第2話:ただの草むしりと、辺境を覆う絶対防衛線
第2話:ただの草むしりと、辺境を覆う絶対防衛線
日だまり郷の朝は早い。
東の空が白み始め、小鳥たちがちゅんちゅんと朝の挨拶を交わす頃、アルドはすでに丸太小屋の前に立っていた。手には使い古された竹箒と、木箱に入った謎の白い粉が握られている。
「昨日の夜、なんだか外が騒がしかったな。変な羽虫でも飛んできたんだろうか」
アルドは首を傾げながら、村の入り口付近へと向かった。
昨晩、彼の作った特製スープの香りに引き寄せられ、実は数多の魔獣や他国の密偵たちが村の数キロ手前まで迫っていた。しかし、アルドが直した看板の結界と、圧倒的な魔力溜まりの気配に恐れをなし、彼らは夜通しパニックに陥りながら逃げ惑っていたのだ。アルドが聞いた「騒がしい音」とは、森の生態系トップに君臨するSランク魔獣たちが、悲鳴を上げて逃げ出す際の地鳴りである。
「畑の野菜に虫がつくといけないからね。少し念入りに防虫剤を撒いておこう」
アルドは木箱から白い粉を一握り掴み、ふわりと風に乗せるように撒き始めた。
それは、彼が裏山で拾ってきた『ただの白い石』を砕いたものだったが――実は、神話の時代に飛竜が落としたとされる『竜王の逆鱗』の化石である。それを素手で粉々に砕き、無造作に撒くという行為自体が、常軌を逸していた。
粉は朝日にキラキラと輝きながら地面に落ち、瞬時に不可視の絶対防衛線を形成していく。
その光景を、少し離れた木陰から、震える瞳で見つめる者がいた。
長い銀髪を揺らし、アルドの家で「ただの洗濯係」として居候している女性――エルミナである。
彼女の正体は、かつて王都の魔法学術院で史上最年少の『賢者』の称号を得た天才魔導士。しかし、アルドの規格外の魔術(本人にとってはただの家事)を目の当たりにし、その真理を学ぶために地位も名誉も投げ捨てて、この村に押し掛けてきたのだ。
「……信じられません。アルド様は、たった一つかみの触媒で、大陸の地脈そのものを書き換えようとなさっている……!」
エルミナは興奮で頬を紅潮させながら、手元の羊皮紙に猛烈な勢いでメモを取る。
「あの『粉』が放つ魔力波長……ただの結界ではありません。悪意を持つ者が一歩でも踏み入れば、細胞レベルで魔力を分解される『対軍級・殲滅陣』! それを、あんなにも美しい所作で、いとも容易く……! ああ、今日もアルド様の洗濯物係をさせていただける喜びに、胸が震えます!」
一方、そんなエルミナの狂信的な視線に全く気づいていないアルドは、「よし、これで害虫は寄り付かないぞ」と満足げに手をパンパンと払った。
その直後だった。
村の境界線、ちょうどアルドが「防虫剤」を撒いたばかりの場所に、不自然な空間の揺らぎが生じた。
現れたのは、全身を黒装束で包み、息を殺した一人の男。隣国から派遣された、凄腕の暗殺者『影歩き』の異名を持つ工作員だった。昨晩の異常な魔力波長を察知し、いち早くこの辺境の村に潜入を試みたのだ。
(ふん、何が異常な魔力だ。ただのうらぶれた農村ではないか。さっさと調査を済ませて……)
暗殺者が一歩、村の敷地内に足を踏み入れた瞬間。
――ギチィッ!!
男の全身を、見えざる巨大な万力が締め上げた。
「な、がッ……!?」
息ができない。いや、違う。周囲の空気が、まるで何万トンもの鋼鉄に変わったかのような絶対的な重圧。暗殺者の体内を巡っていた高度な練気の魔力が、アルドの撒いた「防虫剤」の領域に触れた瞬間、完全に霧散させられてしまったのだ。
「あ、あぁ……体が、動か、な……」
膝から崩れ落ち、地面に顔を擦り付ける暗殺者。彼の自尊心も、長年鍛え上げた暗殺術も、ただの「害虫駆除」の前にあっけなく敗れ去った。
「あら。本当に、朝から騒がしい害虫が迷い込んだものですね」
動けなくなった暗殺者の前に、冷ややかな声が落ちる。
振り返ると、そこには美しい銀髪を揺らすエルミナと、いつの間にか音もなく木の上から降りてきたシノンが立っていた。
「ひッ……お、お前たちは……王都の賢者エルミナ!? なぜ、こんな辺境に……!」
「静かに。アルド様の平穏な朝を、貴方のような薄汚い羽虫の羽音で邪魔しないでいただけますか?」
エルミナが指先を軽く振ると、男の口の周りの空間が凍結し、悲鳴すら上げられなくなった。
「シノン。このゴミを処理しておいてください。アルド様が朝食の支度を終えられる前に」
「……承知した。村の肥料にもならない塵だ。跡形もなく消そう」
シノンの冷酷な宣告を最後に、暗殺者の意識は暗い底へと沈んでいった。
数分後。
何も知らないアルドは、小屋のキッチンで昨晩から煮込んでいた特製スープを温め直し、木のお椀に取り分けていた。
「おーい、エルミナ、シノン、レイヴン! 朝ごはんできたよー!」
のんびりとした声が村に響く。
「はいっ! 今すぐ参ります、アルド様!」
「……ただいま戻った。手洗いうがいは済ませてある」
先ほどまでの冷徹な顔を微塵も感じさせない、満面の笑顔のエルミナと、少し頬を緩めたシノン、そして薪の束を抱えたレイヴンが、待ってましたとばかりに食卓についた。
「昨日の夜、なんだか騒がしかったから寝不足じゃないかい? 今日は栄養満点のスープだから、しっかり食べてね」
アルドが差し出したスープを一口飲んだ瞬間。
三人の体内に、再び神話級の魔力が爆発的に巡り、彼らの最大魔力値がまたしても跳ね上がった。
「お、おおおお……! アルド殿、このスープは……! 我が身の細胞が歓喜の歌を歌っております……!!」
「大げさだなぁ、レイヴンは。ただの野菜とハーブだよ。塩加減、薄くなかった?」
アルドはニコニコと笑いながら、自分の分のスープを口に運んだ。
最強の便利屋と、彼を狂信的に崇拝する規格外の居候たち。日だまり郷の「異常な日常」は、今日も平和に過ぎていくのだった。
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