第6話:賢者の洗濯と、世界を終わらせる染み抜き
第6話:賢者の洗濯と、世界を終わらせる染み抜き
日だまり郷の朝は、抜けるような青空から始まる。
涼やかな風が吹き抜け、小鳥のさえずりが心地よい今日の天気は、まさに「洗濯日和」であった。
丸太小屋の裏手にある井戸のそばで、銀髪の美しい女性が、額に汗を浮かべながら木桶と睨み合っていた。
彼女の名前はエルミナ。かつて王都の魔法学術院において、建学以来の天才と謳われ、史上最年少で『賢者』の称号を授けられた最高位魔導士である。
だが現在の彼女は、地味なエプロンドレスに身を包み、腕まくりをして「ただの洗濯係」としてこの村に居候していた。すべては、アルドという常軌を逸した存在から「真の魔術(本人曰く家事)」を学ぶためである。
「くっ……! なんという強靭な結界……! いや、これは汚れそのものが概念的に定着している……!?」
エルミナは、水に濡れたアルドのエプロンを両手で握りしめ、ギリッと歯ぎしりをした。
エプロンの裾には、昨日アルドが特製ポタージュを作った際についた「謎の赤いシミ(アルド曰く、ただのトマト果汁)」が付着していた。
しかし、エルミナの『真理の眼』には、それがただのシミではないことがはっきりと見えていた。アルドが育てたトマトは、彼から無意識に流れ出る神話級の魔力を限界まで吸い込み、すでに『精霊樹の果実』に近い霊物へと進化している。その果汁のシミは、並の魔法防御壁など容易く貫通するほどの高密度な魔力結合体と化していたのだ。
「私としたことが、アルド様のお召し物の汚れ一つ落とせないなど……! こうなれば、奥の手です!」
エルミナは木桶から一歩下がり、両手に極大の魔力を集中させた。
周囲の空気がビリビリと震え、井戸の水が重力を無視して空中に浮かび上がる。
「大気の水精よ、我が呼びかけに応え、全てを洗い流す清浄の牙となれ……『第七階位・水竜の激流』――の、超極小・部分展開!!」
賢者の名に恥じぬ、恐るべき魔力制御。
本来ならば王都の城壁すら一撃で粉砕する超大魔法を、エルミナは指先ほどのサイズにまで圧縮し、エプロンの「シミ」の一点のみに向けて放った。
シュゥゥゥゥッ!! と凄まじい水圧がシミを直撃する。
しかし――。
「なっ……!? 弾かれた!?」
最強の水魔法による直撃を受けても、トマトのシミは一切の色落ちを見せず、あろうことかエルミナの魔法を「栄養」として吸収し、わずかに赤みを増したように見えた。
「ば、馬鹿な……。私の最高魔力が、ただのトマトのシミに敗北するなんて……。これでは、アルド様の役に立つどころか、ただの飯食い虫ではありませんか……ッ!」
絶望に膝から崩れ落ちそうになったエルミナの背後から、のんびりとした声が響いた。
「おや、エルミナ。お洗濯、苦戦しているみたいだね」
「ア、アルド様!? も、申し訳ありません! 昨日のトマトのシミが、私の未熟な魔力……いえ、洗い方ではどうしても落ちなくて……ッ!」
涙目で謝罪するエルミナに、アルドはニコニコと笑いながら近づいてきた。
「あはは、謝ることなんてないよ。あのトマト、すごく実が詰まってて色が濃かったからね。普通の水洗いじゃ落ちないのも無理はないさ。ちょっと貸してごらん」
アルドはエルミナからエプロンを受け取ると、懐から小さな小瓶を取り出した。中には、少し濁った灰色の粉が入っている。
「こういう頑固な汚れにはね、特別製の『石鹸粉』を使うんだ。裏山の木を燃やした灰と、少しの油を混ぜて作ったお手製のやつさ」
アルドはそう言うと、エプロンのシミの部分にその粉をパラパラと振りかけ、木桶の水に浸した。
――エルミナの全身の毛穴が、一気に開いた。
(あ、あれは……『裏山の木』!? まさか、かつて神々が封印したとされる『世界樹の枯れ枝』を薪にして燃やした灰!? そして混ぜ合わせた油とは、先日レイヴン殿が解体した災害級魔獣『災厄の猪』の脂肪……!? そ、そんなものを混ぜ合わせれば、対消滅の原理で大爆発が……ッ!!)
エルミナが悲鳴を上げそうになった瞬間。
「そして、こうやって……生地を傷めないように、トントン、と叩き洗いをするんだよ」
アルドが、右手の指先で、シミの部分を軽く「トントン」と叩いた。
パォォォン……ッ!!
エルミナの耳に、宇宙の創世の如き「空間が割れる音」が響いた。
アルドの指先から放たれたのは、ただの物理的な打撃ではない。対象の「汚れ」という概念そのものを時空の彼方へ吹き飛ばす、超高次元の『事象改竄の振動波』であった。
アルドが「トントン」と叩くたびに、世界樹の灰と魔獣の油が奇跡的な化学反応(魔法融合)を起こし、シミの構成要素を原子レベルで分解していく。
「ほらね、綺麗に落ちただろう?」
「…………あ、あぁ……」
数秒後。アルドが水から引き上げたエプロンは、新品同様、いや、元の布地よりもさらに純白に輝き、神聖なオーラすら放っていた。
エルミナは腰を抜かし、地面にへたり込んだまま、震える手で懐のメモ帳を取り出した。
(き、記録……! 記録しなければ……! 『第八種・概念洗浄(トントン洗い)』。アルド様の指先一つで、対象に付着したあらゆる『不浄』は事象の地平へと消滅する。これこそが、神の御業……!)
「どうしたのエルミナ、顔色が悪いよ? やっぱり日差しが強すぎたかな。残りは僕が干しておくから、少し木陰で休んでいてね」
「も、もったいなきお言葉……! しかし、私はこの眼で、アルド様の『奇跡』を最後まで見届けなければ……ッ!」
「……? そ、そう? 洗濯物干すだけだけど」
首を傾げながら、アルドは洗い終わったシーツやエプロンを籠に入れ、物干し竿へと向かった。
そして、パンパンッ! とシーツのシワを伸ばすために、勢いよく空中で振った。
――その時である。
アルドの足元、日だまり郷の地下深く。
実はこの村の地下には、千年前の勇者と聖女が命と引き換えに封印した『絶望の泥魔神』という邪悪な存在が眠っていた。そして今日、千年の封印が解け、まさに地上へと這い出ようと、泥魔神がその巨大な悪意を覚醒させた瞬間だったのだ。
『フハハハ……! 千年の時を経て、我はついに自由となる! まずはこの忌まわしい地上の生命を全て、泥の海に沈めてくれよ……!』
地下五百メートルの岩盤を突き破り、泥魔神が地上へ向けて魔力の触手を伸ばそうとした、まさにその時。
パンパンッ!!
アルドがシーツのシワを伸ばした「振動」が、地面を伝わり、地下深くまで到達した。
それは、ただの振動ではない。先ほどの「トントン洗い」によって神聖力を限界まで帯びたシーツが放つ、『絶対浄化の衝撃波』であった。
『……えっ?』
泥魔神が疑問符を浮かべる間もなかった。
地上から降り注いだ圧倒的な光の衝撃波が、泥魔神の邪悪な結界を豆腐のようにぶち抜き、その本体を直撃した。
『ギャアアアアアアアアアアッ!? な、なんだこの圧倒的な光は!? 勇者の聖剣すら凌駕する、この理不尽なまでの浄化の力はァァァァ……ッ!!』
千年の眠りから覚めた泥魔神は、地上に顔を出すことすら許されず、わずか一秒でその巨大な身体を完全消滅させられ、一握りのサラサラな土へと還っていった。
「ん? なんか今、地面の下でゴクンって音がしたような。モグラでもいるのかな?」
アルドは足元を不思議そうに見つめた後、「まあいいか」と気を取り直し、真っ白なシーツを物干し竿に掛けた。
太陽の光を浴びて風に揺れるシーツは、キラキラと眩い光の粒子(余剰分の神聖力)を周囲に振りまいている。
その光は村全体を包み込み、空気を清浄にし、土を肥やし、森の動物たちに無上の安らぎを与えた。
「ああ……なんという美しさでしょう……」
木陰に座り込んでいたエルミナは、風に揺れるアルドの洗濯物を見上げながら、ポロポロと感涙を流していた。
「アルド様の干したシーツが風に揺れるたび、この一帯の邪気が完全に浄化されていく……。王都の大聖堂すら足元にも及ばない、究極の聖域化現象……!」
「よし、干し終わった! エルミナ、お茶でも淹れようか。今日のお茶請けは、村の人にもらった甘いお芋だよ」
「はいっ!! アルド様が淹れてくださるお茶のためなら、この命、いつ投げ出しても惜しくはありません!!」
「いや、お茶飲むだけで命投げ出さないでよ」
苦笑いするアルドの後ろを、小犬のように喜んでついていく賢者エルミナ。
こうして、千年の災厄が「シワ伸ばしのついで」で消滅したことなど誰も(エルミナすらも)気づかぬまま、日だまり郷ののどかな午前中は、平和に過ぎていくのであった。
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