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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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震えない手

「南の山道に人間がいる。五人」


 斥候の声に、洞窟の空気が変わった。


 焚き火の前にいた兵が顔を上げた。奥で毛皮を繕っていた者の手が止まった。五人。ゲルトは一人だった。五人は商人の数ではない。


「武装は?」


「剣と短弓。荷馬はない」


 ゲルトは丸腰で荷馬を引いてきた。剣と短弓を持ち、荷馬なしの五人は商人ではない。偵察だ。


 ゲルトとの取引から十日余り。穀物は二万の腹であっという間に消えた。配給を半分に絞り、雪の緩んだ斜面で根や獣を探して凌いでいる。次の取引まであと十日。その十日を待つ前に、向こうから来た。


「偵察だ」


 ドラクが立ち上がった。焚き火の明かりが、残った右目の奥を照らしている。


「石積みの手前で捕まえろ。洞窟の位置を見られるな」


 それは正しい。偵察を通せば次に来るのは本隊だ。


「殺すな。捕らえろ」


 ドラクが俺の言葉に振り返った。周囲の兵の視線が揺れた。


「捕らえてどうする?」


「尋問する。誰の命令か、何人が控えているか、評議会は動いたか。殺したら何もわからん」


「わかることはある。死体を山道に転がしておけば、次の連中は足が止まる」


「止まって考えた結果、百人で来るぞ」


「五人殺して怯まない連中なら、生かして返しても同じだ」


 ドラクの声に怒りはない。冷えた論理だった。五十年の戦を生き延びた男の計算だ。隣にいた若い戦士が頷いた。ドラクの言葉には筋がある。俺もそう思う。


 だが筋の通った判断が全て正しいわけではない。


「殺せば全ての扉が閉まる。返せば一つ開く」


「扉の先に何がある? お前には見えているのか?」


 洞窟が静まった。二十人近い兵が見ている。将軍と復興派の頭が、捕虜の命を秤にかけている。


 見えていない。ドラクの反論は正しい。返した捕虜が何を伝えるか、人間がどう動くか、わからない。わからないまま、二万人を賭けようとしている。


「先例がある」


「何の先例だ?」


 ドラクの声が鋭かった。


「五十年の戦で捕虜を返した将がいたか? 共鳴でも口伝でも、聞いたことがない」


 いない。少なくとも魔族の歴史には。曹操が官渡の戦いで捕虜を許したとき。サラディンが十字軍の捕虜を治療したとき。捕虜の扱いが、敵の認識を変えた。だがそれはこの世界の話ではない。言えるわけがない。迂闘だった。口に出すべき言葉ではなかった。


「殺せば、俺たちは獣だ。人間はそう見る。獣には交渉しない。駆除する」


 ドラクが腕を組んで言った。


「交渉。商人の次は捕虜か? お前は何でも取引の道具にするな」


「道具にしているんじゃない。選択肢を増やしている」


「選択肢の一つは、あの五人が持ち帰った情報で軍が来ることだ。それも増やすのか?」


 返す言葉を探した。見つからなかった。


「殺すな。俺が尋問する」


 命令として言った。将軍として。


 ドラクは何も言わずに出て行った。背中が洞窟の闇に消えた。従ったのではない。判断を保留したのだ。


 残された兵の何人かが、ドラクの背中を見ていた。将軍の命令ではなく、ドラクの背中を。





 南の山道を下った。日の当たる斜面では雪が緩み、黒い土が顔を出し始めている。だが日陰はまだ膝まで埋まった。岩の上の氷から雫が落ちている。厳冬の底は過ぎたのか。吐く息はまだ白い。


 石積みの手前で、ドラクの戦士が待ち構えていた。五人のうち四人を取り押さえたが、一人が斜面を転がるように逃げた。雪の上で押さえつけられた人間が、低い呻き声を上げている。


 追うなと命じた。逃げた兵は戻って報告する。四人を殺さなかったことも伝わる。それでいい。


 四人を石積みの裏に座らせた。手を縛り、武器を取り上げた。雪の上に剣四本と短弓三張りが並んだ。刃は手入れされているが、鎧は革だ。正規軍の鉄鎧ではない。革の胸当てに焼き印がある。将軍の記憶が反応した。南麓の領主が私兵に使わせる型だ。


 四人の顔を見た。三人は黙って座っている。中でも顎に古い刀傷のある男が、こちらを真っ直ぐ見返してきた。口を割る気はない。


 だが一番若い兵が震えていた。まだ二十歳前後か。顎が小刻みに動いている。唇が白い。寒さだけではない。生まれて初めて魔族を近くで見たのだろう。角のある顔が四方から自分を見下ろしている。


「名前は?」


 若い兵に話しかけた。ナーシャが横に立ち、ドラクの兵二人が後ろを固めている。


「……エーリッヒ」


 声が震えている。


「エーリッヒ。お前たちは誰の命令で来た?」


 隣の刀傷の男がエーリッヒの肩を掴んだ。黙れという合図だ。エーリッヒの顎が一層震えた。


「答えなければ殺すとは言わない。だが答えれば早く帰れる」


 エーリッヒの目が揺れた。刀傷の男を見て、俺を見て、また男を見た。男は前を向いたまま動かない。


「……ベルクヴァルト伯の命令です」


「黙れ、エーリッヒ」


 刀傷の男が低い声で言った。エーリッヒの口が閉じかけたが、もう遅い。


「ベルクヴァルト伯。評議会の命令ではないのか?」


 刀傷の男が顔を上げた。俺を見る目に、恐怖とは違うものがある。魔族の将軍が評議会の名を知っていることへの驚きだ。


「……知らん。俺たちは伯の命で来ただけだ」


「評議会から統一命令は出ているか?」


 男の目が細まった。答えるか否か、計算している。


「出ていない」


 短い返答だった。だがそれで十分だ。


 ゲルトの情報と一致する。評議会は方針を決めていない。統一命令は出ていない。装備は南麓の領主の私兵だった。おそらくベルクヴァルト伯が評議会を待たず、独断で偵察を送った。あるいは評議会が黙認したか。どちらにしても、人間の足並みは揃っていない。


 南麓の領主なら、この山は伯の領地に等しい。その庭先に二万の魔族が座っている。評議会の決定を待たずに動く理由は、それだけで十分だろう。


 折れた角の断面を、親指でなぞった。


 ゲルトは言っていた。評議会は四つに割れている、と。殲滅、追放、管理、無関心。将軍の記憶にもある。戦の序盤、人間もばらばらだった。それを一つにまとめたのがアルベルトだ。だが今、その結束が緩んでいるように見える。商人の言葉と捕虜の証言が同じ方向を指している。


 人間は一枚岩ではない。そう見ていい。隙間があるうちは、交渉の余地がある。だがどの石がいつ転がってくるかは読めない。ベルクヴァルト伯のように。


「お前たちの他に、伯の兵は何人いる?」


 刀傷の男が口を閉ざした。エーリッヒが横目でその男を見たが、今度は何も言わなかった。学んだのだろう。


「いい。答えなくていい」


 立ち上がると、ナーシャが髪の後ろを掻いた。


「帰すのか?」


 小声だった。俺にしか聞こえない声量だ。


「帰す」


「ドラクが黙っていない」


「黙っていなくていい。だが殺さない」


 ナーシャは何も言わなかった。口を引き結んでいる。反対ではない。だが賛成でもない。副官として、この判断の先にあるものを見ている。


 四人の縄を解かせた。武器は返さない。ドラクの戦士の一人が舌打ちした。もう一人は黙って俺を見ていたが、目に不満がある。


「伝言がある。ベルクヴァルト伯に伝えろ」


 刀傷の男が立ち上がった。手首を擦りながら、俺を見ている。殺されると思っていた目だ。殺されなかったことに、まだ追いついていない。


「この山の魔族は戦いを望まない。だが、来るなら迎え撃つ。望むなら話をする。どちらを選ぶかは、伯が決めろ」


 男の表情は変わらなかった。だがエーリッヒは何度も振り返りながら山道を下りていった。四つの背中が曲がり角で見えなくなった。


 ドラクの戦士が吐き捨てるように言った。


「殺しておけば、あいつらは戻ってこなかった」


 答えなかった。答える必要がない。将軍の命令は将軍の命令だ。だがその戦士の目には、将軍ではなくドラクの姿が映っていることは分かった。





「臆病者が!」


 ドラクの怒声が背後から飛んだ。


 振り返ると、石積みの上に腰を下ろしていた。いつからいたのか。全部を見ていたのか。


「敵を捕まえて、尋問して、帰した。お前がやったことはそれだ」


「そうだ」


「五十年の戦で、捕虜を返した将はいない。俺の知る限り、一人もだ」


「だから先例を作る」


「先例を作るのか、前例のない愚行を犯すのか。どちらだ?」


 黙った。反論の言葉がなかった。


「ゼルド。お前の判断が正しいかどうか、俺にはわからん」


 ドラクの声が変わった。怒りではない。疲労に似た何かだ。


「だが正しくなかったとき、死ぬのはお前だけじゃない。二万人が死ぬ。お前は二万人の命で賭けをしたんだ」


「わかっている」


「わかっていない。わかっていたら、あの兵の縄を解く手が震えるはずだ」


 ドラクは石積みから飛び降りた。俺の横を通り過ぎるとき、肩がぶつかった。わざとだ。


 兵を連れて山を登っていった。一度も振り返らなかった。


 残されたのは雪の上の足跡だけだった。捕虜の足跡が山道を下り、ドラクの足跡が山を登っている。俺はその間に立っていた。


 風が止んだ。雪の匂いがする。空が白い。


 手を見た。震えていなかった。二万人の命を賭けた手が、震えていない。それが何を意味するのか、わからなかった。





 七日後、南の見張りが叫んだ。


「旗が見える。山道の下、隊列だ」


 駆けつけた。石積みの上から見下ろすと、山道の曲がり角に旗竿が揺れていた。先頭の兵が見える。その後ろにも。数えられる範囲で五十。曲がり角の向こうにまだ続いている。


「二百から三百」


 ナーシャの声だった。


 偵察隊ではない。旗を掲げた正規の隊列だ。鎧の金属が冬の陽を弾いている。槍の穂先が光の列を作っている。


 返した捕虜が伝えたのは、伝言ではなかった。この山に二万の魔族がいるという情報だ。ベルクヴァルト伯は話を選ばなかった。剣を選んだ。


 ドラクが正しかった。


 あの四人を殺していれば、この隊列はここにいない。戦を避けるために帰した命が、戦を連れてきた。配給を半分に絞った兵で、鉄の鎧を止められるのか。


「ドラクに伝えろ」


 ナーシャを見た。


「戦の支度だ」


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