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4話 冬

 しんしんと、雪が降り積もる。所謂、ホワイトクリスマスというやつだ。鈍色の無機質なアスファルトも、今夜ばかりは白く着飾っている。

 久々に出た都会の街並みは豪華絢爛なイルミネーションに彩られ、これまた華美な衣装を纏った人々で溢れている。その中には当然男女ペア、カップルとおぼしき二人組も散見された。

 本来なら、今年も俺達はその仲間入りを果たすはずであった。しかし、現状この場には俺一人。

 というのも、今朝がた我が家の郵便受けに招待状が投函されていたのだ。差出人は言うまでもなく、愛しの彼女である。直接渡せば良いものを、なんていうのは野暮だ。

 とある会館への地図と、集合時間だけが記された素っ気ない手紙。しかし、所々重複した文字から、筆跡は美帆のものとわかる。


「...こっからどうするんだ?」


 さて、俺は今、所期と共に、一時間も早くその会館に向かっているところなのだが。どうやら道に迷ってしまったらしい。

 誤解の無いよう述べておくが、方向音痴というわけではない。田舎の代わり映えしない道を迷いなく散策出来る程度には優れた感覚を備えている。

 しかし如何せん、地図がよろしくない。いや、彼女に文句があるわけではないのだ。寧ろ、盲目の身でよく頑張ったと誉めてやりたいくらいである。

 ただ、彼女自身、地図というものを描くのは初めての経験だったのだろう。


「曲がり角までを歩数で書かれてもわかんねえよ」


 距離の単位が一般人とは異なるのだ。何個目の交差点かだけでも標示があれば解せるのだが、それさえ明記されていない。

 ここまで手の込んだことをしでかすのだから、必ず裏に乾さんが裏から手を回しているはずなのだ。どうして検閲を入れてくれなかったのか。

 いや、彼を責めるのはお門違いだ。美帆は彼に対し、頑として見せまいとするだろうから。


「しらみ潰しに行くか...」


 この人混みの中で、一々歩数を数えられる程、俺の脳は便利に出来ていない。とあれば、おおよその見当をつけ、全てチェックしようじゃないか。幸いにも、時間には余裕がある。

 そして、俺は知ることになるのだった。都会という迷宮の恐ろしさを。


  ◇◆◇


 小規模なホールに、私の足音だけが反響する。

 家から最寄りでかつ高品質の場所を厳選した。この舞台上で発した音は、客席へ集中するよう設計されている。その分、立地はお世辞にも良いと言えないが。

 それでも拘ったのは、スピーカーを用いず、彼に直接鑑賞して貰いたいからだ。私の全身全霊を。


「今日はよろしくね」


 傷ひとつ無い滑らかな体を指でなぞる。

 徐に、閉じられた蓋を開いた。この子はいったいどんな声を返してくれるのだろう。

 彼の到着までには余暇があるはずだ。この子との親睦を深めるためにも、ここはひとつ、リハーサルといこう。

 ゆったりと椅子に腰掛ける。いつもと何ら変わりない。強いて言うなら、ひらひらとしたドレスが阻害しているが、気に留める程ではない。

 初めはゆっくりと鍵盤を叩く。若々しい元気な音色だ。お母さんのような老熟は感じられないけれども、必死に歌を紡いでくれる。私の運指に食らいつこうと、焦燥と気概がない交ぜになった声だ。

 それが彼の姿と重なって、微笑みを溢した。

 そっと鍵盤蓋を閉じ、立ち上がって彼の来訪を待つ。


「あなたのことはよくわかったわ。ありがとう。今日は彼のために、一緒に頑張りましょうね」


 漸く決心がついたのだ。私の半生と言っても過言ではないこの腕を、彼へ御披露目することに。

 出し惜しみしていたのには、理由がある。以前はただの含羞だった。それが、ある日を境に一変したのだ。


  ◆◇◆


 文明の利器がなければ暑さに喘いでいたであろう、初秋と呼ぶに呼べない季節。

 私が通う盲学校には、音楽の授業がある。各々楽器を専攻し、将来の職へ繋がるほど打ち込むのだ。

 そこで私は、いつものように不服ながらも練習を積んでいた。因みに不服というのは、ピアノについてだ。家にあるお母さんの形見を相手に演奏したいという、無茶な我儘である。

 それは兎も角として、平素の通りかのようであった。しかし、そこであろうことか、理想であったはずの母の旋律に、物足りなさを感じたのである。正確には、母の旋律を模倣した私の旋律に。


「芹生さぁん? どうかしたの?」

「いえ。少し気に食わなくて」


 担任兼音楽科の教師に声をかけられるが、素っ気なく返答する。最早教えることは無いと、他ならぬ彼女からの宣告だったのだから。

 しかし、再三弾いてみても、結果は依然として変わらない。

 そこで私は頓挫した。以前であれば、お母さんに相談することが可能だったのだが。

 何かが違うとわかっているのに、直せない。そのもどかしさに歯噛みした。

 如何に私がお母さんに依存してきたか、ハッキリと示唆されたのだ。苦悶の泥沼に沈むような心地だった。

 ところがそこで、侑李の顔が浮かんだ。彼ならば、諦めはしまい。自分が納得するまで努力を惜しまないだろう。人助けという点において、彼はそれを怠らなかった。

 であれば、私は音楽において、それを体現しよう。


「うぅん。指は完璧の一言だと思うけどなぁ」

「何かが足りないんです。何かわかりませんか」


 教えを乞うた。音楽について、生まれて初めて、お母さん以外に。


「そうねぇ。技巧的には言うことなしだけどぉ」


 彼女は苦笑気味だったけれども、優秀だった。


「足りないのは、目標じゃないかしらぁ」


 私が気づき得ないことを、ピタリと言い当てたのだから。


「目標、ですか」

「本当は、私が芹生さんの目標になれたら良いんだけどねぇ」

「いえ。助かりました。ありがとうございます」

「そぉ? ならよかったぁ」


 ぽわぽわとしている割に、時折核心を突くのがこの先生だ。

 確かに、これまでの私には目標があった。ずっとお母さんの背を追いかけて、そのお母さんから師事を受けて、練習に明け暮れていたのだ。

 謂わば、向上心だ。お母さんが亡くなり、その喪失感と共に消え去ってしまったのだろう。


「目標だけどぉ、誰かに最高の音を届けたい、とかでも良いと思うわよぉ?」


 誰かに、最高の音を。

 であれば、私の答えはひとつだ。


「例えばぁ、愛しの彼とか、ねぇ?」

「そうですね」

「...あらぁ? ほんとに?」


 侑李に、至上の旋律をプレゼントする。それが私の新たな目標となった。


  ◆◇◆


 それが先日、完成したのだ。やっと自分自身、納得のいくメロディーを組み上げた。

 そして今日、十二月二十五日。侑李の誕生日であるこの日、彼だけのためにコンサートを開催するのである。

 まもなく所定の時間だ。緊張と興奮で、胸がドキドキする。


「美帆」


 古びた扉の軋む音と共に、熱望していた声が耳に届いた。


  ◇◆◇


 ステージに佇む一輪の紅い花。

 屋外の壮麗な様相とは打って変わって、奥ゆかしい美しさを誇る、麗しい淑女の姿だった。

 深紅のドレスは数多のレースで飾られ、真っ白な肌、髪とのコントラストが鮮烈だ。その長い髪もワンサイドアップに纏められ、あどけない印象と共に、過剰な崇高さを緩和している。

 俺は彼女から目が離せないでいた。そのピシッと伸びた姿勢は、何時間でも見ていられる。


「侑李よね?」

「ああ」


 高嶺の花かと思われたその少女に声をかけられたことで、硬直化の魔法は解けた。けれどもやはり、その可憐さには抗えないものがある。ゾンビのようとは言わないまでも、熱に浮かされたようにフラフラと彼女の元へ。


「美帆。とてつもなく綺麗だ」

「ふふ。ありがとう」


 柔らかに笑う姿がまた素敵で、心臓発作でも起こしそうな程だ。

 微笑みを絶やさず、美帆は優雅に一礼をする。その姿は正に、貴族のご令嬢といった風体だ。事実、社長令嬢ではあるのだが。


「侑李。誕生日おめでとう」

「ありがとう。美帆」

「私からの贈り物を受け取って欲しいの。どうか特等席で見ていてくれないかしら」

「ああ。喜んで」


 一番前の、ど真ん中。間近で彼女を見詰められる席に着いた。

 贈り物とやらは、否が応でも想像がつく。座した彼女の目前で黒光りしているそれが、何よりの証だ。

 彼女は淀みない動きで、鍵盤に手を添える。その所作だけで、相応の研鑽を積んだのだと見て取れる。


「いくわよ」


 美帆は小さく呟くと、何か別の生き物が寄生したように、指を動かし始めた。およそ一人の人間の芸当とは思われない。

 小川のように穏やかな旋律だった。清聴する者に癒しを与える、温かで流麗な音色。

 何故だろうか。美帆の演奏は初めて傾聴するはずだ。曲だって、タイトルさえわからない。だというのに、どこか耳に馴染んでいて、出所知らずの力が湧いてくる。

 ふと、アパートにあった窓枠が思い出された。いつもあそこに寄りかかって、時に桜吹雪と、時に雨音と、時に枯れ葉のざわめきと、時に誰かの足音と交わるそれに、耳を傾けていたはずだ。どうして今まで想起しなかったのか。

 半ば呆然としたまま、一曲目が終わってしまう。条件反射的に拍手を送る。


「ありがとう。聴いたことのある曲だったでしょう?」

「ああ。不思議と」

「さあ、何故かしらね?」


 俺がピアノを耳にする機会。電子機器が制限されていた俺の生活では、そう多くない。つまり、解答は。


「日曜昼の?」

「ご名答よ。驚いたかしら?」


 驚いた、というよりも、腑に落ちたという方が近い。彼女は出逢う前からも、毎週のように俺を慰め、励ましてくれていたのだ。

 運命だ、なんて陳腐だろうか。だが、その事実がどうしようもなく嬉しくて、立ち上がった勢いそのままに舞台へ近づいた。


「美帆」

「何かしら」

「ありがとう」


 この気持ちを伝えよう。素直にそう思った。


「美帆のお陰で、何年もの間、俺は折れずに、直向きに頑張ってこられた。夢を諦めないで生きられたんだ。本当にありがとう」

「...ふふ。当然よ。あなたを支えることが、私の生き甲斐だもの」


 はにかむ美帆は、さながら天使や女神のようで。

 きっと彼女は、俺にだけ舞い降りた神の遣いなのだろう。


「さあ、次の曲よ。席に戻って」

「ああ」


 ぽふりと背を預ける。

 それを聞き届けた彼女は、再び鍵盤を叩いた。

 ステップを踏むように楽しげな音。体がリズムに乗り、自然と頬が綻ぶ。

 この感覚を、俺は知っている。付き合い始めて間も無く、二人でショッピングに出掛けたとき。彼女は人目も憚らず俺に抱きつき、対する俺は、照れながらもそれを甘受していた。そんな細やかな幸福が次々と脳裏を過る。

 そんな次の瞬間、転調した。

 雰囲気が暗くなり、美帆を見詰めるこの目の眉尻が下がる。

 回想するのは、些細な喧嘩の場面。美帆が観たがっていた、正確には聞きたがっていた映画のネタバレをしでかしたとき。正座で一時間を過ごした記憶は、中々薄れない。今となっては笑い話だが。

 短調を抜け、長調に戻り、一気に盛り上がりが最高潮へ達した。ビリビリと痺れるような鳥肌が立つ。

 これまた身に覚えがある。宇宙飛行士の訓練で使われる、白パズル。あの小スケール版を二人でクリアしたときの歓びに近い。

 駆け抜けるように曲が終わり、余韻に浸る。

 人間というのは、聴覚だけでこれほど感情に起伏が生まれるのか。


「凄いよ美帆。月並みだが、感動した」

「お褒めに預かり光栄よ」


 彼女は短く返して、間髪いれずに次を弾き始めた。耳が仄かに紅潮している。可愛らしい。

 改めて、彼女の技術は目を見張るものがある。偉そうに述べたが、素人目でさえ、他と一線を画すと判別できる。

 そして、その技巧故か、奇怪な現象が発生する。

 彼女の隣に人影が幻視された。神がかったスキルが魅せる幻影なのか。よく目を凝らせば、元通り美帆一人なのだが、どうにも二人分、折り重なって見えるのだ。

 非科学的な事態に頭の半分が疑念に支配される。

 ふと、彼女の表情を覗くと、笑っている。誰か大切な人に触れているような。


「ああ、そうか」


 俺の呟きと同時に、演奏が停止した。


「美帆。このピアノ、美月さんに学んだんだよな」

「ええ。その通りよ。...言ったかしら?」

「いや。ピアノを弾いているときの美帆が楽しそうだったからな」

「...そうね。凄く楽しいわ」


 俺は今、少しだけ美月さんに羨望を抱いていた。

 美帆にこんな顔をさせられる彼女の、存在の大きさに。

 俺も、そんな存在になれるだろうか。


  ◇◆◇


 私はお母さんとピアノが弾けて、とても楽しい。他の何をするより満ち足りた時間だと、胸を張って言える。

 けれど。私は大人になった。いつまでもお母さんに縋ってばかりではいられない。

 だからお母さん。私は今日、お母さんのピアノを卒業する。

 この曲で。


「次が最後の曲よ。侑李、舞台へ上がって」

「構わないが、いいのか? 美帆のコンサートだろう?」

「私が言うんだからいいのよ。早く」


 彼はステージに飛び乗り、私の傍に控えた。

 そんな彼の袖を引く。椅子に空けたスペースをぽんぽんと指しながら。


「ここへ座って」

「いや、弾きにくいだろう」

「いいから」


 連弾のような構図だが、彼はピアノに触れたことがない。無論、私も彼に弾かせるつもりはない。


「...少し無理をするわ。そのまま、私の傍にいて」

「無理? 何だ、負担があるのか?」

「難易度的に、ね。私が今でも苦戦する曲よ。...もっとも、ほぼ全てのピアニストが辛酸を嘗めることになるのだけれど」

「そういうことか。いいだろう。ずっと傍にいる約束だからな」

「ええ。お願いするわ」


 彼の手が腰に回される。ああ、やはり安堵する。

 相対するは、理論上不可能とさえ言われる曲。これを以て、私はお母さんに引導を渡す。


「いくわよ」


 頭で考えるより早く、指が回る。

 少しでも思考が逸れれば、それだけで失敗だ。集中を切らせば楽曲が崩壊する。お母さんの教えに拘っている暇もない。

 全神経を集中。心の根底にあるのは、すぐ傍の温もりに、天国の彼女に、最高の音を届けるという想いだけ。

 それはさながら、太陽に向かって自由自在に羽ばたく天使のよう。しかし、私は人間。イカロスがそうであったように、私もまた。

 一音外れた。

 失敗の二文字が脳裏を過ぎり、そこからドミノ倒しのように崩壊していく。

 だんだんスピードは落ち、私の胸中には諦念が生まれてしまった。

 限界だ。精神統一の反動か、神経が途切れたように、脱力を余儀なくされる。

 けれども。


「最後まで。な?」


 ピアノから離れかけた私の腕を、彼が引き留めた。

 もう無理だと、彼にもわかっているはずなのに。なんて残忍なのだろう。

 しかし。だからこそ、燃え上がる。

 指先に力が戻る。魂が声を張り上げるのだ。ここで諦めては、彼に面目が立たないと。

 何度も何度も指が縺れて、極度の没入に神経が焼き切れそうになって。それでも挫けずに、死力を尽くした。


「っはぁ! はぁっ...」

「お疲れ様」


 例え翼が炎に包まれようとも、灰になった羽で、最後まで足掻いた。

 息は荒く、指はピクリとも動かない。ともすれば、椅子から転げ落ちてしまいそうだった。

 けれど、そうはならない。なぜなら、彼が隣で抱き留めてくれているから。


「ふふ...どうだったかしら。私の演奏は」

「聴いていたよ。最高の特等席でな。美帆は無上のピアニストだ」

「当然よ。だって私は」


 お母さんの娘。そう言いかけて、止めた。

 私はもう、一人の足で歩き始めたのだから。

 しかし、敢えて言うとするならば。


「あなたの彼女だもの」

「...ははっ。これは俺も負けていられないな」


 私の肩を抱く彼の力が強くなった。それは決して不快でなく、明瞭な決意を感じるものだった。


  ◇◆◇


 彼女から旋律のプレゼントを貰った後。ふわりふわりと舞い落ちる雪を身に受けて、二人で夜の街並みを流す。電飾を楽しむ、なんて世俗的なことはしない。

 二人が揃っていれば、それだけで十分だ。


「改めて、誕生日おめでとう、侑李」

「ありがとう。至福の時間だったよ」

「ふふ。今まで秘密にしていた甲斐があったわ」


 何を厭うこともなく、俺の腕に頬を擦り付ける美帆。幸いなことに、周囲のカップルも似たり寄ったりで、別段目立っているということはない。


「なんだか、肩の荷が下りた気分だわ」

「そうなのか?」

「ええ。ようやく一区切りついたという感じね。目標も達成出来たことで、思い切って踏み出そうと思うのよ」


 彼女は、どこか誇らしげに胸を張って歩く。


「私、ピアノで家計を支えるわ」


 もし彼女が並み一通りの人材であれば、荒唐無稽な話だと一蹴しただろう。しかし、毎週聴いていた演奏と、先刻の演奏を考慮すると、強ち不可能ではないように思える。寧ろ、こぞって師事を仰がれるだろう。


「技術的にも精神的にも、目標はクリアできたわ。あとは実行あるのみよ」

「美帆がそうしたいなら、良いんじゃないか。当たって砕けろだ」

「礫になってさえ当たってやるわよ」

「ははは。その意気だ」


 彼女がやると言ったからには、必ず実現させてしまうのだろう。彼女は強かだ。俺の推定よりも、ずっと。


「まずは名を馳せましょう。メディア露出から始めるべきね」


 少々、勇み足な気もするが。


「ピアノ教室でも開講した方が堅実じゃないのか?」

「いいえ。やるからには大々的に、よ。アルビノだろうが視覚障害だろうが関係ないと、世間にアピールしてやるわ」


 ふんす、と鼻息荒くやる気を露にする。

 つくづく、俺の彼女はカッコいい。自分に真っ直ぐ向き合い、一度答えを出せば、二度と曲げることはないのだから。

 そんな気はなくとも、憧憬を抱いてしまう。


「侑李はどうなのよ」

「俺?」

「今の仕事が夢ではないんでしょう?」

「まあ、な」


 彼女に対して、隠すことでもない。今の生活で満足しているかと問われれば、答えは否だ。


「あなた、積極的に仕事の話は持ち込まないけれど、平日は物憂げだものね」

「鋭いな、まったく。その通りだ」

「そういえば、あなたの夢を訊ねたことはなかったわね。秘密だったりするのかしら?」

「いいや。そういうわけではない。...が、正直、迷っているんだ」


 確かに、俺には夢がある。なりたい職業は何かと尋ねられれば、即答できるような夢が。


「どういう風に迷っているのかしら?」

「新しく、夢が出来たんだ。興味が移ったとか、そういうことではなく、両方大切な夢だ」

「それで、どちらを選ぶべきか迷っている、と?」

「ああ」


 情けない。そんな罵倒が自分自身に向けられる。

 隣に並び立つ彼女はこんなにも澄みきっていて、淀みなく歩んでいるというのに。


「その夢は、どんな夢なのかしら?」

「...少しばかり、美帆の癇に障るかもしれない夢だ」

「あなたのことだもの。悪事を働こうというのではないでしょう?」

「それは、まあ」

「見くびられたものね。私はあなたをこよなく愛しているのよ? その愛情が、機嫌一つで崩れるなんて思わないことね」


 彼女は叱責するかのように、絡めた指へ力を込めた。

 その自信を、そのカッコ良さを、少しでも分けてもらいたい。


「...一つ目の夢は、学校での相談役。つまり、スクールカウンセラーというやつだ」

「なるほどね。なんというか、納得だわ」


 自分を顧みても、天職だと思う。これほど望みと合致する職もないだろう。

 俺は今まで、お節介野郎と茶化されても言い返せないほど、人間関係の揉め事に首を突っ込んできた。目の前で顰め面を晒されるのが我慢ならないというか。当然ながら、上手くいかなかったことも多く、そればかりか、余計に拗れさせることもしばしばだったのだが。

 けれども、俺はそうやって生きていきたい。救えるだけの人を救いたい。

 この願望は、高校に入ってから、茉里が死んでから、加速した。

 俺の胸中に住み着いた彼女が、そうしてくれと懇願しているのだ。それは俺の妄想だろうが。


「もう一つは?」

「...差別撤廃に関してだ」


 これは具体的なステップを意識しているわけではない。ただ、夢としての輝きは持っている。

 言わずもがな、この女性に影響されたのだ。

 彼女はその容姿で、様々な苦労を重ねてきた。それを強いる世の中を変えたいと思ったのだ。動機など、それだけで充分である。

 しかし当の彼女は、特別扱いそのものを嫌悪している。特に俺には、常人と異なるという意識さえ持たぬことを望んでいる。障害者ではなく、一人の人間としての扱いを希求しているのだ。

 そんな彼女にとって、俺のこの夢は裏切りにも等しい行為だと、勝手に解釈していたのだが。


「ふふ。あなたらしいわね。良い夢じゃない」

「そう思うか?」

「ええ。それ以外にどう思えと言うのよ」


 杞憂だったらしい。彼女は特段気にした素振りもなく、続ける。


「気に食わないことなんて何一つ無いわ。不当な待遇を受ける人を減らしたいという優しい願いを、私欲の為に否定するなんて、そんなことしないわよ」

「...そうだよな」

「ええ。胸を張りなさい。あなたは正しい。...とはいえ、だからこそ悩むのよね」


 そうなのだ。ここで彼女が否定してくれさえすれば、スクールカウンセラーという目標に邁進できたのに。


「こればかりは、私が口出しすべきことではないわね。じっくり悩んで決めなさい」


 はてさて。打算的に考えるならば、これまでの努力を無駄にしないためにも、心理カウンセラーを選ぶべきだ。

 だが、「それでいいのか」と、俺の中の彼女が呼びかける。

 「兄ちゃん、私のことで悩むなよ」なんて、何を今更。俺が今までどれだけ腐心してきたと。幻影の分際で、俺をどこまでも弄ぶ気か。


「でも私はね」

「...は?」

「侑李?」


 そこで目に映った光景に、思わず美帆の声すら遮ってしまった。

 茶色く、カールしたセミロングの髪。見間違うはずもない。死んだはずの、俺の妹、茉里そのものだ。


「は、はは」


 俺の脳は、差し迫ったこの難題に、大層困窮しているらしい。幾度も夢に見た光景を、現実に投影してしまうほど。


「兄ちゃん、その人が大切だよね」


 声まで再現、なんて、質が悪すぎる。


「その人のためになる夢を選びなよ。過去に囚われるようなら、あのクソ親父と同じだ」


 ギリ、と歯を食い縛る。俺の心根がそうほざいているのかと思うと、ヘドが出るようだった。

 俺にとって、茉里は家族だ。男女としての愛情は兎も角、家族としての親愛は、美帆と比べても遜色無い。その彼女を蔑ろにするようなことを、俺の深層は。

 茉里は笑顔を湛えて、車道へ飛び出す。こんなところまであの悪夢とそっくりだ。


「侑李」


 異変を察知したらしく、美帆が俺の名を呼ぶ。構わずに、茉里へ向かって手を伸ばした。

 しかし。悪夢の結末がそうであるように、彼女の身体には届かない。

 そのまま茉里の姿態は霧散し、俺が伸ばした左手には、やはり何も残らなかった。

 血の気が引いていくと同時に、思考もクールダウンしていった。

 あの夏以来、割り切ったと思っていたのに。雅人に諭されて、美帆にも知見を貰って。乗り越えたつもりが、そうは問屋が卸さなかった。

 これから先も、こんな風に翻弄されるのだろうか。俺の内に眠る、昏い眼をした姫君に。


「悪い。取り乱した」


 一人で錯乱し、彼女を放置していたとあって、非常にばつが悪い。

 しかし、それに苦言を呈することなく、美帆は力強く、手を繋いでくれた。


「あなたがどの道を選ぼうと、私はそれを応援するわ」


 まるで、俺の内心まで見透かすような瞳で、俺を見詰めて。


「ただ、私は夢を追いかけるあなたが大好きよ」


 その何気ない惚気が、俺のスイッチを押した。

 恐らく俺は、茉里のことを、真に飲み込むことができないだろう。無限の幻を造り出し、都合よく登場させるだろう。

 けれども、右腕の温もりがある限り、俺は踏み外さない。彼女が俺の手綱を持っていてくれるなら。

 自分は単純なのだと突きつけられている気分だったが、存外悪くない。

 結果的に、最善の選択が出来るなら、それで。


「ありがとう、美帆。俺、決めたよ」

「あら。あっさりね」


 「もういいよ、兄ちゃん。美帆さんに付き合ってあげて」なんて、妄言もいいところだ。なぜなら、俺が返す言葉は。


「俺が選ぶのは、両方、だ」


 いつから片方だけしか選べないと思い込んでいたのか。どちらも捨てられないなら、どちらも選べば良い。何を迷うこともない。


「ん、ふふっ。やっぱり、あなたは馬鹿ね」


 酷い言い種だ。反駁の余地も無いが。


「でも、それでこそ侑李よ」


 きっとこの道は、酷く険しいだろう。二つの異なる職種に、優劣なく挑もうというのだから。従来とは比べ物にならない奮励努力を要求されるはずだ。

 だが、それでも。この夢たちは、追いかける価値がある。


「頑張って。私の王子様」

「お互いにな。お姫様」


 微笑み合った。

 こんな、互いに励まし合う関係が、いつまでも続けば良いと思う。


「今日は何かと貰ってばかりだな」

「そうかしら?」

「ああ。美帆の誕生日には、きっちり返さないといけないな」

「気にしなくても良いわよ? あなたには、いつも貰っているもの」

「いいや。そういうわけにいかない。とびっきりのものを用意するから、楽しみにしていてくれ」


 遠慮しながらも、どこか期待の籠った眼差しを寄越す美帆。素直になりきれない健気さに、愛しさが込み上げた。

 既に準備には着手している。何せ費用がかかるのだ。乾さんとも話し合い、いくらか融通を効かせてもらえることになってはいるが、いずれ返済せねばならない。

 だが、そのデメリットを補って余りある、人生でも指折りの誕生日パーティーとなるだろう。


  ◇◆◇


 元旦から二日経って。私たちは、やけに混み合う電車に揺られていた。

 私は列車の壁に背をつけているからよいものを、私を守護するように立っている彼は、他の乗客からぎゅうぎゅうと圧迫されているらしい。体重こそ私に掛けぬよう踏ん張ってくれているが、密着した心臓の鼓動は、少しばかり激しい。


「ありがとう。侑李」

「っ、はは。もう少し頑張るさ」


 男が強がっているときは礼だけを述べよと、いつだったか、お母さんも言っていた。まさかその言葉を、こんな形で実現することになるとは思わなかったけれど。


「ふぅ。降りるぞ」

「ここからは楽よ、ね?」


 どうにか車内を脱出し、乗り換えたはずなのだが、周囲のざわめきが収まらない。


「帰省ラッシュというやつだな。足場があるだけマシか」

「逞しいわね」


 彼は、職場の都合で満員電車に乗ることも珍しくないという。私の侑李にこんな苦行を強いるとは、全くもって社会が恨めしい。

 しかし今ばかりは、白昼堂々侑李に密着できるとあって、この人口密度も悪くない。


「美帆? そこまで引っ付かなくとも」

「こうでもしないと倒れてしまうわ」

「いや、そんなことは」

「倒れてしまうわ」


 あくまで、人口密度のせいなのだから。


  ◇◆◇


 望んでもいない押しくらまんじゅうを継続すること一時間。美帆を伴うのは数回目となる、俺の実家だ。

 正月に相応しい快晴の青空。放射冷却の所為か、寒さもひとしおだが、同時に清々しい。それに、右腕で絡み付く、モコモコ装備をした彼女の体温で、十分に暖は取れる。

 幸福を感じる一時ではあるが、このままでは目的を果たせないので、無慈悲にも引き剥がす。勿論、手だけは繋いだままだが。


「明けましておめでとう」

「明けましておめでとうございます」

「明けましておめでとう! よく来たわね! 上がって上がって!」


 玄関をくぐって五秒と経たずに母さんが出てきた。

 母さんは俺が帰る度、いつもテンションマックスで迎えてくれる。恥ずかしいから止めてくれと、何度も言い募っているのだが。

 母さんに先導されるまま和室に入ると、厳かな雰囲気を身に纏った親父の姿がある。


「明けましておめでとうございます。本年も、愚息をどうかよろしくお願いいたします」

「お父さん、そんなに畏まっていたら美帆ちゃんも息苦しいわよ」


 相変わらずな親父。美帆に対しては厳格というより、異常に丁寧だ。曰く、俺なんぞを好んでくれる人はそういないので、丁重に扱っているのだとか。余計なお世話だ。


「ちょうどおしるこを作っていたのよ。良かったら食べていって」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせて貰います」

「お椀を出すの、手伝ってもらってもいいかしら」

「はい。勿論です」


 母さんは何かと面倒見が良い。ああやって手伝わせがてら、家の情報を伝達している。たまに俺の黒歴史も飛び出すので、油断はならないが。

 それは置いておくとして、今は。


「親父、一ヶ月後、よろしく頼む」

「心得ている。...あまり誉められたことではないが」

「一生に一度の我儘だ。...なんとしても美帆を驚かせてやりたいんだよ」


 胡座をかいた親父に耳打ちする。すると親父はクスリと笑って、鷹揚に頷いた。


「母さんにも、よろしく言っておいてくれ」

「ああ。...とても楽しみにしていたからな」

「はは。だろうな」


 両親の協力も取り付けて、いよいよ後に引けなくなった。とはいえ、彼女のために、という意思は固い。なんとしてもやりきってみせよう。


「お待たせしました。お母さん特製のおしるこよ。侑李ったら、昔はお餅が余る度にせがんできたのよね。懐かしいわ」

「あら。可愛らしいわね」

「うるさいな。いいだろ。子どもだったんだから」


 拗ねたような振る舞いをすると、美帆ははにかんだ。毒気がみるみる抜けていく。


「母さんのおしるこは絶品だ。無理もない。美帆さん、是非ご賞味ください」

「お父さんったら。お上手なんだから」


 親父は稀にこうやって、天然で惚けた発言をする。母さん曰く、それがチャームポイントらしい。

 美帆も、ごくたまに無意識に甘い台詞を宣うので、気持ちは分かる。


「美帆、食えるか?」

「ええ。舐めないで頂戴。おしるこのひとつやふたつ、造作もないわよ」


 と言いつつ、口端からあんこが垂れている。


「ほら美帆」

「ん」


 苦笑いと共に、布巾で拭ってやる。

 美帆の口周りが綺麗になるのを確認すると同時に、母さんのニヤニヤ笑いも捉えた。

 俺の頬に熱が溜まる。いつもの癖で、というのは言い訳にならないか。

 更に悪いことに、母さんは。


「美帆ちゃん、誕生日はいつなの?」

「んっ! えほっ!」

「侑李? 大丈夫?」

「あ、ああ。大丈夫だ」


 キッと母さんを睨み付ける。何を考えているのか。ネタバラシだけは笑えない。

 年齢不相応の茶目っ気を多分に含んで、母さんは口の動きだけで言葉を紡ぐ。恐らくだが、バレていないか見極めるつもりらしい。ギャンブラーにも程があるだろう。


「えっと、私の誕生日は来月の七日です」

「そうなのね。侑李、ちゃんとプレゼント、用意するのよ?」


 無意味な心労を負わせられるこちらの身にもなってほしいものだ。

 美帆は黙々と、おしるこを口に運んでいる。何かに勘づいたような態度は見られない。

 ほっと胸を撫で下ろしたそのとき、親父までもが口を開いた。


「侑李。しっかりな」

「...ああ。わかっている」


 また余計なことを。と批難したくなったが、親父は至って真面目な形相。尚更始末が悪い。


「ふふ。お義父さんとお義母さんのお陰で、ハードルが上がってしまったわね」

「構わないさ。その期待、応えてみせよう」


 美帆が察知していないならば、俺からは何も言うまい。この可憐な微笑みに免じて、両親の不徳は水に流す。

 ワクワク半分、緊張半分。素晴らしい日にしようという決意を胸に、準備を進めていった。


  ◇◆◇


 二月七日。私の誕生日。

 平時のデートと比べ、お化粧にも気合いを入れている。と言っても、実際には父の遣いさんが施してくれたのだが。

 今日は侑李が立てたプラン通りに進行するらしく、まずは車で移動とのことだった。

 私としては、彼に寄り添って歩くことに至福を覚えるのだが、我欲は露呈すまい。彼が私のために綿密な計画を立案してくれたのだ。移動時間さえ惜しいということだろう。


「ねえ、どこへ向かうのかしら」

「秘密だ。ただ、着いた先で着替えてもらうから、そのつもりでな」


 疑問符が羅列する。季節外れの水泳、なんて馬鹿馬鹿し過ぎる。加えて、私が運動嫌いなのは承知のはずだ。しかし、他に更衣を必要とする行為も発想できない。


「多分、予想しても無駄だ。それくらい突拍子もないことだからな」

「気になるわね」

「すぐに着く。期待だけしておいてくれ」


 自信満々といった声色だ。笑い話を除外するとしても、彼が物事を過大評価することは滅多にない。つまり、いくら期待を掛けようと超越する程の何かが待ち受けているということだ。

 気もそぞろに彼の手を握ったり弛めたりを繰り返す。


「さあ、到着だ」

「あら。本当に近いのね」


 車を降りても、アミューズメントパークのような騒音はしない。寧ろ静謐と評して差し支えない。

 そこで唐突に、人の気配。洗練された歩法をする人だ。


「お客様、こちらへ」

「美帆、また後でな」

「ぅえっ? どこかへ行くの?」

「ああ。俺も着替えにな。...おっと、ギリギリすぎたか。また三十分後に」

「ちょっと」


 そう残して、彼は駆け足で去っていった。

 機嫌が急降下する。私をほっぽりだして、他所へ向かうだなんて。見損なったどころではない。戻ってきたらお説教だ。

 私を知り尽くした彼のことだから、考えあってのことだろうが。


「お綺麗でございます」

「そう」


 やけに手間のかかる着付けが終了した。増加した体重から考慮するに、随分と豪華なドレスだ。少しだけ心持ちが上昇する。

 約束通り、三十分後だ。彼の来訪を待つ。

 コンコン、とノックの音。しかし、気分は乗らない。明らかに、彼のそれとは異質な音である。


「美帆。綺麗になったね」

「...どうしてここにいるのよ」


 我が愚父、乾一正。侑李とのデートという神聖な時間に、もっとも無粋な存在だ。


「邪険にしないでおくれよ。一応、企画を手伝ったんだからね」

「ふぅん?」

「本当だよ。それより出番なんだ。一緒に来てくれないかい」

「私は侑李に迎えてもらうのよ」

「その彼のところへ連れていくとしてもかい?」

「む...」


 父親は愚かだが、嘘を吐かない人間だ。これも企画の内というのであれば、彼の為にも、従わざるを得ない。


「僕の手を取ってくれるかい?」

「嫌よ」

「そこをなんとか。話が進まないじゃないか」

「...はぁ。仕方ないわね」

「ありがとう。...これで最後だからね」


 しみじみと呟いたらしいが、あまりに小さい声量で聞こえなかった。まあいい。どうせろくなことではないだろう。

 着用したドレスだが、どうも裾が長い。どれだけ気を配っても、地に擦れてしまう。その上、何か顔に被さるものがあるのだ。これで完成だと言われた以上は甘んじて受け入れているが、歩きにくいったらない。


「さあ、入場だ」

「入場? 侑李はどうしたのよ」

「中にいるよ。僕は、彼の元まで美帆を連れていく役割なんだ」


 寂寥が混じった声音で、父は言う。

 彼の尋常ならざる様子に、封印していた猜疑心が鎌首をもたげる。そもそも、ここは何処なのか。当たり前の疑問が脳内で膨らむ。

 そんな疑念は、扉の奥からのアナウンスによって雲散霧消する。


「新婦の入場です」

「へ?」


 独りでに扉が開いた。薄暗い部屋で、最奥だけが眩い光を放っている。

 いやそんなことよりも。今、新婦と言ったか。私のことを。


「美帆」

「え、ええ」


 混乱に混乱を重ねたまま、手を引かれて歩き出す。数メートルかそこら歩みを進めたところで、父の手は離れた。


「あとは、よろしく頼むよ」

「はい」


 そして、逆側の隣から侑李の声。

 腕を組むと、毎度のように安堵が先行し、たちまち困惑は収まった。けれども、疑問は残留する。

 しかし、それさえ覆ってしまうような、小さいけれども優しい声で、彼は言った。


「誕生日おめでとう、美帆」


 その一言で理解した。これこそが、彼の用意した誕生日プレゼントなのだと。


「驚いてもらえたか?」

「...ええ。本当に驚いたわ。まさか、こんなことを企んでいたなんて」


 到底バージンロードで交わす会話ではない。

 サプライズブライダルなんて、誰が想定するというのか。


「この愛を表現するには、このくらい必要だったんだ」


 やはり、彼は馬鹿なのだ。常識外れで、恋に盲目で、どこまでも純粋に、私の幸福を願ってくれる。


「ありがとう、侑李」


 最大級の感謝、そして歓喜を伝えるべく、笑みを返した。

 種明かしのバージンロードも終わりを迎え、神父の前へ。


「侑李さん。あなたは、妻を愛し、敬い、慰め、助けて、変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の灯の続く限り、あなたの妻に対して、堅く節操を守ることを約束しますか?」

「はい。誓います」


 何の躊躇もなく言ってくれる。

 ああ。どうしてこんなにもいとおしいのだろう。

 彼を世界の誰よりカッコいいと思う。誰より私を想ってくれて、一緒にいたいと願ってくれる。私の為を想って万事を尽くしてくれる。

 この左手の温もりから、彼の強さ、優しさ、愛情の全てが伝わってくる。

 良縁に恵まれた私は果報者だ。


「美帆さん。あなたは、夫を愛し、敬い、慰め、助けて、変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死が二人を分かつときまで、命の灯の続く限り、あなたの夫に対して、堅く節操を守ることを約束しますか?」


 迷いはない。サプライズで、なんて、心構えも何もあったものではないけれど。

 それでも私は、この人のことを。侑李のことを、愛しているから。


「はい、誓います」


 これから先、一生涯、侑李と添い遂げる。

 否。死が訪れてさえも、二人で共に歩もう。


「指輪の交換を」


 侑李は、私の左手を引き上げて、そっと囁いた。


「遅ればせながら。結婚してくれ。美帆」


 その場違いな言葉に、思わず笑ってしまった。


「ええ。勿論よ。侑李」


 笑顔のまま肯定すると、薬指にリングが嵌められた。

 今度は私の番だ。

 差し出された左手をそっと受け取り、指環を手に持つ。


「幸せになりましょう」

「ああ」


 ありふれた言葉。けれども、その言葉そのものが、幸せを運んでくれていた。

 彼のゴツゴツした指に、輪を通す。


「誓いのキスを」


 顔に被さっていたベールに、彼が手をかけた。

 ゆっくりと、視界の光度が増していく。

 いつの間にか、一杯の光が私たちを包んでいた。


「眩しかったか」


 彼は苦笑気味だった。

 そんな折。

 真っ白な視界に、何かの形が見えた。

 黒い影ではない。この視界を統べる白よりも、もっと白く、輝くような。


「ティアラ」


 言うなれば、白銀。白銀の冠が、視界に現れていた。

 それが、この目で見た、始めてのものだった。

 きっと彼には見えていない。私にだけ見える、私だけのティアラ。

 愛故の奇跡。

 過去においても、未来においても、私が物体をこの目で捉えることは、二度とないだろう。けれども。

 今この瞬間だけで、充分だ。


「まぶしいわ。ええ、本当にまぶしい。今までの人生も、これからの未来も」


 光のティアラにも負けない、輝く笑顔で。

 私は彼と、夫婦の契りを交わした。


  ◇◆◇


 婚姻の儀式は恙無く幕を閉じ、披露宴へと移った。

 とはいえ、参加者は非常に少ない。うちの両親に、乾さん、雅人くらいなものだ。異常なまでに顔が狭い。


「新郎新婦、再入場です」


 だが、お陰でアットホームに会が進む。

 俺たちは仲睦まじく、手を繋いで席についた。


「ひゅーひゅー! お熱いねえ!」

「うるせえ」


 雅人がこれ見よがしにからかってくる。だが、それもまた一興だ。

 お色直し後の美帆の装いは、ウェディングドレスのスケールを僅かに縮めたような、白いドレスだ。女神と称して何ら違和感のなかったウェディングドレス姿とはまた違って、人の身に許された可憐さを孕んでいる。


「祝電披露に移りたいと思います。新婦様の元担任の方から頂きました。代読させていただきます」


 間延びした声の、あの女性だ。当然ながら、教師らしくかっちりした文体である。


「どうか私の分までお幸せに」


 司会がしみじみと読み終えた。あの人、未婚だったのか。


「続きまして、新郎様のご友人の方々です。どうぞ!」

「...は?」


 こじんまりとした披露宴会場の戸が、思いきり開け放たれた。そこから数人の見知った顔がぞろぞろと雪崩れ込んでくる。

 漏れ出た声が代弁している通り、台本にはない。


「侑李君! 結婚おめでとう! 是非爆発してね!」

「侑李よ。結婚しても、我との契約は忘れていまいな? ずっと友達だぞ? な? な?」

「べ、別におめでとうとか、思ってねえからな!」


 何年も前に、俺のお節介を被った奴等がわらわらと集まってきた。どいつもこいつも、一癖も二癖もある奴ばかりだ。


「雅人。お前」

「にっしっし。驚いただろ? サプライズはお前だけの特権じゃないんだぜ?」


 悪戯っぽく笑う雅人。

 彼が連れてきた俺の友人たちは、口々にお祝いとも僻みともつかない言葉を述べていく。

 けれど、その概ね全てが肯定的だった。

 今この瞬間ほど、俺の人生が報われたと感じたことはない。


「侑李! お嫁さんと幸せにな!」


 そう声をかけられるだけで、活力が湯水のように湧き上がる。

 やっぱり、夢を捨てないで良かった。

 俺はこれからも、この感覚を味わうことができるのだ。


「みんな...ありがとう!」


 俺は今、人生で最も輝いた笑顔を湛えている。


  ◇◆◇


 一気に参加人数が増え、騒がしくなった披露宴。

 たまにはこういうのも悪くない。


「続いては、新婦様のご両親から、お祝いのメッセージです」


 ご両親、という言葉に、引っ掛かりを覚えた。

 しかし、言い間違えだろうと踏んで、動揺は見せない。何にせよ、流れは侑李と父親が知っているはずだ。


「えー、美帆の父親の、乾一正と申します。よろしくお願いします」


 らしくもなく、緊張でもしているのか、心なし、声が小さい。


「五年前の夏、私の妻、美月は亡くなりました」


 緊張しているにしても、空気の読めない男だ。事実ではあれど、祝いの席でする話ではない。


「その妻から、結婚祝いの手紙を預かっているので、これを代読させて頂きたいと思います」

「...え?」

「サプライズ、成功だな。美月さん」


 隣の彼が、そう呟いた。


「美帆。侑李君。結婚おめでとう。こんなに仲良しの二人だから、きっと結婚するんじゃないかと思っていたわ」


 私の左手が、そっと侑李に握られた。

 ああそうか。これはお母さんが、彼に託した遺言状なのだ。

 今日という未来を、私がお母さんへの執着を脱し、新たな門出と共に大人になるこの未来を、期待して書いた手紙なのだ。

 最期の最期に、とっておきのサプライズを用意してくれた。


「美帆。あなたは甘えん坊で、強情で、でも気高くて聡明な、可愛い自慢の娘よ。ママっ子すぎたのが珠に傷かしらね」


 うるさいわよ。他に甘えられる人が居なかったんだもの。甘やかすお母さんにも否はあるじゃない。


「私が側にいられなくなって、少し変わったのよね。前よりも明るくなったわ」


 ええ。左手の、温もりのお陰でね。


「今ですら見違えるほどだもの。未来の美帆。大人になって、綺麗になった美帆を、この目で一目見られないのは残念だけれど」


 そうよ、お母さん。私は綺麗になったのよ。お洒落にも気を使っているし、最近はメイクまで勉強し始めたわ。髪だって、きちんと手入れしているわよ。髪は女の命、だものね。


「私が見てあげられない分、侑李君。君が見てあげてね」

「はい。必ず」


 隣の彼は、声が震えていた。

 かく言う私も、酷い顔をしているのだと思う。


「侑李君。君にはまず謝罪をしないといけないわね。辛い役回りばかり押し付けて、こんな手紙まで書かせてしまって、本当にごめんなさい。でも、私の可愛い娘を娶ろうというのだから、このくらい受け止めてもらえるわよね」

「...はい。勿論です」

「気が強くて、我儘な娘だけれど。どうか、ずっと隣で見守っていてあげて。私の最期のお願いよ」

「当然、ですよ」


 固く誓うように、彼は私の手を強く握り締めた。


「一正さん。気が弱くて、間が抜けていて、すぐに周りが見えなくなる、私の旦那様。...酷い言い草だね」


 表面上は落ち着き払って、でも、隠しきれない震えが、声に出ている。


「でも、素敵な私の王子様。私を世界で一番愛してくれた人。どうか私の分も、二人を見守って、支えてあげて。カッコよく生き切った後で、また逢いましょう」


 お父さんは、涙を拭って続きを読み続けた。


「美帆。侑李君。二人ならきっと、どんな困難にも打ち勝って、幸せを手に出来ると思うわ。くれぐれも、今が最高にならないように。これからもずっとずっと、二人で幸せを創っていくのよ。...幸せそうな二人を、その愛の結晶を、見られないことに胸が張り裂けそうなほどの悔しさを覚えるけれど。でも、今は未来を想像するだけで充分。ずっと笑顔のまま、希望の道を歩んでいって。その先で、私も笑って待っているから」


 ええ。楽しみにしているわ。

 誰よりも幸せになって、お母さんに会いに行くわよ。


「結婚おめでとう。お幸せにね」


 そのときはまた、優しく抱き締めて。


  ◇◆◇


 新郎のスピーチ。

 俺の覚悟を、この会場の皆と、天国にいる美月さんに届ける。


「美帆さんとの出会いは、それは酷いものでした。あんな恥を晒したのは、生まれて始めてです。美帆さんも、きっと俺のことを変人だと思っていたことでしょう」


 吸血鬼。そんな言葉で始まった関係だった。

 今思えば馬鹿馬鹿しい。


「それから関係が進んでいって、友達になりました。馬が合う、気心知れた友人。その友情がいつのまにか、恋慕の情へ変化していきました。数々の困難を乗り越えて、今の二人がここにあります」


 今ではすっかり、お互いに最愛の人だ。


「そうして俺たちは今日、更に関係を進め、夫婦になりました。家族としての絆を育むことを誓い、誰にも切れない縁を結びました」


 この会場にいる全員が、その証人だ。


「だからこそ、今この場で誓いを立てます」


 そして、この誓いの証人にもなる。


「俺は一生涯美帆さんと添い遂げ、気高く、強く生き抜き、誰より彼女を愛し、彼女を世界で一番幸せにします! 彼女が胸を張って幸せだと叫べるような世界を創ります! どうか、俺たちを支えてください!」


 勢いそのままに、九十度の礼をした。

 そして、熱烈な拍手を以て、その言葉は承認されたのだった。


「ふふ。カッコいいところを見せられてしまったわね。...私も負けていられないわ」


 俺が座ると同時に、美帆が立った。


「私も、ここで誓いを立てます」


 口許には、獰猛とさえ言える笑みが浮かんでいる。


「誰よりも侑李を愛し、世界で一番幸せにします! 皆に幸せを振り撒いても尚お釣りが来るぐらいの愛を、死ぬまでずっと、死んでからもずっと、育み続けます! 幸せ一杯の、未来を創ります!」


 思わず、抱き締めていた。

 誇り高く、愛に満ちた双眸に、視線が吸い寄せられる。


「愛してる」


 周囲に目もくれず、彼女に誓いの口づけをした。


「私もよ」


 そして彼女は、満面の笑みを浮かべたのだった。


  ◇◆◇


 陽光が差し込み、穏やかな風にカーテンが孕む。

 純白の淑女は、音を発しないピアノに指を這わせ、ゆったりとしたメロディーを弾く。

 子守唄のような、優しさに満ちた旋律。

 彼女の表情もまた、慈愛に満ち満ちていた。

 そんな彼女の隣には、若い男性が腰掛けている。

 彼もまた優しい面持ちで彼女の指先を見詰め、肩を抱いていた。


「あまり激しい曲は駄目だからな」

「ええ。わかっているわよ」


 女性は、左手をそっと鍵盤から離し、自身の腹部へ当てた。

 男性もまた、右手をそっと彼女の腹部へ。


「お母さん。分かるかしら。念願の、私たちの子どもよ」


 慈しむような表情で、純白の淑女は自身の腹を撫でる。

 暖かな自然の息吹が、新たな生命の誕生を祝福していた。

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