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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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11/29

声じゃ届かない距離

 石積みの上から、山道を見下ろした。


 曲がり角の向こうから隊列が続いている。先頭の兵が見えてから、すでに二百は数えた。まだ来る。槍の穂先が列を作り、冬の陽を弾いている。


 ドラクが正しかった。返した命が、戦を連れてきた。


 折れた角の断面を、親指でなぞった。


 山道は狭い。二人が並べば肩がぶつかる。だが道だけを見ていてはだめだ。道の両側に目を向けた。杉と檜の針葉樹林が斜面を覆っている。幹は太く、倒木と岩が重なり、冬で下草は枯れているが視界は十歩先までしか通らない。尾根に上がれば岩肌が露出し、山道を一望できる。


 前世の記憶が動いた。


 平原で大軍が横隊を組み、戦闘共鳴で意識を同期させて敵を押し潰す。それが魔王軍の五十年だった。だが、ここは平原ではない。兵は百に満たない。戦闘共鳴は七枝角の崩壊とともに消えた。


 山岳地帯で少数の兵力が正規軍を壊滅させた戦術がある。隊列を組んだ側が不利になる。道に縛られ、前も後ろも助けに行けない。山で勝つのは、散らばって叩いて消える側だ。この世界の話ではない。だが山は山だ。森は森だ。鉄の鎧を着た兵が森で立ち往生するのは、どの世界でも同じだ。


 そして、ここにはあの世界になかったものがある。共鳴だ。声を出さずに全隊に命令が届く。人間には聞こえない。森の中で散り散りになっても連携が保てる。


 先例がある。


 頭の中で浮かんだ。口には出さなかった。


「ドラク」


 声をかけた。ドラクは石積みの裏に立っていた。腕を組み、残った右目が山道を見据えている。


「石壁に兵を並べるな」


 ドラクの目が動いた。


「何を言っている?」


「平原で横隊を組んで押すのが魔王軍の戦い方だった。だがそれは一万の兵と戦闘共鳴があったからだ。百人で石壁を守ってどうする。鉄鎧の兵に正面から押されて終わりだ」


「ならどう戦う?」


「散れ。小隊に分けて森に入れ」


 松脂の匂いが風に乗って流れてきた。杉の枝が揺れている。


 ドラクの顎が上がった。


「戦士を山賊にしろと?」


「山にしろと言っている。森の中から叩いて消える。別の方向からまた叩く。敵にはどこから来るのかわからない。追おうにも、鉄の鎧では森を走れない。足を取られて終わりだ」


「それで勝てるのか?」


「削れる。怯えさせられる。そして共鳴がある」


 ドラクの眉が動いた。


「人間には声しかない。声は山にこだまして位置を晒す。だが共鳴は無音だ。全隊の位置がわかる。敵の動きがわかる。いつどこを叩くか、森の中でも指示が出せる。人間に見えない戦場を、俺たちだけが見ている」


 ドラクは黙っていた。五十年の戦争経験が、この論理を噛み砕いている。重い鎧の人間と山の狭い道で正面からぶつかる愚は、五十年も生きていれば知っている。


「仕上げはお前がやれ」


 ドラクの残った右目が、初めてまっすぐ俺を見た。


「森で削って、士気を砕いて、動けなくなったところで全隊を一点に集める。その先頭がお前だ。一時間の沈黙の後に、お前の大刀が敵を砕く」


 沈黙が落ちた。仕上げ。最後の殴り込みは武勲だ。戦士にとって最も名誉ある場所を、俺は差し出している。


「お前は何をする?」


「後ろで座っている。俺の角じゃ共鳴が届かない。共鳴ができる奴を横に置いて、そいつの口から聞いて指示を出す」


「臆病者らしい」


「そうだ。だから死なない」


 ドラクは鼻を鳴らした。だが腰の大刀の柄を握り直した。拒否ではなかった。





「ナーシャ」


 ナーシャが石積みの横に立っていた。螺旋角の右側、刀傷のある方が冬の光に白く浮いている。右手が腰の剣に触れた。


「共鳴が使える兵を五組に分けろ。各組に通信ができる角の大きい兵を一人ずつつけてくれ」


「五組?」


「遊撃がA、B、Cの三組で八人ずつ。退路封鎖のD組が六人。ドラクの先鋒隊が十五人。残りは洞窟の守備だ」


「あんたは?」


「あの高台にいる」


 指差した先は、石積みより一段高い岩場だった。杉の枝越しに山道の一部が見下ろせる。


「共鳴ができる奴を一人つけてくれ。角が大きくて精度のいい奴がいい。お前が中継の要だ。各隊の報告をお前が集めて、俺の横のそいつに流す。そいつが俺に口で伝える。俺の指示は逆の順で全隊に届ける」


 ナーシャは黙って頷いた。背筋を伸ばし、顎を上げた。副官の顔だ。


「心当たりがある。合流組にヨルンという若い兵がいる。角が大きくて共鳴の精度が高い」


「頼む」


 ナーシャが走っていった。短い髪が揺れている。


 半刻もかからなかった。各隊が森に散っていく。杉の幹の間に消えていく背中を見送った。


 ヨルンが高台に来た。二十歳前後の若い兵で、灰色の角が頭の両側から大きく伸びている。俺の折れた角を見て、一瞬だけ目が泳いだ。将軍が共鳴を使えないことを知らなかったのだろう。


「俺の横にいろ。共鳴で聞いたことを全部俺に言え。俺が言ったことは、ナーシャに送れ」


「はい」


「名前は?」


「ヨルンです」


「ヨルン。お前の角が俺の耳になる。頼むぞ」


 ヨルンは頷いた。高台の岩に腰を下ろし、目を閉じた。角が微かに振動している。各隊との接続を確認しているのだろう。俺には振動の方向しかわからない。断面がびりびりと痺れるだけだ。


 何を言っているのかはわからない。だからヨルンがいる。





 遠征隊の先頭が、第一の石積みに到達した。


 高台から見下ろしている。将校らしい男が先頭で手を上げ、兵を止めた。石積みの裏を確認している。


 誰もいない。


 将校が振り返り、後続に何か叫んだ。声が岩壁に反響して、三方向から返ってきた。山では声が位置を晒す。


 ヨルンが小声で告げた。


「A隊——敵先頭、第一石積み通過。後尾はまだ森に入っていません。隊列の長さ、約四百歩」


 頷いた。四百歩。先頭が攻撃を受けても、後尾が駆けつけるまで数分かかる。


 山道の両側に杉の森が続いている。幹の影が道に覆いかぶさり、陽は枝の間からまだらに差している。松脂の匂い。冷たい土の匂い。兵の靴が砂利を踏む音が、静かな山に響いていた。


 待った。


 遠征隊が第二の石積みを越えた。ここも空。将校の顔が険しくなっている。罠を疑っている。だが進まなければ懲罰にならない。


 隊列が山道の中腹に入った。


「ヨルン。A隊に伝えろ。後方の荷馬を叩け。二射で消えろ」


 ヨルンの角が振動した。数秒の沈黙。ナーシャが中継し、A隊に届いたはずだ。


 東の森で、枝が揺れた。


 矢が二本、飛んだ。


 一本が荷馬の腹に刺さった。馬が嘶き、暴れ、荷が散乱する。もう一本は後方の兵の肩甲骨と鎧の隙間を抜いた。兵が崩れ、後ろの兵が支えている。


 周囲の兵が盾を構えて東の森を凝視した。杉の幹が並んでいる。倒木と岩の隙間に、冬の枯れ草が揺れている。風だ。風だけだ。


 A隊はすでにいない。二射で離脱している。走らない。音を立てない。森の中を、岩と幹を使って移動する。共鳴で離脱完了を伝えている。


 ヨルンが告げた。「A隊、二発命中、離脱完了」


 頷いた。最初の一撃は「ここには敵がいる」と教えるだけでいい。恐怖を植えればいい。


 将校が叫んだ。「追うな! 隊列を崩すな!」


 正しい判断だ。だがそれは、道の上にいるしかないことを意味する。


 遠征隊が前進を再開した。兵の歩みが遅くなっている。盾を構えたまま歩いている。


 三百歩進んだ。


「C隊。上から石を三つ落とせ。隊の真ん中を狙え」


 ヨルンの角が震えた。


 尾根の上から、石が落ちた。人の頭ほどの石が斜面を跳ね、砂利を巻き上げながら山道に落下した。一つ目は道の脇に落ちた。二つ目が兵の盾にぶつかり、兵ごと押し倒した。三つ目は密集した隊列の中に落ち、二人が巻き込まれた。一人は兜が凹んで膝をついている。もう一人は足を押し潰されて動けない。仲間が引きずろうとしている。


 兵が尾根を見上げた。岩の縁に影が見えた。角のある影が一瞬。だが一瞬だけで、もう何もいない。


 ヨルン。「C隊、三発投下、離脱」


 遠征隊の兵が震え始めていた。


 次。


「B隊。西の森から先頭付近を射て。旗持ちを狙え」


 ヨルンが送る。数秒後、西の森から矢が三本飛んだ。先頭の旗持ちの腕を射抜き、旗が落ちた。ベルクヴァルト伯の紋章が泥の上に沈む。


 旗が落ちると、後続は先頭の状況が見えなくなる。山道が曲がっているからだ。後ろからは先が見えない。声で確認するしかない。


 将校が叫んだ。「前は大丈夫か!」


 声が岩壁にこだまし、三方向から返ってきた。魔族の各隊はその声で将校の位置を正確に特定している。


 ヨルンが告げた。「ナーシャから——将校の位置を特定。先頭から約三十歩後方」


 記憶した。後で使う。


 四度目。A隊が森の中を前方に移動していた。共鳴でB隊と経路が重ならないよう調整している。ナーシャが交通整理をしている。


 A隊が先頭付近を東から叩いた。二度目の東からの攻撃だが、位置が違う。後方にいたはずの敵が、前方にいる。


 兵の間に動揺が走った。「何人いるんだ」「どこにでもいるぞ」。声が山に響いている。声を出すたびに、共鳴で位置が更新される。


 頭の中で、各隊の位置と敵の位置を重ねていた。ヨルンの報告が途切れなく入ってくる。目に見えるのは高台から覗く山道の一部と杉の梢だけだ。だが頭の中には戦場の全体像がある。各隊の位置、敵の密度、動きの方向。全てヨルンの声だけで組み立てている。


 八人が場所を変えただけだ。数は変わっていない。だが敵は攻撃の方角と回数を数えている。四つの方向から来れば、四つの部隊がいると考える。


 五度目。C隊が尾根から丸太を転がした。冬の間に倒れた杉の幹を、五人がかりで斜面に押し出す。枝を巻き散らしながら山道に向かって転がり落ち、隊列の中を突き抜けた。鎧ごと兵を弾き飛ばし、道の脇の岩にぶつかって止まった。


 三人が巻き込まれた。一人の兜が脱げた。髭も生えていない若い顔が見えた。仲間が引き起こそうとしている。


 高台から見ていた。敵の兵にも顔がある。だが今はそれを考えない。


 六度目。A隊とB隊が同時に動いた。初めての二方向同時攻撃。東と西から、同時に矢と石が降った。


 これが遠征隊を止めた。


 前にも後ろにも横にも敵がいる。山全体が敵だ。将校が隊列を密集させようとしたが、密集すれば石の的になる。散開させれば声が届かない。人間には声しかない。


 隊列が二つ目の曲がり角の手前で停止した。座り込む兵がいる。将校が怒鳴っているが、兵の目が死んでいた。見えない敵に一時間叩かれ続けた兵に、前に進む意志は残っていなかった。


 ヨルンが報告した。「各隊集計——敵の死傷、推定十五から二十。味方の被害、なし」


 一時間。六度の接触。味方の損害なし。


 十分だ。





「ヨルン」


「はい」


「全隊に伝えろ。二の曲がりの東側尾根に集結。ドラク隊が先頭。俺の合図まで待機」


 ヨルンが目を見開いた。散らばっていた全隊を一点に集める。


 ヨルンの角が振動した。ナーシャに届く。ナーシャが各隊に流す。


 走者で伝令を送れば、全隊に届くまでに半刻はかかる距離だ。共鳴なら数十秒で済む。散開と集結を即座に切り替えられる。これが共鳴の本質だ。


 森の中で、各隊が音もなく動き始めた。人間の兵は何も気づいていない。角の振動は人間には聞こえない。杉の森の中を、七十人近い魔族の兵が一つの場所に向かって収束していく。


 ヨルンが報告する。


「A隊、集結点到着」


「B隊、到着」


「C隊、移動中。あと百歩」


「D隊、到着」


「ドラク隊、所定位置」


 頭の中で駒を置いていく。最後の一つが嵌まった。


「C隊、到着」


 全隊集結。東側の尾根と杉の森に八十人が潜んでいる。眼下に遠征隊。止まったまま。将校が後方と何か怒鳴り合っている。


「ヨルン」


「はい」


「始めろ」


 ヨルンの角が震えた。ナーシャが中継した。全隊に届いた。


 ドラクが先に動いた。


 尾根から斜面を駆け下りる。大刀を片手に。先鋒十五人が後に続く。杉の幹の間を縫い、枝を払い、落ち葉を蹴散らし、山道に躍り出た。


 一時間の沈黙の後の、暴力だった。


 ドラクは将校に向かって真っ直ぐ突き進んだ。先頭から三十歩後方。共鳴の報告で掴み、ナーシャを通じてドラクに伝えた位置だ。


 将校が剣を抜こうとした。遅い。ドラクの大刀が鉄の胸当てを叩き割った。火花が散り、鉄が歪み、将校が膝をついた。


 ドラクの残った右目に血が飛んでいた。拭いもしない。血と泥にまみれた大柄な体が迫り、黒い角が空を切る。次の一撃が振り下ろされる前に、周囲の兵が崩れ始めた。


 横から別の小隊が森を飛び出した。前方からも。後方からも。一時間姿を見せなかった敵が、四方から同時に現れた。


 遠征隊が砕けた。一時間削られ、怯え、指揮官を失った兵に持ち堪える力はなかった。走り出す者、盾を捨てる者、鎧を脱ぎ捨てて身軽になろうとする者。


 ドラクは走る兵を追わなかった。目の前の敵だけを斬る。無駄がない。五十年の戦を生き延びた体が、狭い空間で最も効率的に動いていた。旧第一軍団の兵がドラクの背中についている。戦闘共鳴はもうない。だがドラクの存在自体が兵を束ねていた。体が覚えている。この背中の後ろにいれば生き残れた時代を。


 高台から、全部を見ていた。


 ドラクが斬り込んでいる。各隊が四方から敵を押し込んでいる。遠征隊の兵が逃げている。


 味方も倒れていた。


 ドラクの先鋒隊で、若い兵が一人——槍に腹を貫かれていた。角がまだ小さい。十八か十九か。隣の兵が引きずり出そうとしているが、槍が抜けない。若い兵の口から血が溢れた。


 見ていた。高台の上から。全部を。


 倒れた若い兵の角は灰色だった。合流組のどこかのクランの子だろう。名前を知らない。


「引け! 深追いするな!」


 立ち上がり、叫んだ。ヨルンが共鳴で送る。ナーシャが中継する。


 全隊が同時に接触を断った。ドラクの先鋒隊が一歩退き、二歩退き、杉の森に吸い込まれていく。他の隊も同時に。五秒前まで四方にいた魔族の兵が消えた。


 遠征隊の残兵が山道に取り残された。追撃はない。山が静かに戻る。松脂の匂いと、血の匂いが混じっていた。


 兵が山道を転がるように下っていく。鎧を脱ぎ捨て、盾を捨て、走る者と引きずられる者が入り混じっている。





 戦場が静かになった。


 山道に動かない体がいくつもある。人間の兵だ。鎧が陽を弾かなくなっている。死んでいる者と、まだ息のある者がいた。


「動ける者は山を下ろせ。動けない者はそのまま置け。殺すな」


 兵の一人が俺を見た。何も言わなかった。


 こちらの被害。死者が四人。負傷が十一人。ドラクの先鋒隊から二人、遊撃A隊から一人、遊撃C隊から一人。若い兵の死体は、仲間が洞窟に運んでいった。


 名前を聞いた。


 角の小さい若い兵は、ルッツという名だった。三ヶ月前に南から逃げてきた。母親は洞窟にいる。


 武器の消耗。矢が二十三本。投石用の岩は使い切った。剣が二本折れた。ドラクの大刀は刃こぼれしている。


 次の攻撃が来たら、同じ手は使えない。矢が足りない。四人の戦死は、百に満たない戦闘員の中では重い。


 遠征隊は百人ほどを残して退いた。退いただけだ。壊滅していない。態勢を整えて戻ってくる可能性がある。あるいは増援を呼ぶ。


 ドラクが山道に立っていた。大刀を肩に担ぎ、血に濡れた刃を布で拭いている。


「四人死んだ」


 俺に言ったのか、独り言なのか。


「お前の作戦で勝った。四人死んだ。どっちが重い」


 答えなかった。


 ドラクは刀を拭き終えると、鞘に収めた。肩がぶつかるほど近くを通り過ぎて、山を登っていった。振り返らなかった。





 遠征隊が残した荷を調べた。


 山道に散乱している。食料、矢筒、水袋、毛布。鉄鎧を脱いで逃げた兵がいるのだろう、胸当てが三つ転がっていた。


 将校の荷物を見つけた。ドラクが斬った将校だ。革の鞄が岩の下に挟まっていた。引きずり出すと、中に紙束が入っていた。


 血が滲んでいる。ドラクの大刀が胸当てを割ったとき、鞄にも血が飛んだのだろう。紙は濡れていたが、文字は読めた。


 評議会の印章が押されている。


 手が止まった。


 紙を広げた。ナーシャが横に来た。


「何だ、それ」


「評議会の書簡だ」


 読んだ。人間の文字を読むのは将軍の記憶がある。


「『ベルクヴァルト伯へ。魔族への武力行使は評議会の決定を待たれたい。独断での軍事行動は統一方針に反する。自制を強く求める』。差出人はアルベルト・ヴァイス。評議会の議長だ」


 沈黙が落ちた。


 ナーシャが俺の顔を見ている。


「独断だったのか」


「独断だ。評議会は止めようとしていた。ベルクヴァルト伯が突っ走った」


「つまり?」


「つまり、評議会はまだ決めていない。魔族をどうするか、方針が出ていない」


 紙を握る手に力が入った。血で滲んだ書簡が、震えなかった手の中にある。


 ゲルトの情報と一致する。評議会は四つに割れている。殲滅派がいて、管理派がいて、追放派がいて、無関心派がいる。アルベルトは管理共存を主導しているが、殲滅派に押されている。だがまだ決まっていない。


 まだ決まっていない。


 思考が先に走った。


 中央の方針が固まる前なら、地方の暴走を逆手に取れる。「貴評議会の命に反して我々を攻撃した部隊を、我々は撃退した。だが負傷兵は殺さず下山させた。先の偵察隊も無傷で返している。我々は話し合う用意がある」。その一文が書ければ、評議会の中で殲滅派の立場が弱くなる。独断で攻撃して返り討ちにあった伯爵は、殲滅派の汚点になる。


「ナーシャ」


「何?」


「これは勝てる」


 ナーシャの目が俺を見ていた。戦場の残骸の中で、血と土の匂いの中で、俺は笑っていたのかもしれない。


「戦争じゃない。交渉だ。この書簡があれば、評議会に手紙が書ける」


 ナーシャは何も言わなかった。右手が腰の剣から離れていた。


「ルッツの母親に、何て言うの」


 声が低かった。


 笑みが消えた。


「……わからない」


「わからないなら、先に言いに行きなよ。手紙はその後でいい」


 ナーシャは背を向けた。山を登っていく。肩が少しだけ下がっていた。


 短い背中が杉の幹に紛れて見えなくなるまで、立っていた。


 書簡を鞄に戻した。


 山道に、まだ血の匂いが残っていた。ルッツという名の兵が死んだ場所から、三歩先に将校の鞄があった。


 三歩。


 交渉の窓は開いた。四人の命と引き換えに。

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