第13話:ただの草刈りと、絶望を耕す三日月鎌
第13話:ただの草刈りと、絶望を耕す三日月鎌
フェンリス領に恵みの雨が降り注ぎ、大公が狂信的な貢物を捧げてから数日が経過した。
日だまり郷の周囲は、アルドの魔力を含んだ雨と、彼が無意識に垂れ流す神聖なオーラによって、かつてないほどの生命力に満ち溢れていた。木々は青々と茂り、足元の野草さえもが微かな光を帯びている。
「いやあ、本当にいい土になったな。これなら、もう少し畑を広げてもいいかもしれない」
アルドは丸太小屋の裏手で、新しく開墾しようと考えている荒れ地を見つめながら呟いた。
「冬野菜の他にも、ハーブや果物の苗を植えたいし……よし、今日はちょっと広範囲の草刈りをしておこう」
彼は作業小屋から、使い込まれた一本の草刈り鎌を取り出した。柄は手によく馴染むように少し湾曲しており、三日月型の刃は黒ずんで鈍い光を放っている。
――言うまでもないが、それはただの農具ではない。かつて魔界の深淵で鍛え上げられ、神々の軍勢を切り裂いたとされる伝説の魔鎌『冥王の三日月』である。なぜそんな恐ろしいものがアルドの作業小屋にあったかといえば、「裏山の洞窟で、草を刈るのにちょうどいい形をした鉄くずを拾ったから、少し研いでみた」という、いつもの無自覚なDIYの結果であった。
アルドが冥王の鎌を片手に「よいしょ」と肩を回していたその頃。
日だまり郷から数キロ離れた森の奥深くで、尋常ではない地鳴りが響き渡っていた。
ズシンッ……! ズシンッ……!
木々がなぎ倒され、大地が悲鳴を上げる。
そこにいたのは、体高が優に二十メートルを超える超巨大な魔獣――『大地鳴らしのベヒーモス』であった。数百年の眠りから覚めたこの災厄の化身は、先日のアルドの「雨乞いの準備運動」によって活性化した極上のマナ(魔素)の匂いを嗅ぎつけ、それを喰らうために一直線に日だまり郷へと進行していたのである。
本来ならば、一国の正規軍を総動員してようやく足止めができるかどうかの災害指定魔獣。それが、何の防壁もない辺境の村へと迫っていた。
「……なんという絶望だ。あれが噂に聞く、災厄の魔獣ベヒーモスか」
その光景を、森の木の上から絶望的な表情で見下ろしている一人の騎士がいた。
フェンリス大公国・聖騎士団長レオン。彼は大公の極秘命令により、「絶対に干渉せず、ただ日だまり郷の『神』の平穏を陰からお守りせよ」という途方もない任務を帯びて派遣されていた。
(神の偉大さは大公閣下より伺っている。だが、相手は物理的な破壊の権化だ。もし、神の仮の住まいであるあの村に、泥の一滴でも跳ね飛ばすようなことがあれば……!)
レオンは冷や汗を流しながら、愛剣の柄を握りしめた。
(私の命と引き換えにしてでも、あの化け物の進行ルートを逸らす! 神の御前を汚すなど、大公閣下の第一の使徒たる私が許さん!)
レオンが決死の覚悟で飛び出そうとした、まさにその時である。
森の開けた場所――ちょうどアルドが開墾しようとしていた荒れ地の向こう側に、エプロン姿の青年が、鎌を片手にのんびりと歩いてくるのが見えた。
「おや? なんだか地面がすごく揺れてるな……地震かな?」
アルドは首を傾げながら、目の前の背丈ほどもある雑草の群れをかき分けた。
そして、その直後。雑草をなぎ倒しながら姿を現した、山のような巨大な魔獣と完全に目が合った。
『グルルルォォォォォォォォッ!!』
ベヒーモスが、眼前のちっぽけな人間を見下ろし、よだれを撒き散らしながら鼓膜が破れるほどの咆哮を放つ。
木の上にいるレオンは「しまった、神が直接お出ましになられてしまった!」と顔面を蒼白にさせた。
しかし、当のアルドの反応は、レオンの予想とは全く異なるものだった。
「うわっ、すごく大きな『イノシシ』だ! なんだこれ、こんなに育つまで誰も気づかなかったの!?」
アルドは本気で驚いた顔をして、草刈り鎌を持った手をワタワタと動かした。
「こらっ、シッシッ! ここはこれから畑にする予定なんだ! そんな大きな体で暴れ回られたら、せっかくの土が踏み荒らされちゃうじゃないか! 向こうの山へお帰り!」
アルドは、ベヒーモスを「ちょっと育ちすぎた森の害獣」と完全に誤認していた。そして、彼を追い払うために(あるいは、自分の姿を大きく見せて威嚇するために)、手にした草刈り鎌を大きく振り被った。
「とりあえず、草ごと刈って見通しを良くして……えいっ!」
ブォンッ、という軽い風切り音。
アルドが、目の前の雑草を刈り取るために、横薙ぎに鎌を振るった。ただそれだけだった。
――直後、世界が『断絶』した。
アルドの腕から放たれた常軌を逸した神話級の剣気(本人は草を刈る程度の力加減)が、冥王の魔鎌によって不可視の「事象切断刃」へと増幅された。
刃は、アルドの目の前の雑草を綺麗に刈り取った。
それと同時に、雑草の延長線上にいた二十メートルのベヒーモスを、その背後にそびえていた三つの岩山を、そして遥か上空の分厚い雨雲を、文字通り「スパッ」と一刀両断にしたのである。
『……え?』
ベヒーモスは、自分が斬られたことすら理解できないまま、上半身と下半身がゆっくりとズレていくのを感じた。
血すら一滴も流れなかった。アルドの放つ絶対的な浄化の波動を伴う斬撃は、災厄の魔獣の肉体を「不浄なもの」として認識し、斬断と同時に美しい光の粒子(超高純度のマナ肥料)へと変換していったからだ。
サラサラサラ……。
ものの数秒で、巨大なベヒーモスは光の粉となって大地に降り注ぎ、周囲の荒れ地を完璧なまでに肥沃な黒土へと変えてしまった。岩山は平らに均され、上空にはそこだけぽっかりと青空が覗いている。
「おおっ!」
アルドは、綺麗に刈り取られた雑草と、目の前に広がる真っ平らな黒土の平原を見て、ぱぁっと顔を輝かせた。
「すごい! イノシシが逃げていく時に、地面を綺麗に耕してくれたみたいだ! しかも、あんなにたくさんあった石っころまで粉々になってる! ラッキーだなあ、これですぐにでも苗が植えられるぞ!」
鎌を肩に担ぎ、鼻歌交じりに小屋へ戻っていくアルド。
その背中を、木の上で腰を抜かしたレオンが、泡を吹きながら見送っていた。
「あ……あぁ……」
レオンの目からは、とめどなく涙が溢れ出していた。
「一振り……ただ農具を一振りしただけで、災厄の魔獣が光の塵となり、地形そのものが作り替えられた……! しかも、御自らは『イノシシが耕してくれた』と、その奇跡すらも自然の恵みとして謙遜なされるとは……!」
レオンは木から転げ落ちるように地面に降り立つと、アルドが去っていった方向へ向かって、フェンリス大公と同じように深く、深く土下座をした。
「ああ、神よ! 大公閣下の信仰は真実であった! このレオン、生涯貴方様の『見えざる草刈り係』として、あらゆる敵を排除することを誓います!」
こうして、アルドの与り知らぬところで、領地最強の聖騎士すらもが「狂信者ネットワーク」の強固な一員へと加わったのである。
一方、小屋の窓からその一部始終を見ていたクランの面々。
「……見事な剣筋だ。一切の無駄がない。あれこそが究極の『絶空の太刀』。俺もまだまだ精進が足りん」
レイヴンが感嘆の溜息を漏らしながら、薪割りの素振りを始める。
「ええ。アルド様の手にかかれば、冥王の呪いすらもただの『切れ味の良さ』に変換されてしまうのですね」
エルミナが、光の粒子となって降り注ぐ魔力雪をうっとりと見つめる。
「記録完了です。『第十三種・地形改変(ただの草刈り)』。対象:災厄の魔獣。結果:極上の肥料へと変換」
アーキヴァルは、手帳にさらさらとペンを走らせ、眼鏡をクイッと押し上げた。
「さて、王都のギルドには『ベヒーモスは通りすがりの巨大な雷に打たれて消滅した。日だまり郷は今日も平和な不毛の地である』と報告書を捏造しておきましょうか。アルド様の開墾の邪魔をさせるわけにはいきませんからね」
「おーい、みんな! お昼ご飯にしよう! 今日は畑で採れたトマトを使ったパスタだよ!」
小屋の中から、のんびりとしたアルドの声が響く。
「はいっ! ただいま参ります!」
最強の便利屋の「ただの草刈り」は、王国の危機を数秒で解決し、大地を潤し、新たな狂信者を生み出しながら、今日も完璧な日常のサイクルを回し続けるのであった。
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