えば嘘になる。だが、根本的には違う。彼女は未成年だろう」
「ああ」
「俺は常々、男女交際は成人した者同士の付き合いだと教えてきた。例え世の流れが変化しようとも、清い付き合いには必須の条件だと」
「ああ、そうだな」
茉里の噂が議題に上る度、繰返していたことだ。
「それをお前は、真っ向から否定した。実例という形でもって」
「そうなるな」
「茉里も、俺の言葉には真っ向から反駁していた。血を分けた娘と息子が、俺の、引いては先代の風習を捨て去ったんだ。それで俺は、今までの教育が間違いだったのだと気づいた」
「それで、謝罪か」
「ああ。これまでどれほど苦汁を飲ませたか、俺には認識さえ出来ない。だからこそ、謝意で以て詫びを入れたい。今まですまなかった」
地に頭をつける勢いで、頭を下げる親父。
しかし、俺の溜飲は収まらない。寧ろ腹が立つばかりだ。
「カッコ悪い」
「何?」
「俺は親父がどれだけ悩んだか、俺は知らないし知ろうともしなかった。親父の決断が良いのか悪いのか、それはわからない」
彼の肩を掴み、顔を上げさせる。
「ただな。俺は親父の頑固なとこ、結構好きだったんだ。茉里と喧嘩して、それでも折れない親父の信念を、素直にカッコいいと思った。心の根がどうあれ、毅然とした親父の姿に俺は憧れた。多分茉里も、親父がそうだったからこそ、日頃の鬱憤をぶつけることができたんだ」
眉尻を下げ、怯えたような情けない顔だ。
「みっともない顔晒すなよ。ちゃんと胸を張れよ。俺が尊敬した親父は、もっと気高かったぞ」
当初の予定では、頑なに拒否する親父を説得するつもりでいたのだが、まさか逆の意味で説教をすることになるとは。
親父はただ茫然として俺の顔を凝視している。
「本気で言っているのか」
「ああ。時代錯誤だとは思ったが、嫌いじゃなかった。今の俺が言うのは何だが、頑固な親父でいてくれよ」
「っ、はは。全くだ。矛盾している」
「いくら親父が否定しようが、俺は美帆を諦めたりしないがな」
「...ああ。そうだろうな。お前がそんな目をしたのは初めてだ」
渋く笑う親父は、どこか嬉しそうだった。
一呼吸の間を開けた後、親父は表情筋を引き締め、座布団の上にドカッと胡座をかいた。
「不肖の息子よ。最早お前は何を言っても聞かんだろう」
老衰という言葉とは無縁の鋭い眼光で、俺を睨みつけた。
「お前に訊ねる」
それでこそ親父だ。如何なる物にも動じない絶壁。だからこそぶつかり甲斐があり、本気で向き合うに足る存在なのだ。
「これから彼女と連れ添うつもりなら、きっと沢山の壁にぶつかることだろう。彼女の容貌を侮蔑する者もいるだろう。それでも彼女を愛する覚悟はあるのか」
月並みな言葉だ。だが、親父が凄味を利かせるだけで、それらしくなる。
「愚問だな」
そして俺は目線を逸らすことなく、面と向かって答える。
「俺は美帆を世界で誰よりも愛している。どこの誰が謗ろうと構うものか。人を浅くしか見ない人間の薄っぺらい言葉に振り回されてやるほどお人好しでもないんだ」
口許には、悠々たる笑みを湛えて。
「一生涯、俺は美帆と添い遂げる。何者も俺達の間を引き裂くことなんて出来ないさ」
耳を傾けていた親父は、俺の言葉が終わるや否や、笑いだした。
「ははは。合格だ。そこまで言い切れるのなら、お前はもう立派な男だ。その心を忘れるなよ、侑李」
「ああ」
紆余曲折あったが、当初の目的、挨拶をするというミッションは、無事叶った。
◇◆◇
車窓から差し込む西日を避けるようにして、シートに腰かけた。
隣からは、全体重を投げ出したような軋みが聞こえる。
「だあぁーっ。疲れた」
「はしたないわよ。一応は公共の場なんだから」
「座ったまま少し延びをするくらい良いじゃないか。家を出た身としては、気苦労が絶えなかったんだ」
「もう。折角カッコいいと思ったのに」
実は、二人の話し合いを、お義母様と一緒に盗み聞いていたのだ。
恥ずかしげもなく、愛しているだとか添い遂げるだとか言われて、面映ゆいのと同時に、物凄く嬉しかった。
「侑李」
「どうした?」
「私も、愛しているわ」
「ん...」
動揺なく淡々と述べたつもりだったが、じわじわと頬が熱を持つようになる。直接的すぎただろうか。
「美帆」
「何かし、っ!」
ふっと、唇に柔らかな感触。
一瞬にして離れてしまったが、その感覚はいつまでも脳裏に焼きついて、じんわりと温かいものを供給し続けていた。
暫しの間呆けて、胸の疼きが静まると、常識ある思考が彼を咎めた。
「侑李っ。こんなところで」
「悪い。誰にも見られていないから、安心してくれ」
「そういうことじゃないわ。モラルというものが」
「わかってはいる。だが、好きだと思ったら止まらなかったんだ」
「っ!」
汗が滲むほど顔に血が集まって、赤く、そして熱くなっているのがわかる。
「卑怯よ...」
男の子にこういった形容を用いるのは失礼だが、とても可愛い。胸の奥底がキュンキュンと跳ねる。 彼を抱き締めて、愛情をたっぷり注ぎたい。
「し、仕方ないわね」
いとおしい気持ちを堪えて、手を握るに留めておく。それでも十分インモラルなのかもしれないが、私の盲目に免じて大目に見て欲しい。
「美帆、今日の晩御飯は何がいい?」
「そうねぇ。あ、今日は三人分お願いするわね」
「乾さん、帰ってくるのか」
「ええ。あの人は和食が好きだから、中華がいいかしら」
「はは。露骨な嫌がらせだな」
「冗談よ。今日は私もお魚の気分ね」
「そうか。なら秋刀魚でも焼くか」
スローペースの電車に揺られながら、ほのぼのと談笑をする。まるで世界に二人きりかのように、静かで。
「魚と言えば、夏に貰ったアジ、美味しかったわね」
「ああ。やっぱり鮮度が違うんだろうな」
「干物に鮮度は関係あるのかしら」
硬質な電車のシートがソファのように思えるほど、居心地が良い。広い車内で、敢えて身を寄せあう。それがどうにも落ち着くのだ。
「ねえ侑李」
「...」
「侑李?」
そしてそれは、彼もらしい。暫しの沈黙を挟んだだけで、眠りに落ちてしまった。窓枠を枕代わりに、私の耳元で規則正しい寝息を立てている。そうしていると、だんだん私まで眠くなって。
「おやす美帆ぉ」
「んっふふ」
下らなさすぎる言葉と共に、意識を閉ざした。
「おやすみ、侑李」
まもなく冬がやってくる。
日に日に寒さは増し、外に出ることさえ億劫になる季節だ。
それでも、私たちの身と心は確かに繋がって。
ぽかぽかと、温かい。




