第32話:ただのペットの散歩と、深淵の海神とのキャッチボール
第32話:ただのペットの散歩と、深淵の海神とのキャッチボール
世界樹が黄金の城塞の中庭にそびえ立つようになってから数日後。
日だまり郷に吹き込む風は、世界樹の葉が放つ澄み切ったマナを含み、そこにいるだけで魂が浄化されるような心地よさをもたらしていた。
「ふぁぁ……よく寝た。世界樹の木陰のハンモック、本当に最高だな」
アルドは大きく伸びをして、世界樹の根元から飛び降りた。
彼の足元では、巨大な白銀の竜――『絶氷の神竜』であるポチが、アルドに寄り添うように丸くなってスヤスヤと眠っている。本来ならば万物を凍らせる恐るべき魔獣だが、アルドに飼いならされた今となっては、ただの「ちょっと大きくて冷たい抱き枕」のような存在に成り下がっていた。
「おや、ポチ。最近ずっと寝てばかりじゃないか。かまくらでぬくぬくしたり、お餅やお肉ばかり食べてるから、少し太ってきたんじゃない?」
アルドがポチの柔らかくなったお腹をポンポンと叩くと、神竜は「クゥン……」と情けない声を上げて身をよじった。
「これはいけないな。ペットの健康管理も飼い主の責任だ。よしポチ、今日は天気もいいし、少し遠出して『海』まで散歩に行こう! 広い砂浜で走れば、いい運動になるぞ!」
アルドの提案に、ポチは(ご主人様とのお出かけだ!)と嬉しそうに巨大な尻尾を振り、アルドを背中に乗せて空へと舞い上がった。
日だまり郷から数百キロ離れた東の果て。そこには『深淵の海』と呼ばれる、いかなる船も立ち入ることを許されない死の海域が広がっていた。
波は常に荒れ狂い、海の色は底知れぬ黒。神話の時代から海の生態系の頂点に君臨する巨大な海神たちが縄張りを争う、文字通りの魔境である。
しかし、アルドの目には、ただの「ちょっと波が高い、広くて気持ちのいい海」にしか映っていなかった。
「うわぁ! 海だ! 潮の香りがするね、ポチ! ここなら誰の迷惑にもならないし、思いっきり走れるぞ!」
ポチが砂浜に降り立つと、アルドは背中から飛び降りて、海岸に落ちていた手頃な「流木」を拾い上げた。
――当然ながら、その流木は普通の木ではない。先日の世界樹の成長の余波で弾け飛んだ『世界樹の根の先端』であり、それ単体でも国を三つ買えるほどの魔力を内包する神代の触媒である。
「よしポチ、取ってこーい!」
アルドは、その世界樹の流木を、真っ黒な荒波が渦巻く深淵の海に向かって、力いっぱいぶん投げた。
アルドの腕力(事象改変のオーラ込み)によって放たれた流木は、音速を遥かに超えるスピードで空を切り裂き、海のはるか沖合へと着水した。
ドッガァァァァァァァァァァンッ!!!!
着水した瞬間、流木に込められていた世界樹のマナとアルドの力が爆発し、海面がまるで隕石が落ちたかのように数百メートルの高さまで吹き上がった。
「あちゃー、ちょっと強く投げすぎちゃったかな。ポチ、泳いで取ってこれる?」
アルドが呑気に首を傾げていると。
吹き上がった海水の柱の中から、天地を揺るがす恐るべき咆哮が響き渡った。
『ルォォォォォォォォォォッ!! 何者ダ!! 我ガ深淵ノ眠リヲ妨ゲ、頭ニ木ノ枝ヲブツケタ不届キ者ハァァァッ!!』
ザパァァァァンッ! と海面が割れ、そこから出現したのは、全長五百メートルにも及ぶ、ぬめりとした蒼黒の鱗を持つ巨大な海竜――深淵の海神『リヴァイアサン』であった。
海そのものを統べる絶対的な神格。その怒りのオーラだけで、周囲の海は沸騰し、空には暗雲が立ち込めて激しい雷雨が降り注ぎ始めた。
『神竜カ……!? 陸ノ王タル貴様ガ、我ガ海域ヲ侵スルントハ、万死ニ値スルッ! 貴様ヲ食ライ尽クシテクレルワッ!』
リヴァイアサンは、海岸にいるポチ(神竜)を敵と認識し、津波のような大口を開けて襲いかかろうとした。
ポチは「ヒッ!?」と怯え、アルドの後ろに隠れてガタガタと震え始めた。陸の神竜とはいえ、アルドの家で甘やかされきった今のポチに、海の覇者と戦う闘争心など微塵も残っていない。
「うわっ! なんだあの大きな魚! イルカかな? それにしては大きすぎるし、顔が怖いな」
アルドは、激怒して襲いかかってくるリヴァイアサンを「ちょっと怒りっぽい巨大なイルカ」だと勘違いした。
「そっか、僕が投げた棒が頭に当たっちゃったんだね。ごめんごめん! でも、君も一緒に遊びたいのかな? 棒じゃなくて、もっと丸い『ボール』の方が遊びやすいよね!」
アルドは全く悪びれることなく、空中に手をかざした。
彼の無意識の神威が発動する。アルドは、上空の暗雲の中に渦巻いていた『雷雲のエネルギー』と、先ほどの『世界樹の流木のマナ』を強引に一つに束ね合わせ、両手の中でギュッギュッと圧縮し始めた。
――それはもはやボール作りではない。「超高密度の疑似太陽(マナの塊)」を素手で錬成している狂気の沙汰であった。
「よし、綺麗なボールができたぞ! イルカさん、いくよー! そーれっ!」
アルドは、完成した眩い光を放つ『疑似太陽のボール』を、襲いかかってくるリヴァイアサンの巨大な口に向かって、ふんわりと投げ入れた。
『フン、コザカシイッ! ソノヨウナ光ノ玉ゴト、貴様ヲ呑ミ込ンデ……ガッ!?』
リヴァイアサンがボールをパクッと丸呑みした、次の瞬間。
その体内で、疑似太陽に込められた『アルドの絶対的な優しさ(事象浄化)』と『世界樹の極大マナ』が、弾けるように解放された。
『ガ……ァァァ……ッ!? カ、カラダガ……アツ……イ……!?』
リヴァイアサンが数万年の間、深淵の海で蓄積し続けてきた「海の魔物たちの怨念」や「闘争心」が、アルドの作ったボールの光によって、まるで漂白剤を浴びたように真っ白に浄化されていく。
『ア……ァァ……。ナンデショウ、コノ胸ノ奥カラ湧キ上ガル、ポカポカトシタ温モリハ……。我ハ、ナゼ怒ッテイタノカ……。海ハ、コンナニモ広クテ、美シイノニ……』
リヴァイアサンの恐ろしげな深海魚のような瞳が、みるみるうちにつぶらでキラキラとした、愛らしい「イルカのような瞳」へと変化していった。
沸騰していた海は嘘のように凪ぎ、雷雲は消え去り、太陽の光が優しく海面を照らし始めた。
リヴァイアサンは、巨体をくねらせながら砂浜に近づき、アルドの足元に大きな頭をすり寄せてきた。
『キュイィィィン……♪(ボール、美味しかったです! もっと遊んでください、ご主人様!)』
深淵の海神は、完全にアルドに懐き、犬のように甘えた声を上げて尻尾をパタパタと振っていた。
「あはは! よしよし、いい子だねぇ。イルカさんも遊ぶのが好きなんだね!」
アルドは、リヴァイアサンの濡れた鼻面をポンポンと優しく撫でた。
「ポチ、ほら怖がらないで。新しいお友達だよ。一緒に仲良く遊ぼうね!」
ポチ(神竜)は、かつてのライバル格であった海神が、自分と同じようにアルドの「ペット」に成り下がったのを見て、安堵すると同時に少しだけ優越感に浸りながら、「ワン!」と短く吼えてリヴァイアサンに鼻を擦り付けた。
数時間後。
黄金の城塞のリビングで、遠見の魔導具(水晶玉)を使ってアルドの散歩の様子を監視していたクランの面々は、全員が絶句して固まっていた。
水晶玉の中には、海の上で神竜と海神が楽しそうに水を掛け合い、アルドがその背中に乗って波乗り(サーフィン)を楽しんでいるという、神話の終焉のようなカオスな光景が映し出されている。
「……アーキヴァル。私はもう、あの映像を現実として処理するのを脳が拒否しているのだが」
ゾルタン(元大賢者)が、水晶玉から目を逸らして頭を抱えた。
「神竜と海神が、まるで子犬のようにじゃれ合っている……。あの二体が本気でぶつかれば、大陸が三つは海に沈むというのに」
「慣れなさい、ゾルタン。これが我が主、アルド様の『日常』なのです」
アーキヴァルは、少しも動じることなく手帳にペンを走らせていた。
「記録完了です。『第三十二種・海域の絶対平定(ただのペットの散歩)』。対象:深淵の海神リヴァイアサン。結果:アルド様の投げた疑似太陽を食べて浄化され、第二のペット『イルカさん(仮)』として加入」
「陸の覇者に続いて、海の覇者まで手懐けてしまうとは……。これで文字通り、アルド殿の遊び場は世界全土に広がってしまったな」
レイヴンが、深い感息を漏らしながらお茶を啜る。
「おーい、みんな! ただいまー!」
城門が開き、びしょ濡れになったアルドが、満面の笑顔で帰ってきた。
「海風に当たってすごく楽しかったよ! ポチもいい運動になったみたいだし、今度はみんなで海水浴に行こうね! すごく人懐っこいイルカさんとも友達になったから、背中に乗せてもらえるよ!」
最強の便利屋の「ただの散歩」と「ボール遊び」は、深淵の魔境を世界最高のプライベートビーチへと変え、海の生態系の頂点すらも彼専属の「水上アトラクション」へと塗り替えてしまったのである。
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