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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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文字は死んでいる

「三十人の斥候で攻めてくるわけがない」


 ドラクが言い切った。焚き火を挟んで俺と向き合っている。ナーシャが壁に背を預け、腕を組んでいた。


「偵察だ。地形を調べて、戻ってから本隊を送り込む。問題はいつ来るか、と規模だ」


 ドラクの残った右目が俺を射抜いている。


「で、どうする。先に叩くか」


「叩かない」


 ドラクの顎が上がった。


「山道は狭い。三十人が通れるなら、百人でも通れる。だが山の上から石を落とせば、百人でも止められる。守りに徹する」


「守って、どうなる。向こうには補給があるが、こっちにはないんだぞ」


 ドラクは正しい。守るだけでは飢えて死ぬ。


「時間を稼ぐ。冬が来れば、やつらは雪の山を攻められない」


 ドラクは鼻を鳴らした。だが反論はしなかった。冬の山は攻者に不利だ。それは兵なら誰でも知っている。


「斥候を出し続けろ。南の山道を二交代で監視する。山道の三カ所に石を積んでおけ。崩せば道が塞がる」


 ドラクは黙って立ち上がった。壁際でナーシャが小さく息を吐く音がした。


 防衛手段は決まった。だが食料の問題は解決していない。





 雪が増えた。


 洞窟の入口に積もった雪を、毎朝かき分けて外に出る。息が白い。指の先が痺れている。


 配給は一日一度。拳一つ分の干し肉と、煮た根菜が半椀。椀を受け取るたびに、底が早く見えるようになっている。


 二万人が一日一食を維持できるのはあと二十日。その後は木の実と苔だけになる。木の実は雪の下だ。


 二十日。年が明ける前に食料が尽きる。


 食料の問題と同じくらい、もう一つ気になっていることがあった。


 洞窟群の奥、広い空洞がある。壁に煤で印が刻んであった。方角を示す線と、水場の位置を示す点。誰かが記録を残そうとした跡だ。


 だが文字ではなかった。共鳴痕だ。角を押し当てて、振動で刻んだ溝。角を持つ者が触れれば意味がわかる。持たなければ、ただの傷だ。


 折れた角の断面を、親指でなぞった。溝に押し当ててみたが、何も返ってこない。


 この壁を読める者が、いなくなったら。





 ゾーラのいる洞窟は、窪地の東の端だった。


 岩壁に沿って歩いた。雪を踏む音が自分の足音だけだった。洞窟の入口から薄い煙と、微かな振動が漂ってきた。


 奥に入ると、子供が三人、ゾーラの膝の周りにしゃがんでいた。ゾーラの角が微かに震えている。何かを伝えている。子供たちの角も応えるように揺れていた。


 俺に気づくと、ゾーラの振動が止まった。子供たちが振り返る。


「邪魔をした」


「構わない。何の用だ」


 ゾーラの濁った目が俺を見ている。背筋がまっすぐだ。杖は膝の横に立てかけてある。


「少し話がしたい」


 子供たちをゾーラが手振りで外に出した。三人が走っていく足音が遠ざかる。


「あの子たちに、何を伝えていた」


「この山の古い名前だ。知っている者がいなくなる前に」


 その言葉が引っかかった。知っている者がいなくなる前に。ゾーラ自身も、それを感じているのか。


「提案がある。歴史を、文字で記録したい」


 沈黙が落ちた。焚き火の音だけが聞こえる。


「文字?」


「壁に刻む。石の板に刻む。共鳴痕ではなく、人間の文字を借りて、目で読める形で」


 ゾーラの指が杖の先端に触れた。握るのではなく、確かめるように。


「人間の文字を」


「我々には文字がない。共鳴で十分だったからだ。だから人間の文字を借りる」


「十分だ。今も」


「今は。だがこの先は?」


 ゾーラの目が細くなった。


「さっき子供たちに、この山の古い名前を教えていた」


「……だから何だ」


「知っている者がいなくなる前に。あんたの言葉だ」


 ゾーラが目を閉じた。


「私は母の記憶を角で受け取った。母は祖母の記憶を持っていた。百年前の風の匂いが、この角にまだ残っている」


 ゾーラが象牙色の角の先端に触れた。ゆっくりと、確かめるように。


「途切れない。途切れたことがない。一度もだ」


「あの子たちの角は、まだ小さい。ゾーラの記憶の全てを渡しきれるか」


「渡せる」


「渡せる角がなくなったら?」


 ゾーラが黙った。


 長い沈黙だった。焚き火の薪が崩れ、火花が舞い上がった。


「言葉は角で伝えるものだ。石に刻んだ文字は死んでいる」


「死んだ文字でも、何も残らないよりはいい」


 ゾーラの杖が一度、短く床を打った。


「……協力はする。だが覚えておけ。文字に写した瞬間、共鳴の記憶は別のものになる。翻訳は常に、何かを失う」


「わかっている」


「わかっているか」


 ゾーラの声が低くなった。


「お前は今、共鳴の外にいる。半分折れた角では、もう輪には入れまい。入れない者が文字に移すことの意味を、本当にわかっているのか」





 三日後の夜、集会があった。


 洞窟群の中央にある広い空洞。天井が高く、焚き火が三つ焚かれている。二百人ほどの魔族が集まっていた。戦士も老人も女も。


 ナーシャが角合わせの儀礼だと教えてくれた。


「月に一度やる。クランの記憶を共有して、つながりを確かめる。あんたが来る前から続いてる」


「俺も参加できるか?」


 ナーシャの右手が腰の剣に触れた。一瞬だけ、何か言おうとして飲み込んだ顔をした。


「……できるよ。角があれば」


 空洞の中央に、ゾーラが座っていた。その周りを、年長者が円形に囲んでいる。その外側にさらに人が座り、三重の輪ができていた。


 俺は外側の輪に座った。隣はナーシャだ。


 ゾーラの角が震え始めた。


 低い振動が空気を揺らす。円の中心から波紋のように広がっていく。年長者の角が応え、振動が厚みを持つ。外側の輪に届いたとき、隣に座る女の角が微かに揺れた。


 その先が、来ない。


 振動は俺の角にも触れている。折れた断面がびりびりと痺れる感覚はある。だが意味が取れない。言葉ではない。映像でもない。ただ振動があるだけだ。


 周りを見ると、隣の女は目を閉じていた。口元が緩んでいる。涙が一筋、頬を伝っていた。向かいの老人も、その隣の若い男も、全員が同じ空気の中にいた。共有された何かの中に。


 俺だけが、外にいた。


 共鳴が深まっていく。空洞の空気そのものが震え始めた。焚き火の炎が揺れ、壁に映る影が揺れ、二百人の角が同じ波長で揺れている。壁を伝わる振動が足裏にまで届いてきた。床も天井も、この空洞全体が一つの共鳴器になっている。


 だが俺の頭の中だけが、静かだった。


 隣のナーシャの目が閉じていた。右手は膝の上にあり、剣の柄から離れている。口が微かに動いた。声にはならない。角が伝えている。ナーシャもあちら側にいる。


 周囲の二百人が一つの記憶を分かち合っている。誰かの祖父が見た草原。誰かの母が歌った歌。戦場で死んだ友の最後の叫び。それが全て、角を通じて流れている。


 一瞬、何かが掠めた。緑の光。風の匂い。草原を渡る風の感覚が、折れた角の断面を通り過ぎた。手を伸ばしかけた。だが次の瞬間には消えていた。断面が痺れて、それきりだった。


 俺には聞こえない。二百人が涙を流している理由が、わからない。


 折れた角の断面に触れた。痺れだけがある。中身がない。容器だけがあって、水がない。


 ゾーラの言葉が頭に残っていた。「入れない者が文字に移すことの意味を、本当にわかっているのか」。


 わかっていなかった。角がなければ、永遠に外側にいる。


 儀礼が終わったとき、空洞は静かだった。しばらく誰も立ち上がらなかった。やがて泣いている者がいた。笑っている者がいた。隣の者と肩を組んでいる者がいた。全員が同じ場所から戻ってきた顔をしていた。


 俺は一人で立っていた。


 ナーシャが近づいてきた。俺の顔を見て、何も言わなかった。ただ背筋を伸ばし、顎を上げ、俺の隣に立った。


「翻訳を手伝う」


 短い声だった。


「さっきの儀礼で流れた記憶。全部じゃないけど、言葉にできる部分はある。私が口で言う。あんたが書け」


 ナーシャの目が、俺を見ていた。


「角で伝えられないなら、言葉で伝えればいい。完全じゃなくても」


 答えられなかった。喉が詰まっていた。


「ありがとう」


「礼はいらない。あんたが一人でやったら、全部間違えるからね」





 翌日から、記録が始まった。


 ゾーラが語り、ナーシャが言葉に変換し、俺が石板に刻む。人間の文字を借りて、魔族の記憶を移す作業だ。


 最初の一行は、ゾーラが選んだ。


「ドゥルグの民は、山に生まれた」


 石に刻む。鉄の釘を使って、一文字ずつ。手が震えた。一行に半刻かかった。


 ゾーラはその一行を見て、長い間黙っていた。


「違う」


「何が?」


「全てが。文字は死んでいると言っただろう。この石には角で触れても何も感じない。記憶が入っていない」


 それでも、ゾーラは次の行を語り始めた。


 ドラクは記録の現場に一度も来なかった。代わりに兵を送ってきた。石板を削る鉄を持った兵が二人。何も言わずに座り、石を削り始めた。


 ドラクなりの協力なのだろう。認めはしない。だが邪魔もしない。


 七日目。記録が石板三枚目に入ったとき、ナーシャが洞窟に駆け込んできた。


「将軍。斥候が戻った」


 石板を置いた。鉄の釘が床に転がる音がした。


「南の山道に人影。一人。武装していない」


 武装していない?


「荷馬を引いている。人間だ」


 人間が一人で。武装なしで。荷馬を連れて。


 山を登ってきた。


「商人か」


 ナーシャの目が俺を見た。


「自分から来た。こっちに向かっている」


 荷馬一頭で二万の腹は満たせない。だが人間が、自分から来た。


 閉じていたはずの道が、一本だけ見えた。


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