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1話 春

 麗らかな陽が差し込む、広い部屋の中。

 春先特有の少々強い風を受け、カーテンが孕んでいる。

 光を跳ね返す純白の少女は、柔らかな黒い椅子に腰掛け、室内に満ちる桜の香りを吸い込み、白と黒の世界に手を伸ばした。


  ◇◆◇


 日曜日の昼下がり。

 閑静な住宅街に響く、美しいピアノの旋律。

 俺は毎週のように、窓のそばで、どこからか聞こえるその音に耳を傾けていた。

 どこかで工事をしていたり、電車が通ったりするとすぐに聞こえなくなる。そんな弱々しい音色。

 それが不思議と、俺の気を引いて止まないのである。


「おっと。そろそろ出ないとな」


 とはいえ、いつまでも聞き入っているわけにいかない。腕の時計を確認し、玄関へ向かう。これから昔馴染みと会う約束があるのだ。

 控え目なコンサートの主催者に、心の内で拍手を送りながら、春の暖かな日差しの元へ飛び出した。


  ◇◆◇


「ふぅ」


 息をついて、鍵盤に沿わせていた手をだらりと垂らした。

 今日もミスらしいミスはなし。

 達成感と僅かな疲労感に、伸びを一つ。

 在庫不足を訴えてくる腹部に苦笑を返しつつ立ち上がり、仄暗い廊下への扉をくぐった。


  ◇◆◇


 見慣れた街並みを、覚束ない足取りで進む。

 腕の時計を確認してみると、短針は2の文字を指していた。


「うくっ。気持ち悪ぃ」


 春休みを利用して帰ってきたという友に誘われるがまま、何軒も飲み歩いてしまった。

 次はいつ会えるかもわからないから。なんて言われてしまえば、断るに断れない。

 昔から押しに弱い性格だった。情に厚い、などと称賛されることもあるが、いよいよもって直さねばならないのかもしれない。


「はぁ」


 ため息交じりに丑三つ時の空を見上げる。

 漆黒とも呼べる暗闇に、満月だけが妖しく輝いていた。


「...帰ろう」


 白くならない己の吐息に冬の終わりを感じながら、少しだけ足を早めた。

 夜が更けたベッドタウンにある光源といえば、街灯とこの月くらいなものである。

 はっきり言って不気味だった。

 成人さえ経た身の上で情けないことだが、恐怖を感じたのである。酒のせい、ということにしておいて欲しい。


「うおっ」

「ひゃっ」


 しかし、呑み過ぎたことへの天罰はまだ終わらないようだ。

 酔った頭で早足になどなったものだから、曲がり角で人にぶつかってしまった。みっともなく尻餅をついてしまう。

 幸いなことに、相手の女性に怪我はないようだ。転んでさえいない。

 この状況、片や女性の彼女は立ったままで、片や男性であるはずの俺は、惨めにも座り込んでいる。率直に言って、とても恥ずかしい。


「す、すみませんっ」


 女性は慌てて頭を下げた。

 酩酊と羞恥に呑まれ、呆けていた俺は、その言葉ではっとして、思い出したように口を開いた。


「こちらこそすみませ、んっ?!」


 謝罪の意を伝えるため、彼女と目を合わせたとき。ここでようやく、俺は気がついた。

 この女性の正体に。


「あ、き」

「秋? 今は春だと思いますけれど」


 俺より二回りほど小さい、華奢な肢体。血がすべて抜け落ちたような、青白い肌。汚れを知らない、シルクにも似た真っ白な髪。そして、月光を吸いとって揺らめく、紅の瞳。

 宗教で酒が忌避される理由が判った気がした。

 これは紛れもなく、酔態を晒した俺に、神様が下した制裁なのだろうから。


「き、吸血鬼ぃぃいっ!」


 俺は恥も忘れて一目散に走り出した。

 春とはいえ、少なからず冷える夜風を一身に浴び、何度も躓きながら、必死で。

 古びたアパートの鉄製階段を、近所迷惑も考えず二段飛ばしで上る。たどたどしい手つきで鍵を開け、家へ転がり込んだ次の瞬間には、即座に鍵を閉めた。風呂にも入らず、現実から逃れるように布団を被った。


  ◇◆◇


 ジリリリリ。

 煩い目覚まし時計を一瞥もしないで止め、目を覚ました。

 目を覚ました。その表現が正しいのか否か、私にはわからない。

 もしかすると、今もまだ、私は夢の中なのかもしれない。依然として視界は黒一色なのだから。

 のそりとベッドから這い出て、欠伸とため息を同時に吐いた。


「はぁ」


 慣れないことは、すべきでなかったのだと思う。

 全てが寝静まった深夜とはいえ、出歩くべきではなかった。


「吸血鬼、ねぇ」


 もう一度、ため息。

 今までの人生で、容貌を揶揄された回数など、とても両手で足りるものではない。

 慣れはした。だが、慣れたからといって、不快でないかと問われれば、そんな道理はない。

 忌まわしい発言であった、はずなのだが。自然と口許は笑みを象っていた。


「ぷ、くくっ。吸血鬼。なんだか面白いわね」


 慣れというのは本当に恐ろしい。腹立たしい発言も、慣れてしまえば笑いの種になってしまうのだから。


  ◇◆◇


 太陽は南中し、あまり日当たりの良くない俺のアパートでさえ、ぽかぽかと暖かくなっている。麗しい春の陽気であり、こんな時間まで眠りこけていた言い訳にはなるだろう。

 にもかかわらず、気分は最悪だった。

 二日酔いのせいで、頭が割れるように痛い。が、それだけなら良かったのだ。旧友から誘われた時点でこうなることは確信していたし、そのために今日はあらかじめ、バイトを入れなかった。祝日のため、学校もない。

 では何が悪いか。


「吸血鬼ってなんだよぉ」


 昨日。正確には今日、帰り道で出会った少女にかけてしまった言葉が、宿酔と共に俺の頭をギリギリと締め付けていた。

 何百年前の西洋ならばいざ知らず、現代の極東地域で吸血鬼だなんて。よほど俺の頭は花畑だったらしい。

 この上ない自己嫌悪に陥り、枕を締め付けること数分。ヒートアップしていた思考が落ち着くと、俺は布団へ四肢を投げ出した。


「絶対怒らせたよなぁ」


 何かのコスプレだったという線もある。が、初対面の少女をからかうような言葉だったのは紛れもない真実であり、失礼極まりない行為だったわけで。


「なんでこんなことになったかなぁ...」


 仰向けに寝転がったまま、額に手の甲を当てて鬱屈した心地に暮れていると、ふとピアノの音が聞こえることに気がついた。

 足音で旋律をかき消してしまわないよう、ゆっくりと窓に近づく。

 自然と、口許が緩んでいた。

 落ち込んでいた気分が嘘のように溶けていく。子供の悪戯を許す母親のような、慈愛に満ちた音色だった。


「...よし」


 優美な音楽に慰められた俺は、心機一転。暖かな風に背を押されて歩き始めたのだった。

 郵便受けに入っていた、大家からの苦情に頬を引き吊らせることとなったが。


  ◇◆◇


 太陽が眠りにつき、夜の帳が降りた。

 それを待っていたと言わんばかりに、私は家を出る。目的は単純明快。ただの散歩だ。年齢に見合った量を食べているのだから、少しでも運動量を増やさなければならない。そう私の乙女心が叫んでいるのだ。

 さて、今日はどの辺りを散策しようか。住宅ばかりが並び立つこの街は、道程を少し変えたくらいで何が変わるというわけでもないのだが。

 何度も繰り返してきたこの自問自答に苦笑していると、この時節にしては冷たい風が吹いた。

 身震いをする。


「...御手洗い、先に行っておくべきだったかしら」


 準備不足だったことは反省すべきだが、おかげで今日のコースが決まった。

 ついでに、タイムリミットも。


  ◇◆◇


 藍の空に浮かぶ星々が、俺の幸運を運んできてくれたのかもしれない。

 昼間とは打って変わり、夕刻の俺は上機嫌だった。その理由は、俺がいましがた出てきたこの構築物にある。

 その圧倒的な廉価で、近隣に住む婦人方の心を掴んで離さない激安スーパー。その特売にて、大勝利を収めたのであった。

 昨日宴席で散財した分、今日からは質素に暮らさねばならない。贅沢は敵なのである。


「お世話になるぜ、相棒」


 ビニール袋に入ったモヤシを小突く。何をやっているんだか、と自分自身に冷笑を向け、帰路についた。

 さて、このスーパーだが、価格以外にも、奥様方に人気を博す理由がある。それは、建物の目の前に存在する公園だ。自身が買い物をしている間、子どもたちはそこで遊んでいられる。日々幼児のあてどもない欲求に悩まされている主婦には有難いことだろう。

 かく言う俺も、帰る際には必ず立ち寄り、緑地によって清浄化された空気を取り入れるようにしていた。

 まさかそこで、彼女を見かけるとは思わなかったわけだが。

 日が落ちた公園には子どもたちの影もなく、現実離れした白さを持つ少女はこれ以上なく目立っていた。

 刹那の間、その純白の美しさに目を奪われていたが、暫くして正常化した俺の脳は、これを好機と捉えた。


「あ、あの!」


 断じてやましい気持ちがあった訳ではない。先の非礼を詫びようと思ったのだ。

 この公園に少女以外の人影はない。俺の呼び掛けの対象はどう勘違いしても彼女以外にあり得ないのだが、少女は肩にかけた鞄を漁りながら、俺の横を通り過ぎていく。


「ちょっと!」


 思いもよらない事態に、少しばかり頭が混乱し、少女の手を取って引き留めてしまった。

 少女はびくりと体を震わせた。

 当然だ。失礼極まりない発言をした男に、今度は手を掴まれたのだから。

 決して浅くない後悔の念と共に、手を離した。これで俺の印象は地の底まで失墜したことだろう。だが、それでも筋は通さねばならない。この謝意を伝えず去るなどあってはならないのだ。


「何かしら?」


 少女は強張った声音と共に振り返った。

 小さな輪郭に、大きな赤い眼。透き通るような白い肌や、腰まで伸びた白髪は、やはりこの世ならざるものを感じさせる。童顔で鼻は小さく、まるで人形のような整った顔立ちであった。

 しかし、その優美な少女の表情は、焦燥に引き吊っていた。

 怖がらせていることに罪悪感を覚えつつも、その場で頭を下げる。


「昨日は本当にすみませんでした!」

「...はい?」


 頭を上げると、緊張と困惑をない交ぜにした面持ちが目に映る。

 事情の説明をした方が良いだろうか。無礼を働いたのは真夜中だったため、こちらが認識されていなくとも仕方がない。


「今日の午前二時頃、偶然出会ったあなたにとても失礼なことを言ってしまったので」

「...あぁ。吸血鬼の」


 思い出して貰えたようだが、どうも彼女の様子が落ち着かない。

 いや、急に謝罪をされて落ち着いているのもどうかと思うが、そういうことではない。どことなくソワソワしているような、あるいは、何かに耐えているように見受けられるのだ。


「あの、謝罪は良いのだけれど、状況を鑑みてくれないかしら」

「へ?」


 突然の言葉とジト目に面食らったが、冷静になって彼女を見つめた。否、彼女の後ろを。

 小屋の壁に取り付けられた赤色の人型が、俺の頭の上くらいの高さで静止している。


「もういいかしら?」

「...はい。本当に申し訳ない」


 前言撤回。今日は厄日か何かだろうか。


  ◇◆◇


 昨日の吸血鬼(仮名)さんが、まさか話しかけてくるとは思わなかった。それも、あのタイミングで。差し迫っていたので、つい語調が強くなってしまったが、私に非はないと思う。

 とはいえ、彼も悪人ではないのだろう。時と場所を選んでさえくれていれば、謝りに来てくれた善人という印象だったはずなのだから。


「あの! 本当にすみませんでした!」


 再び彼に呼び止められた。謝罪を重ねてくるあたり、やはり正義感の強い人なのだろうが、閑所から出たばかりの女性に声をかけることには何も感じないのだろうか。


「もういいわ。気にしていないわよ。寧ろ、少し面白かったもの」

「そうですか...」


 安堵のため息が聞こえた。有り余る良心を持った彼も、ここまで言えば引き下がるだろう。

 そう思い、鞄から折り畳み式の白杖を取り出した。

 彼の、息をのむ音が微かに聞こえた。

 まさか、気づいていなかったのだろうか。私が視覚障害者であることに。


  ◇◆◇


 少女が鞄から取り出したのは、ステッキ。盲人用の、先端が赤くなった白い杖である。


「その杖って...」

「ええ。私、目が見えていないのよ」


 一番に浮かんだ感情は、驚愕だ。視界が無いにも関わらず、堂々とした立ち居振舞いをしていることに、素直に驚いた。

 続いて沸き起こったのは、義憤。助けてやらねばならぬのだと思った。それが一般人として当然のことであるはずだから。


「あの」

「手伝いは結構よ。慣れているもの」


 にべもなかった。

 確かに足取りはしっかりしているし、強がりというわけではないらしい。しかし、知り合ってしまった以上、見てみぬふりをするのは憚られる。

 しかしまあ、本人が大丈夫だと言うのだから、危険が迫れば手を差し伸べる程度が適切な距離感であろう。


「...本当に結構なのだけれど」

「ぅえっ」


 公園を抜けて数分。少女は見返ることもせず、足を止めた。虚を突かれ、奇妙な声が漏れてしまう。


「どうして」

「ビニール袋の音がずっとしていたもの。嫌でもわかるわ。...ストーカー行為を受けるのは初めての経験ね」


 少女は神妙な顔で、鞄から携帯電話を取り出す。

 その行為から予測される未来に青ざめ、俺は咄嗟に頭を垂れた。


「いやっ、そんなつもりじゃなくて! 通報は勘弁してください! この通りっ!」

「この通りって言われても見えないわよ。あははっ。冗談だから安心して?」


 俺の切羽詰まった声がよほどお気に召したのか、少女は見た目相応の子どもっぽい笑みを浮かべた。

 今までのどこか近寄りがたい雰囲気が、ほんの少しだけ和らいだように感じられる。


「ご心配には及ばないわ。これでももう一年近く、安全無事に過ごしているんだもの」

「確かに車の通りは少ないですけど、やっぱりあるにはあるので、危ないと思いますよ」


 今までが安全だったからと言って、これからもそうとは限らない。そんな事実を告げているのだが、どうも少女の反応は芳しくない。何かを思案している様子である。

 あまり強引でも恩着せがましくなってしまうことに気付き、身を引こうとした矢先。


「そうね。危険かもしれないわ」


 出し抜けに、そんなことを口にした。続けざまに彼女は、悪戯っぽい笑みを湛えて。


「ストーカーの被害に遭っても、見えないと分からないものね?」

「ぐふぅっ」


 俺はこの少女に勝てないのだと、痛感させられた瞬間であった。


  ◇◆◇


 彼の同行を許し、また歩を進める。横に人の気配があるだけで、いつもと変わりはない。無味乾燥な白黒の世界を進んでいく。この静閑な冒険は、私の趣味の一つとも呼べるものだった。

 ただ、彼には無言など耐え難いものらしく、早々に口を開いた。


「いつも一人で?」

「ええ。ここ最近は一人ね」

「付き添ってくれるような人はいないんですか?」

「...いないわけじゃないわ。けれど、散歩に行くから付いてきて。なんて下らない用件で呼び出せないじゃない」

「そうですか? 付き合ってくれる物好きもいると思いますが」

「ふふ。物好きは確定なのね?」

「あ、いや。言葉の綾ですよ」


 生憎と、そんな酔狂な人間を発見できるほど、私の交友関係は広くないのだが。


「私に付いてこようとする物好きはあなたくらいよ」

「そんなことはないですよ」

「いいえ。事実、声を掛けられたのなんて今日が初めてだもの」

「え?」


 ビックリ仰天、という声だった。


「驚くようなことじゃないわ。普通の人は面倒事なんて御免だもの」

「困っている人は助けるのが道理では?」

「私は別に困っていないし、周りからもそう見えているのよ。無理矢理にでも付いてこようとしたのはあなただけ」

「うぐ」


 しかし、きっと彼にとっての常識はそうなのだろう。障害を負った人は扶助が必要で、自分は援けて然るべきなのだと。


「お人好しね。私は嫌いじゃないけれど、プライドの高い人は嫌がると思うわよ?」

「そう、かもしれませんね。でも、これが俺の性分ですから。多少迷惑がられようと、辞めたくありません」

「美徳だとは思うけれど、ストーキングはしないようにね?」

「はい...」


 彼が項垂れたのがわかった。つくづくからかいがいのある青年である。


  ◇◆◇


 いくつかの十字路を突き進んだ。その間、俺が手を貸すような機会は一度として訪れていない。


「...本当に見えていないんですか? 先程から、ずっと迷いなく歩いていますが」

「真っ直ぐ歩くだけだもの。それに、全く見えていない訳じゃないわ。光の有無だけならわかるの。例えば、ほら。今右から車が来るでしょう?」

「本当ですね。あ、もう少し後ろの方が安全ですよ」


 俺の誘導に従い、彼女は数歩下がった。


「こうやって、車の接近には気づくのよ。そうじゃないと、流石に怖くて出歩けないわ」

「そうみたいですね。でも、危ないことは危ないですよ」

「心配ありがとう。気持ちだけ受け取っておくわ」


 釣れない態度だ。相手に気を使われるのが、それほど癪に障るのだろうか。


「ねえ、視覚以外には気にならないのかしら」

「へ?」


 打ち付けに、そんな問を示された。


「私にはよくわからないのだけれど、髪や目が、他の人とは違うのでしょう?」

「え。もしかして、地の色なんですか? 染色やカラーコンタクトというわけではなく?」

「ええ。地毛に肉眼よ。確認もできないのに、染めたりなんてするわけないじゃない」


 一笑に付された。日本人的な顔立ちであったため、そう疑ったのだが、言われてみれば、こんなに綺麗には染まらないだろう。


「ハーフとか?」

「いいえ。純日本人よ」

「えーと...誰かに染められているとか」

「地毛だと言ったでしょう。生まれたときからこの体よ」


 脳内で疑問符を羅列していると、少女はやれやれといった風に正解を述べた。


「アルビノ、という言葉はご存知かしら?」

「はい。色素が極端に少ない動物のことですよね?」


 白ウサギなどが典型例だ。体毛や肌が白く、目が赤色で...


「まさか」

「ええ。私はヒトのアルビノよ。見たのは初めてみたいね」

「...すみません。浅学なもので」


 そもそも、アルビノの人がいること自体、初耳だった。

 なるほど。そう考えると、不気味なまでの白さにも納得がいく。


「私だって、私以外のアルビノと出会ったことがないもの。無理もないわよ」

「そうですかね」

「ええ。...っと、この辺りまででいいわ」

「わかるんですか?」

「足がね、距離を覚えているの。えっと、そろそろコンビニが見えてくるでしょう?」


 言葉通り、数十メートル先に、夜空の星達を霞ませる三色の看板が煌々と輝いている。


「あれは見えるんですね?」

「ええ。あれが散歩コース終了の目印なの」

「家まで送りますよ?」

「あら。世間には送り狼なんて言葉もあるらしいけれど。やっぱりあなた、私のことを狙っていた狼さんだったのかしら?」


 彼女はまた、鞄から携帯電話を取り出した。

 俺の頭から、サーッと血の気が引いていく。


「滅相もございませんっ! 若い女性が男性に家を教えるなど言語道断でごさいましゅっ!」

「んふっ。あははっ。そうでしょう?」


 焦慮の末に舌が縺れた俺の声は、彼女を大いに笑わせた。

 彼女の言動は小悪魔じみたものであったが、不思議と不快感は抱かなかった。それはきっと、彼女の笑顔が、天使のように可憐で、愛くるしいものだったからであろう。


「どうもありがとう。助かったわ」

「俺、結局何もしてませんけど」

「私の嗜虐心を満たしてくれて、どうもありがとう。これなら良いかしら?」

「釈然としないですが」

「ふふっ。久しぶりに、楽しい散策になったわ」


 この一方通行の罪滅ぼしが終われば、今後、彼女と関わることはないのだと思っていた。


「友達と一緒なら、こんな風なのかしらね」


 無作法を詫びる意は伝えた上に、押し付けがましいが、介護の真似事までしたのだから。

 だが。


「...こんな偏物に付き合ってくれて、ありがとうね」


 そんな自嘲的な笑みを向けられてしまっては。


「あの!」

「まだ何か?」

「いつでも呼んでください。安全確保の補助でも、話し相手でも、なんでもしますから」


 嘘っぱちだった。いつでも、なんて到底不可能だ。連日アルバイトの予定が入っていて、且つ学校まであるのだから。

 それにこんなことを言えば、益々俺は不審な人間に思われるだろう。正に、ストーカーのようではないか。

 しかしそれでも、言わなければならない気がしたのだ。

 それだけの悲哀を、俺は彼女に見出だした。


「...」


 案の定、彼女は瞠目し、口も利けないでいた。

 けれども。


「ふふ。分かったわ。遠慮なく頼りにさせてもらうわね」


 浮かべた微笑みは、今までのどの喜色とも異なり、彼女を照らす月明かりにも似た、穏やかなものだった。


  ◇◆◇


 髪を纏め上げ、浴槽に浸かる。この無駄に長い髪は、結ったところで、結局お湯に触れてしまうことが大概なのだが。

 滑らないよう、慎重に座り、長く息を吐いて脱力する。汗を流しながら、私の口は弧を描いていた。


「...ふふ。面白い人だったわね」


 独り言が浴室に反響する。

 回想してみても、あの上擦った声は滑稽だった。


「それに、随分とお人好しだったわ」


 無理矢理にでも私に付き添ったことに加えて、まさか最後にあんなことを言うなんて、夢にも思っていなかった。とはいえ、連絡手段が皆無だというのに、呼ぶも何もないのだが。

 はてさて、何が彼にあんな言葉を発させたのだろう。


「一目惚れされてしまったのかしら...なんてね」


 自らを嘲笑した。

 彼が私に一目惚れするなんて絶対にありえない。

 呪われた体を持って生まれた、忌み子なんかに。


  ◇◆◇


 翌日。

 連日のように晴れの日が続いていた。雨が降らないお陰で、今日も今日とて、桜が素敵にピンクの花弁を振り撒いているのだろう。絶好のお花見日和である。

 にも関わらず、俺はアルバイトに精を出していた。花より団子、甘味より食費である。

 というのも、ある事情により実家からの仕送りが当てにできず、一人暮らしをするには自分で稼ぐしか方法がないのである。無論、勉学との両立も求められるため、毎日がてんてこ舞いなのだ。

 この現状においても尚、口約束とはいえ、あのようなことを口走ってしまったのだから、己の偽善者ぶりには辟易するばかりである。

 ただ、今は職務中だ。雑念を振り払い、身を入れる。

 俺の仕事は、この長閑な寺を見物に来る客から拝観料を受けとり、案内を手渡すだけ。外国人観光客ばかりであるため、大学で英語を修める俺は重宝されている。


「団体様ですね。少々お待ちください」


 昼休憩に入る直前、たまさかに日本人団体客が訪れた。すぐさま予約を確認する。


「一宮盲学校様ですね。どうぞお入りください」


 たしか、近くにある盲学校の名だったはずだ。校外教授か何かだろうが、なるほど、このマイナーな寺院を選んだのも納得だ。この御坊は他に比べて、景観が特別優れているわけでもない。静けさだけが取り柄とも言える場所なのだ。


「ふぅ」


 午前の勤めが終了し、控え室へ戻ろうと体を反転させたとき。視界の隅に、純白を捉えた。

 踵を返し、しっかりと見直す。

 日よけを差していて判別しにくいものの、やはり昨日の少女だった。

 彼女も盲学校に通っているとするならば、何ら不思議はない。しかし、この奇妙な偶然に、運命とやらの悪戯を感じざるを得なかった。

 いつでも呼んでくれ、などと言った手前、見なかった振りをするのは気が引ける。

 というわけで、肩を叩いてみた。少女はびくりと体を震わせる。


「何かしら?」

「こんにちは。昨日ぶりです」

「あぁ、吸血鬼さん」

「...忘れてください」

「ふふ。こんにちは」


 少女はくつくつと喉を鳴らした。


「それにしても奇遇ね。...本当に、私に付きまとっているわけではないのよね?」

「勿論です。バイト先の一つなんですよ。確認取りますか?」


 確たる証拠があるため、昨日よりもいくらか強気に話が進められそうだ。


「いいえ。結構よ。昨日一日で、あなたの善性はわかっているもの」


 そう思ったものの、肩透かしだった。それに、こういったことを面と向かって述べられると、非常に照れくさい。

 話を反らすこととしよう。今日の彼女の奇怪な点についてだ。


「ずっと目を瞑っていますが、どうかしたんですか?」


 少女はクスリと妖しく微笑んだ。


「ええ。実はね、天気の良い日には、良くないものが見えてしまうのよ」

「と言いますと?」

「ここ、由緒正しい御寺でしょう?」

「はあ。まあそうですが」


 この場所についての知識は一通り持っている。建立から時間が経っているというだけで、大して歴史的価値はなかったはずなのだが。


「たしか、近くにお墓もあったわよね」

「え、ま、まさか?」

「何故か私の場合、明るい時間に見えてしまうのよねぇ...」


 彼女は日傘の中で、うっすらと目を開けた。


「ほら、あなたの後ろにも」

「うぇえっ?!」


 バッ、と音が出るほどの勢いで振り向いた。木でできた控室の壁があるばかりである。

 否。木目の中に、何やら人の顔と類似するものが見受けられる。全身に鳥肌が立った。


「あははっ。慌てすぎよ。冗談に決まっているじゃない」

「ででもっ! 木に人の顔が!」

「あぁ可笑しい。それってきっと、シミュラクラ現象というやつね。幽霊なんているわけがないじゃない。正直すぎるわよ、あなた」


 良い様に遊ばれた。相変わらず、清々しいほどに綺麗な笑みである。


「本当はね、私、というかアルビノの人は、眩しいのが苦手なのよ。日に当たりすぎるのも、肌がすぐ赤くなるし難しいところね。日中の遠足は辛いわ」

「ああ、だから春なのに日傘を」

「そういうことよ。吸血鬼っぽいかしら?」


 小悪魔の微笑であった。

 俺は人生一の汚点をいつまで引っ張られるのだろうか。

 からかい勝負では分が悪い。話題を転換しよう。


「それよりも、吸血鬼さんって何ですか」

「あら。蒸し返して欲しいのかしら?」

「そうではなくて。きちんと名前で呼んでくださいよ」

「では吸血鬼さん、あなたのお名前は?」

山端(やまばな)侑李(ゆうり)です。山の端っこに、えっと、口で説明するのは難しいですね」

「漢字までは結構よ。吸血鬼さん改め山端君ね。わかったわ」


 何故だろう。理解してもらえたはずなのに、ことあるごとに蒸し返される予感がする。


「私は芹生美帆(せりょうみほ)よ。草冠に一斤二斤の斤、それから生きるで芹生(せりょう)。美帆は美しいに帆船の帆。よろしくね」

「はい。よろしくお願いします」


 芹生さんの白いワンピースの前へ、手を差し出した。が、目蓋を閉じた彼女には認知されていないことに気付き、そっと戻した。

 もし彼女の目が見えていれば、きっと揶揄されたことだろう。最もその場合、単純に握手を拒否された形になるのだが。


「あら。握手が必要だったかしら?」


 無意識にびくっと体が跳ねた。


「ど、どうして?!」

「間があったから。もしかして、本当に手を差し出していたりした?」

「いえ別にっ」

「ふふっ。まあ、薄目で輪郭は捉えていたのだけれど」


 全く、芹生さんには敵わない。


  ◇◆◇


「そうだわ。今、時間あるかしら」

「まあ、はい。十数分ですが」


 丁度困っているところなのだ。折角だから、あの約束に甘えるとしよう。


「この御寺さんの中に、どこか腰掛けられるような日陰はあるかしら。昼食を摂る手筈になっているのだけれど、日に当たってはいけないから」

「ありますよ。ご案内します」


 先導する砂利の音に付き従う。転ばないよう、足元に気を付けて。

 それを知ってか知らずか、私のペースに合わせてくれている彼、山端君は、やはり気遣いができる人だ。


「ここには盲学校のイベントで?」

「ええ、そうよ」

「すみません、声をかけたりして」

「謝ることはないじゃない」

「春の学校行事と言えば、他の人と仲良くなるチャンスじゃないですか。それを邪魔してしまったことになるので」

「気にしないでいいわよ。クラス替えが出来るほど人数が多いわけでもないし、みんな顔見知りだから。と言っても、私には見えないんだけれど」


 盲目ジョークという、少々不謹慎な言葉で場を和ませようとしたが、しかしそれは、彼の真面目腐った語調によって中断を余儀なくされた。


「知り合いはいても、友達はいないんですよね?」

「えっ」


 どうしてそれを。と言いかけて、口をつぐんだ。沈黙は結局肯定になってしまうのだが、それでも、見透かされたのだと認めることが悔しかった。


「さっきから、誰も芹生さんに視線を向けていないんです。それは目が見えていないから、というのもあるのでしょうが、俺には一種の怯えのようにも見えて」


 何故、この人は、そこまで正確に見抜けるのだろう。


「芹生さん、時々意地悪ですけど、本当はとても素敵な人なのに」


 そうして全て見抜いた上で、私に優しく語りかけるのだ。


「何があったのかは知りませんが、俺よりも、クラスメイトと楽しんだ方が良いですよ」


 そう言って微笑んだであろう彼の慈愛は、私の心を、この春の陽気のように温めて。


「何なら俺、他の人を呼んできますよ。きっと大丈夫です。芹生さんは良い人ですから。芹生さんは俺のことを善人だって誉めてくれましたけど、俺だって、芹生さんが一緒にいて楽しい人だって知ってます。他の人とも仲良くなれますよ」


 そして、ひどく苛立たせた。


「それじゃあ、俺はこれで」


 彼が砂利道へ一歩踏み出すのと同時、私は傘を持つ手に力を込めて、叫んだ。


「余計なことしないで!」


 彼の足音が止んだ。他に話していた学童たちも気圧されたのか、誰一人喋ることができないでいた。


「私は一人でも生きていけるの! 馴れ合いなんて必要ないのよ!」


 こんな風に怒鳴ってしまえば、私の教室での居場所は、今度こそ無くなってしまうだろう。寂寥なんて微塵ほどもない。元々私は一人だったし、それを好んでさえいるのだから。

 ただ、惜しむらくは。


「手助けは無用よ! もう私に構わないで!」


 この親切な青年が、私から離れていくことだろうか。


「...」


 否。何を考えているのか。一人でも生きていける、寂寥は皆無だと、そう思ったはずではないか。確かに滅多にない逢着であったが、口惜しがるようなものではないはずだ。

 彼は黙ったまま、動かない。学徒らはざわざわ、ひそひそと内緒話を始めていた。

 山端君は、もう私に関わらないだろう。こうも理不尽に怒号を浴びせられては、私の世話を焼く気も失せただろうし、その上、そろそろ仕事に戻らなければいけないはずだ。


「案内、ありがとう」


 遠退くはずの背中へ、此度の感謝、引いては、昨日からの感謝を伝えた。

 一礼だけして、木陰の石段に腰を下ろす。

 これですっぱりと別れられるはず。


「え?」


 だったのだが。


  ◇◆◇


 俺は、仕事着に土が付くのも厭わず、立て膝をついて彼女の白い手を取った。

 あんな風に、あんな悲壮感に満ちた喚かれ方をしては、放っておくことなんて出来ない。絶対に。


「嘘を、吐かないでください」

「嘘?」


 気に食わない嘘だった。

 芹生さんは、叫んでいたというのに、毅然としていたのだ。感情的でありながらも、どこか、台本を呼んでいるような白々しさがあった。


「嘘なんて」

「いいえ。嘘を吐いているんです」


 彼女は、自分は独りでいた方が良いのだと思い込んでいる。背景はわからないが、きっとそうだ。

 その固定観念が、本心とすり替わっている。


「本当のあなたは、人の温もりを欲しがっているんです。人は誰しも、一人では生きられないんですよ」

「...そんな綺麗事、聞き飽きたわ。私には当てはまらないわよ」

「本当にそうですか?」

「ええ。昨日見たでしょう。夜になれば出歩くことだって簡単なのよ」


 屁理屈だった。だが、俺はそれを真正面から受け止め、心を込めて言葉を返す。


「体はそうかもしれません。でも心は? 孤独に耐えられるんですか?」


 あいつの面影を、脳裏に描きながら。


「人の温かさに触れたくはないんですか?」


 俺の手は、無意識のうちに芹生さんの手を強く握りしめていた。俺の掌が、彼女の手ほど白くなるくらいに。


「大切な人は、いないんですか?」

「...あなたに私の何がわかるのよ」

「わかりませんよ。出会って二日ですから」

「そうでしょう。あまり勝手なことを」

「だから。自分の胸に訊いてみてください。一人で良いのかどうか」

「...」


 それっきり、彼女は黙った。

 うまく説得できたのだろうか。正直、あまり自信はない。

 やはり、リアルな人の心は複雑すぎる。


「何か困ったことがあれば、いつでも呼んでください。力になりますから」


 もし、これがきっかけで、彼女が考え直してくれたのなら、嬉しく思う。


  ◇◆◇


 叢雲が月を覆い隠した、暗然たる夜。私は日課の散歩に出ていた。だが、全くもって上の空だった。

 「大切な人は、いないんですか?」

 彼のその発言ばかりが胸に突き刺さって、一向に抜ける気配がなかったからだ。


「いるわよ。大切な人くらい」


 物心ついた時から、私はお母さんっ子だった。

 生まれつき目が悪いこともあって、一般の子どものそれよりも甚だしかったはずである。物心つく前も、お母さんが側にいないとすぐに愚図りだしたものだ。とは、他ならぬお母さんの弁である。

 十年前に両親が離婚してから、それは更に拍車がかかっていった。授業が終われば最速のバスで帰り、お母さんに構ってもらう毎日。

 実に、幸せな日々だった。


  ◆◇◆


「ただいま、お母さんっ!」

「おかえり、美帆」


 バスから降りた私は、お母さんと手を繋いで家に入った。嗅ぎ慣れた芳香。芳醇な甘い香りと、僅かに混じった酸っぱい匂いが出迎えてくれる。


「お母さん、今日はかくれんぼね」

「はいはい。気を付けて隠れるのよ?」

「はーいっ!」


 放課後は友人とは遊ばず、いつもお母さんと家で遊んでいた。

 学校では、かくれんぼなどさせてもらえない。先生は「盲人が隠れるのは危険です」なんて言って、鬼になってくれないのだ。他の誰も鬼にはなれないのに。

 だから、かくれんぼという遊戯は特別だった。そして、一緒に遊んでくれるお母さんも、私にとって特別だった。顔の輪郭もわからない友達なんかより、ずっと。二つも特別が揃っているのだ。家で遊ぶ方が楽しいに決まっている。

 そんなものは、寄り縋るための言い訳でしかないのだが。


「もういいかーい?」

「まーだだよー!」


 私は玄関へ戻り、靴箱の陰に身を潜めた。靴下が汚れてしまうが、どうせお風呂のときに脱ぐのだ。ちょっとくらい許してくれるだろう。


「もういーよー!」

「よーし。美帆どこかなー?」


 私の合図で、かくれんぼは始まった。

 隠れ場所は、我ながら上々だったと思う。リビングからは丁度死角で、小柄な私だからこそ入れる隙間。

 ただ如何せん、体勢が悪かった。

 近づいてくる足音に緊張して、つい、下駄箱を大きく揺らしてしまった。


「あーっ、見ぃつけ...あぶなっ!」

「へ?」


 どさり、という音が、目と鼻の先から聞こえた。

 状況が飲み込めない私は慌てに慌てた。お母さんが倒れたのかもしれないからだ。


「いててて。ギリギリセーフだったわ」

「お母さん、大丈夫?」


 何が起こったかはわからないが、ひとまずお母さんの無事は確認された。


「花瓶が落っこちちゃったのよ。お母さんに怪我はないし、花瓶も割れてないから安心してね」


 気遣わしげな私の視線に気づいたらしく、お母さんは簡潔に答えて、私の頭を撫でた。


「...ごめんなさい」

「いいわよ。何も壊れてないんだから。私の娘だもの。このくらいお転婆じゃないと」


 お母さんの手つきはどこまでも優しい。お母さんに迷惑をかけた罪悪感から、溢れかけていた涙。それがみるみるうちに引っ込んでいく。


「折角だから、かくれんぼはここまでにして、このお花のお話をしましょうか」

「お花のお話?」


 駄洒落ではない。お母さんは狙ったのかもしれないが、私は意識していない。


「ええ。このお花はね、鈴蘭って言うの」

「すずらん?」

「そう。白くて、お姫さまのふんわりスカートみたいなお花よ」

「へーぇ」


 夢のある解説だ。お母さんは昔から、こうやって私の心を掴んできた。


「花言葉は、リターンハピネス」

「りたーんはぴねす?」

「やっぱり美帆に英語はまだ難しいか」

「む、そんなことない。私、いっつもテスト百点だもん。花言葉の意味、教えてよ」

「ふふ。美帆がもうちょっと大人になったらね?」

「ぶー」


 私は少しの間むくれていたけれど、鈴蘭の香りと、お母さんの手の温かさで、すぐに笑顔が舞い戻った。


  ◆◇◆


 今思えば恥ずかしいくらいに依存していた私を、お母さんはいつでも明るく受け入れてくれた。時には、仕方がないなぁとため息を吐くこともあったけれど。

 愛されていたのだと、思う。

 確かに、私には大切な人がいた。たった一つの、大切な温もり。友人なんて浅はかな関係には、到底生み出すことのできないもの。

 しかし、それも去年までのことである。

 あの温もりは遠く離れてしまったのだから。


「今さら友達なんて、必要ないわよ...」


 独りごちて、一歩、足を進めた。

 右からやって来る、白い塊には気づかずに。


「芹生さんっ!」

「え?」


 気づいた時にはもう遅い。誰かの声が私の耳に届くと同時、クラクションが甲高く鳴り響き、それはかき消された。


  ◇◆◇


 必死で手を伸ばした。

 掴んだ真っ白い腕は細くて、強く握れば折れてしまいそうだったけれども、それを慮ることなく、彼女の体を引き寄せた。

 バキッ。

 嫌な音が足下から聞こえた。


「芹生さん! 芹生さん!」

「...」


 今の芹生さんには、茫然自失という言葉がそっくりそのまま該当するだろう。目を見開いたままで、十秒程度硬直していた。


「あ。え?」

「芹生さん! 無事ですか?!」


 彼女はぱちくりと、大きな目を数回瞬かせた。

 気が動転している彼女を冷静にさせるためにも、まずは俺自身が平常心を装って問いかける。


「芹生さん、痛いところはありませんか?」

「え、ええ。というか今、あなたに抱かれ、ええっ?!」


 能天気というか豪胆というか。今しがた自分が轢かれかけたことよりも、男の胸に抱かれていることのほうが、戸惑いの元となっているらしい。


「しっかりしてくださいよ、芹生さん。一人で立てますか?」

「ご、ごめんなさい。腰が抜けちゃったみたいで。しばらく、こうしていても良いかしら?」

「芹生さんがそれで良ければ、いくらでもどうぞ」


 正直、役得である。いや全くもって不謹慎なのはわかっているが、美しい少女と抱き合ったままというのは、なんというか、男のロマンを刺激するのだ。

 その分、通りすがりの主婦たちから浴びせられる視線が痛いが、無視に徹した。


「落ち着きましたか?」

「...ええ、不思議と。もう大丈夫よ。ありがとう」


 線の細い彼女の肢体が、俺から離れる。

 ざっと彼女を見回してみても、目立った傷は見られない。ただ、何か違和感があるだけだ。


「今のは本当に危なかったですよ。俺が芹生さんに気づかなかったら、どうなっていたことか」

「反省しているわ。...まあ、物思いに耽っていたのはあなたのせいとも言えるのだけれど」

「ぐ。ですが、それとこれとは話が別です。気を付けてくださいね?」

「ええ。ありがとう。山端君は命の恩人ね」


 芹生さんに、笑顔の花が咲いた。

 思えば、含みがない純粋な彼女の笑みを見るのは、これが初めてではないか。

 説教の一つでもしてやろうと考えていたのが、どこかへ吹き飛んでしまった。

 大輪の花を観賞するのも束の間、芹生さんは不安げに眉を寄せた。


「悪いのだけれど、どこかに杖が落ちていないかしら。その、抱き寄せられたときに、取り落としてしまって」

「あぁ、なるほど」


 違和感の正体は杖の有無だったようだ。そして、不穏な音の正体も。


「これは...もう使い物にならないですね。真っ二つに折れてますから」

「あら。困ったわね」


 さほど困った様子でもなく、芹生さんはそう言った。予備でもあるのだろうか。


「そ、それじゃあ、送ってもらうしか、ないわよね?」

「へ?」

「腕を差し出してもらえるかしら。この間のコンビニまでとりあえず向かいましょう」

「え、あの」

「これは緊急措置よ」

「あ、はい」


 つまり、腕を組んで歩け、と。クールな表情とは裏腹に、大胆なことを口走っている自覚はあるのだろうか。

 恋人でもない男女が腕を組むなど、親父に知られたら何と言われるか。


「ほら、早く」

「い、いいんですか?」

「あら、嫌かしら?」

「別にそういうわけじゃ」

「ならいいじゃない」


 妙に押しが強い。そう思って彼女の顔を覗くと、白い頬が、僅かに赤く染まっていた。


「行きましょう」

「は、はいっ」


 お互いに恥ずかしがりながら、夜の街を進む。

 山端侑李、二十歳。初めてのデート(?)である。


  ◇◆◇


 とてつもなく顔が熱い。彼、山端君に窮地から救ってもらい、その、抱き締められたときから、ずっとだ。

 異性の体に触れたからだろうか。否、我ながら初である自覚はあるが、触れあった程度でここまで照れてしまうなんてことはない。

 それに、彼に包まれていたとき、羞恥と困惑だけでなく、確かな安心がそこにあったのだ。まるでお母さんのよう、いや、父の方が相応しいだろうか。


「芹生さん」

「はひっ?!」


 沈思黙考していたせいで、何気ない返事にも声が裏返ってしまった。


「ぶふっ。あっははは」

「わ、笑わないでもらえるかしら」

「ごめんなさい。でも可笑しくて。っはは」


 悔しい。昨日と立場が逆転してしまった。

 しかして、彼の腕から伝わる体温と、それから笑いで起こる震動は、どうも心地よい。

 やはり私の心は、彼に触れると安堵するのかもしれない。


「それで、どうしたのかしら?」

「はい。コンビニ、見えてきましたよ。ここで曲がるんですよね」

「ええ、そうね」

「一人で大丈夫ですか?」


 昨日のことを覚えているのだろう。私は普通であれば、男に住所を特定されるような真似はしない。だが、今は彼に頼るより仕方ないのだ。

 何よりも、今はこの温もりに縋っていたかった。

 それに。


「大丈夫に見えるのかしら?」

「いやでも」

「...いいわよ、あなたなら」

「え?」


 小さく呟いたとはいえ、折角素直になってあげたのだから、拾って欲しかった。


「ほら、ここを真っ直ぐ。ここで目の見えない女の子を置いていったりしないわよね?」

「は、はあ。俺は構いませんが」


 山端君が悪いんだから。二度と言ってあげない。


  ◇◆◇


 芹生(せりょう)なんて珍しい表札の家が濫立しているはずもなく、すぐに芹生さんの家宅にはたどり着いた。

 白い壁が月光を反射する、二階建てと思しき立派な一軒家である。片流れの屋根には、ソーラーパネルでも設置されていそうなモダン建築であった。


「どうぞ上がっていって。命の恩人にお礼も無しじゃあ、お母さんに怒られてしまうわ」

「そういうわけにはいかないですよ」

「いいのかしら。私、白杖がないと家で身動きが取れないのよ? 倒れでもしたらどうしましょう」


 棒読みだった。

 かといって、ここで放っておいて、本当に転ばれても困る。観念して、ご相伴に預かることとなった。


「鈴蘭?」


 玄関に入ってすぐ目に飛び込んできたのは、鈴蘭の花。の、模造品だった。水の入っていない花瓶に、針金や紙で精巧に作られた造花が挿してある。

 その割にはフローラルな香りがするが、それは芳香剤によるものらしい。


「ええ、そうよ。去年までは実物を置いていたのだけど、世話をできる人が居なくなったから」

「そうなんですか」

「この匂いも、現物はもっと青臭いのよ。ふふ、寧ろそれが良かったのだけれど」


 芹生さんは、どこか懐かしむような面持ちで鈴蘭を眺めていた。眺める、というのは相違があるかもしれないが、俺にはそう思えた。


「ごめんなさい、こんなところで立ち止まって。奥へどうぞ」


 転倒の恐れがある、などと言った癖に、迷いのない足取りだった。そればかりか、ステップを踏むような、遊び心さえも感じ取れる。

 何となく、幼子に手を引かれるような感覚だった。

 リビングを渉り、俺が芹生さんに通されたのは、ダイニング。テーブルには四つ椅子が並んでおり、来客を今か今かと待ち構えていた。


「今お茶を出すわ。掛けて待っていて」

「俺がやりますよ」

「問題ないわ。生まれてからずっとこの家に住んでいるんだもの。お茶くらい出せるわよ」


 俺をここへ連れ込んだときの台詞はどこへ消えたのか。戸棚から手早くカップを取り、ティーバッグを入れて、沸騰したお湯を注ぐ。その一連の動きには、淀みがなかった。

 紅茶の薫香が鼻腔を擽る。それと時期を同じくして。


「あらあら」


 俺の腹の虫が鳴いた。


「ふふふ。ちょっと違うけれど、花より団子、といった感じかしら?」

「お恥ずかしい」

「そうだわ。ちょっと待っていて」


 パタパタとスリッパを鳴らし、芹生さんは玄関へ取って返した。

 再び俺の前に現れた彼女の手には、二つの小箱。


「これ、私の晩御飯なのだけれど、片方あげるわ」

「え、いやいやそんな申し訳ないです」


 食べ物の重みは痛いほどわかっている。それを邂逅二日目の相手に差し出すなど、とんでもない。


「私が良いって言ってるのよ。是非食べて」

「芹生さんの分は芹生さんが食べるべきですよ」

「私がこんなに食べるように見えるかしら?」

「人は見かけによらないと言いますから」

「それ、場合によっては失礼よ」

「...すみません」

「いいから食べて。ね?」

「うぐっ」


 男というのは、本能的に女に弱いのだろうか。上目遣いに迫られただけで、コロッと手のひらを返してしまう。それには、芹生さんが見目麗しいからというのも、少なからずあるのだろうが。

 パンが入ったバスケットを向かい合った二人の間に置いて、両者それぞれ手を合わせる。


「いただきます」

「ええ。私もいただくわ」


 俺の弁当箱の中身はハンバーグだった。拳大の肉塊に、デミグラスソースがかかっている。牛肉が胃に入るのなんて久しぶりだ。心が沸き立つ。

 芹生さんの方はというと、なにやら蓋を指で丁寧になぞっている。


「蓋が、どうかしましたか?」

「これ、盲人用のお弁当なのよ。おかずの配置が点字で示されているの」

「へぇ」


 手探りで触ってみると、俺のものにも、同様の点字がついていた。


「こっちにも付いてます。これって二つ共、本当に芹生さんの?」

「ええ。元はね。今はあなたのものだけれど」

「そうなんですか。てっきり、もう一人家族がいるのかと思いました」

「...」

「今日はお出かけで、それで代わりに俺が呼ばれたのかなって思ってたんですが」


 芹生さんは、腹痛にでも耐えるように、眉を寄せて押し黙っている。

 俺が地雷を踏んだのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。一人で暮らしているのか、とか、訊ねたいことは沢山あったのだが、それは飲み込んだ。


「そ、それより、早く食べましょう。俺お腹ペコペコで。据え膳は勘弁して欲しいです」

「...そうね。ごめんなさい、急に黙ったりして」


 それから俺たちは、黙々と箸を進めた。

 久方ぶりの牛肉は美味しかったはずなのに、どこか味気なかった。

 淡々とサラダを口に運んでいると、向かい側から唸り声が聞こえてきた。

 何事かと思えば、ミニトマトに苦戦しているらしい。手でも使えば良いものを、客の前だからか、箸で掴もうと頑張っている。ボールにじゃれついているネコのようで、大層微笑ましい。

 食事の力は偉大なもので、先程までの喪に服すようなムードもいつのまにか消え失せていた。


「む、なんだか笑われている気がするのだけれど」

「ッソーンナコトナイデスヨ?」

「あなた、嘘吐くの下手ね」


 大根役者に言われたくない。俺はただ、ズバリ言い当てられて取り乱しただけなのだ。


「ミニトマト、挟めないなら手で摘まめばいいじゃないですか」

「取れないわけじゃないのよ。今回は調子が悪いだけ。それに、ドレッシングで手が汚れるじゃない。折角盲学校で、文化的に食事が出来るよう教育されているんだもの。やるなら最後まで綺麗なまま。わかるでしょう?」

「は、はあ」


 要は、負けず嫌いなのだ。

 夕刻芹生さんに会ってから、彼女の新しい一面ばかり見ている気がする。


「くぬっ。むうぅ」

「あの、俺がやりましょうか?」

「何を、かしら?」

「ミニトマト、俺が取って食べさせてあげます。所謂、あーんってやつです」


 彼女はポカンとした顔になった。どことなく、頬辺が紅潮している。

 ほんの冗談のつもりだったが、想定外に可憐な、少女の恥じらいを拝むことができた。


「な、何を宣っているの。恋人でもないのに、あ、あーんだなんて。恥ずかしくないのかしら」

「けど、そうでもしないと手を汚さずに食べられないですよね?」

「っ」


 あまりに可愛らしい反応であったため、つい追い詰めるようなことを言ってしまった。

 芹生さんはさらに頬を赤らめており、それを隠すべく、ミニトマトに無我夢中で挑戦していた。だが、冷静さを欠いた状態で捕まえられるほど、生温くはない。


「あっ」


 功を焦ったらしいが、どういうわけか、ミニトマトが皿から跳ねた。放物線を描き、俺たちの間に置かれた籠へ向かって宙を舞う。

 もし、このままバスケットにゴールしたとして、パンを置いていた清潔なナフキンだ。衛星的に支障はないだろう。がしかし、口に入れる際、布に接地していたという点で、若干の不快感が伴うのもまた事実。命を頂く行為、それを嫌々というのは、些か度し難いものである。

 そんな意味不明の解説を頭に浮かべつつ、半ば条件反射的に箸を差し出した。


「え、すごい」

「何がすごいのか教えてくれるかしら。それよりミニトマトはどうなったの?」

「空中でキャッチしました。箸で」

「え、それはすごいわね」


 芹生さんも率直に驚嘆してくれた。


「それで今、俺が持っているわけですけど」

「そう...こうなってしまっては仕方がないわね」


 おずおずと、芹生さんは小さな口を開き、長い髪が卓上に垂れぬよう押さえながら、身を乗り出した。


「あ、あーん」

「え、正気ですか?」

「恥ずかしいんだから。早くして頂戴」

「え、えと」

「あー」


 先んじて言い訳をしておく。勢いに負けた。

 自分で蒔いた種だ。落とし前をつけねばなるまい。

 若干の震えを伴いながら、俺の箸を彼女の口元へ近づけていく。

 残り五センチ。四、三、二、一。


「はむっ」


 芹生さんが口を閉じる瞬間、箸を引いた。

 結果、彼女のあーんは空振り。恨みがましい目で睨み付けられる。


「何よ。私をいじめて楽しんでいるのかしら?」

「いや、ただ...これ、俺が食えば万事解決じゃないですか?」

「...それもそうね」


 無駄な一悶着を演じる必要はどこにもなかったのだ。

 何事も無かったかのように芹生さんは席に着き、既に冷めてしまったであろう紅茶を一口。が、やけに長い。どうやら、カップで赤面を隠蔽しようという魂胆らしい。

 俺が口に含んだ小さな紅の果実は、瑞々しくて、ちょっぴり酸っぱかった。


「食後の珈琲でも淹れましょうか」

「お構いなく」


 芹生さんは立ち上がり、マグカップにスティックコーヒーを入れ、再びお湯を注いだ。


「カフェオレしかないのだけれど」

「意外ですね。ブラックのイメージですけど」

「苦いのはちょっと。悪いかしら?」

「いいえ。可愛げがあって良いですよ」


 何気なく言ったその瞬間、芹生さんの肩が跳ねた。


「熱っ!」

「大丈夫ですか?!」

「大丈夫よ。ごめんなさいね、大袈裟だったわ」


 特に溢したというわけでもないようだ。大方、熱が移ったマグカップに触りすぎたのだろう。駆け寄って、片方預かる。


「ありがとう。もてなす側なのに、気を使わせてごめんなさい」

「いえいえ」


 二人して椅子に腰掛け、一息ついた。

 今度は彼女の方から口を開く。


「まったく、あなたは唐突に女たらしみたいなことを言うのね」

「え、いつですか?」

「自分で考えなさい。不誠実な男は嫌われやすいのだから、気を付けるのよ」

「は、はあ」


 直接的に可愛いと言ったのが不味かっただろうか。思いの丈をそのまま伝えたのだが、軟派に聞こえたのかもしれない。

 甘いカフェオレを啜り、ほっと一息。時計の音が十回ほど明瞭に響くと、彼女は声のトーンを落として話し始めた。


「昼間はごめんなさい。怒鳴ったりして」

「いいんです。俺もお節介が過ぎました。誰にだって触れられたくないことはありますよね」

「それはそうなのだけれど。あのときあなた、私が嘘を吐いたと言ったじゃない。一人でも生きていける、なんて啖呵を切ったとき」

「はい」

「図星、だったのよ。ゆっくり考えてみてわかったわ。私は一人じゃ生きていけない。心の奥底には、いつも大切な人がいたの」


 彼女は淡く微笑んだ。

 安心した。俺の言葉が届いて。気づいてもらうことが出来て。肩の力が抜けた。


「けれどね、私が心を開くのは、多分その人だけ。友人は必要ない」

「そう、ですか」


 寂しいことだと思う。だが、これは強制できるようなものではないし、したところで虚しいだけだ。


「随分とあっさりなのね。昼間みたいに、情に訴えかけられるのかと思ったけれど」

「しませんよ。交友関係は自由であるべきですから。支えになってくれる人が一人でもいるのなら、それだけでひと安心です」

「そう。助かるわ」


 湯気の立つカフェオレを一口。


「...あなたになら、話してみるのも良いかもしれないわね」

「何をですか?」

「私の大切な人についてよ。友人は要らないと言ったけれど。一人くらい、私の事情を知って、共感してくれる人がいれば良いなと思っただけ」


 それを友達と呼ぶのではないか。思ったが、口にはしなかった。大人しく聞こう。

 しかし彼女は、急にもじもじしだした。


「あの、それでね?」

「はい」

「笑ったりしないかしら?」

「何がですか?」

「これから話す内容なのだけれど、少し子供っぽいというか、私の柄じゃない話なのよ」

「笑いませんよ。話して楽になるのなら、どうぞ話してください。俺も真剣に聞きますから」


 見えていないとはわかっているが、相応に直向きな目を彼女に向けていた。


「ありがとう。じゃあ、少しだけ聴いて頂戴」

「喜んで」

「大切な人っていうのはね、お母さんのことなのよ」


 お母さん。俺にとっては、正直苦々しい思い出ばかりが先行する相手である。

 しかし、彼女は母のことをとことんまで愛しているらしく、その頬は自然と緩んでいた。


「ほら、私ってこんな見た目でしょう? あなたはあまり気にしていないようだけれど」

「まあそうですね」

「先生からして、私の扱いが違ったものだから、盲学校の他の子たちも勘づいたんでしょうね。私が別の何かなんだ、って。そのイメージが今の今まで付きまとっているのだけれど。だから、私は友達を作るよりも、家でお母さんと過ごすことを選んだの」

「なるほど。それで母親が大切な人なんですね」

「ええ...それで、お母さんなのだけれど」


 彼女の顔に、段々翳りが見えてきた。重苦しい話になることを覚悟して、次の言葉を待つ。


「この家、今、私一人で住んでいるのよ」

「え、と?」

「去年、お母さんが倒れたの。だからこの家には、私一人。たまに盲学校の人が、細かな掃除に来るくらいよ」


 こんなとき、どういう対応をするのが正解なのだろう。非常に困る。


「あの...」

「ああ、勘違いさせてしまったかしら。お母さん、まだ生きているわよ」

「あ、そうなんですね。良かったぁ」

「けれど、今は入院中で、ほとんど会えないのよ。たまに週末、学校から車を出して貰ってお見舞いに行くくらいかしら」


 生きているからと安心してしまったが、充分に気の毒だ。大切な人と長期間会えないというのは、気を許せる相手がいない彼女からすれば、相当辛いはずである。


「月日が経つにつれて馴れつつあるけれど。それでも、いつ重篤化するかと思うと、ね」


 一年も病院生活が続いているのだ。病状が芳しくないということは、容易く予想できる。


「友人なんていらないと言ったけれど、それも嘘になるかもしれないわね。こうやって話してしまうくらいには参っているんだもの」


 芹生さんは嘆息し、俺に苦笑を見せた。陰鬱な話はお開きにするらしい。


「悪いことじゃないですよ。お母さんだって、いつまでもべったりされては心配ですから。信頼できる人の一人や二人、作ってもらったほうが心安いですよ」

「ふふっ。誰目線なのよ」

「第三者目線、でしょうか」

「当事者の自覚を持ってもらいたいわね。友人第一号に最も近い場所にいるのよ、あなた」


 芹生さんは悪戯っぽく微笑んだ。不覚にも、俺の心臓は早鐘を打ち始める。


「え。いやいや。もっと付き合いの長い人がいますよね」

「顔見知りの期間が長いというだけよ。お母さんのことを話したのはあなただけだわ」

「光栄というかなんというか。一人目が俺なんかでいいんですか? 巡り会って四十八時間経たないですけど」

「ええ。時間なんて関係ないわよ。仲良くなりたいと思ったかどうか、でしょう?」

「っ、わかりました。俺で良ければ、お友達になってください」

「よろしく頼むわね」


 絶世の美少女とさえ呼べる人から、仲良くなりたいだなんて言ってもらえる時が来ようとは。人生何が起こるかわからないものである。


「それじゃあ、困ったときは遠慮なく頼らせて貰うわね」

「はい。いつでもどうぞ」


 良い様に使われる未来が予感できるのは、気のせいということにしておこう。


  ◇◆◇


 本日は晴天なり。こう日が照っていると、おちおち出歩くこともできない。夏の足音が聞こえるほどの暖かさだ。

 山端君と友人関係を築いてから、早一週間弱。日曜日を迎えていた。その間、彼とは会っていない。彼の性格上、見かけて声をかけないということはないだろうから、すれ違うこともしていないはずだ。

 元々、こんな目立つ成りの私を、あの深夜の路地で初めて見たというのだから、出くわさないのも納得できる。納得はできる、のだが。予定が空いたとき顔を見せてくれるだけのこともせず、一度の来訪もないというのはどういう了見か。こちらは住所が割れているというのに。


「まったく、何をしているのかしら」


 どうも最近、彼の動向が気になって仕方がない。こんなことなら、彼のことを根掘り葉掘り尋ねておくのだった。


「...柄じゃないわね」


 友人は不要だと息巻いた、その日の内に撤回し、こうして数日間待ちわびているのだから、お笑い種である。

 こんなものは私ではない。これまで通り、冷淡であらねばならないのだ。でないと、誰彼構わず甘えてしまいそうになる。そんなことでは自立など出来ようはずもないではないか。

 ゆくゆくは一人立ちする気でいるのだ。大人の余裕を持とう。友達一人に浮かれていては、まだまだ子どもだ。 

 けれども、私の見た目に対しておよそ何の偏見も持たない人というのは珍しいわけで。そんな人と近しい関係になれるという事実は、想像していたよりも、ずっと心を満たしてくれた。


「ううん。だからといって、依存しては駄目よ。あくまで、知人の延長線上なのだから」


 他人に聞かれたら悶絶してしまいそうな独り言を発しつつ、家の階段を、軋ませながらゆっくりと上る。

 やけに日当たりの良い部屋に、ピアノが一台。精密な楽器をこんなところに設置して大丈夫なのか、なんて考えても無駄だ。私に移動出来るでもない。

 ただ私に可能なことは、せめてこの鍵盤が、退屈すぎて灰色の衣を纏って仕舞わぬよう、毎日弾いてやることだけだ。


「すぅ、はぁ。よし」


 この際だ。友云々の煩悩も一緒に流し去ってしまおう。

 黒い革張りの椅子に、浅く腰掛ける。音の位置を確認してから、己の中のスイッチを入れ、すっかり染み付いた動きをなぞる。

 私の心は、無に近づいていた。

 快いピアノの旋律。眩しいけれど、柔和でポカポカとした日差し。風が運ぶ、鳥たちの合唱。その全てが調和し、私に潰えることのない幸福を与えてくれるのだった。

 どれくらいそうしていただろう。体感では十分かそこらだが、日射の向きが明らかに変わっている。一時間程度経過したと見て間違いない。加えて、そろそろお昼時だと、私の体内時計が告げている。

 上りに等しく、ゆっくりと階梯を下った。その最後の一段と時を同じくして、チャイムが鳴る。


「誰かしら」


 お弁当屋さん、ではないだろう。いつも無言で投函していくし、何より今日は定休日だ。

 となると、相手は一人。頬の筋肉が弛むのを抑えながら、インターホンに応えた。


「どちら様?」

「山端です。こんにちは。通りがかったので訪ねてみました」

「そう。鍵は開けたわ。入っていいわよ」

「玄関先で大丈夫ですよ...あ、日光はダメなんでしたっけ」

「ええ。上がって頂戴」


 通信を切った。ソワソワしながら、三歩分くらいの時間を待つ。我ながら雑念まみれではないか。

 一度落ち着きましょう。友達が家に来るなんて、どうってことない。何なら、今週何度も妄想していたではないか。深呼吸、深呼吸。


「あの、何してるんですか。玄関で」

「え、あ、あー。鈴蘭の匂いをね?」


 彼の胡乱げな目線が幻視できる。そしてそれが、私の頬を引き吊らせる。

 居たたまれなくて、居間へ逃げ込んだ。


「お邪魔します」

「こっちへ。すぐお茶を用意するわね」

「大丈夫ですよ。買い物帰りに寄ってみただけなので。すぐに帰りますから」

「む...」


 訪ねてきてくれたと思えば、お茶の一杯も飲めないなんて。とんだ薄情者だ。

 とはいえ、それを顔に出しては礼節に欠ける。いつものようにあっさりと返事を。


「あ、あー。やっぱり少しだけ話していきたい気分ですねー。今日はやけに日射しが強いですから、屋内で休めるのはありがたいなぁ」

「そう。ゆっくりしていって頂戴」


 する必要はなかった。

 変に気兼ねすることなく共に過ごすことのできる、これこそが友人のあるべき姿なのだ。実に気分が良い。

 ティーカップの用意をする私の後方で、彼がクスリと微笑んだ気がした。


「どうかしたかしら?」

「い、いえ。何でも」

「ふぅん?」


 まあ、友人にも隠したいことの一つや二つ、あるものだろう。追及しないであげるのもまた友人だ。


「そうだ、芹生さん。お茶を淹れる前に。お昼ご飯は済ませましたか?」

「いいえ? というか、今日は摂らないつもりよ」

「えっ」

「お弁当屋さんが休みなんだもの。それに、毎晩二箱も食べていたら食べ過ぎよ」

「そうですか? 随分と痩せて見えますけど」

「誉め言葉として受け取っておくわ。けれど、体重計が見えないから、過食には敏感にならないといけないのよ」

「そうですか...」

「こんなことを訊いてどうするつもりだったのかしら?」

「キッチンをお借りして、おかずに一品加えようと思ったんです。これでも、料理には自信があるんですよ」


 何の気なしに、手料理を振る舞う。なんと友人レベルの高い行為ではないか。


「そうね。一品くらいなら、口に入れるのも吝かではないわ」

「ふふふ、言ってくれますね。高慢な態度が取れなくなるほど唸らせてみせますよ」


 そういう意図で言ったのではないが、やる気になってくれるのは好都合だ。

 レジ袋を漁る音に微笑みを湛えて、台所に立つ人がいるということに感慨を覚えていた。


  ◇◆◇


 新品に近いフライパンに向かうこと、数分。


「さあ、召し上がれ。もやしと魚肉ソーセージのピリ辛炒めです」

「炒め物。落とすと厄介なのよね」

「俺が処理しますから、気にせず食べてください」


 成り行きで腕を振るうことになったが、貧乏食で培った経験を最大限活かした傑作である。栄養も最低限補給できる上に、ご飯が進むのだ。


「あら、美味しいわね」

「そうでしょうそうでしょう。苦節二年、漸く編み出した料理ですから」

「この味は豆板醤ね」

「正解です。香辛料の差なんてよくわかりましたね」

「目が見えない代わりに、他の感覚は優れているのよ」


 人間の脳へのインプットは八割方視覚に頼っていると言うし、それを他へ回したと考えると妥当だろう。低クオリティのこじつけ理論でしかないが。


「本当に美味しいわね」

「ありがとうございます」


 なんというか、目の前で、麗しい少女が自分の出した皿を美味しそうに食べているのを見ると、無性に照れてしまう。

 何か話をして、気を紛らせよう。


「芹生さん、今日鳴っていたピアノ、聴きました? 上品で美しくて、心を癒してくれるんですよね。俺すっかりファンで、毎週部屋で正座して聴いてるんですよ。あはは」

「んえっほ! けほっけほっ!」

「わ、どうしたんですか? 辛くしすぎましたかね?」

「い、いえ。大丈夫よ。ピアノね、ピアノ。私も好きよ」

「ですよね! どんな人が弾いているんでしょう。この街なのは確かなんですけど」

「んんっ。それよりも、お互いの話をしましょう。友人になったは良いけれど、まだ知らないことばかりでしょう?」


 露骨に話題を逸らされた。

 それは良いとして、どことなく、彼女の肌が桃色に染まっている。やはり女の子には辛い味付けだったのだろうか。


「そうですね。俺の身の上話は全然してませんし。友人として、いろいろ語らうのもいいですね」

「そうよね。友人として、色々と知っておくべきよね」


 ごちそうさま、と彼女は手を合わせ、食器を台所へ。洗い物も後で俺がやっておこう。今はその隙にテーブルを拭く。

 座席に戻ってきた芹生さんは、点字板を含む筆記用具一式を運んできた。

 やはりというか、彼女、友人に対する期待が大きすぎる。余程母君のいない一年に孤独を感じていたのか、はたまた初めて出来た知友に浮かれているのか。

 どちらにせよ、俺の責任は重い。何としても、彼女に人付き合いの歓楽を教授してみせよう。


「基本プロフィールからにしましょうか。私は十七歳で、一宮盲学校に通っている高校生よ。高校と呼べるのかはわからないけれどね。誕生日は二月七日。血液型はO型よ」

「俺は二十歳の大学生です。誕生日はクリスマスと同じ十二月二十五日で、血液型はA型です」

「二十歳って、私より歳上だったの?」

「あ、はい。そうみたいですね」

「...そういうことは先に言ってください。それと、今まで少し高圧的に接していたことを謝らないといけないですね」

「気にしないでください。というより、今更敬語にされると他人行儀な感じがしますから、そのままでいいですよ」

「そうかしら。じゃあ、お言葉に甘えさせて貰うわね。あなたも、敬語じゃなくていいのに。というか、そのせいで私は誤解していたんだから」

「そうで...だな。変に距離感があっちゃいけない」

「ええ。友人だもの。気のおけない間柄には、敬語なんて必要ないわ」


 正直なところ、敬語で発話する癖をつけておいた方が楽なのでそうしているのだが、仲が深まっているのだと嬉しそうな彼女に水を差すのも憚られる。黙っておこう。


「一週間の予定、みたいなことを訊いてみても良いかしら。私は土日以外、基本学校なのだけれど」

「俺は大学に行くか、バイトかのどちらかだな。割合は三七。何個か掛け持ちしているから、どこかで会うかもしれない」

「そのときはおまけしてね?」

「仕事だから、約束は出来ないな」

「ふふ、残念。真面目なのね」

「給料を貰う身だ。不誠実な真似は出来ないさ」


 ため口で女性と会話するのは久し振りだ。新鮮で、案外楽しいかもしれない。

 だが、口を動かしているうちに、飢餓感が生じ始めた。帰って昼食を摂りたいところである。

 出して貰った紅茶を飲み干した。


「さて、俺はそろそろ帰るよ。昼飯を食べていないからな」

「あ...そうね。また来て頂戴。日曜の昼間は家にいるから、いつでも歓迎するわ」


 刹那、捨てられた子犬のような目をしたのを、俺は見逃さなかった。そして、直視したことを後悔した。敢えて言おう。犯罪臭さえ漂う、泣き一歩手前のような顔色だった。ここで何もフォローせず立ち去れるほど、強靭な精神力は持ち合わせていない。


「...おやつ時にでも、また来るよ」

「ええ! 待っているわ!」


 彼女のあまりの勢いに、苦笑を返した。

 やはり芹生さんには、友達が必要だったらしい。


  ◇◆◇


 ラジオの時報を垂れ流しにして、彼の来訪を待つ。おやつ時というと、三時頃だろうか。

 取り繕うのはやめにしよう。私は友人が出来て、狂喜乱舞している。さっき山端君が訪れて、それを確信した。それこそ、お母さんに依存していた頃を笑えない程だ。

 そのうち彼との関係にも慣れて、いつもの精神状態へ回帰するのであろうが、そうは言っても、有頂天になりすぎだ。きっと彼も、薄々勘づいているだろう。

 そして私も。いい加減に認めよう。


「っ! はーい!」


 ほら。ベル一つで、こんなにも胸が高鳴っているのだから。


  ◇◆◇


 他愛ない話をすること、三時間。井戸端会議よりも長いエピソード合戦は佳境を迎えていた。この長きに渡る懇談の結果分かったことだが、俺たちは馬が合うらしい。ため口の気安さも相まって、飽きることなく喋り尽くした。

 そして今は、散歩の時間ということで、外へ。

 月はない。新月というわけではなく、まだ昇っていないのだ。昼間の強力な日光は鳴りを潜め、空の半分は橙の薄い雲に覆われている。


「今日は楽しかったわね」

「ああ。時間を忘れるくらいにな」


 笑い合う。彼女に届いていないことは知っているが、心の底から出た笑いなのだ。我慢せずにいられない。


「生まれてから十七年、初めて知ったわ。友達と過ごすって、こんなにも楽しいのね」

「そうか。なら...お母さんのこと、乗り越えられそうか?」

「そうねぇ...」


 彼女の表情に陰が差した。だが、俺はこれを失言だとは思わない。どうしても訊いておきたかったのだ。俺が、あるいは友人という概念が、彼女にとって心の支え足りうるかどうか。

 俺の我儘が形になった質問に、芹生さんは。


「同じくらい、とはさすがに言えないわね」


 決して明るくはない。


「けれど」


 雲間に一筋の光が差し込んだ、薄明光線(てんしのかいだん)のように。


「寂しさは、もう感じないわ」


 美しく、微笑んだ。

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