87 隣に立っているはずのスゥを
次の瞬間、ンドペキは見たこともない場所に立っていた。
清々しく、冷涼な空気。
抜けるような青空。太陽の光が眩しい。
荒涼とした大地。
百年以上前に流行した、バーチャル体験そのもの。
時空を瞬間移動したわけではない。
まるで自分の身が別世界に飛んだかのような、偽の世界。
実際はあの横穴のどこか、ひとつの部屋の中にいるはず。
声が出なかった。
スゥの顔を見たいと思ったが、それは周りの状況を把握してから。
ここは、お遊びでバーチャル体験をさせてくれる娯楽室ではない。
シェルタを防御する仕掛けの中。
安全であるはずがない。
何らかの攻撃を受けるのか、あるいは、心が支配されるのか。
完全に作りこまれた世界で、己の感情と思考を正常に、かつ客観的に保つことは難しい。
今から、あるいは既に、何らかの感情コントロールが始まっていると考えておいたほうがいい。
壁が実体化するというような物理的であからさまなバリヤではなく、手の込んだ罠。
目の前に広がる世界。
ゆるやかに上っていく稜線。
頂上付近は雲が掛かって見えないが、おおらかな地形が続く。
石ころだらけの大地は、ところどころに黒々とした森を育み、人の手が及んでいない様子が見える。
気温は低く、空は青く澄んで、大気の汚染濃度は計測不能なほど低い。
遠くに雷鳴が轟いていた。
景色の中に動くものはない。いかなる音も聞こえない。
これは景色だろうか。
それとも、二次元の絵画だろうか。
ンドペキは黙って、微動だにせず、目の前の稜線だけを見つめた。
体のどこか一部でも動かせば、一言でも声を発せば、この景色は瞬時に折り畳まれ、万華鏡の世界に閉じ込められてしまうかもしれない。
あるいは、舞台の幕が落ちるように景色は消え失せ、罠の本体が姿を現すのかもしれない。
かなり長い間、さまざまな可能性に頭を回転させながら、稜線だけを見つめていたが、ふと風を感じた。
バーチャルであろうと、この空間に、自分の肉体が存在していることだけは確かなようだ。
いや、この感触さえも……。
つないだ手が握り返された。
スゥがすぐ横に立っている。
気配が感じられる。
ゴーグルにもそれとわかるマークが付いている。
しかし、顔を向けることは躊躇われる。
体を硬直させ、ンドペキの目は稜線をなぞっていった。
ふと、不安が胸をよぎる。
本当に、スゥなのか。
目を向けたとき、目と鼻の先に見えるものは……。
亡者のような姿の者、異形の者だったら。
あるいは、手を握られている感触だけがあるのだったら。
スゥがすぐ横にいるにもかかわらず、自分には他の者に見えたり、何もないように見えるのだったら。
恐怖は急速に大きくなり、ンドペキは握った手を強く握り返した。
反応はない。
とうとうンドペキは、頭を少し動かし、隣に立っているはずのスゥを見ようとした。