空腹は怒りに似ている
火は、山の窪地にあった。
岩壁を二つ越えた先に、煙が立ち上っている。一つではない。十か二十か、数えきれない焚き火の煙が、初冬の灰色の空に溶けていた。
雪だった。
山道に足を踏み入れてから五日目。最初の雪が降った朝に、俺たちは目的地に着いた。
窪地は天然の要塞だった。三方を切り立った岩壁に囲まれ、残る一方が南に開けた緩斜面になっている。洞窟群が岩壁に口を開けていた。その一つ一つから煙が出ている。
先に来ていた者たちが、すでにそこにいた。
ドラクの見立ては三千だったが、甘かった。それどころではない。
窪地を埋め尽くす魔族の群れ。非戦闘員だ。老人、女、子供。松明を持った男がまばらに立っている。武装はほとんどない。
「どれだけいる?」
ナーシャに聞いた。
「ざっと……二万」
ナーシャの声が低くなった。右手が腰の剣の柄に触れている。
二万。千人を連れて山に入ったが、ここにいたのはその二十倍だった。各地から山に逃げ込んだ者たちが、この窪地に流れ着いていた。
三千では足りない。二万を養わなければならない。
窪地の中央に降りると、非戦闘員の一群が近づいてきた。先頭に立った男が、片膝をついた。
「ゼルド将軍。お待ちしておりました」
元文官だと名乗った。魔王城の事務方だったらしい。壊走の中で非戦闘員を束ね、ここまで導いてきた。
「二万の民の指揮は、将軍にお預けします」
「預かる。だがこの窪地のことはお前の方がよく知っている。配給と洞窟の割り振りは、そのまま続けろ」
男は頷いた。安堵の色が顔に出ていた。
最初の夜、洞窟の一つに案内された。岩壁に開いた横穴は奥行きが十歩ほどで、天井は低かったが、風は通らない。入り口に火を焚けば、中は暖かかった。
配給が来た。干し肉の塊と、煮た根菜の椀。山道の五日間を木の実と水で過ごした体には、温かい椀がありがたかった。
だが二日目から、椀の中身が減り始めた。
◇
合流から三日で、配給は日に二度から一度に減った。
先行していた非戦闘員たちの備蓄は、すでに半分以下だった。山で採れるものは限られている。木の実、苔、虫。それで二万の腹は満たせない。
一度の量も拳一つ分の干し肉と、煮た根菜がひと椀。どの洞窟からも、煮炊きの匂いがしなくなった。子供が泣いた。腹が減ると子供は泣く。当たり前のことだった。
四日目の昼に、悲鳴が聞こえた。
洞窟群の西側。非戦闘員が集まっている区画だ。
走った。ナーシャが先に走っていた。
着いたとき、ドラクの兵が三人、老人から袋を取り上げていた。干し肉の配給を溜め込んでいた袋だ。老人が地面に座り込んでいる。額から血が出ていた。
「返せ」
老人の声が震えていた。だが兵は笑っている。
「食わなきゃ戦えないんだよ、爺さん。戦えない奴が食うのは贅沢だ」
周りに女が五人、子供が三人。誰も動かない。兵の腰には剣がある。
「やめろ」
俺の声が洞窟の壁に反響した。
三人の兵が振り返った。俺を見て、一瞬だけ足を止めた。ゼルドの顔を知っている。だが従う義務はない。
「将軍殿。俺たちはドラクの兵だ。あんたの命令は聞かない」
「命令じゃない」
一歩近づいた。兵の顔が強張る。
「質問だ。お前たちは人間を殺して生き延びた。五十五年の戦争で。人間の村を焼き、人間の食料を奪い、生き延びてきた」
兵の一人が顎を引いた。否定はしない。
「それと同じことを、今度は同胞にやるのか?」
沈黙が落ちた。
兵の一人が口を開きかけた。その瞬間、杖が地面を打つ音がした。
一度。乾いた、硬い音。
ゾーラだった。
洞窟の奥から、杖をつきながら出てきた。背筋がまっすぐだ。白く濁った目が兵を見ている。
「袋を返しなさい」
声は低かった。怒鳴ってはいない。だが三人の兵が、同時に半歩下がった。
「大母」
「黙りなさい」
ゾーラの杖がもう一度、地面に触れた。今度は打つのではなく、静かに置くように。
「飢えているのはお前たちだけではない。この山にいる全員が飢えている。子供も、老人も、お前たちも」
兵の手から袋が落ちた。
「食料は等しく分ける。戦う者も、戦わない者も」
ゾーラはそれだけ言って、老人のそばにしゃがんだ。額の血を布で拭いている。
兵は黙って立ち去った。
ナーシャが俺の隣に立っていた。腕を組み、去っていく兵の背中を見ている。
「等しく分けたら、全員が飢える」
「わかっている」
「それでいいの?」
「いいかどうかじゃない。それしかない」
ナーシャは何も言わなかった。背筋を伸ばし、顎を上げて、洞窟の入口を見ていた。
等しく飢えるか、一部が食って一部が死ぬか。どちらも正解ではない。だがどちらかを選ばなければ、集団が内側から崩れる。
前世の先例がある。包囲された城の食料分配。配給を均等にした指揮官は、兵を優先した指揮官より長く持った。だが結局、どちらも全滅した。
ドラクの兵が去った方を、しばらく見ていた。
二万人を養う食料がない。
◇
その夜、焚き火の前にゾーラがいた。
子供が六人、ゾーラの周りに座っている。火の明かりが象牙色の角を照らしていた。
ゾーラが歌を聞かせていた。
言葉はわからない。古い魔族語だろう。旋律も単純だった。同じ四つの音を繰り返す、子守歌のようなもの。
だが角が震えていた。
ゾーラの角が微かに振動し、歌に合わせて空気を揺らしている。歌と共鳴が重なって、焚き火の周りだけ空気の温度が変わった気がした。子供たちの角も反応している。小さな角が、ゾーラの振動に同調して震えていた。
子供たちの目が閉じ始めた。一人、また一人。火の前で、ゾーラの歌に包まれて眠っていく。
俺の折れた角には、歌の中身は届かない。旋律だけが耳に聞こえる。だが子供たちの顔を見ればわかった。
飢えている。凍えている。家もない。親がいない子もいるだろう。それでもこの歌の中では、眠れている。
焚き火の光がゾーラの横顔を照らしていた。濁った目が、眠る子供たちを見ている。
ゾーラが俺に気づいた。ゆっくりと顔を上げ、一瞬だけ目が合った。
何も言わなかった。ゾーラは歌い続け、俺は立ったまま聞いていた。
◇
「将軍」
翌朝、ドラクの斥候が戻ってきた。
走ってきたのだろう。息が荒い。初冬の空気の中で、灰色の肌から湯気が立っていた。
「南の山道に人影があります。武装しています」
「数は?」
「確認できたのは三十前後。ただし、山道の向こうにもっといるかもしれません」
人間の兵だ。
この山の位置が知られている。
折れた角の断面に、指が触れた。
「ナーシャ。ドラクを呼べ。対策を練る」




