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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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煙の先に人間がいる

「人間なら殺すか捕らえろ」


 ドラクが言った。斥候の報告を聞いた直後だった。


「人間が一人で来ているなら、帰す理由がない」


「やめろ。殺したら二度と商人は来ない」


 ドラクの残った右目が俺を見据えた。


「商人であればな」


「荷馬を一頭引いている。武装はない」


「荷の中身は」


「遠目では確認できていない。だが一人で荷馬を引いて山を登ってくる人間が兵士か」


「斥候かもしれん。一人で来させて、こちらの出方を見ている」


「斥候なら武装してくる。荷馬も要らない。丸腰で荷を引いてくるのは商人だ」


 ドラクの顎が上がった。


「俺は五十年戦ってきた。人間が善意で山を登ってきたことは一度もない」


「善意じゃなくていい。利益で来たなら取引になる。取引になるなら食料が手に入る」


 食料残り十三日。それは全員が知っている。ドラクも黙った。


「仮に商人だとして、山の中には入れるな。洞窟の位置も人数も見せるな。取引するなら山道の手前でやれ」


「わかった」


「兵を二人つける。何かあれば殺す」


 ドラクはそれだけ言って出て行った。だが兵に任せるだけの男ではない。





 南の山道を下りた。雪が深い。膝まで埋まる場所がある。


 ナーシャが前を歩き、ドラクの兵二人が左右についた。風が冷たい。息が白く、すぐに消えた。


 三つ目の石積みを過ぎた先で、煙が見えた。


 小さな焚き火だった。荷馬を木に繋ぎ、火のそばに座っている人影がある。近づくと、男が立ち上がった。


 中年の人間だ。日焼けした顔に深い皺。こちらを見ても慌てず、革手袋をゆっくり外した。


「どうも、お待ちしておりました。ゲルトと申します。ゼーレンで商いをしている者でしてな」


 二万の魔族がいる山に一人で来た人間にしては、怯えがない。むしろ客を迎えるような口ぶりだった。


 素手になった右手を差し出した。


 ナーシャの右手が腰の剣に触れた。


「いやいや、ただの挨拶ですよ。人間の商人は、初めて会う相手にこうするのが作法でしてな」


 将軍の記憶にある。武器を持っていないことを示す人間の作法だ。一瞬だけ間を置いてから、握り返した。ゲルトの掌は硬かった。荷を運ぶ手だ。


「初めてお目にかかりますな。このあたりの山には何度も来ておりますが、あなたのような方は初めてだ」


 ゲルトの目が俺の折れた角を一瞬見た。だが何も言わなかった。


「ゼルドだ。将軍をしている」


「将軍。それはそれは。戦前は長老さんと取引しておりましたが」


「今は俺が仕切っている」


「なるほど。では、さっそく商いの話をさせていただいてよろしいですかな」


 ゲルトが荷馬の布をめくった。塩の袋と穀物の袋が積まれている。ゲルトが塩の袋を軽く叩くと、乾いた音がした。


「塩が三袋、穀物が二袋。荷馬一頭分ですから多くはありません。まずは顔合わせということで」


「何と交換する」


「魔石をお持ちではないかと」


 ゲルトの目が変わった。商人の目だ。


「戦後、人間の側で魔導器の需要が跳ね上がりましてな。魔石は軽い。荷馬一頭で山を往復するなら、鉱石より遥かに効率がいい。今は魔石が一番値がつくんですよ」


 魔石。この山の鉱脈にはある。人間の詠唱魔法に使う触媒で、魔族には使い道がない石だ。


「魔石を渡せば、人間の魔法が強くなる」


 ナーシャの声だった。低く、ゲルトにも聞こえている。


「おっしゃる通りかもしれませんな。ですが魔石では腹は膨れません」


 ナーシャが黙った。


 折れた角の断面を、親指でなぞった。


 ナーシャは正しい。魔石で人間の魔法は強くなる。だが魔石は食えない。欲しがる相手がいる限り、俺たちには取引の価値がある。依存関係を作れ。依存は、生かす理由になる。


「交換する。いくつか見繕って兵に持たせる」


 ドラクの兵に目配せした。一人が山を登っていく。


「それはありがたい。お待ちする間に、少しお話でもしましょうか」


 ゲルトが火のそばに座り直した。


「勇者エリアスは、今どうしている?」


 ゲルトの眉が僅かに上がった。将軍が勇者の名を出したことに驚いたのか。


「消えましたよ」


「消えた?」


「魔王を討った後、姿を消しました。どこに行ったか誰も知らない。帰還の式典にも出なかったそうで」


 将軍の記憶がある。ヴァルデ平原で魔王が殺された日の混乱。あの後、勇者は人間の英雄として君臨していると思っていた。消えたのか。


「では、今は誰が仕切っている?」


「アルベルトという方です。勇者の参謀だった男が、新秩序評議会というのを作りましてな」


 アルベルト。その名は知っている。


 将軍の記憶にある。戦場で直接対峙したことはない。だが第一軍団が壊滅したとき、包囲網を描いたのはこの男だ。各国に散っていた人間の軍を一つにまとめ、魔族の退路を一つ残らず断った。エリアスが矛ならば、アルベルトは盤面そのものを動かす手だった。あの包囲を思い出すと、今でも背筋が冷える。


 その軍師が、政治家になった。


「評議会を作って秩序を仕切ろうとしているわけですが、一枚岩ではないようでしてな」


「魔族の扱いか」


 ゲルトが少し目を見開いた。


「お察しが良いですな」


「勘じゃない。戦後に勝った側が最初にもめるのは、負けた側の処遇だ」


 ヴェルサイユの講和会議を思い出した。勝った国々が、敗者の処遇を巡って割れた。報復を叫ぶ国、秩序を求める国、もう関わりたくない国。結局、報復の声が一番大きかった。敗者に全てを償わせた結果、二十年後にさらに大きな戦争が起きた。


「根絶やしにしろという声が一番大きいそうで。五十年やられたんだ、もう一度立ち上がる前に叩き潰せ、と。戦争で家族を失った連中が押しているようですな」


「他の声は?」


「山の向こうに追い出せという連中。人間の法で管理しろという連中。もう終わったことだ放っておけという連中。四つに割れておりますな」


 四つの声。そのうち二つは、この山にいる全員の死を意味する。


「アルベルトはどれだ」


 ゲルトが俺を見た。焚き火の光が目の中で揺れている。それまでの柔らかい表情が消えていた。


「将軍。情報にも値段がありましてな」


「魔石に色をつける」


「色ですか。どれほどの色で?」


「拳ほどの石をもう二つ。次の取引に上乗せする」


 ゲルトが顎に手を当てた。しばらく黙ってから、口を開いた。


「……管理ですな。人間の法の下に置いて管理するという立場だ。殲滅派は抑えようとしているようですが、五十年の恨みを持つ連中の声は大きい。アルベルト殿も押されているようで」


 管理。殲滅よりはましだ。だが首に鎖をつけられる。


 鎖か、刃か。どちらかを選ぶ余地がある間は、まだ交渉ができる。


「一つ聞いてもよろしいですかな」


 ゲルトが言った。


「何だ」


「ここには、何人ほどおいでですか」


 背筋が冷えた。


「商人の耳は広いな」


「麓の村で聞いたんですよ。大勢の魔族が山にいると。正確な数は知りませんが」


「数を教える義理はない」


「そうでしょうな。ですが荷馬一頭では足りないだろうとは思っておりました」


 ゲルトの口元に、わずかに笑みが浮かんだ。


「ですから次は倍にしようと。足りない分は三回目、四回目で埋める。長い商売にしたいと思っておりまして」


 この男は分かっている。俺たちが飢えていることを。飢えている相手との取引が最も利幅が大きいことも。


 兵が魔石を持って戻ってきた。拳ほどの石が四つ。洞窟の壁から剥がしたものだ。


 ゲルトが一つを手に取り、光にかざした。指が石の表面をなぞった。重さを量る手つきだった。


「いい石ですな。これなら次はもっと持ってこられますよ」





 塩と穀物を受け取り、魔石を渡した。ゲルトが荷馬の手綱を取った。


「ゼルド将軍」


 足を止めた。ゲルトが振り返っている。それまでの商人の顔ではなかった。


「商人として一つだけ忠告しますよ。評議会が方針を決める前に、動いたほうがよろしい」


「動くとは?」


「さあ、それは私には分かりませんよ。商人ですからな。ですが方針が決まれば、それに従う連中が動き始める。そうなったら、この山道を登ってくるのは商人じゃありませんよ」


 ゲルトは荷馬を引いて山道を下りていった。雪に足跡が残り、曲がり角で見えなくなった。


「ゼルド」


 背後からだった。振り返ると、ドラクが三つ目の石積みの影に立っていた。腕を組み、残った右目がこちらを見据えている。最初からここにいたのか。


「お前は人間の味方か?」


「味方じゃない。食料がいるだけだ」


「食料はわかる。だがあの男に魔石を渡して、情報をもらって、次も来いと言った。それは取引じゃない。繋がりだ」


「繋がりの何が悪い」


「ナーヴクランの長老は人間と二十年取引していた。戦が始まったとき、最初に焼かれたのはナーヴクランの里だ」


 返す言葉がなかった。


「人間と繋がった魔族がどうなったか。俺は知っている」


 ドラクは振り返らずに山を登り始めた。兵が黙ってついていく。背中が雪の中に消えた。


 ナーシャが俺の隣に立っていた。背筋を伸ばし、顎を上げた。


「兵に言っておく。魔石を掘り出しておけと」


「頼む」


 ナーシャも山を登っていった。


 一人残された。ゲルトの焚き火の跡が、まだ煙を上げていた。


 勇者が消えた。軍師が政治家になった。評議会は四つに割れている。殲滅派がいて、管理派がいて、どちらが勝つかは決まっていない。


 二十日後にゲルトが来る。だがその次があるかどうかは、評議会の方針しだいだ。


 時計が動き始めた。針がどこを指しているのか、まだ見えない。


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