第11話:ただの準備運動と、枯れた大地を潤す奇跡の雨
第11話:ただの準備運動と、枯れた大地を潤す奇跡の雨
アステリア王国の北部に位置するフェンリス領は、深刻な危機に瀕していた。
過去数ヶ月にわたり、一滴の雨も降らない異常気象――『大旱魃』が領地全域を襲っていたのである。
「……また今日も、雲一つない快晴か。憎たらしいほどに青い空だ」
領主であるフェンリス大公は、執務室の窓から枯れ果てた領都の風景を見下ろし、深い絶望の溜息を吐いた。
ひび割れた大地、干上がった井戸、そして枯死していく農作物。領民たちの顔からは生気が失われ、あちこちで飢えと渇きによる暴動の火種が燻り始めている。大公は莫大な資金を投じて王都から高位の水魔導士を何人も招聘したが、この異常な旱魃の前では彼らの魔法も「焼け石に水」に過ぎなかった。
かつて日だまり郷へ強欲な徴税官ガルドスや特級魔導士ルシウスを差し向け、痛い目を見た大公であったが、今やそんな野心を抱く余裕すらない。
「領主様……このままでは、あと一週間で領内の貯水は完全に底を尽きます。もはや、神に祈るしか……」
側近の悲痛な報告に、フェンリス大公は目を固く閉じた。
「神、か……。ならば、私はどこへ向かって祈ればいいのだ」
――そんな絶望の淵にあるフェンリス領の端っこ、地図にも載らぬ辺境の『日だまり郷』では。
「うーん……最近、ちょっと体が鈍ってる気がするな」
アルドは丸太小屋の前で、自分の肩をグルグルと回しながら呟いていた。
冬支度もあらかた終わり、これといって急ぎの便利屋の仕事もない平和な日々。のんびりしすぎるのも健康に良くないと考えたアルドは、朝の澄んだ空気を吸いがてら、少し体を動かすことにした。
「よし、日課の準備運動でもするか」
アルドは村の入り口を少し出た、開けた野原へと足を運んだ。
少し離れた木陰では、いつものようにクランの面々が、息を殺してアルドの行動を注視していた。
「……アルド様が、村の外へ出られた。手には武器を持っておられない。一体、何をなさるおつもりか」
レイヴンが鋭い眼光で周囲を警戒する。
「見てください、レイヴン殿。アルド様が、大地にしっかりと両足を踏みしめ……深い、あまりにも深い呼吸を始められました」
エルミナの『真理の眼』が、アルドの周囲でマナ(魔素)が渦を巻き始めたのを捉え、彼女の肩が震えた。
そんなギャラリーの存在など露知らず、アルドは身の健康維持のための「準備運動」を開始した。
彼は深く息を吸い込み、まずゆっくりと腕を大きく回した。
――その所作に、魔導的意味など一切ない。ただの肩こり解消のストレッチである。
次に、腰を低く落とし、左右に体重を移動させながら屈伸運動を行う。
――それもまた、足腰の疲れを取るための、どこにでもある体操だ。
だが、彼が足を踏み出し、腕を振るうたびに、大地が喜びに震えていた。
アルドの足裏から漏れ出す微かな魔力が、土の奥深く、千年以上も眠っていた大地の霊脈を直接刺激したのだ。地脈はアルドの規則正しい運動のリズムに完全に共鳴し、地下深くに蓄積されていた『精霊の加護』をポンプのように吸い上げ始める。
「な……なんという、神々しい舞い……!」
エルミナが感極まって両手を組み合わせ、祈るような姿勢をとった。
「あの手足の動き、大気の流れを完全に支配し、星の鼓動とリンクしています! 間違いない、あれは神話の時代にエルフの王のみが踊ることを許されたという、世界を再生させる『天祈の舞』……! アルド様は、この干からびた領地を救うために、自ら儀式を執り行ってくださっているのです!」
「記録……っ、記録しなければ……! 『第十一種・神域の舞踊(ただの屈伸)』。アルド様の慈悲は、人々の渇きを潤すために天を動かす……!」
アーキヴァルは、涙で手帳を濡らしながら狂ったように羽ペンを走らせる。
「いっち、に、さん、しっ。ごー、ろく、しち、はちっ」
アルドが軽快な掛け声とともに、最後の一仕上げとして大きく深呼吸をし、空に向かって両手を突き上げ、グーッと伸びをした。
「よしっ、これでよし! 体がポカポカしてきたぞ!」
彼が両手を空へ掲げた、まさにその瞬間であった。
日だまり郷の、いや、フェンリス領全域の空が、一瞬にして分厚い鉛色の雲に覆われたのである。
――ゴロゴロォォォォォンッ……!!
天地を揺るがす遠雷の音は、まさに世界に生命の息吹を告げる神の咆哮だった。
そして。
ポツリ、と一滴。次いで、パラパラと。
数秒後には、バケツをひっくり返したような大粒の雨が、乾ききったフェンリス領の大地を激しく叩き始めた。
それは、ただの雨ではない。アルドの魔力と大地の精霊力が極限まで溶け込んだ、生命の雫である。
雨粒が地面に染み込んだ瞬間、ひび割れていた土は黄金色に輝きながら潤いを取り戻し、完全に枯死していたはずの麦や野菜が、まるで早送りを見るような速度で青々とした芽を吹き、一気に結実していった。
「おお……おおおおおっ……!! 雨だ! 雨が降ってきたぞォォォ!!」
「奇跡だ! 神が我らをお見捨てにならなかったのだ!」
フェンリス領都の広場では、雨に打たれながら領民たちが狂喜乱舞し、地面に這いつくばって泥水を啜りながら涙を流していた。
執務室の窓からその光景を見ていたフェンリス大公もまた、窓を開け放ち、滝のように降り注ぐ恵みの雨を全身で浴びていた。
「この濃密な魔力……自然の雨ではない。誰かが、いや、いかなる偉大な存在がこの奇跡を起こしたというのだ……!」
大公の視線は、自然と東の空――『日だまり郷』のある方角へと向いていた。
かつて彼が「資源」を奪おうとした、あの得体の知れない辺境の村。そこから、天を覆うほどの巨大な魔力の渦が放射されているのが、大公の目にもはっきりと見えた。
「ああ……私はなんという愚か者だったのだ。あそこにおわすのは、人間の尺度で測れるような者ではない。この地を見守る、現人神であらせられたのだ……!」
フェンリス大公は、日だまり郷の方角へ向けて深々と土下座をし、泥に額を擦りつけながら咽び泣いた。
「偉大なる神よ! このフェンリス、生涯をかけて貴方様への忠誠と信仰を誓いましょう……!」
かくして、アルドの一連の「準備運動」は、たった数分で数十万の領民の命を救い、一帯を治める大公を狂信的な信徒へと変貌させてしまったのである。
一方、奇跡の震源地である当のアルドは。
「おや、急に雨が降ってきたか。珍しいな。まあ、冬前の畑にはちょうどいい水分補給になるか」
アルドは突然の土砂降りにも慌てることなく、のんびりと丸太小屋の軒下へと雨宿りに入った。
「いやあ、ギリギリ濡れずに済んだよ。今日は洗濯物を干さなくて正解だったな」
彼はポンポンと肩の埃を払いながら、小屋の中にいるクランメンバーたちに向かって笑いかけた。
「外は少し冷えるから、温かいお茶でも淹れようか。みんなも一緒にどう?」
「……もったいなきお言葉! アルド様がこの世界に降らせた『慈愛の雨』を眺めながらいただくお茶など、神々の宴にも等しき至福……!」
「俺も、アルド殿の隣でこの奇跡の余韻を噛み締めさせていただきたい」
エルミナとレイヴンが、全身を震わせながら深々と頭を下げる。
「う、うん。ただのお茶だけど、喜んでくれて嬉しいよ」
アルドは彼らの過剰なリアクションに首を傾げつつも、鼻歌交じりでお湯を沸かし始めた。
外では、枯れた大地を蘇らせる奇跡の雨が、優しく、そして力強く降り続いている。
最強の便利屋の「ただの準備運動」は、こうして一人の青年の影響力を村の枠組みから完全に逸脱させ、世界が彼を「伝説」として認知し始める、引き返せない転換点となったのであった。
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