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2話 夏

 真っ白な入道雲が浮かび、青い空とのコントラストが目に眩しい。そんな季節。

 この時期になると、毎年決まって同じ夢を見る。トラウマとさえ呼べる記憶を、蝉の特大コーラスにやられた頭が勝手に引っ張り出してくるのだ。寝間着がじっとりと濡れているのは、暑さのためばかりではない。

 年年歳歳更新される最高気温と、日本特有の高湿度。金銭の都合上、エアコンの設置さえ許されないこの部屋の不快指数は、晩春からうなぎ登りだった。

 つまり、何が言いたいかというと、俺は夏が大嫌いだということだ。


  ◇◆◇


 無機質な足音が響く廊下。建物の中だというのに張り巡らされた点字ブロックを頼りに、歩みを進める。何かの薬品か、はたまたその臭いを消す消臭剤か、無味乾燥とした匂いが漂っていた。


「もう、無理して迎えてくれなくて良いのよ」


 病室で、私はお母さんの、他の患者さんたちも巻き込んだウェルカムソングを聞かされていた。私が来るときはいつだって、お母さんは何かしらサプライズを用意しようとする。

 お母さんも他の人も、万が一、体に障ったらどうするつもりなのか。病人の自覚を持って欲しい。

 一曲終わればクランケ合唱団は解散。親子水入らず。

 お母さんは終始陽気に、私へ語りかけてくる。


「最近どう? 良いことあった?」

「私は元気よ。友達も出来たわ。...一人だけだけど」

「まあまあ。ずっと心配だったのよ。美帆ったら寂しがりだから」

「心配することなんて何もないわよ。だからお母さんは、早く元気になって」


 私はこんなにも、貴女を大切に思っているのに。

 どうしてこの気持ちは、伝わってくれないんだろう。


  ◇◆◇


 俺はこの季節を忌み嫌っているが、感謝している面もある。多くの人が開放的になり、レジャー施設の求人が増加するという点だ。そして、給料も上がる。日々の生活にゆとりを持たせる、絶好のチャンスなのだ。


「お疲れ様でした」


 今日勤務していた海の家を出る。平日と言えども世間は夏休み。実入りの良い一日だった。天にも昇る気持ちで、日給の入った茶封筒を手に歩む。

 辺りはすっかり暗くなっていて、浜辺に人はほとんどいない。少なくとも、波の音を掻き消すほど騒ぐ人間は、全て帰ってしまったようだ。

 吸い寄せられるようにして、大洋を臨んだ。

 黒の世界。

 空も海も、どこまでも続いて、どこまでも深い。

 宵闇の中には、弱々しい天の川が横切っていた。目を凝らさなければ気づきもしないほど、うっすらと。それがなんだか、この世ではない、どこか別の場所を流れているような気がして。

 手を、伸ばした。

 願わくば、その世界へ届かん、と。

 それだけで到達し得ないことは分かりきっていた。だから、靴を脱いで、波間に足を突っ込んだ。

 夏のそれとは思えないほど冷たい水に、立ちすくんだ。

 生ぬるい陸風が、俺の背中を押した。凍りついていた筋肉は再び伸縮を始め、今度こそ、俺をあの世界へ連れ出そうとする。

 ふと背後から、砂を踏みしめる音が聞こえた。

 さして珍しくもない。夜の海に繰り出して、砂浜を歩く。風流なことだ。誰だって一度は夢見る。端から見れば、俺も同類なのだ。

 普段なら、無視を決め込むところだ。だが、俺はどういうわけか、振り返って音の主を目に映した。


「...」


 物も言わず、ただ空と海の境を見つめる、焦点のない紅の瞳。

 暗闇によく映える、純白の少女が立っていた。


「芹生、さん?」


 お気に入りらしい白のワンピースを纏った、ビスクドールのような美しい女性。俺の友人。ぼんやりとした俺の頭は、彼女こそ天使だと賛美した。


「あら? 山端君?」


 俺の声を聞いた彼女は、こちらへ近寄ってくる。波が押し寄せる海浜へ。盲目にも関わらず。

 一気に現実へ引き戻された。


「ちょっ、芹生さん、ストップ」

「え? んひゃっ」


 案の定、靴から浸水したらしく、可愛らしい悲鳴を上げて後退った。そして砂に足を取られ、後ろ向きに倒れ始める。

 案の定、という言葉通り、予想の範疇であったため、俺は彼女の腕を掴み、引き寄せた。


「ぅわわっ」


 今度は前へたたらを踏んだ芹生さん。俺の胸元へぽすんと収まり、事なきを得た。奇しくも、あの交通事故未遂と同じ有様である。

 そう意識したとき、あの悪夢を思い出した。奥歯を噛みしめ、必死で思考回路から追放しようとするも、うまくいかない。


「山端君、大丈夫? その、動悸が激しくなっているわよ?」

「っ」


 芹生さんは俺の心臓の位置に耳を当て、脈拍を計っていた。見えていないはずの目で、ちらりと俺の顔色を伺う。その気遣わしげな表情は、恐慌状態だった俺の脳を正常化させた。


「大丈夫だ。それより、そちらこそ大丈夫か? 振り回してしまったみたいだが」

「ええ。おかげさまで、砂まみれになることは回避出来たわ。ありがとう」


 礼を述べつつも、離れようとしない芹生さん。


「あの?」

「もう少しだけ、こうさせてあげるわ。何故かは知らないけれど、怖いんでしょう?」


 ズバリ当てられた。怖い夢を見たから、なんて幼稚すぎて言えやしないが。


「あなたはどうかわからないけれど。私は、あなたとこうしていると、安心できるのよ。だからあなたも、しばらくこうやって落ち着くと良いわ」

「...ありがとう」

「ふふ。困ったときはお互い様よ。これで一つ、恩を返せたかしら」


 上目遣いではにかむ天使の姿に、再度、違う所以で動悸がした。


  ◇◆◇


 潮騒だけが反響する海岸を、二人で歩く。山端君とはいつも、思いもよらない場所で出会う。それも全て偶然とは、まったく世間は狭い。


「芹生さんは、どうしてここへ?」

「お母さんのお見舞いよ。向こうに病院が見えるでしょう? あそこ、予約次第で夜間の面会も受け付けてくれるの」

「へえ。随分な景勝地に建っているじゃないか」

「そうね。海が見えるから、入院先として人気らしいわよ。ふふっ。病人というのも、案外お気楽なものね」

「そうだな。見舞う側の憂愁も知らないで、暢気なものだ」

「本当にね」


 ほうっとため息を吐く。

 彼と話しているから溜飲は下がっているが、常々度が過ぎた軽薄な態度には腹が立っているのだ。


「ここへは?」

「車よ。もうすぐ迎えが来るわ。あなたはバイトよね?」

「ああ。電車でな。交通費もコレに含まれている」

「見えないってば」

「あ、すまん」

「もう。いつまで経っても慣れないのね」


 多分、手当が入った封筒を振ったのだろうが。

 三月の終わりに彼と知り合ってから、早いもので七月も終わりを迎えようとしている。

 いい加減順応して欲しいものだ。だが、からかえなくなってしまうのは物足りない。呆れるほどほのぼのとしたジレンマだ。自然と頬が緩む。


「どうかしたか?」

「いいえ。今日も平和だなぁって」

「は?」

「ふふっ。なんでもないわ」

「なんだよ、気になるだろ」

「なんでもないったら。それよりも、そろそろ病院でしょう?」


 私の直感がそう告げている。煙に巻くのにも丁度良いタイミングだ。


「釈然としないが、まあいいか。迎えはまだ来ていないみたいだな」

「そう。ならもう少しお喋りを、と言いたいところだけれど、喉が渇いたわね」

「そこに自販機がある。何か買うか?」

「ええ。冷たいものが良いわね。何があるかしら」


 目の不自由な私に代わり、山端君がお品書きを読み上げる。コーヒー、オレンジジュース、エトセトラ。無難なものが続く。


「あ、トマトジュースがある。珍しいな」

「...あのね山端君。私は吸血鬼じゃないのよ。血液は嗜まないし、代わりにトマトジュースを飲んだりもしないの」

「わかってるよ! 被害妄想激しすぎだろ!」

「あははは。久し振りに掘り返してみたわ」

「ぐぬぬぬ」

「機嫌直して? ほら、一つ奢ってあげるわ。私は...そのトマトジュースにしようかしら」

「...はぁ。ありがとう。お言葉に甘えるよ」


 彼は毎週、火の車らしい家計を遣り繰りして、菓子折を片手に訪れてくれるのだ。こういうところで、感謝の気持ちとして返しておきたい。

 ガタコン、と音が鳴る。


「ほら、トマトジュース」

「どうも。あなたは何を選んだのかしら?」

「おしるこ」

「お、おしるこ? この暑いのに?」


 奇特というか、最早変態である。


「足だけでも、海に浸かっていると冷えるものだな」

「そうかしら? 私は全然だけれど」

「なら、汗冷えかもな」

「それはあり得るわね。あ、このトマトジュース美味しい」

「旬だからな。関係ないとは思うが」


 脈絡なく発してしまった。少し後悔。

 紆余曲折する他愛ない話の最中、不意に聞こえたブレーキ音。あまりに唐突だったので、トマトジュースが少し口から漏れ出た。勿体ない。


「芹生さん、迎えじゃないか? って、それじゃあ本当に吸血鬼みたいだぞ。ハンカチあるか? 缶持っててやるよ」

「ええ。ありがとう。それと、この車は迎えじゃないわね。いつもは、もっと古くてエンジンがうるさい軽自動車よ」


 口元を拭って、貰った缶の中身を飲み干した。どの道、迎えはもうすぐだろう。

 本来であれば、気にも留めない。いや寧ろ、他人である分、注視してはいけない車両のはずだった。


「美、帆?」


 その乗客から、私の名前が出てくることさえなければ。


  ◇◆◇


 ブレーキランプの灯った、黒光りするタクシーから出てきた人影。彼が放った一言は、芹生さんを凍てつかせた。

 芹生さんの下の名前。長らく耳にしていなかったため、忘れかけていた。

 彼は何者か。芹生さんは知己などいないと公言していたし、背広を着用した彼の容姿からも、旧知の仲である線は薄いだろう。

 暫く芹生さんに視線を向けていた彼だったが、突然、失策に気づいた軍師のように、苦虫を噛み潰した面持ちになった。


「すまない。人違いだったようだ」


 見間違いをした程度で出る形相ではない。誰の目にも分かる、明らかな嘘だった。

 今まで黙りこくっていた芹生さんも、業を煮やしたらしい。


「何が人違いよ! あなたが忘れても、私は覚えているわ! 今更どの面下げて来たのよ!」

「...」

「...はぁ。だんまりなのね」

「僕は、美月のことが心配で」

「心配だから? たったそれだけで、捨てた家族にホイホイ会いに来るっていうの?」

「...」

「...その程度の覚悟で、私たちを捨てるんじゃないわよ」


 その男性は、今にも泣き出しそうな顔で、タクシーに戻った。芹生さんの母への訪問という要件は、まだ達成されていないのに。

 黒塗りの車が闇に消えていく。

 気弱そうな人だった。ずっと芹生さんの顔色を伺っていたのだ。彼女とは似ても似つかないが、おそらく。


「今のが、お父さん、なんだな」

「...ええ。元、ね」


 震える白杖を見ていると、何と言葉を掛けるべきか見当がつかなかった。


「見苦しいものを見せてしまったわね」

「いや、そんなことは」


 どうにか絞り出した返答。

 しかし、また空白の時間が流れる。

 痛々しい静寂を断ち切ったのは、モーターの駆動音だった。


「漸く迎えが到着よ。定員に余りがあったはずだから、乗っていけばどうかしら?」


 打算的に考えて、誘いに乗れば交通費を浮かせられる。だが、この気まずい雰囲気に耐えられる自信がない。

 後込みをしていると、芹生さんは、制動音に紛れて小さく呟いた。


「...少しだけ、愚痴を聞いて欲しいの」

「ああ。わかった。ご相伴に預かろう」


 涙声でそう言われて、断ることのできる強者はいるのだろうか。


  ◇◆◇


 運転手は盲学校での担任だ。私の家庭事情について、一定の知見がある。だからこそ、こうして送迎を依頼しているわけだが。


「迎え、ありがとうございます。この人も、同じところまでお願いします。偶然会った友人なので」

「構わないわよ。先生のお話ばかりじゃ退屈でしょうからねぇ」


 山端君の同乗を快諾してもらい、二人で後部座席へ乗り込む。

 おっとりとした話し方が特徴的な先生が、クスリと笑った気配がするのは、私の思い違いだろうか。


「それで、父のことなんだけれど」

「ああ。罵詈雑言でも何でも聞いてやるさ」


 彼は私の機微を察してか、冗談めかした物言いで、肩の力を抜いてくれた。相変わらず気の利いた男である。

 普段学校で感情的に振る舞わないため、教師に山端君との会話を傍聴されるのは気恥ずかしいが、言い触らすようなことはしないだろう。


「ありがとう。...私の元父はね、企業の代表をしているのよ。と言っても、ほとんど世襲みたいなものだけれど」

「へぇ、それは凄いな」


 平静を装い、淡々と情報を開示する。彼もそれに合わせて、いつものスタンスで受け答えしてくれるらしい。


「最初の頃。私が生まれて五年か六年までは、普通のお父さんだったのよ。普通よりもちょっと親馬鹿なくらい」

「はは。父親はな。娘が生まれたらそうもなるさ」

「ええ。それまではよかったのよ」


 そう、それまでは。両親は新婚夫婦のように仲睦まじく、視覚障害を抱えていた私でさえ、普通の子どもと同様に愛してくれていたのだ。


「私の体質のせいで、外遊びには連れていってもらえなかったけれど。それでも幸せだったわ」


 握り拳を膝に押し付けた。

 冷静に。そう己に言い聞かせる。


「けれど、十年前。父は離婚を宣言したのよ。親権をお母さんに押し付けて」

「それは...どうして?」

「多分、私の見た目が気にくわなかったんだと思うわ。それならそれで、やりようはいくらでもあったはずなのよ。なのに、あいつはお母さんを泣かせる選択をしたの」


 連日連夜、隣の部屋からお母さんのすすり泣きが漏れていたのを、私は覚えている。


「それだけで、嫌う理由には充分だわ」

「...なるほどな。大切な人を傷つけられたら、毛嫌いするようにもなるか」

「それが、心配だからってノコノコと現れて。ふざけるんじゃないわよ。だいたい、お母さんの手前とはいえ、私を愛でるときだって一方的だったもの。あの髭を擦り付けられても気色悪いだけよ。まったく他人の気持ちがわからないなんて、それでどうして社長なんて職に就けたんだか」


 思い出したら、止まらなくなってしまった。友人の前でこうも口が悪くなるなんて、山端君に幻滅されてしまうだろうか。でも、今日限りだから勘弁して欲しい。今、全部吐き出して、明日になれば元通りの私に戻るから。

 そんな願望を胸に抱いていたけれど。


「はは。止まらないな」

「ええ、止まらないわ。それほど鬱憤が溜まっているのよ。私が辛いときも、苦しいときも、相談できる人間がもう一人側にいればって、どれほど考えたことか。そんなことさえ実現させられない人間は親になんてなるべきじゃなかったのよ」


 誹謗中傷はもはや私の意思ではどうにもならないほどの速度で放たれていたが、彼は時に共感もしながら、全て笑って受け止めてくれた。

 心地良い時間だ。口から出る言葉は汚いけれど。

 通例、この空気を作るのが家族のあるべき形なのだ。そう考えると、また腹から怒りが込み上げてくる。

 まるで機関銃のように、私は悪口雑言を打ち出し続けた。


  ◇◆◇


 冗談半分で罵詈雑言などという言葉を使ったが、まさかその通りになってしまうとは思わなかった。反抗期という要素も存在するのだろうが、十年間の怨嗟は伊達ではないようだ。

 女性の恨みの恐ろしさを実感すると共に、過去芹生さんが抱いていた愛情も伝わった。

 彼女が丁度物心ついた頃の噺があったのだが、その細かいこと。その当時は、父親にもよくなついていたのだろう。


「うふふ。本当にノンストップだったわねぇ。でもそろそろお開きにしてね」


 窓の外に目を向ければ、芹生さんの家の表札がすぐそこにあった。相槌を打っている間に、到着していたらしい。

 いやその前に。先生がそんなにのほほんと笑っていて良いのか。仮にも親の陰口を叩いている生徒がここにいるのだが。

 意味深に微笑みながら首を傾げた様子を見るに、不問にするということだろう。


「ありがとうございました。助かりました」

「いつもありがとうございます。またお願いします」

「えぇ。いつでもいいわよぉ」


 芹生さんの手を取ってエスコートし、共に頭を下げた。ドライバー兼教職員の女性はひらひらと手を振って、にこやかに。


「芹生さんのことよろしくねぇ。彼氏クン」


 爆弾を投下して、去っていった。


「...誤解されてるって訳じゃないよな?」

「ええ、おそらく。からかって遊んでいるだけよ。...悪い先生じゃないのだけれど。どうしてもっとピシッと出来ないのかしら」


 大人として、動揺を見せずに対応してやった。確かに俺は童貞だが、わざわざ狼狽えてやるほど純情でもないのだ。

 こう考えることこそが、青臭いということなのだろうが。


「いいじゃないか、面白くて」

「ふふ。まあね」


 ふわりと笑うその横顔を見る限り、彼女に気にした様子はない。

 それどころか、清々しささえ感じられる。どうやら彼女の頭の中は、マシンガントークによるストレス解消の爽快感で満たされているらしい。


「じゃあ、またな」

「ええ。気をつけて」


 お互い手を振って別れる。見えていないのは知っているが、様式美というやつだ。

 さて、一人になった。ここからアパートまでは、じっくりと考えに耽る時間だ。

 議題は勿論、芹生さんの父親について。

 彼女の弁に基づくならば、十年前に本性を表したとのことだが、そんなことが有り得るのか。もしも偽りの愛だったとしても、容姿を嫌っている相手に対して頬を擦り付けたりなんてしないだろう。

 直前まで溺愛していた者を突き放すなど、常人の感覚ではない。俺は取締役になどなったことがないからわからないが、リーダーとしての重圧云々で片付く心理ではないはずだ。

 彼の感情が離婚の直接的な原因でないとするならば、外的要因が他にあるということになる。


「なんてな」


 何を大真面目に考察しているのか。芹生さんがこの関係のままで良いと思っているならそれで済む。ただお父さんが不憫なだけ。俺にはほぼほぼ関連性がない事柄なのだ。

 だというのに、何だろう。このモヤモヤする気持ちは。


  ◇◆◇


 日曜日。人々の休日にも、蝉たちが休む気配は全くない。天気予報では、午前中が晴れ、午後からは雲が散見されるということらしい。当然のように真夏日である。

 過剰な日光を防ぐため、きっちりと閉められた厚手のカーテン。だというのに蒸し暑くならないのは、この薄暗いリビングにはエアコンがついているからだ。部屋に空調設備がないのだとぼやいていたし、山端君は今週もきっと来てくれるだろう。

 昨日はみっともない姿を見せてしまったが、今日こそは冷静沈着ないつもの私で出迎えよう。


「そのために精神統一がてら、ピアノでも弾こうかしら」


 彼が来るまでの間だけ。二階は暑苦しいので、集中が持続するかは不明だが。

 居間から一歩出た瞬間に汗が滲み出る。階段を上りきる頃には、襟元に染み込み始めていた。

 さて、暇があれば演奏しているこのピアノ。この頃どうも調子が悪い。打鍵した後、音の発生が微妙に遅いのだ。所々調律も狂い始めているし、メンテナンスを依頼しようか。

 だが、弾けない日があるというのは耐え難い。今の私の技術はお母さんが仕込んでくれたもので、一日たりとも鈍らせたくないのだ。それに、私の演奏を心待ちにしてくれる人がいる。


「今日も案外、私のピアノ待ちだったりして」


 もしそうならうれしい。お母さんの敏腕が認められているような気がして、誇らしい気持ちになるから。

 彼には、旋律の主が私であることを伝えていない。べた褒めされた後に明かすのは、どうも照れくさかった。バレるのも時間の問題だとは思うが。


「ふぅ。今日はもうおしまい。暑すぎるわ」


 もし、彼がこれを知ったら、どんな反応をするだろうか。それを想像するのが楽しくて、もう少し、披露できそうにない。


  ◇◆◇


 だらだらと汗を流しつつ、熱波が駆け巡る道を歩いていた。アスファルトが太陽から熱を吸収し、これ見よがしに俺へぶつけてくる。炎天下の灼熱地獄。加えて重たい荷物まで運んでいるのだから、いよいよもって寿命が縮んでしまいそうだ。

 だがそれももう少しの辛抱。あと数メートルで、ひんやり天国への扉が開く。


「こんにちは」


 インターホンを押す。芹生さんが応答するまでの時間がまた待ち遠しい。


「いらっしゃい。今日は暑いわね。どうぞ入って」

「助かったぁ」


 白い壁、黒い家具で構成された、モノトーンのリビングへ通される。

 黒い革張りのソファへ倒れ込みたい気持ちをどうにか弾圧。クーラーの冷気をたっぷり蓄えたそれへ飛び込んだら、どれほど快いだろう。妄想するだけで実行はしないが。


「どうぞ掛けて。今ジュースを用意するわ」

「あ、ちょっと待った。今日は喉も潤してくれるおやつを持ってきた」


 それがこの、肩掛けの保冷容器だ。中には、今朝がた冷蔵庫で作った氷が入っている。

 以前台所に立たせてもらったとき、かき氷機があることに気がついたのだ。


「シロップの代わりになるものはあるか?」

「そうね、ジャムなんて美味しいわよ」


 芹生さんは嬉々として戸棚を開け、使えそうなありとあらゆるものをかき集めた。本当に、ありとあらゆるものを。


「懐かしいわね。お母さんと色々試したものよ。どっちがより美味しい組み合わせを作れるかって、勝負までしてね」

「それにしたって、かき氷に味噌はないだろう」

「あら、案外いけるのよ? 胡瓜は9割が水分で出来ていて、それが味噌に合うんだもの。氷にだって合うわ」

「なら胡瓜を食べろよ」

「それを言ったらおしまいじゃない。新しい味は見つけられないわ」

「どうしてかき氷にそこまで執念深くなる必要があるんだ」

「だって、お母さんとの思い出だもの。大切にしたいじゃない。...ね、山端君も勝負しましょう」


 その大切な思い出の一部にならないか、と勧誘を受けたのだ。朋友として、これ以上誇らしいことはないだろう。

 勲章でも授かるかのように恭しく受諾し、そしてゲテモノを生み出してしまったのだった。


  ◇◆◇


 隣から喘ぐような呻き声が延々轟いていた。そして私は、氷菓子で冷えた口内の空気を入れ換えるように、笑い転げていた。


「ぐおお、不味い」

「あはははっ。流石に、魚醤と七味は無茶よ。あー、笑いすぎてお腹が痛いわ」

「芹生さんが何事も挑戦だなんて言うから」

「普通チャレンジは一つにしておくべきなのよ。そうしたらうまくいったかもしれないのに。んふふっ」

「くっ。先に言って欲しかった」

「ふふ。ごめんなさいね。お詫びに私のを一口あげるわ。自信作よ」


 私の選出は、イチゴジャムと酢醤油。甘味と酸味が調和して美味しい。少なくとも、私の味覚では。


「味は悪くないんだろうが、いかんせん見た目がな。暗赤色なんて、食欲減退もいいところだ」

「私が血を食しているみたいだって言いたいのかしら?」

「もう吸血鬼ネタは勘弁してくれ」

「ふふふっ。嫌よ」


 彼の懇願を、笑顔で無慈悲に切り捨てる。

 私と彼の出逢いの言葉なのだから。そうでなくとも、あんな突拍子もない発言を忘却することはできないだろう。


「見た目なんて気にしないで、食べてしまえばいいの。美味しいわよ? はい、あーん」

「しないからな?」

「冗談よ。焦らないで頂戴」

「焦ってなんかいないさ」

「ふふ。そういうことにしておきましょうか」


 声音では隠せても、たじろいでソファが軋む音は隠せない。

 追及して愉悦に浸るほど子どもではないので、クスクス笑うだけにしておく。

 お皿を差し出すと、スプーンの小さい負荷を感じた。


「そう言えば、毎週邪魔しているが良いのか?」


 彼は出し抜けに、そんなことを尋ねてきた。


「構わないわ。こうして一緒にいるの、私は好きよ。それに、それを言うならあなたの方じゃない。私にばかりかまけていて良いのかしら? お優しいあなたのことだもの。他に親しい人はいるのでしょう?」


 少し棘を含んだ言い方になってしまっただろうか。だが、彼が他の人と打ち解けている姿を想像すると、何かが喉の奥で引っ掛かる。


「いるにはいるが、この近くには芹生さんだけだ。わざわざ交通費を出してまで会いに行くようなやつはいないよ」

「そう。案外薄情なのね」

「はは。そうかもな」


 責めるような物言いながら、内心では喜色満面だった。これからしばらく、彼の日曜日は私のものであるらしい。


「急にどうしてこんなことを?」

「春以来、芹生さんに友達が出来たのなら、俺ばかり遊んでいるのは不公平だと思ったんだ」

「...出来ていないわよ。友達なんて」


 作ろうというアプローチもない。おそらく、彼が私に構ってくれる限りずっと。


「そうか? 随分と柔らかい雰囲気になったと思うんだが」

「あなたの前だけよ。たとえ教室でもそうだったとして、私に声を掛けてくる人なんていないわ」

「そうなのか?」

「ええ。そういえば、この話はしていなかったわね。面白い話ではないけれど、この際だもの。全部聞いてもらえるかしら?」

「ああ。是非聞かせてくれ」


 事の経緯は、回想するだけで胸糞が悪い。落ち着いていようと自己暗示したのにも関わらず、昨日と同じ結末になってしまいそうだ。

 彼はそれさえ、笑って容赦してくれるのだろうが。


「私が小学校に上がって、たしか三年目だったかしらね。その年は転入生が入ってきた年で、当時の担任が私の体質についてホームルームで話をしたの。日光のこととか、髪色のこととか」


 その前からも、親しい学友などいなかったが、決定的になったのはこの事件が由来だ。


「それは良かったのよ。だけど最後にその先生、男性だったのだけど、何て言ったと思う?」

「さて、何だろうな」

「まあ綺麗だから良いよな、よ?! それも私の頭を撫でながら! 信じられないわよね! どれだけナルシストなのよ! こっちはこの体質に人生をねじ曲げられているんだから、もうちょっと考えなさいよ!」


 思わずテーブルを叩いてしまった。ジンジンとした痛みによって、冷静さを取り戻していく。


「こほん。とまあ、こんなことを叫んでしまったのよ。父のことがあって、気が立っていた時期でもあるから」

「あぁ。なるほどな。それで他の児童に恐怖心が刻み込まれた、と」

「ええ。だから盲学校で友達なんて出来はしないの」

「不運だったな」

「そうね。あの教師は父と同じくらい憎いわ」


 昏い笑顔で言い切ってやる。ドン引きした彼が、ソファを大きく軋ませた。演技三割増しといえど、やり過ぎてしまっただろうか。しかし、一度始めた以上、途中で止まることはできない。


「八歳児に怒鳴られたのがショックだったのか、次の年に辞めてしまったけれど。くくく」


 わざと芝居がかった笑みを浮かべてみた。半分は本音だが。


「そういうわけだから、気兼ねなく遊びに来て頂戴。毎週と言わず毎日でも良いわよ。夏休みなんだもの」

「その言葉は嬉しいが、平日はやはりバイトだ」

「そう...」


 理解しているし、納得もしている。が、心がそれで終わりにはしてくれない。

 この情緒は、十中八九顔に出ているだろう。眉間に皺が寄っていると、自分でも知覚できる。

 思えば、彼の前ではやけに感情的になってしまっている。それを引き出すのが彼の力なのか、私が彼に甘えているのかは不明瞭だが、居心地が良いのは確かだ。

 だからだろうか。つい、独りごちてしまった。


「あなたが毎日ここへ帰ってきてくれれば、寂しさは薄れるのかしら」


 呟いてから気がついた。自分が何を口走ったのか。


「...プロポーズか?」

「ち、違うわっ! 勘違いしないでっ! ただ口が滑っただけというかっ!」

「それは本心ってことか?」

「そうじゃなくてぇっ!」


 多分今、私は人生で一番慌てていると思う。後にも先にも、こんな失敗は二回とないだろう。


  ◇◆◇


 茹だるような暑さは夜になっても収まることを知らず、案の定、熱帯夜だった。半裸になり、掛け布団を取っ払ったところで、涼は得られない。寝苦しいという概念をそのまま顕現したという具合だ。そんな中、己の熱中症の危惧と共に、思索すべきことがある。


「どういう気持ちで言ったんだろうな」


 思い浮かべるのは、白い少女の真っ赤に染まった顔。眼福だったなどと俗物的な話ではなく、あの発言の真意について。

 プロポーズか、などと軽口を叩いたが、自惚れるつもりはない。ただ客観的事実として、彼女は孤独に苛まれている。そしてそれは、俺一人では到底埋められない。

 彼女は毎日、ほんの僅かでも、人の温もりを望んでいる。否、俺がそうさせてしまった。友人という気のおけない関係が、彼女の甘えん坊な一面を誘起してしまったのだろう。

 この夏という期間は、俺にとって書き入れ時だ。大学は長期休暇で、その上、夏休み効果で賃金は上昇する。だからこそ、帰宅も遅く、平日に対面することは不可能。


「どうするかなぁ」


 思えば、このところ芹生さんのことばかりが頭に過る。勉強だってアルバイトだって、思案する要件は潤沢にあるはずだというのに。これが俺の性格故なのか、それとも彼女を特別視しているのか、それは不明瞭だが、どうにかしてやりたいと思うのは確かだ。

 だから俺は、ある決断をした。分の悪い賭けだが、負けたところで俺の睡眠時間が減る程度の損失だ。それだけのリスクで芹生さんへ幸福の来訪する確率が生じるのなら、安いものだろう。


「そうと決まれば、さっさと寝よう。寝落ちで見逃すなんて洒落にならない」


 意気込んだところで都合よく睡魔は現れず、寧ろ逆効果なのだが、気は持ち様だ。寝返りを打って、目を瞑る。

 開け放った窓から入る温風が、俺の背を撫でた。


  ◇◆◇


 今日も山端君は来てくれなかった。これで前回の逢着から三日だ。

 予定されていた通りである。だというのに、僅少な可能性に期待をして、朝早くに起き、夜遅くまでこうして居間で呆けているのだ。寝付けないから、という弁護にも限度がある。

 たった三ヶ月前までは自然だった一人きりの時間が、こうも空虚に感じてしまうなんて、さすがに依存しすぎだろうか。

 どうしてこうなってしまったのだろう。無論、彼との出逢いを悔やんでいるわけではないが。

 一年かけて築き上げた、落ち着いた大人な私。それをいとも容易く破られるなんて。


「仮面の継ぎ接ぎは、もう無理そうね」


 外用の仮面なら、いくらでも増産できる。だが、彼に対しては、もう取り繕えない次元に達しているのだ。

 私はなんて弱い人間なのだろう。クールビューティーな自分を演じることさえ、ものの数日で続行不能になってしまうのだ。

 こんなことを彼に言えば、悪いことじゃないさ、なんて返ってくるのだろう。あの人はどれだけ私を甘やかせば気が済むのだろうか。

 だからこそ、今は耐えてみせよう。


  ◇◆◇


 金曜日。夕日は海へと沈み、それを目当てにやって来たカップルも、皆どこかへ去っていった。

 今週は全て、海の家でのバイトに費やしている。

 というのも、仕事終わりに訪れる場所があるからだ。いや、訪れる、なんて生易しい言葉では不十分か。張り込み、と言った方が正しい。


「くぁあ。眠いな」


 五日間に及んで、睡眠時間が一日二時間、計十時間短縮されている。その要因がこれだ。

 暗がりに聳え立つ白壁、海辺の病院。そのロータリーで、車を待っている。そう、芹生さんの父親を待ち伏せしているのだ。


「来たっ!」


 芹生さんの口から零れた一言。それを叶えられるのは、きっとこの人だけだから。

 夜の闇に溶け込む黒い車体。忍び歩きのように音のしないエンジン。まるで忍者のようなタクシーだ。こんな矢鱈と性能の良い自動車、俺は一つしか知らない。

 期待通り、出てきたのは、土曜日と同じ、スーツの人影。こちらに気づいた様子はなく、エントランスへ大股で歩く。


「こんばんは」


 声をかけると、びくりと震えて立ち止まった。その仕草は芹生さんそっくりで、やはり親子なのだと感心する。


「誰だい?」

「改めてこんばんは。(いぬい)一正(かずまさ)さん」

「...」


 訝しむような視線を隠すこともなくぶつけてくる。当然と言えば当然だ。企業の社長とはいえ、夜中の病院前で見知らぬ人間にフルネームで呼び止められれば、誰だって恐怖を覚える。


「土曜日、芹生さ...美帆さんの隣にいた山端侑李です。と言っても、気づいてもらっていたかわかりませんが」

「人がいることはわかっていたよ。生憎と顔までは覚えていなくてね。...美帆とはどういう関係だい? 盲学校での知人、というわけでもないだろう」


 そう言ってのける彼の目は、真剣そのものだった。娘をたぶらかしているやもしれない存在に、敵愾心を剥き出しにしている。

 畢竟、演技には見えない。というより、演技をする必要がない。


「美帆さんとはこの春からの友人です。彼女にはいつもお世話になっています」


 彼の親心に対し、真摯に向き合う。もし芹生さんが謗った通りの外道なら、と若干警戒したが、やはりそんなことはなかった。


「彼女の友人が、ね。闇討ちにでも来たのかい?」

「そんなことはしませんよ。あなたが美帆さんが言う通りの人なのか見定めに。それと、御願いがありまして」

「それが本当だとして、ひとつ訊こう。何故今日この時間、僕がここに来るとわかったんだい?」

「知りませんでしたよ。だからこの一週間、ずっとここで待っていたんです。芹生さんのお母さん、美月さんでしたか、を気にかけているなら、必ずもう一度来てくれると考えまして」


 乾さんは目を見開いた。

 驚いているのは俺も同様だ。いくらなんでも、俺はここまで世話焼きな人間ではなかった。だが、こう所望してしまった以上、自分自身に歯止めが効かなかったのだ。

 彼はやがて、口許を緩めた。


「ふふっ。馬鹿だね」

「はい。自分でもそう思います」

「いいよ。わかった。聞くよ、君の願い。美帆の友達からとあってはね。だけど、後にしてもらって良いかな。面会時間は限られているんだ」

「わかりました。ここで待っておきます」

「一緒に来るといいよ。美月も会いたいだろうしね」


 淡く微笑む姿は、やはり芹生さんによく似ていた。


「美帆は元気かい?」

「はい。会うたび楽しそうに喋ってくれますよ」

「そうか。それは何よりだよ」


 半分以上の照明が落とされた病院は不気味で、だが彼は馴れているのだろう。怯えることなく病室を目指す。

 顔だけで振り返る彼の背中は、どう見ても大人そのものだ。しかしどこかで、脆く崩れそうな様相を呈していた。


「ここだよ」


 スライド式のドアについた磨りガラスから、暖色の光が溢れている。彼は小さくノックをして、その戸を開けた。

 カーテンが閉じられた白い部屋で、ベッドにもたれ掛かって本に目を通す女性がいた。髪は肩口で切り揃えられており、芹生さんと似た童顔と、こちらへ向けたあどけない微笑によって、遠目には少女のようにも見受けられる。しかし、元は瑞々しかったであろう肌には皺が走っており、起き上がる所作は老人のそれだ。


「美月。久しぶりだね」

「ええ。あなたったら、全然来てくれないんだもの。...そちらの方は?」

「山端侑李です。美帆さんの友人をやらせてもらってます」

「まあまああなたが? どうぞ掛けて。是非美帆の様子を聞かせてほしいのよ。あの子ったら、恥ずかしがって教えてくれなくって」


 病人そのものといった外見に反して、子どものようなはしゃぎ様だ。明るい女性だと聞いていたが、なるほどその通りだった。芹生さんが時折見せる幼い言動はこの人譲りなのだろう。


「僕も聞かせてもらえるかな」


 美月さんは、乾さんに抗議の目を向けた。あなたは自分の目で確認しなさいよ、と。彼は冷や汗と共に頬を引き吊らせていた。

 十数分経過。美月さんの勢いは衰えを知らず、話す気のないことまで根掘り葉掘り聞かれてしまっていた。


「美帆との馴れ初めはどうなの? どうやって知り合ったのか気になるわ」

「いや、それは...」


 この場で最も答えたくない問が来た。ここまで何一つ余すことなく伝えてきたが、いよいよ限界だ。これだけは知られるわけにいかない。


「まあまあ美月。そう質問攻めにしては、山端君が可哀想じゃないか」

「何よ。あなたがもっと積極的に美帆と話していれば、私は彼に詰め寄らなくて済んだのよ?」


 助け船を出してくれた乾さんが、代わりの標的となってしまった。美月さんも、乾さんが芹生さんにどういった扱いを受けているか知らない訳ではないだろうに。

 ともあれ、困ったときはお互い様。俺も彼を救出しよう。


「話が変わって申し訳ないんですが、実は俺、頼みがあって来たんです」

「そうだよ美月。彼の話を聞こうじゃないか」

「むぅ」

「安心してください美月さん。俺の希望は多分、貴女が乾さんへしている要求と同じです」


 今からする頼み事は、かなり酷だ。少なくとも、乾さんと芹生さんにとって。

 だが、芹生さんの渇きを癒せるのは、家族であり、彼女を心底愛している彼だけなのだ。

 彼に対して向き直る。居住まいを正して、頭を下げた。


「もう一度、美帆さんのお父さんになってあげてください」

「...」

「俺が家庭の問題に口出しするのは間違っているかもしれません。でも、美帆さんの孤独を埋められるのはあなただけなんです。お願いします」

「だそうよ、あなた?」

「簡単に言ってくれるけどね。先週、君も見ただろう。僕はあの子に憎まれているんだよ。仲直りしようという意志だけでどうにかなるなら、とっくにそうしているさ」

「あなたほど家族想いの人が嫌われているなど解せません。勘違いだと、分からせてあげたいんです。かけ換えのない家族の温もりを、彼女にもう一度実感させてあげてください」

「...君はどうしてそう言い切れるんだい? 君と僕は今日知り合ったばかりで、美帆の憎悪も聞き及んでいるだろう。僕のことを信用するには、少し足りないんじゃないかい?」

「そんなことはありません。生活費はあなたが出しているんでしょう。加えて、こうしてお見舞いにも来ていますから」

「...そうだね。すまない。話を逸らしてしまった」


 学生の芹生さんと、入院中の美月さん。その二人の財源がどこにあるのかなど、想像すれば答えはすぐだった。


「美帆さんに話を聞かせる突破口は、俺が開きます。そこで誤解を解いてください」

「だが、僕は...」


 乾一正さん。悪人ではない。寧ろ、家族を愛する善人とも言える。

 だが。


「いい加減にしなさい!」


 自分を貶めてまで、娘と話し合うことを忌避する。大人な対応の振りをして、その実臆病で、くよくよしてばかりなのだ。正直、カッコ悪い。


「この意気地無し! 美帆を独りにしているだけじゃなく、お友達にまで気を使わせて! 私と離婚するときだってそうだったじゃない! いつもうじうじして人の顔色伺って! 昔はそんな人じゃなかった! 年上の私にだって物怖じしなかった! どうして今はっ! くっ、ゴホッゴホッ!」

「美月さん! 無理をしないでください!」


 病に侵された体で怒鳴りなどしたものだから、体に障ったのだろう。

 咳が落ち着いた美月さんは、一転して悲しそうに、眉尻を下げて言った。


「はぁ、はぁ...どうして今は、そんなにも頼りないの?」

「っ!」


 彼がどんな顔をしているかなど、振り返らずともわかる。愛している人に情けない奴だと見下げられたのだ。

 悔しいに決まっている。奥歯を噛み締め、そんな状況を作り出した己を殴りたくなるほど。

 男とは単純な生き物だ。そんな感情を味わえば、次の瞬間には。


「わかった。やってやるさ」


 本気で向き合わずにいられない。


「何がなんでも、美帆に僕を父親だと認めさせてみせるよ」


 きっと彼は、家族を愛しすぎていたのだ。娘から罵られるのが怖くて、手を伸ばせないでいた。

 だが、それは最早過去のこと。今この瞬間、彼は生まれ変わった。体面ばかりを気にする大人の仮面を脱ぎ捨て、目標に絶対の価値を置く愚直な子どもへと。


「毎晩、時間を作って会いに行くよ。何度邪険に扱われようと構わない。山端君、悪いけど、美帆に起きているよう頼んでもらえるかな」

「俺が話を通しましょうか? 耳を貸すくらい、してくれるかもしれません」

「いや、結構だよ。長年放置していたツケが回ってきたんだ。僕自身の力で解決しなければいけない」

「そうですか」


 吹っ切れたのだろう。今までとは違う、豪胆な笑みを浮かべている。


「んっふふ。それでこそ私の王子様よ」

「王子様はやめてくれないか。そんなに若くない」

「いいじゃない。ほら、こっちへ来て」


 俺と入れ替わるように、乾さんはベッドの横に腰掛けた。美月さんは、彼の袖を掴んで引き寄せて。

 そこから先は目を逸らした。強固な絆を持つ二人の愛情表現だったのだと思う。


「かっこいいわよ、王子様。頑張ってね」


 そんな呟きだけが俺の耳に入った。


  ◇◆◇


 今週も長かった。結局、山端君は一度も来てくれなかったが、明日は日曜日。この一週間で溜まった無駄話を披露するとしよう。

 その英気を養うため、床につこうと階段に足をかけると同時、インターホンが鳴った。

 こんな時間に誰だろう。

 明日会うのだから、山端君が来るはずはないだろう。しかし、明日は会えないという連絡ならあり得るか。

 誰がいるにせよ、この玄関を開けたくない。


「美帆。僕だ。話を聞いてくれないか」


 尚更開けたくなくなった。

 こんな時間に押し掛けてきて。いよいよ常識まで吹き飛んだのだろうか、あの馬鹿親父は。


「聞く耳持ちません。帰りなさい」


 冷たくあしらってやれば、メンタルの弱い彼のことだから、すぐに退散するだろう。


「嫌だ。話を聞いてくれるまで帰らない」


 当てが外れた。まさか、この期に及んで駄々をこねるなんて。


「ワガママね。大人としてのプライドは無いのかしら」

「プライドよりも外面よりも、大切なものがあると気づかされたんだ」


 誰に、なんて決まっている。私の心を塗り替えた彼だ。そうに違いない。

 彼のお節介も、ここまで来ればいい迷惑だ。彼と、それからお母さんも関わっているのだろう。お母さんもお母さんだ。自分を泣かせた相手に情けをかけるなんて、どうかしている。私なら絶対に許さない。


「私は寝るわ。そこに居たいなら、いつまでも居ればいいわよ」

「美帆っ」


 呼び止められようと、構うものか。

 わざと音を立てて階段を上る。私に聞く気がないと分かれば、潔く去るだろう。引き際の良さは認めているところだ。


「まったく、就寝前に気分を害されたわ」


 今更何を弁明するつもりなのか。どう言い訳したところで、お母さんの涙は無かったことにならない。お母さんが甘い分、私が罰を与えてやらなければならないのだ。


  ◇◆◇


 カーテンが閉じられた病室に、また足を運んでいた。もう乾さんを待つ必要もないのだが、美月さんに、もっと芹生さんの話を聞かせるよう頼まれたのだ。それを無下にできるはずもなく、こうして扉をノックしている。


「失礼します」

「来たわね。さ、座って座って」


 彼女はベッドの隣、パイプ椅子を指差す。俺は御言葉に甘えて腰を下ろし、持ってきた紙袋を彼女へ手渡した。


「これ、昨日芹生さ、美帆さんのところへ持っていった余りです。よければどうぞ」

「まあ。ありがとう。お料理が上手なんですってね?」

「嗜む程度ですけど」

「これだけ作れるのなら充分よ。どこへ出しても恥ずかしくないわ」

「俺は娘か何かですか」

「うふふ。いっそうちの子にならない?」


 その申し出はありがたい。家賃が浮く。だが、年頃の女性とひとつ屋根の下、というのは世間体的にもまずい。


「冗談よ。深刻な顔をしないで。お菓子、夜に食べちゃうと太るから、また明日にでも食べるわね」

「はい。そうしてください」

「さ。昨日はどうだったのかしら。美帆とのお家デートは」

「は、はあ。いつも通りでしたよ。どことなくイライラしていたみたいですが」

「あらあら。ごめんなさいね。美帆ったら、拗ねると面倒でしょう?」

「いえ、そういったことは特に」

「そう? でもね、うざったくなったときは遠慮なく叱ってくれていいのよ。大声で名前を呼べば、怒られると思って縮こまっちゃってね。またそれが可愛いのだけれど」


 そうして赤裸々な昔話に発展していき、面会時間も残り十分を切った頃。


「はぁ。今頃あの人は、美帆のところかしら」


 ため息混じりに、美月さんはベッドへ背を預けた。


「うまくいっていると良いですね」

「そうねぇ。あの子は強情だから、一筋縄ではいかないと思うけど」

「わかります。変なところで負けず嫌いというか」

「そうなのよ。でも、あの目になった一正さんなら、きっとやってのけるわ」

「惚気ですか?」

「ふふっ。少年も早く恋人を作りなさい? 丁度近くに手頃な娘がいるでしょう?」

「親としてそれでいいんですか」

「あら。誰も美帆のこととは言っていないわよ?」


 悪戯っぽく笑う美月さん。サド気質はお母さん譲りだったらしい。


「そんなに怖い顔をしないで。私は応援しているわよ? 多分一正さんは猛反対するでしょうけど」

「俺のことはさておき、美帆さんは俺のことをそういう目で見ていませんよ」

「そうかしら? ならどういう目で見ていると思うの?」

「兄か何かでしょうか。恋愛感情というより、友愛の方が近いと思います」

「友愛も愛の一種よ。兄、ということは家族でしょう? 恋人もいずれ家族になるのだから、同じようなものよ」

「違いますよ」

「いいえ。違わないわ。私の方が君より倍以上生きているんだもの。年長者の意見を尊重すべきよ」


 代わりに年齢を暴露したのにはつっこむべきだろうか。いや、やめておこう。後が怖い。


「どうしてそんなに引き合わせたがるんですか」

「だって、孫の顔が見たいじゃない。あんなに可愛い娘から生まれてくる子だもの。絶対可愛いわよ」


 以前、乾さんのことを親馬鹿だと思った時があったが、それはどうやら美月さんもらしい。芹生さんが美少女だと思うのは俺も同じだが。


「この体が持ってくれる間に、美帆には幸せになってほしいのよ。それこそ、私がいなくても大丈夫なくらい」

「...」

「あ、ごめんなさい。しんみりさせちゃった。柄じゃないのにね」

「そんな気分のときもありますよ。気にしないでください」

「お気遣いありがとう。美帆の言う通り、優しいのね」


 飾り気のない笑顔を見せてくれたのを皮切りに、今夜の懇談会はお開きとなった。

 願わくば、彼女の病気が治らんことを。

 そう祈りながら、帰路に就いた。


  ◇◆◇


 父親は毎晩訪ねてきた。ご丁寧に同じ時間で。始まってもう一週間になる。この件に関して山端君はこれ以上手を出さないと言うし、どうしたものか。


「美帆、話を聞いてくれ。頼むよ」

「それしか言えないのかしら? もっと趣向を凝らしたらどう?」


 いい加減、罵倒のレパートリーも尽きてきた。

 いったいいつまで続けるつもりなのだろう。


「僕がした一切についての懺悔がしたいんだよ。それから、誤解を解きたい。話が終われば、美帆の望むようにしてくれて構わないから。だから頼むよ」


 その声は、あの弱々しかったものからは想像もできないほど真摯で。いよいよ無視が出来なくなった。

 彼のお人好しが移ったのかもしれない。

 あくまで冷淡に。そう心がけて声を返した。


「...どうして今になって、そんなに懇願するのよ。弁解ならもっと早くするべきだったでしょう」

「そうだね。まったくだよ。...今まで、勇気が出なかったんだ。美帆と向き合って、僕の選択が生んだ不幸を直視するのが怖かった。こんな格好悪い父親は、嫌われて当然だ」

「やっと気づいたのね」

「ああ。お察しの通り、山端君に諭されてね。彼は不思議だよ。どうしてこうも、腹の中を抉り出してくれるんだろうね。僕の弱い心も、曲げられない本心も」

「私も知りたいわよ」

「...本当にすまなかった。僕の勝手な選択で、美帆にも美月にも、大変な苦労をかけた」

「ええ。本当に。お母さんの気持ちを思い知りなさい。どれだけ辛い思いをしていたか」

「ああ。身に染みてわかったよ。大切な人から切り離される感覚というのが、どれほど痛いのか。僕の予想は甘かったんだろうね」


 わかった気になっているだけだ。そう言うことは簡単だったけれど、その声がどうにも悲痛で、これ以上聞いていられなかった。


「それで、懺悔はお仕舞いでしょう。誤解を解くというのは?」

「僕たちが離婚した理由についてだよ。...美帆にとっても辛い話になるだろうから、聞きたくなければまた後日でも」

「今更辛いも何もないわよ。最後まで聞いてあげるわ」


 ただし、この扉を開けることはないが。聞くだけ聞いてはやる。だが、許すかどうかは別だ。


「男らしいね。僕なんかよりもずっと」

「女性に対して、それで誉めているつもりかしら。それと、そうやって卑屈になるから女々しいって言われるのよ」

「その通りだね。改めよう」


 深呼吸をしたのがわかった。余程覚悟が必要な話らしい。


「信じて貰えるかわからないけど。僕が離婚を提案したのは、美月を守るためだった」

「...黙って聞いておいてあげるわ」

「僕の親族がお堅い人達なのは知っているね。だから、君が生まれたときは、そりゃあ大騒ぎだった」


 会社の代表を世襲するような家柄だ。生まれた子どもが真っ白で大パニック。それは想像に難くない。


「終いには、美月のことを悪く言う者まで現れてね。...それを聞いて、美月が傷つくのは耐えられなかった。だから離婚を申し出たんだ」

「お母さんはそのこと、知っていたの?」

「ああ。離婚の話し合いでそう伝えたよ」


 この男は、誠に愚かだった。お母さんの気持ちを何もわかっていなかったのだ。


「多分その頃ね。...毎晩、お母さんは泣いていたわ」

「っ」

「悪口を言われたとして、泣くような玉じゃないのは知っているでしょう。...好きな人からされる別れ話がどれだけ残酷なものか、あなたは気づかなかったのよ。そして、それを気取られて、あなたなりの気遣いを無駄にするのが嫌だったから、お母さんも隠していたの。離婚なんてしたくないって気持ちを」

「...十年越しに、わかったよ。夫として、こんなに不甲斐ないことはない」


 また自責の念に駆られているらしい。


「誤解の内容はわかったわ。けれど、それは間接的な加害者が増えただけ。お母さんの涙も、その理由も変わりはしないわ」

「そうだね。あのとき、僕が彼女を守ってやれるほど強い意志を持っていたら。陰口を叩かれながらも彼女を支える気概があったら。可能性を辿るとキリがないよ」

「ええ。それだけ多くの選択肢がありながら、あなたはお母さんを悲しませたのよ」

「ああ...」


 責めるこっちが嫌になるくらい、沈んだ声が返ってくる。


「わかったでしょう。その過去が無くならない限り、私はあなたを許さない。たとえ山端君に説得されようともね」

「わかったよ。毎晩しつこく訪ねて悪かったね」

「...こちらこそ、無視し続けて悪かったわ」


 どうせ最後だ。一度くらい、素直に謝っておくのも悪くない。


「最後の最後にひとつだけ、いいかな」

「ええ。それくらい構わないわよ」


 扉越しに、再び深呼吸が聞こえた。


「僕はこれから、美帆のことを隣で支えて生きていきたい。経済的な面でも、精神的な面でも」

「...は?」


 ついに頭が狂ったのだろうか。最後の最後と言っておきながら、今後は近くで助けてやりたいなんて。言っていることが滅茶苦茶だ。


「確かに僕は、美月の気持ちを推し測ることができずに失敗したよ。だからこそ、美帆にだけは、僕のせいで同じ思いをしてほしくない」

「何を言っているの? 私はあなたを必要としていないし、寧ろ消えてもらいたいとさえ思っているのよ?」

「どれだけ酷い言葉を浴びせられようと、殴られようと、何なら殺されたって、僕は美帆の隣にいることをやめない。それが、美帆の寂しさを埋める唯一の方法だと知っているんだ」

「そんなわけないじゃない。あなたが居なくても、私には友達がいるわ」

「週に一度の逢瀬で満足するほど、大人じゃないだろう? 美月に似た美帆のことだ。毎日だって会いたがっているんじゃないのかい?」

「それは...」

「家族としてじゃなくともいい。ストレスの捌け口として、暴言をぶつけるための奴隷に成り下がったって構わない。すぐ近くに人がいるんだって、一人じゃないんだって、意識してほしいんだよ」


 言い回しの度は過ぎていたが、偽らざる思いなのだということはすぐわかった。

 以前の私なら、一笑に付していただろう。

 しかし、脳裏にちらつく彼の心配そうな声音が、私に扉を開けさせた。


「...わかった。入っていいわよ。ただし、まともな人権が得られるとは思わないことね」

「っ! ああ! ありがとう!」

「勘違いしないように。私はあなたを許したわけじゃないわ。これからも私の傍で苦しんでもらうわよ」


 それだけ言い放って、二階への階梯を上った。


  ◇◆◇


「あらぁ。仲直りできたのね」

「本人曰く、ただ近くにいることを許しただけ、とのことです。二人が家族のように振る舞えるには、まだまだ時間が掛かりそうですね」

「それでも進歩よ。やっぱり口も聞けないなんておかしいわよね」


 夫と娘。好きな人と好きな人の関係が一歩前進したとあって、美月さんはいつになく上機嫌だ。

 このときばかりは、刻み込まれた皺が嘘のように見えた。


「お節介になっていないかが気掛かりでしたが、うまくいって良かったですよ」

「ふふ。美帆にとってはいい迷惑だったでしょうね。でも、一家から見れば間違いなく、あなたのしたことは大きな功績よ」


 彼女はそうして手放しで誉めてくれるが、実際のところ、きっかけさえ作れるのであれば誰でも良かったのだろう。それが偶々俺だったというだけだ。


「本当にありがとうね」


 美月さんが俺に見せた儚げな笑顔は、やはり乾さんとも、芹生さんとも似ていた。

 だが、今日のそれには、二人と違うものが含まれている。


「山端君、今日で海の家のバイトはおしまいなのよね?」

「はい。そうですね。こうして夜に訪れるのも最後です」

「そう...これはあの二人には秘密にしておいて欲しいんだけれどね。あなたには直接言っておきたいから、今言うわ。最期ついでに聞いてくれるかしら」


 それは。


「私ね...余命宣告、されちゃった」


 諦観だった。


  ◇◆◇


 蝉のコーラスもだんだんその勢いを落とし、日沈も早目になってきた。しかし、地球温暖化が深刻なこのご時世、依然として残暑は酷烈だ。

 そんな中ご足労頂いたのは、例によって山端君である。


「お疲れ様。今冷たいものを用意するわね」

「ああ。ありがとう」

「美帆、僕が」

「私がやりたいからやるの。黙っていて」

「ハイ...」


 グラスにサイダーを注ぐ。コポコポという小気味良い音と、爽やかな泡の音。だめ押しの、甘くスッキリした匂い。こんなに酌むのが快い飲料もないだろう。


「おまちどおさま」

「あれ、僕の分は...」

「欲しければ自分で注ぎなさい。家主でしょう」

「ハイ...」


 私もソファに腰掛け、彼の隣で一口。舌が強烈な刺激を感知する。だが決して忌避感はなく、寧ろ爽快感を伴って、甘味を脳へ供給していた。


「ぷはぁっ。生き返った」

「ふふ。今まで死んでいたの?」

「...」

「山端君?」

「ああいや。悪い。余韻に浸っていた。炭酸は久しぶりでな」

「そんなに切り詰めているのかい。苦労しているんだね」

「そうよ。山端君は苛酷な人生を一生懸命過ごしているの。予め用意された出世街道をひた走るあなたとは違ってね」

「相変わらずお父さんには手厳しいな」

「まあね。背中を押されないと娘とも会話できない惨めな父親にはお似合いの待遇よ」

「反論の余地もありません」

「はは。コントでも見ている気分だ」

「そうかしら。まあ、あなたが面白いと思うのならそれでいいわ」

「ギクシャクしていないかと気をもんでいたが、杞憂だったな」

「この針の筵を見て安心できるのかい? 眼科を薦めようか?」

「山端君に失礼よ。余計なことを言うなら出ていってもらおうかしら?」

「スミマセン、でしゃばりました」


 愚鈍が板に付いたこのダメ親父はもう手に負えない。世間一般の反抗期と呼ばれる情動を超越し、呆れ果てる始末だ。これが父親だなんて、他所様にお目見えできない。


「邪魔者は退散して頂戴。お呼びじゃないのよ」

「そんなぁ。折角の休日なのにぃ」

「いい年したおじさんが猫なで声を出さないで。寒気がするわ」


 山端君の目からも隠してしまおうと、二階へ追いやる。大体、私よりも長時間、彼と談話しようなんて、不遜極まりないのだ。


「山端君っ。テーブルのチラシ、是非確認しておいてくれないかいっ」

「はいはい、さっさと上がりなさい」


 居間から叩き出した。頼むから、彼の前で醜態を晒さないで欲しい。私の品位にも関わることだ。


「ごめんなさいね、見苦しいものを」

「そんなことはないさ。好ましいことじゃないか。親子仲良しで」


 口にはしないが、本当に眼の病気を疑うべきかもしれない。


「ところで、チラシとやらには何て?」

「夏祭り、だとさ。来週の日曜日だ。二人で行けってことなんだろうな」

「噂には聞いているわよ。生きた魚を掬い上げたり、烏賊の丸焼きを売っていたりするのよね?」

「随分と猟奇的、いや漁師的な夏祭りだな」

「相違あるかしら?」

「正解は正解だと思うが、模範解答は当日のお楽しみだ。どうする?」

「もちろん参加するわ。初体験だけれど、あなたも来てくれるのよね?」

「ああ」

「なら何の憂いもないわ」


 そんな縁日があるのなら、お母さんとも遊んでみたかった。

 夢想するだけ不毛だとはわかっている。少なくとも今年は叶わぬ夢だと。

 しかし、私には山端君という友人がいる。寂寞に浸る必要などない。私は今を生きているのだ。お母さんとは、またいつか。


「そうと決まれば予定を立てましょう。開場はどこにあるの?」

「...」

「山端君? そんなに遠いところなのかしら?」


 返答がない。かと思えば、すきま風のような不気味さを孕んで口を動かした。


「海だ」

「うみ?」

「ああ。また交通費が嵩む...」


 電車で片道数百円とはいえ、彼にとっては手痛い出費になる。落胆気味なのも頷けるだろう。


「父に頼めば、車を出してもらえると思うわよ」

「お願いしてもよろしいでしょうか」

「どうして敬語なのよ。構わないわ。それじゃあ、午後六時にしましょうか」


 あの父親に依頼をするのは癪だが、山端君のためだ。私のプライドを傷つけるくらい、どうってことはない。

 そんな些事よりも、楽しいものになるであろうそのイベントに思いを馳せていた。

 嫌な予感から目を逸らすように。


  ◇◆◇


 今日も、上手く騙せていただろうか。

 何度か硬直してしまい、咄嗟に誤魔化したが、疑義の念を抱かせてしまった可能性がある。

 最後にはあどけなく笑っていたが、きっと俺のことを慮ってくれたのだろう。詮索せずに静観してくれるのは有り難い。

 あれは、俺から伝達すべきことではない。

 美月さんが、きちんと覚悟を決めて、愛する夫と娘に告げるまで。俺がボロを出す訳にいかないのだ。

 気を引き締め直して、白黒の家屋を後にした。


  ◇◆◇


 夏の終わりといえど、その暑さは衰えを知らない。浴室ともなれば、それは笑ってしまうほどだ。

 文明の利器を禁じられた世界に住む山端君は、さぞや苦渋を味わっているだろう。


「...はぁ」


 とはいえ、彼の声音が愁傷を帯びていたのはそのためだけではないはずだ。

 平素の応対と、言葉は変わりない。ただ、気楽なよもやま話の途中でさえ、不意に重苦しい沈黙を挟むのだ。憂慮して問い質してみても、はぐらかされてしまう。

 秘密があることは、友人関係である以上仕方がない。けれども、優しい彼のことを、懸念せずにはいられないのだ。


「何も抱え込んでいなければ良いのだけれど」


 閉じきらない蛇口から漏れ出た水が、タイル張りの床へ落ちる。

 だんだん体が火照って、頭がぼんやりしてきた。長風呂は禁物だ。心配性の同居人が無神経にも顔を出すかもしれない。

 湯船を波立たせて立ち上がり、結っていた髪をほどいた。腰の辺りにサラサラとした感触。自分で視認出来ぬものの、手入れを欠かしたことはない。髪は女の命。私がまだお洒落に興味を持っていなかった頃、お母さんが口を酸っぱくして言っていた。

 とはいえ、髪以外は無頓着なままだが。メイクなど施し様がないのだから。


「もし、誰かにお願い出来るなら」


 唇に示指を当て、思索する。

 もし私が、お化粧をして、見違える様に美しくなれたら。そうすれば、彼は喜んでくれるだろうか。いつものように、笑ってくれるだろうか。少しは気が晴れるだろうか。


「うふふっ」


 彼に称賛される未来を妄想すると、だらしなく頬が緩む。

 服はどれが似合うだろう。お母さん曰く、あの間抜けな父親も、センスは一級品らしい。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。見繕ってもらうのも悪くはない。

 きっと彼を悩殺して見せよう。そして、憂い事も何も、忘れさせてやるのだ。


  ◇◆◇


 蝉の声が、どこか遠くに聞こえる。窓から望む空は快晴の青天井。十中八九、夕方までこのままだろう。

 対して、俺の表情は暗雲のごとく曇っていた。寝起きのふわふわとした体感が地に付き始めるにつれ、その不快感はより顕著になった。

 また、例の悪夢だ。

 神様というのは、俺が苦悩する姿を見て嘲笑っているのだろうか。よりにもよって、芹生さんと夏祭りへ赴くというこの日に。

 どれほど俺を追い詰めれば気が済むのだろうか。只でさえ、茶化しきれないほどの沈黙が目立つというのに。

 あの話も、悪夢の件も、出来ることなら芹生さんに明かしたくはない。しかし、それ以上に、彼女の心配げな目が俺を射抜くのだ。折角お父さんとの綻びを修繕したのに、そんな顔ばかりさせたくない。


「おーい、侑李!」


 ふと、玄関から俺の名前を呼ぶ声。その野太さから察するに、こいつはきっと。


「何だよ。帰って来てたなら連絡の一つもしろ」

「今の時代に携帯一つ持たないお前が悪い。上がらせてもらうぜ?」

「ああ」


 俺の知己。名を、三宅(みやけ)雅人(まさと)。高校卒業と同時に上京し、今は企業で研究をしているらしい。


「近くで学会があってな。寄らせてもらったぜ」

「サラッと学会なんてワードが出てくる辺り、変わっていないな」


 高卒で研究職というぶっ飛んだ経歴に劣らず、彼は天才だ。

 小学生の頃から講究を開始し、高校修業時点で、専門分野については、大学院までの知識を頭に入れていたらしい。高校にいてさえ、大学や企業との協同研究に参加していたのだ。卒業後は引く手数多で、本人の希望により一流会社の研究者に。

 一度だけ、彼の講義を聞いてみたことがあるが、題名から理解不能であったため、凄いとしか表現できない。


「これから呑みに行こうぜ」

「行かない。春に散々騒いだばかりだろう。今度はいつ会えるか分からないなんて宣っておきながら、すぐだったじゃないか」

「冷たいこと言うなよ。すぐっつったって三ヶ月だぜ? なあいいだろ?」

「悪いが先約があるんだ」

「先約?」


 そんな彼と俺が、どうして因縁を結ぶに至ったかといえば。


「あぁ、お前また人助けしてんのか?」


 彼は学校で、所謂いじめに遭っていた。見ての通り人懐こい性格であるのだが、その特異性故に、誰とも馴染めず、また、周囲も彼との関わりを断絶するようになった。彼の挨拶だけが反響せず、彼の目線だけが虚空をさ迷う。

 それに業を煮やした俺が、彼の話し相手になった結果、今の関係が構築された。

 俺のお節介の成功例。それが彼なのだ。


「悪いとは言わねえけどよ、上手くいくことばっかじゃねえだろ? 今だって、んな辛そうな顔してんだから」

「...バレたか」

「三年とはいえ、ずっと傍でお前のことを見てたんだ。そんくらいの機微はわかるぜ」


 粗野な口調とは裏腹に、研究者としての立派な観察眼を持っている。そもそも、その言葉遣いすらキャラ付けのための演技なのだが。


「辛そう、か。そうかもな。だが、それとこれとは別だ。大体、補助輪が必要な時期はもう過ぎた。今はお前と同じ、友達付き合いだよ」

「半分真実半分虚偽ってところか? 助けはしてねえが、辛苦はそいつが原因だろ?」

「...はぁ。鋭いにも程があるだろう」

「まあな。伊達に実験してねえぜ」


 雅人に隠し事は通用しない。三年間で学んだことだ。勘が鈍っていることを見込んでいたが、幻想だった。


「全部吐いちまえよ。他言無用にするぜ?」

「いや、結構だ。秘密にするという約束だからな」

「その約束、俺は対象外だろ?」

「そうだが、楽しい話じゃない。出来れば忘れておきたいくらいだ。...口に出すと、今にも現実になりそうで怖い」

「そうか。よくわかんねえけど、あんまり一人で背負い込むなよ。...茉里(まり)ちゃんだって、お前がそんな顔してたら」


 彼なりの友情だということは分かっている。だが、その少女の名が出た瞬間、俺は叫んでいた。


「あいつの名前は出さないでくれ!」


 今その名前を耳にすることが、一番心苦しいことだから。


「...すまない。気が立っているみたいだ」

「いいさいいさ。その方が熱いぜ。親友ってのはこうじゃねえと」


 おどけて見せる雅人。ちゃっかり知友から親友にランクアップしている。

 飾り物であれ、剽軽な彼の態度には、いくらか救われていた。


「ま、そう重く考えないことだぜ。行き詰まってしんどいなら、何にも考えずボケーッとするんだ。そしたら、まあいっかってなる」

「よくないだろ」

「たはは。まあな」


 衒いなく笑う彼は、あの空の太陽よりも眩ゆく思えた。

 重く考えない、か。

 いざとなれば、彼女に夢の話を公表しよう。案外、話せば楽になる可能性だってある。もしかすると気を遣われてしまうかもしれないが、その窮屈さは彼女も知るところだ。甚だしくはなるまい。


「兎も角、ありがとう。このタイミングでお前に会えて良かった。気が楽になったよ」

「へへ。辛い時傍にいてやるのが、親友の務めってもんよ。それじゃ、お暇するぜ。デート、しっかりな」

「なっ」

「あばよ!」


 芹生さんの性別など、一切口に出していない。ましてや二人きりだなんてことは。

 俺はあいつを侮っていたのかもしれない。この世に心を読む能力が存在するのであれば、確実に彼へと宿っている。


「やれやれ」


 嵐のような男だ。だが、その慌ただしさに、不思議と安らぐ。

 デート。そう、これはデートなのだ。楽しいデート。変に気負うことなんて何もない。ただ二人で祭を享楽すれば。

 彼女をエスコートしよう。形だけの彼氏でも、あの可憐な少女の隣に相応しい男になるのだ。陰鬱な顔など晒せるものか。


  ◇◆◇


 日が傾き、約束の時間が差し迫っていた。とはいえ、支度は整っており、彼を待っている最中である。


「美帆っ! 可愛いよっ!」

「ああもう煩いわよ!」


 父の伝で着飾ったのだが、この親馬鹿の喧しいことといったらない。


「早く職場に戻りなさい。写真撮影まで許可したのだから」

「あと十分だけ!」

「取締役がそんなことで大丈夫なの?」

「娘の愛らしさに敵うものなんてないさ」

「答えになっていないわよ」


 鬱陶しいが、しかし今日ばかりは罵倒出来ない。服を選んでもらった恩があるのだから。


「仕事を休んで僕も付いていこうかな」

「やめて。世間様にその気色悪い姿を露出させないで」

「ぐふっ」


 前言撤回。今日も罵倒日和だ。


「それにしても、この愛い娘を美月にも見せてやりたいな」

「そうね。開催地は海の近くだったはずだから、顔を見せに行こうかしら。お母さんにも見てもらいたいわ」

「そうするといい。きっと喜ぶよ」


 今までの残念さが嘘のように、酷く優しい声音だった。

 その違和感に、何かただならぬ予感を感じて。

 しかしそれは、チャイムに掻き消された。


「山端君のご到着みたいだね。名残惜しいけど、僕も帰ろうか」

「ええ、是非。...それと、今日はありがとう」

「...」

「何よ」

「美帆が、美帆が僕にお礼を」

「感謝すべきことには礼くらい言うわよ」


 例え相手が憎かろうと、最低限の忠義は尽くす。それが私の信条だ。


「うおお! やったぁ!」

「うわっ! 急に何?」

「今日は僕も付いていくよ! とても気分がいいんだ!」

「や! め! て!」


 だが、この阿呆を調子に乗らせるのは不味かった。


  ◇◆◇


 インターホンを鳴らして数十秒。芹生さんと乾さんの騒ぎ声が外まで届いていた。親密になっているようで何よりだ。


「ごめんなさい、遅くなって。あれを懲らしめるのに手間取ったのよ」


 ちらりと見えた芹生さんの背後には、額を押さえて這いつくばった乾さん。デコピンを叩き込まれたのだろう。以前、俺も喰らったことがあるから分かる。お母さん直伝の必殺技だそうだ。彼女のしなやかな指が頭蓋に接触した瞬間、問答無用で悶絶することとなる。


「さ、行きましょうか」

「ああ」


 彼の冥福を祈る。

 家内照明によりシルエットだった芹生さんが、俺の隣へ立った。

 甘くてスッキリとした匂いが鼻腔をくすぐる。察するに、これは香水だろう。

 服飾も、お気に入りの白いワンピースではなく、紺に紫陽花の絵柄が入った浴衣。淡い桃色の帯が薄闇によく映える。

 絹のような髪は、後頭部まで結い上げられ、滅多に見られないうなじをさらけ出している。


「どうしたのかしら?」


 小さなポーチを両手で持ち、不思議そうに俺の顔を覗き込む芹生さん。その頬はほんのり赤く、唇は不自然にならない程度で強調されている。

 俺は心の中で、これを仕込んだであろう乾さんにサムズアップを決め込みつつ、口を開いた。


「可愛いよ。見惚れて声も出せないくらい」

「そ、そう。皆して可愛い可愛いって、レディに対して失礼じゃないかしら?」


 そう言う割には、口許の笑みを隠せていないが。

 ただ、意図は汲み取った。


「綺麗だよ。この世の誰より」

「ふ、ふん。嘘くさいわね」

「はは。キザすぎたか」

「そうね。...でも、ありがとう」


 我慢していたのを解放するように、彼女ははにかんだ。

 脳がクラクラする。デートだと意気込んで、そこそこ身嗜みにも気を配って来たものの、釣り合う気がしない。

 弱気になっている場合か。きちんと彼女に随伴しなければ。


「こちらへどうぞ、お姫様」

「ふふっ。ありがとう、王子様」


 軽口で緊張を紛らせようとしたが、見事にカウンターを貰ってしまった。

 今日の芹生さんは、非常に可愛すぎる。


  ◇◆◇


 車から降りると、潮風が頬を撫でた。祭囃子が鼓膜を震わせて、たまらなく胸がワクワクする。


「芹生さん、白杖は?」

「車中よ。あれがあったら、周りの迷惑になるじゃない」

「それはそうだが、じゃあどうするんだ?」

「それはね」


 彼の気配を探り当て、手を取った。ゴツゴツとした触感は、やはり男性を意識させられる。やむを得ずとはいえ、自分から殿方に触れるだなんて、はしたないだろうか。


「こう、するのよ」

「お、おぅ」

「ふふ。照れちゃって、可愛いわね」

「芹生さんこそ、顔赤いぞ」

「私はメイクのせいよ」


 嘘だ。実際は心臓がバクバク音を立てているし、顔中が熱い。我ながら、手を触れあっただけでこれとは、初なことだ。


「エスコート、よろしくね?」

「ああ。任せておけ」


 彼は、私が躊躇いがちに結んだ手を、強く握り直してくれた。

 彼の半歩後ろから、喧騒へ足を踏み入れる。


  ◇◆◇


 色とりどりに沢山の屋台が並ぶ、祭のメインストリートへ突貫する。満員電車ほどではないにせよ、相当な人口密度だ。

 はぐれないように芹生さんと手を繋ぎ、人混みを掻き分ける。彼女がぶつかったり転けたりしないよう、最大限の注意を払って。右手に感じる温もりを、離すまいと。


「凄い人ね。見えなくても分かるわ」

「ああ。盛況らしいな。どこも並んでいる。行きたいところはあるか?」

「烏賊の丸焼きが食べてみたいわ」

「了解だ」


 海際だけあって、いか焼きの屋台は当然のように存在していた。他に巡ることを考慮すると、一人丸々一匹は多すぎる。という訳で。


「半分こだな。芹生さん、先に食べてくれ」

「いいえ。私は後で構わないわ」

「芹生さんが食べたいって言ったんじゃないか。先に好きなだけ食べていいぞ」

「だって、お金はあなたが出したのでしょう? あなたが食べるべきよ」


 後から徴収するという口約束をし、速さを重視して俺が買ったのだ。忘れたふりをして払わせないつもりでいたのだが、わざわざ指摘するということは、見破られたらしい。


「埒が明かないな」

「...それなら、二人で一緒に食べましょう」

「どうしてそうなる」

「嫌かしら?」

「そういうことではなくだな」


 嫌かどうかではなく、そういったことは恋人同士がすることであって、友人である俺たちにはハードルが高いのだ。


「良いじゃない。傍から見れば、カップル同然よ。それに、友達同士でもこれくらいするわ」

「む...」


 友達同士でも、と言われればそれまでだ。倫理的根拠が無くなったため、俺が断ることはできない。

 これが巷で噂のイカ焼きゲームであっても、拒否することは彼女との友人関係を壊してしまうのだ。


「じゃあいくわよ? せーのっ」


 思い切りかぶりついた。芹生さんだけが。イカ焼きゲームって何だよ。目が見えていないのだから、嘘を吐くなぞ簡単ではないか。わざわざ付き合う必要はない。


「美味しいわね、ヘタレな王子様?」

「な」

「うふふふっ。気づかないとでも思ったのかしら。あなたとの距離くらい、息遣いでわかるわよ」


 やられた。多分、俺が食い付かないことを分かっていて誘ったのだろうが。


「半分食べたら渡すわね。それじゃあ、今度はあなたの好きな出し物へ連れて行って?」

「ああ、わかった。全くかなわないな」


 お食事中の彼女に合わせて、ゆっくり見て回る。

 鮮魚掬いなるものを捉えた気がしたが、気のせいだろう。それよりもお目当ては、この屋台だ。


「芹生さん、当て物をしよう」

「当て物と言えば、籤引きみたいなものよね?」

「ああ。勝負といかないか? どちらが強運の持ち主か」

「ふふ。いいわよ。案外子どもっぽい選択をするのね」


 盲目でも参加できる遊戯はこれしかなかったというだけだが。

 イカ焼きの半分を俺に託し、意気揚々とボックスに手を突っ込む芹生さん。イカをかじりながら、俺も続く。

 勝敗は単純明快。数字の小さい方が勝利。景品も豪華なものとなる。


「早く開いて頂戴。ズルは無しよ?」

「ああ。...お。芹生さんの勝ちだ。十三番。俺は五十二番だ。はは、大差だな」

「総数は知らないけれど、二桁なら重畳じゃないかしら?」


 ちなみに、このゲームは一回百円。その程度の掛け金で期待など出来ようはずもないが。

 俺の賞品は、単価数十円、腕輪型のサイリウム。二本入りだ。

 そして、芹生さんは。


「アジの干物だ。二匹分」

「この場で貰ってどうしろと言うのよ」


 スーパーで戴けるのなら素敵な褒賞だ。だが、夏祭りで渡されても。受付夫人のニコニコ具合から、ネタとして配置してあると推察可能だが、それにしても微妙だ。乾物で、ある程度長持ちするのが救いか。


「二つずつなのだし、半分こしましょうか」

「良いのか?」

「ええ。その代わり、調理は任せるわよ」

「そのくらいわけないが、お父さんの分は」

「私とあなたの秘密よ?」


 芹生さんは小悪魔っぽく笑んで、人差し指を唇に当てる。

 余りに愛らしく、頷かざるを得なかった。


「あなたの賞品はブレスレットよね?」

「子供騙しの光る玩具だがな」

「いいじゃない。折角だし、今ここで付けてもらえるかしら?」


 繋いだ手を揺り動かす芹生さん。魔法にでもかかったように、その動作さえ可愛らしく映る。


「仰せのままに、お姫様」

「んふっ。お揃いにしてね、王子様」


 可憐に微笑む彼女。

 このパターンはまずい。なんだか胸が苦しくなる。流れを変えるのだ。


「次っ! 次はどの屋台だ?」

「そうね、たこ焼きにしましょうか。祭らしいでしょう?」

「そりゃあそうだが、食い意地張りすぎじゃないか?」

「全て回るつもりだもの。食い意地も何もないわよ」


 俺の胸を締め付けてやまないこの少女と、数ある出店を全部。死にはしないだろうか。


  ◇◆◇


 山端君と、屋台をしらみ潰しに巡回する。

 私をいつまでも支えてくれる、優しくて強かな掌。愛用の杖が無くとも、恐怖は感じない。それはこの左手の温もりが、確かな安堵をもたらしてくれるからだ。


「次で最後だな」

「え?」

「満足したか? 俺は財布の中身に物足りなさを感じるが」


 彼はおどけて言う。

 そうか、この時間は、もう終わってしまうのか。


「そうね。あっという間だったわ」


 幸福な時が過ぎ行くのは、異常に速い。


「さて。最後は何か、当てられるか?」

「ふふ。焼きそばでしょう? 定番だものね」


 彼と共にした時間は、全て記憶している。大切な思い出として。そこから消去法で導いた答えだ。


「少し離れて食べるか。麺類をこの場で食べる勇気はない」

「海辺だもの。波の音を聞きながらというのも一興よね」

「名案だ」


 人混みを抜け出す。

 こうなれば、私たちが無理に繋がっている必要はない。

 それでも、離れたくない。離したくない。そう思って、左手に力を込めた。


「芹生さん、痛い」

「ご、ごめんなさい」


 苦笑したのがわかる。少し恥ずかしい。


「ここらで良いか。こちらへお掛けください、お姫様」

「ありがとう、王子様」


 幾度か繰り返したやりとり。初めのうちこそ照れくさかったが、徐々に慣れて、にっこり笑顔まで決められるようになった。


「先に食べて頂戴、王子様。私はもうお腹が一杯よ」

「では、遠慮なく。いただきます」


 彼は私から手を離し、パキンと割り箸を割った。

 手持ちぶさたになった私の手は宙をさ迷い。


「芹生さん?」

「放っておいて」


 彼の服の裾へ落ち着いた。


「美味しいかしら?」

「ああ。臨海ならではだな。海鮮たっぷりだ」

「あら。良いわね」

「食べるか?」

「ええ」


 だが、焼きそばを受け取るのにこの手を離せば、彼との接続が途切れてしまう。


「俺はその隙にお手洗いへ」

「駄目っ」


 この終わらない喧騒の最中、一人ぼっちは嫌だ。

 だから、我儘を言う。


「焼きそば、食べさせて」

「...へ?」

「落ちたら勿体無いでしょう。だから」

「落ちないだろ」

「いいから食べさせて」

「いや」

「あーん」


 悪いが、彼に拒否権はない。


「あの」

「あーん」


 話も聞いてやらない。


「ほ、本当にやるのか?」

「あーん」


 ただ餌を待つ雛鳥であり続ける。

 私に止める気がないのだと悟ると、彼は意を決した。


「あ、あーん」

「あーん」


 口に含んだ中華麺はモチモチで、子供向けの味付けなのか、凄く甘かった。


  ◇◆◇


 やってしまった。今まで頑なに断り続け、その度にからかわれてきたのだが、どういう風の吹き回しか。


「もう一口、頂戴?」


 飼い主に心の底から甘える子猫のようで、抗えないのだ。不可抗力。そう考えよう。


「美味しいわね」

「そ、そうか。それは、なにより」


 動揺しきっている俺に対して、彼女は幸せそうに笑う。

 今日一日で、何度彼女の笑みを見ただろう。小悪魔の笑み、可憐な笑み、幸せな笑み。その全てがこの上なくいとおしい。

 抱き寄せたくなるほどに。


「あら? 何かしら」


 ふと、流れる足音を検知した芹生さんが、小首を傾げる。


「そろそろ花火が始まるんだ。祭もフィナーレだな」

「そう。私には関係ないわね」

「はは。楽しみの内には入らないよな。なら、俺も帰るか」

「あなたは見ていってもいいのよ?」

「いや。芹生さんがいないなら意味がない」

「なにゃっ」


 こうして話題がすり替わらなければ、俺は欲求のまま彼女を抱き締めていただろう。そんなことでは、彼女が嫌う旧担任と同じ、ナルシストも良いところではないか。


「山端君。それ、本気で言っているの?」


 唐突に、発言を咎められた。自制心を研ぎ澄ませていたせいで、何を口走ったかも覚えていないのだが。


「は、え? あ、すまない。気に障ったか?」

「そういうことじゃなくてっ」


 化粧の上からでもわかるくらい、赤くなっている。失言、というわけではなさそうだ。


「もう。不意打ちは卑怯よ」

「何か言ったか?」

「なんにもっ。それより、今からお母さんのところへ寄ってもいいかしら。お洒落した姿を見せたくて」

「ん...ああ。構わない」


 芹生さんの手を取り、立ち上がらせた。

 人々の動向とは反対へ、のんびり歩みを進める。

 静寂。二人でいると時折訪れる空白の時間だが、今日はそれが、やけに憂心を煽る。


「ねえ、どうしても一つ、聞いておきたいのだけれど」

「なんだ?」

「最近あなた、変よ」

「変?」


 図星だった。


「ちょうど今もよ。会話の途中で急に黙り込んで、体を強張らせているの。恐ろしい何かを思い出したみたいに」

「はは」


 乾いた笑いが漏れた。芹生さんにも、読心術が備わっているのではないだろうか。


「本当に嫌だというのなら、無理に聞かないけれど。でも、私はあなたの力になりたいのよ」


 前髪から覗く瞳は、真摯に俺を見つめていた。

 重く考えない。雅人からのアドバイスを反芻し、腹をくくる。


「ありがとう。じゃあ聞いてくれるか。俺の...そうだな、トラウマというやつを」

「ええ。罵詈雑言だろうが何だろうが、聞いてあげるわ」

「恨み辛みじゃないから安心してくれ」


 あれは四年ほど前になるか。俺が高校一年生の頃。それだけ昔のことをいまだに引き摺っているのは、カッコ悪いだろう。だからこそ、今ここで克服する。

 重く考えず、終わったことだと割り切るのだ。


  ◆◇◆


 俺には二つ下の妹がいた。山端(やまばな)茉里(まり)。地毛が茶髪で、セミロングのそれは毛先がカールしている。それも天然だ。

 幼い頃は俺にもよくなついていたが、俺が受験期だったことも加味して、当時は疎遠だった。

 だからこそ、俺はあいつの異変に気づかなかった。否、気づかない振りをしていたのだ。

 俺が高校へ入学し、三ヶ月が経った後。あいつは、酷く思い詰めた顔をしていた。


「茉里? 何かあったの?」


 初めに声をかけたのは母さんだった。尋常ならざる様子を見かねたらしい。しかし、その腰は引けていた。


「うるさい。構わないで」


 射殺さんばかりに鋭い目付きで、母さんを睨み付ける。俗に言う、反抗期だ。それも重度の。

 気が弱い母さんは、それだけで口をつぐんでしまう。いつもの光景だった。


「茉里。学校で何かあったのか」


 夜。親父が帰宅し、同じ問いを放った。


「黙れクソジジイ」


 辛辣な返しが飛ぶ。これもまたいつもの光景だった。

 親父は頑固者で、いわゆる昔の人気質だ。茉里に髪を黒く染めるよう迫ったことは数えきれないし、スカートから膝が覗くだけで嫌味を口にする。


「親に向かって、その口の効き方はなんだ」


 時代錯誤な親父は、台詞までそっくりそのまま変わらない。

 別段、俺は親父に嫌悪感を抱いていない。古きを重んじ、目新しさを受け付けない。それは言い換えれば、一本の筋が通っているということだ。優柔不断な性格で生まれてきた身としては、羨ましい。

 そして、俺はこの喧嘩を好ましく思っていた。互いが互いに、信念を持って発言する。雅人も言っていたが、こういうものを、気の置けない関係と呼ぶのではないか。

 さて、普段であれば、この言い合いは白熱し、暴力にまで発展しかけて、俺がそれを止めて終わりの予定だった。


「最近、妙な男とつるんでいるらしいな」


 親父がカードを切った。曲がったことを許さない彼が、男女交際など認める訳がない。

 以前から、そのような噂は家族間で共有されていた。その度に茉里はただの友達だと否定し、親父が余計な勘繰りをして、口論に移行する。

 また直ぐ様ヒートアップするかと思われたが、意外なことに、茉里は黙っていた。

 黙って、拳を振り上げた。

 慌てて止める。

 女子中学生の細腕からは想像もできない力が込められていた。平常とは異なる、本気の一撃。


「離して」


 絶対零度の声音に背筋が凍り、手を離す。

 茉里は居間を出て、自室へ駆け戻った。


「親父、地雷踏んだんじゃないか?」

「...」


 今にも舌打ちしそうな顔で、親父はそっぽを向いた。


「兄ちゃん」


 その深夜に、茉里が俺の部屋を訪ねてきた。昔から変わらない呼び名だ。


「どうした?」

「一つ聞きたいことがあるんだけど」

「なんだよ」

「男ってさ、どういう人を好きになるの?」


 その声は弱々しくて、けれども、表情は真剣だった。昔、野良猫が飼いたいなんて、俺に打ち明けたときのように。

 だが、この時の俺は、余りにも浅慮で。


「知らん。だが、男なんて性欲の塊みたいなものだろ」


 例えそれが、本当に一般論だとして、もっと言い様はあったはずなのだ。こんなことを質問する時点で、恋愛関係で何かしらトラブルがあったことは確実なのだから。


「...あっそ」


 茉里の背中が、廊下の闇に溶け込んでいった。


  ◆◇◆


「それから数日後、茉里は死んだ」


 結末はあっさりと、淡泊に言い切った。芹生さんが息を飲んだのにも構わず。


「交通事故だった」


 あいつがわざと飛び込んだのか、今となってはわからない。

 ただ、茉里を轢いたトラックの、運転手の言葉を信用するならば。


「死ぬ直前、あいつは笑っていたらしい」

「...」

「毎年この季節になるとな。夢の中で、あいつが、茉里が、笑いながら車道へ飛び出すんだ。どれだけ手を伸ばしても、あいつの腕には届かない」


 無意識のうちに、繋いだ手を強く握りしめていた。芹生さんは文句一つ言わず、両手を重ねてくれている。

 重く考えない。落ち着くんだ。今日の俺は王子様。みっともない姿を晒すな。


「とまあ、そういうわけだ。心配かけて悪かったな。怖い夢を見たから、元気がなかっただけだ」


 右手から力を抜く。するとどういうわけか、芹生さんの方から、俺の手を強く引いた。想定していない外力に、俺の体は容易く運動する。


「辛かったわね」


 生憎と、胸に顔を埋めたのは芹生さんの方だったけれども。


「怖い夢を見ただけ、なんて強がっているけれど」


 彼女は俺を、強く抱き締めていた。回した腕で、俺の背をふんわりと撫でる。


「今でも夢に見るほどだものね。あなたがしたことを、あなた自身は一生許さないでしょう。でも、もし私が妹さんの立場だったら。そんな家、とっくに飛び出しているはずよ」


 自分の味方が誰もいない環境。成る程、逃げ出したくなる。だが、あいつは何故それをしなかったのか。


「あなたが心の支えだったのよ。少なくとも、家の中では。あなたが止めてくれると信じていたから、妹さんはどんな行動にも出ることができた」

「でも、それなら尚更、俺の言葉はあいつをっ」

「ええ。そうかもしれないわね。だからこれは、私の憶測でしかないけれど」


 芹生さんは、背伸びをして、俺の頭に手を置いた。


「あなたの一言で、吹っ切れたんじゃないかしら。男なんてそんなものだって、諦めがついたのだと思うわ」

「...」

「もちろん、これは私見で、本当のところはわからないけれど。でもそう考えたら、楽になるんじゃないかしら」


 そんな風に考えたことは、一度もなかった。俺の一言があいつを追い詰め、この世に絶望を与えてしまったのだとばかり。だからこそ、夢の中の笑顔は、常に嘲りと諦念を帯びていた。


「いいのか。そんな甘えた楽観で」


 自分自身、ひいては、自分の中に眠る茉里へ問いかけていた。しかし、答えは別方向から。


「いいと思うわよ。だって、いつまでも負い目を感じて鬱々としていたら、カッコ悪いもの。妹さんだって、そんなあなたを望んでいないわ。頼り甲斐のある、カッコいい兄ちゃんこそが、彼女の支柱だったはずだもの」

「カッコいい、か」

「ええ。だから、前を向きなさい!」


 バシン。彼女は両の手で、思い切り俺の背を叩いた。

 痛い。だがそれ以上に、芹生さんの思いやりが身に染みる。


「っ」


 女の子に慰められるなんて、カッコ悪いじゃないか。

 カッコよく生きよう。親子の絆を取り戻そうと奮闘する乾さんのように。孤独を堪え忍び、気高く生きる芹生さんのように。


「しゃらぁっ!」


 カッコいい俺を手に入れるために、弱虫な自分を追い出す。


「耳元はやめて頂戴。鼓膜が破れるじゃない」

「すまん」

「ふふ。でも、元気になってくれて何よりよ」

「ああ。ありがとう」


 抱擁を解いて、見つめ合った。

 重く考えない。そう切り替えるため、彼女に打ち明けたはずだった。それが、彼女のお陰で、乗り越えるにまで至ったのだ。


「カッコいいわよ、王子様。頑張りなさい」


 屈託なく笑う彼女は、夜の闇に一際輝いていて。

 そして俺は、理解した。

 俺と誠実に向き合ってくれて。俺の悩みを聞いて、共に解決法を模索してくれて。俺が背負っていた一生分の重荷を取り除いてくれて。俺に満面の笑みを向けてくれて。

 そんな彼女を、俺は。


「芹生さん」

「何かしら」

「俺、あなたのことが」


 言いかけた途端、ひゅーっという間抜けな音が響いた。その直後、爆音が轟く。そして、世界を色とりどりに染め上げた。


「花火ね。なんてタイミングの悪い」

「まったくだ。話の腰を折られたよ」


 花火の下で告白、なんて洒落ているが、彼女にとって、色のないそれは単なる雑音。ロマンチックも何もない。

 あるいは、神のお告げかもしれない。まだ勝ち目は薄いのだと。


「行きましょうか」

「...」

「芹生さん?」


 彼女の足が、縫い付けられたように動かない。

 じっと、彼女の顔を見つめていると。


「芹生さんっ」


 赤い瞳から、幾筋もの涙が零れ落ちた。


「ぉかあ、さん」

「え?」

「お母さんっ!」


 芹生さんは打ち付けに、病院の方向へ走り出した。と言っても、浴衣を着ている以上、歩くのと変わりない。

 追い付けないなんてことはない。だというのに、全身から血の気が引いていた。


「どうしたんだよ! 危ないぞ!」

「お母さんが! お母さんが!」


 腕を掴んで止めても、子どものように泣きじゃくるばかりで要領を得ない。

 そして、俺の第六感が、警鐘を鳴らし続けているのだ。

 こんな話を聞いたことがある。

 世の中には、遠く離れていても、家族の死を直感的に確信し、号泣を始める人がいる、と。

 非科学的だが、それが人間に本来備わっていた本能であるならば。目の前の少女もまた、そうなのではないか。そう思えてならない。


「芹生さん、落ち着いてくれ」

「お母さんがぁっ!」

「頼む。聞いてくれ」


 もっと強く、彼女に訴えかけるんだ。


「美帆ッ!」


 俺が叫ぶと、彼女はびくりと震えて、やがて縮こまった。


「今から運んでやる! しっかり掴まってろ!」


 背中と膝裏に手を回し、華奢な身体を抱え上げる。肉体労働は俺の十八番だ。

 彼女が俺に寄りかかったことを確認。

 夜風を切って、走り出した。


  ◇◆◇


 全身を悪寒が駆け巡っていた。

 具体的な根拠は何もない。ただ、お母さんが危ない。そんな気がしていた。

 えもいわれぬ不安が胸中を引っ掻き回し、ぽっかりと穴が開いたようだ。

 その心の欠落を埋めるために、近くにあるものを強く抱き締めた。強く、強く。癒着してしまいそうなほど。


「はぁ、はぁっ。大丈夫だ。俺に、任せろ」


 私の心臓に張り裂けそうな痛みが襲う中、声が届いた。息を切らしながら私を思いやってくれた彼の声は、我を失っていた脳に、清流のごとき穏やかさをもたらした。


「ご、ごめんなさいっ。私、頭がどうかしていたみたいで」

「いいんだ。それより、しっかり掴まっていてくれ」


 ふと、今の状況を鑑みる。

 右半身と膝裏、背中に温かさを感じる。また、彼の声は上から降っていた。もしかしなくとも、これは所謂、お姫様抱っこというやつでは。

 あくまで平静を保て。これは、浴衣で動きづらい私を慮ってくれた、彼の優しさだ。


「ありがとう、山端君」


 感謝を伝えた。

 何に対してかは判然としない。運んで貰っていることか、正気に戻してくれたことか、それとも、現在進行形で与えられる、安堵の温もりか。

 彼は返事こそしなかったものの、荒い息の合間に笑みを溢した。スピードが上がったような気もする。

 病院に到着して、何を告げられるのか。そもそも、お母さんに何かあったのかさえわからない。悪い予感ばかりが先行する。

 駄目だ。意識してしまうと、また心の臓に鋭い痛みが走る。

 山端君の身体に、ぎゅっと抱きついた。

 そうして堪え忍んでいると、彼の鼓動が伝わってくる。私と同じか、それ以上に速い。しかし、私の好きなリズムだ。不思議と心が和む。


「はあっ、はあっ。到、着」

「平気?」

「俺のことはいい。早く中へ。俺は、汗が引いてから行く」

「わかったわ。...本当に、ありがとう」

「へへっ。お安いご用だ」


 激しい動悸に襲われ、息も絶え絶えになりながら、よく言う。

 そして、だからこそ、カッコいい。私の王子様。


「すみませんっ。芹生美月の娘です」

「丁度良かった! すぐに来てください!」


 病院の扉をくぐり、名乗る。すると看護婦さんが慌ただしく私の腕を引いた。彼女に付いて階段を上がり、お母さんの病室へ。

 中から話し声。どちらも男性だ。そして、そのうち一人は。


「美帆。早かったね」

「...あなたこそ。仕事はどうしたのよ」

「悪寒がしてね。いてもたってもいられなくなって、来てしまったよ。そうしたら、美月の容態が急変した、と」


 眩暈が起きるのを、どうにか堪えた。

 彼の温もりを想起し、平常心を維持する。


「幸い、一命は取り留めたそうだ」

「...そう」


 そのわりに、父親の声音は暗く、低い。


「ただ」


 彼の言葉はそこで途切れた。多分お母さんが止めたのだ。

 大切なことだから、自分の口で言わせてくれ、と。

 お母さんが起き上がる気配はない。優しく笑ってくれることも、突拍子もないサプライズを企てることも。

 深呼吸の後、お母さんは、努めて明るく告げた。


「余命、一週間よ」


 自分でもよくわからないが、多分、笑ったのだと思う。


  ◇◆◇


 息を整えて、宵闇に花開くカラフルな炎を見上げた。

 病院の前から見る花火は、やはり綺麗で、しかし儚い。

 汗はとっくに引いている。それでも中に入らないのは、臆病だからだ。

 美月さんの生死が切ないわけではない。長く見積もったとはいえ、残り一月あるはずのものが、たった今途絶えることは考えにくい。

 今頃、芹生さんは、美月さんの余命を知っただろう。

 俺は、彼女が辛そうにしているのを見たくない。どうしようもない現実にうちひしがれている彼女の姿は、想像しただけで胸がざわつく。己の無力を呪ってしまいたくなる。

 今、彼女の隣に立てば、俺は間違いなく声を震わせる。勘のいい彼女のことだ。すぐに察するだろう。そして、彼女に気遣われるのだ。

 そんな情けない姿、晒せない。


「どうすりゃいいんだよ...」


 カッコいい奴なら、こんなときどうする。

 その答えは、夜空の華が全て枯れるまで、出なかった。


「山端君」


 この声は、芹生さんだ。

 エントランスに立ち尽くす俺の元へ、とぼとぼと歩いてくる。


「お母さん、生きているわ」

「そうか」

「余命、一週間だそうよ」

「...そうか」

「今日お別れにならなくてよかったわね。最期くらい看取ってあげたいもの」


 唇を噛み締め、今にも泣きそうでありながら、気丈に振る舞う。

 その様は余りにも健気で、俺の涙腺が決壊しそうになる。だが、俺はあくまで飄々として。


「ほら」

「んひゃあっ!」


 薄暗がりによく映える白い肌へ、冷たい缶を触れさせた。


「トマトジュースだ。喉渇いただろ」

「え、ええ。ありがとう。けれど、急にはやめて頂戴。心臓が止まるかと思ったわ」

「はは。すまん」


 重く考えない。いつもの俺でいよう。きっと彼女も、それを望んでくれている。それが俺の最善。


「あなたは? おしるこ?」

「いいや。俺もトマトジュースだ。...美味いなこれ」

「ふふ。そうでしょう?」


 淡く笑うも、覇気は皆無。彼女こそが死人なのではないかと疑ってしまうほど。

 このままではいけない。このまま失意に暮れてその日を迎えてしまえば、芹生さんの心には、それこそ一生モノの悔恨が残る。

 だが、何と声を掛ければ良いのか。妹さえ救えなかった俺に、何が出来るというのか。


「芹生、さん...」

「わかっているのよ。いつまでも悲しんでいないで、お母さんに最高の思い出をプレゼントしてあげないといけないって」


 彼女は聡明だ。他人から言われずとも、何をすべきか理解している。だが。


「でもっ。いざ、お母さんを前にしたらっ。胸が苦しくなってっ。頭が真っ白になってっ。それでっ。結局、何もっ...」


 心の根底は、子どもなのだ。

 左手で浴衣の膝元を固く握り締め、芹生さんはうつむいている。垂れ下がった白髪の隙間から、キラリと光る雫が目に入った。

 俺は。


「芹生さんっ」


 彼女を覆うように抱きすくめた。彼女は面食らったように、トマトジュースの缶を取り落とす。


「こうしていると、落ち着くんだろ」

「...ええ。少しだけ」


 我ながら、思い上がったことをしている。それでも彼女に、俺の気持ちを届けたかった。


「俺は絶対、あなたに後悔させない」

「えっ」


 彼女の左手をひったくるように掴み取り、抵抗を許さず強引に病室の前へ。

 暖色の光。それから、乾さんと美月さんの談話が漏れていた。


「山端、君?」

「お母さんの声を聞くのが苦しいか?」

「...ええ」


 再び彼女を抱き寄せた。


「どうだ?」

「もっと、強く抱き締めて」

「っ、ああ」


 恥も外聞もかなぐり捨てる。ここで俺が怖じ気づいてはいけない。


「俺はいつでも傍にいる。芹生さんが望むなら、俺はいつでもこうしてやる。泣いてしまってもいい。だが、今だけは、お母さんと向き合うんだ。伝えたいことを、全部伝えるんだ」


 俺には出来なかったことだから。

 芹生さんには、こんな無念、絶対に背負って欲しくない。


「大好きなお母さんにカッコいいところ、見せてやろう」

「っ。ええ。そうね」


 腕の中で小さく頷いた彼女は、そっと俺の胸を押した。


「抱き合ったままじゃあ格好がつかないわ。...手だけ、繋いでいて」

「ああ」


 そう言って左手を差し出す芹生さんの、緋色の瞳には、決意の炎がみなぎっていた。


  ◇◆◇


 不思議な感覚だ。私の胸の中には今、ぽっかりと穴が開いていて、気を抜けば倒れてしまいそうなほど、生気が零れ落ちている。しかしそれと同時に、左手から別の感情がこんこんと湧き上がっているのだ。

 それはきっと、悲哀さえ凌駕しうる、愛情だ。


「あらあら。仲良しねぇ」

「はは。まあ、そうですね」

「...本当は僕の役目なんだけれどね。美帆が選んだのなら仕方ないかな」

「良かったわね。親公認の仲よ?」


 場違いなほど明るい声音で、お母さんは振る舞っていた。つい先程まで、三途の川を見ていた人間とは到底思えない。

 悲哀の感情が、愛情で満たされた今だから感じる。

 凄く、凄く。


「お母さん!」


 腹が立つ。


「自分の身体がどうなっているか、わかっているのよね! どうしてそうお気楽でいられるのよ! 心配する私達の気持ちも考えて! いつもいつもサプライズだ何だって! そんなの必要ないの! お母さんといられるだけで、私の時間は輝いているんだから!」


 左手には、親愛なる彼の温もり。右手には、夏だというのに冷えきったお母さんの骨ばった指。

 最愛が二つ、ここに並んでいるのだ。乗り越えられないものなんて、一つもない。


「そんなにサプライズが好きなら、やってやるわ! 私の全身全霊をかけて!」


 一拍。


「お母さんに、最初で最期のサプライズを!」


 カッコよく決まっただろうか。

 一週間後。私は証明してやるのだ。

 大人になった私は、お母さんがいなくなっても生きていけるのだと。


  ◇◆◇


 サプライズなんて名ばかりのサプライズパーティーが、終わった。

 準備に渾身の力を注ぎ、パーティーの最中も全力全開だった芹生さんは、すやすやと寝息を立てている。美月さんの手をぎゅっと掴んだまま。


「山端君」


 横になったまま、美月さんは俺の名を呼んだ。


「ごめんなさいね」


 そして、天井を見上げたまま、謝罪の言葉を述べた。


「どうして謝るんですか?」

「あなたには、辛いことばかり強いているような気がしたのよ。...私が弱いばかりに、ね」

「そんなことはありません。むしろ良かったです。美月さんと、美帆さんと、乾さんの力になれたのなら」

「そう。うふふ。ありがとう」


 安心した。そういう風に、美月さんは微笑んだ。


「お願いがあるのだけれど」

「はい。何でも言ってください」

「美帆を、私の隣に寝かせてあげて。風邪を引いてしまうわ」

「わかりました」


 芹生さんの軽い身体を抱き上げ、静かに横たわらせた。


「ありがとう」


 美月さんは、隣に眠る芹生さんを見て、幸せそうに目を細めた。


「山端君」

「はい?」

「美帆のこと、よろしくね」

「...はい。任せてください」


 美月さんはにっこりと微笑む。


「すぅ...はぁ...」


 深呼吸の後、おもむろに手招きをし、涙ぐんだ瞳で俺を見つめた。


「最期のお願いがあるの」


 やはり俺は、夏が嫌いだ。


  ◇◆◇


 芹生、と銘打たれた表札を掲げる、一件の家屋。

 その二階には、どうやって部屋に入れたのかもわからない、大きなピアノがあった。

 半開きになった窓からは穏やかな風が入り込み、日差しは秋の到来を予感させる程弱くなっていた。

 今日も白い少女は、黒い椅子に腰掛けて、白黒の世界へ手を伸ばす。

 その世界が、二度と音を出さないのだとしても。

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