煙の先に人間がいる
「人間なら殺すか捕らえろ」
ドラクが言った。斥候の報告を聞いた直後だった。
「人間が一人で来ているなら、帰す理由がない」
「やめろ。殺したら二度と商人は来ない」
ドラクの残った右目が俺を見据えた。
「商人であればな」
「荷馬を一頭引いている。武装はない」
「荷の中身は」
「遠目では確認できていない。だが一人で荷馬を引いて山を登ってくる人間が兵士か」
「斥候かもしれん。一人で来させて、こちらの出方を見ている」
「斥候なら武装してくる。荷馬も要らない。丸腰で荷を引いてくるのは商人だ」
ドラクの顎が上がった。
「俺は五十年戦ってきた。人間が善意で山を登ってきたことは一度もない」
「善意じゃなくていい。利益で来たなら取引になる。取引になるなら食料が手に入る」
食料残り十三日。それは全員が知っている。ドラクも黙った。
「仮に商人だとして、山の中には入れるな。洞窟の位置も人数も見せるな。取引するなら山道の手前でやれ」
「わかった」
「兵を二人つける。何かあれば殺す」
ドラクはそれだけ言って出て行った。だが兵に任せるだけの男ではない。
◇
南の山道を下りた。雪が深い。膝まで埋まる場所がある。
ナーシャが前を歩き、ドラクの兵二人が左右についた。風が冷たい。息が白く、すぐに消えた。
三つ目の石積みを過ぎた先で、煙が見えた。
小さな焚き火だった。荷馬を木に繋ぎ、火のそばに座っている人影がある。近づくと、男が立ち上がった。
中年の人間だ。日焼けした顔に深い皺。こちらを見ても慌てず、革手袋をゆっくり外した。
「どうも、お待ちしておりました。ゲルトと申します。ゼーレンで商いをしている者でしてな」
二万の魔族がいる山に一人で来た人間にしては、怯えがない。むしろ客を迎えるような口ぶりだった。
素手になった右手を差し出した。
ナーシャの右手が腰の剣に触れた。
「いやいや、ただの挨拶ですよ。人間の商人は、初めて会う相手にこうするのが作法でしてな」
将軍の記憶にある。武器を持っていないことを示す人間の作法だ。一瞬だけ間を置いてから、握り返した。ゲルトの掌は硬かった。荷を運ぶ手だ。
「初めてお目にかかりますな。このあたりの山には何度も来ておりますが、あなたのような方は初めてだ」
ゲルトの目が俺の折れた角を一瞬見た。だが何も言わなかった。
「ゼルドだ。将軍をしている」
「将軍。それはそれは。戦前は長老さんと取引しておりましたが」
「今は俺が仕切っている」
「なるほど。では、さっそく商いの話をさせていただいてよろしいですかな」
ゲルトが荷馬の布をめくった。塩の袋と穀物の袋が積まれている。ゲルトが塩の袋を軽く叩くと、乾いた音がした。
「塩が三袋、穀物が二袋。荷馬一頭分ですから多くはありません。まずは顔合わせということで」
「何と交換する」
「魔石をお持ちではないかと」
ゲルトの目が変わった。商人の目だ。
「戦後、人間の側で魔導器の需要が跳ね上がりましてな。魔石は軽い。荷馬一頭で山を往復するなら、鉱石より遥かに効率がいい。今は魔石が一番値がつくんですよ」
魔石。この山の鉱脈にはある。人間の詠唱魔法に使う触媒で、魔族には使い道がない石だ。
「魔石を渡せば、人間の魔法が強くなる」
ナーシャの声だった。低く、ゲルトにも聞こえている。
「おっしゃる通りかもしれませんな。ですが魔石では腹は膨れません」
ナーシャが黙った。
折れた角の断面を、親指でなぞった。
ナーシャは正しい。魔石で人間の魔法は強くなる。だが魔石は食えない。欲しがる相手がいる限り、俺たちには取引の価値がある。依存関係を作れ。依存は、生かす理由になる。
「交換する。いくつか見繕って兵に持たせる」
ドラクの兵に目配せした。一人が山を登っていく。
「それはありがたい。お待ちする間に、少しお話でもしましょうか」
ゲルトが火のそばに座り直した。
「勇者エリアスは、今どうしている?」
ゲルトの眉が僅かに上がった。将軍が勇者の名を出したことに驚いたのか。
「消えましたよ」
「消えた?」
「魔王を討った後、姿を消しました。どこに行ったか誰も知らない。帰還の式典にも出なかったそうで」
将軍の記憶がある。ヴァルデ平原で魔王が殺された日の混乱。あの後、勇者は人間の英雄として君臨していると思っていた。消えたのか。
「では、今は誰が仕切っている?」
「アルベルトという方です。勇者の参謀だった男が、新秩序評議会というのを作りましてな」
アルベルト。その名は知っている。
将軍の記憶にある。戦場で直接対峙したことはない。だが第一軍団が壊滅したとき、包囲網を描いたのはこの男だ。各国に散っていた人間の軍を一つにまとめ、魔族の退路を一つ残らず断った。エリアスが矛ならば、アルベルトは盤面そのものを動かす手だった。あの包囲を思い出すと、今でも背筋が冷える。
その軍師が、政治家になった。
「評議会を作って秩序を仕切ろうとしているわけですが、一枚岩ではないようでしてな」
「魔族の扱いか」
ゲルトが少し目を見開いた。
「お察しが良いですな」
「勘じゃない。戦後に勝った側が最初にもめるのは、負けた側の処遇だ」
ヴェルサイユの講和会議を思い出した。勝った国々が、敗者の処遇を巡って割れた。報復を叫ぶ国、秩序を求める国、もう関わりたくない国。結局、報復の声が一番大きかった。敗者に全てを償わせた結果、二十年後にさらに大きな戦争が起きた。
「根絶やしにしろという声が一番大きいそうで。五十年やられたんだ、もう一度立ち上がる前に叩き潰せ、と。戦争で家族を失った連中が押しているようですな」
「他の声は?」
「山の向こうに追い出せという連中。人間の法で管理しろという連中。もう終わったことだ放っておけという連中。四つに割れておりますな」
四つの声。そのうち二つは、この山にいる全員の死を意味する。
「アルベルトはどれだ」
ゲルトが俺を見た。焚き火の光が目の中で揺れている。それまでの柔らかい表情が消えていた。
「将軍。情報にも値段がありましてな」
「魔石に色をつける」
「色ですか。どれほどの色で?」
「拳ほどの石をもう二つ。次の取引に上乗せする」
ゲルトが顎に手を当てた。しばらく黙ってから、口を開いた。
「……管理ですな。人間の法の下に置いて管理するという立場だ。殲滅派は抑えようとしているようですが、五十年の恨みを持つ連中の声は大きい。アルベルト殿も押されているようで」
管理。殲滅よりはましだ。だが首に鎖をつけられる。
鎖か、刃か。どちらかを選ぶ余地がある間は、まだ交渉ができる。
「一つ聞いてもよろしいですかな」
ゲルトが言った。
「何だ」
「ここには、何人ほどおいでですか」
背筋が冷えた。
「商人の耳は広いな」
「麓の村で聞いたんですよ。大勢の魔族が山にいると。正確な数は知りませんが」
「数を教える義理はない」
「そうでしょうな。ですが荷馬一頭では足りないだろうとは思っておりました」
ゲルトの口元に、わずかに笑みが浮かんだ。
「ですから次は倍にしようと。足りない分は三回目、四回目で埋める。長い商売にしたいと思っておりまして」
この男は分かっている。俺たちが飢えていることを。飢えている相手との取引が最も利幅が大きいことも。
兵が魔石を持って戻ってきた。拳ほどの石が四つ。洞窟の壁から剥がしたものだ。
ゲルトが一つを手に取り、光にかざした。指が石の表面をなぞった。重さを量る手つきだった。
「いい石ですな。これなら次はもっと持ってこられますよ」
◇
塩と穀物を受け取り、魔石を渡した。ゲルトが荷馬の手綱を取った。
「ゼルド将軍」
足を止めた。ゲルトが振り返っている。それまでの商人の顔ではなかった。
「商人として一つだけ忠告しますよ。評議会が方針を決める前に、動いたほうがよろしい」
「動くとは?」
「さあ、それは私には分かりませんよ。商人ですからな。ですが方針が決まれば、それに従う連中が動き始める。そうなったら、この山道を登ってくるのは商人じゃありませんよ」
ゲルトは荷馬を引いて山道を下りていった。雪に足跡が残り、曲がり角で見えなくなった。
「ゼルド」
背後からだった。振り返ると、ドラクが三つ目の石積みの影に立っていた。腕を組み、残った右目がこちらを見据えている。最初からここにいたのか。
「お前は人間の味方か?」
「味方じゃない。食料がいるだけだ」
「食料はわかる。だがあの男に魔石を渡して、情報をもらって、次も来いと言った。それは取引じゃない。繋がりだ」
「繋がりの何が悪い」
「ナーヴクランの長老は人間と二十年取引していた。戦が始まったとき、最初に焼かれたのはナーヴクランの里だ」
返す言葉がなかった。
「人間と繋がった魔族がどうなったか。俺は知っている」
ドラクは振り返らずに山を登り始めた。兵が黙ってついていく。背中が雪の中に消えた。
ナーシャが俺の隣に立っていた。背筋を伸ばし、顎を上げた。
「兵に言っておく。魔石を掘り出しておけと」
「頼む」
ナーシャも山を登っていった。
一人残された。ゲルトの焚き火の跡が、まだ煙を上げていた。
勇者が消えた。軍師が政治家になった。評議会は四つに割れている。殲滅派がいて、管理派がいて、どちらが勝つかは決まっていない。
二十日後にゲルトが来る。だがその次があるかどうかは、評議会の方針しだいだ。
時計が動き始めた。針がどこを指しているのか、まだ見えない。




