雪解けの足音
ルッツの母親は、洞窟の奥にいた。
小柄な女だった。灰色の肌に深い皺が刻まれ、角は片方が欠けている。戦で折れたのか、生まれつきなのかはわからない。膝の上に毛皮を広げ、繕い物をしていた。針を動かす手が止まらない。俺が入ってきたのを見ても、手が止まらない。
「ルッツの母上ですか?」
手が止まった。
針を持ったまま、顔を上げた。何も言わなかった。目だけが俺を見ている。
何を言うべきか、考えてきた。ナーシャに「先に言いに行きなよ」と言われてから三日かかった。言葉を組み立てては壊し、壊しては組み立てた。外交文書なら書ける。だがこれは外交文書ではない。
「息子さんは、山を守って死にました」
それだけ言った。
母親の手が、膝の上の毛皮を握った。針が毛皮に突き刺さった。
「知ってる」
声は低かった。震えていなかった。
「仲間が運んできた。角が、まだ温かかった」
俺は何も言えなかった。ナーシャが正しかった。手紙はその後でいい。
頭を下げて、洞窟を出た。
外の空気が冷たかった。雪が溶け始めている。岩の表面が濡れて光っていた。水の匂いがする。冬の終わりが近い。
◇
焚き火の前に石板を置いた。
炭の棒を手に取った。石板の表面に、最初の一文字を書いた。指で擦って消した。書き直した。また消した。
評議会への書簡。一通の手紙が、二万人の命を左右する。
折れた角の断面を、親指でなぞった。
前世の記憶が動いた。外交文書には構造がある。冒頭で自分の立場を示し、相手の行為に言及し、自分の意思を伝え、具体的な提案で締める。感情は入れない。事実だけを並べる。事実の選び方で立場を示す。
だが問題は、どの事実を選ぶかだ。
あの夜、戦場で頭の中に組み立てた文案がある。「貴評議会の命に反して我々を攻撃した部隊を、我々は撃退した。だが負傷兵は殺さず下山させた。先の偵察隊も無傷で返している。我々は話し合う用意がある」。
声に出して読んでみた。足りない。こちらから「話し合いたい」と言えば請願になる。評議会が伯を止めなかった責任には触れていない。事実の配置が甘い。
「ゼルド」
ゾーラの声だった。杖をついて焚き火の近くまで来ていた。象牙色の角が火の光を受けて鈍く光っている。白く濁り始めた目が、石板の上を見ている。
「何を書いている?」
「評議会への手紙だ」
ゾーラは杖を立てたまま、焚き火の向かいに腰を下ろした。動作が遅くなっている。半年前は杖なしで歩いていた。
「読め」
「『新秩序評議会議長アルベルト・ヴァイス殿。貴下の命に反して我々を攻撃した部隊を、我々は撃退した。だが負傷兵は殺さず下山させた。先の偵察隊も無傷で返している。我々は話し合う用意がある』」
沈黙が落ちた。焚き火が爆ぜた。
「下手に出すぎだね」
ゾーラの声は平坦だった。五十年の記憶を口で伝え、耳で継いできた長老だ。文字は読めないが、言葉の重心は誰より正確に量る。
「どこが?」
「『話し合う用意がある』。お前から頼んでいる。書簡を持っているのはお前だ。評議会の命令に反した伯を止めなかった責任は向こうにある。なのにお前から頭を下げてどうする」
ゾーラの指が角の根元を撫でた。濁った目が焚き火の向こうを見ている。
「だが挑発もするな。『撃退した』は事実だが、勝ち誇って書けば殲滅派の怒りを買う。書簡の目的は戦うことではない。扉を開けることだ」
「では、どう書く?」
「お前が考えろ。私は字が読めない」
ゾーラは火を見ている。目が濁っていても、見ているものは遠い。
やはりそこだ。ゾーラも同じところを突いた。「話し合う用意がある」は請願だ。立場が弱い側の言葉だ。事実はそうだが、文面でそう見せる必要はない。
書き直した。
「『新秩序評議会議長アルベルト・ヴァイス殿。貴評議会の書簡を拝読した。ベルクヴァルト伯の部隊は撃退したが、負傷兵は下山させ、先の偵察隊も返還している。我々は、貴評議会が方針を決定する際の判断材料を提供する用意がある』」
「もう一度」
「『判断材料を提供する用意がある』」
「それだ。お前は話し合いたいのではなく、相手の判断に必要な情報を持っていると言っている。対等ではないが、必要とされる立場だ」
ゾーラの口元がわずかに動いた。
「それから、名乗りなさい。誰が書いたかわからない手紙は、捨てられる」
「名乗れば的になる」
「名乗らなければ、相手にされない。どちらを選ぶ?」
迷った。だが迷いは短かった。匿名の手紙は弱い。署名がなければ、返書の宛先もない。
末尾に書き加えた。「ヴァルム山脈魔族残存勢力統率 ゼルド」。
将軍の位は書かなかった。魔王軍の将軍という肩書きは、人間にとっては敵将の名刺だ。統率という曖昧な言葉を選んだ。指導者ではあるが、軍の長ではないという姿勢を見せる。
「ゾーラ。一つ聞く」
「何だ?」
「この手紙は、正しいか?」
ゾーラの杖が地面を叩いた。一度だけ。
「正しいかどうかは知らない。だがお前が書かなければ、誰も書かない。それだけだ」
焚き火の向こうで、ゾーラが立ち上がった。杖に体重をかけ、ゆっくりと背を向けた。洞窟の奥に戻っていく足音が、遠ざかっていった。
◇
「何だ、それは?」
ドラクの声が背後から飛んできた。
振り返ると、洞窟の入口に大柄な体が立っていた。腕を組み、残った右目が石板を見ている。読めないはずだ。人間の文字を読む魔族はほとんどいない。だが石板に何かを書いている行為自体が、ドラクの怒りを呼ぶ。
「評議会への手紙だ」
「手紙」
ドラクの声に嘲りがあった。
「お前は文を書くのが好きだな。石板に歴史を刻む。人間に手紙を送る。文を書くくらいなら剣を研げ。矢を作れ。次に来るのは二百人じゃ済まない」
「剣は研いでいる。矢も作っている。だがそれだけでは足りない」
「足りなければ死ぬ。それだけだ」
ドラクが一歩近づいた。大刀の柄に手がかかっている。刃こぼれした大刀。あの戦場で将校の胸当てを割った刀だ。
「ゼルド。お前の手紙が届いて、人間が何と返すと思っている? 『武装解除しろ。山を降りろ。膝を折れ』。それ以外の答えがあると思うか?」
「あるかもしれない。ないかもしれない。だが聞いてみなければわからない」
「聞いてみる間に、刃がなまる。矢がなくなる。兵が死ぬ。四人死んだのを忘れたか?」
忘れていない。ルッツの母親の、針を毛皮に突き刺した手を忘れていない。
「忘れていない。だからこそ、次に四人殺さなくていい方法を探している」
「方法。お前はいつもそうだ。方法を探す。策を練る。だがお前の策で死ぬのは俺たちだ」
ドラクは俺を見ていた。残った右目の奥に、怒りと疲労が混じっている。怒りだけなら無視できる。だが疲労がある。五十年戦い続けた男の、戦いしか知らない男の疲れだ。
「お前の言うことにも一理ある。だが文を書く間も、剣は研いでいる。両方やる」
「両方。器用だな」
ドラクは鼻を鳴らした。だが大刀の柄から手が離れた。踵を返しかけて、一瞬だけ足が止まった。右肩が落ちていた。五十年前にはなかった傾きだ。
そのまま出て行った。反対はしない。だが賛成もしない。
◇
ゲルトが来たのは、戦闘から二十日後だった。
南の山道を、荷馬を引いて一人で上ってきた。前と同じ革手袋に、前と同じ日焼けした顔。遠征軍が撤退したのを見て、商売の再開を判断したのだろう。商人は嗅覚が鋭い。
「お変わりなく。遠征隊を追い返したと聞きましてな。山の下では大騒ぎでしたよ。ベルクヴァルト伯の面目は丸潰れだ」
穀物の袋を検分しながら、ゲルトは軽い口調で言った。
「伯はどうしている?」
「領地に引きこもっておりますよ。評議会からお叱りが来たとか来ないとか。まあ、独断で軍を出して負けたんですから、立場は悪いでしょうな」
「評議会は?」
「まだ何も決めていません。ただ、あなた方の存在が無視できなくなったのは確かです。魔族が正規軍を山で返り討ちにした。それは事件です」
ゲルトの目が細くなった。怯えのない目だ。計算の目だ。
「頼みがある」
「商売以外の頼みは高くつきますよ」
「この手紙を、ゼーレンの評議会に届けてほしい」
石板ではない。墨を磨り、ゲルトの交易品の筆を取った。羊皮紙に清書した。ゲルトの荷に紛れさせるなら、石板では目立つ。
ゲルトは羊皮紙を受け取り、広げもせずに畳んで懐に入れた。
「中身は?」
「評議会への書簡だ。交渉を求めている」
「交渉」
ゲルトの表情から軽さが消えた。
「これは商売ではない。私が評議会に手紙を届けたと知れたら、ただの商人では済まなくなる」
「わかっている。だが他に手段がない」
ゲルトは懐の羊皮紙に手を当てたまま、しばらく黙っていた。焚き火の音だけが続いた。
「届けましょう。ただし、対価は金ではなく情報で頂く。今後の交渉の経過を、私に教えてもらう。商人にとって、先の読める情報ほど高い品はない」
「約束する」
「では、次の取引の際に」
ゲルトは立ち上がり、革手袋の皺を直した。荷馬の手綱を引き、山道を下り始めた。一度だけ振り返った。
「返事が来ればいいですな。来なかった場合の策も、考えておくことです」
背中が曲がり角に消えた。
◇
三週間が過ぎた。
雪が溶けた。岩壁を伝う水が増え、洞窟の入口に氷柱はもうない。斜面に緑が覗き始めている。日が伸びた。朝晩はまだ冷えるが、昼の日差しに温もりがある。春が近い。
返事は来なかった。
矢を削った。石を集めた。ドラクの兵が山道の石積みを補修した。ナーシャが備蓄を数え直した。できることをやった。返事を待つ以外に、できることは限られていた。
夜、洞窟の奥でナーシャが聞いた。
「来ると思う?」
「わからない。来なければ、別の手を考える」
「別の手って?」
「わからない」
ナーシャは何も言わなかった。右手が腰の剣に触れて、離れた。
四日後の朝だった。
南の見張りが叫んだ。
「山道に人が見える。三人。荷馬なし」
駆けた。石積みの上から見下ろした。
山道の曲がり角を、三人の人間が歩いてきた。武装していない。剣もない。短弓もない。先頭の男が、長い棒の先に布を掲げている。
布に紋章がある。鷲と天秤。見たことのない意匠だ。どこの王家のものでもない。戦後に作られた紋章だろうか。
ナーシャが横に立った。息を呑む気配がした。
「商人じゃない」
「違う」
「兵士でもない」
「違う。外交使節だ」
三人の男が、石積みの手前で立ち止まった。
先頭の男が顔を上げた。五十がらみの痩せた男だ。仕立ての良い外套が山道の土埃で汚れている。革靴の底が削れていた。山を歩き慣れた足ではない。それでも、ここまで登ってきた。
目が合った。男は逃げなかった。
手紙は届いた。
隣のナーシャを見た。ナーシャもこちらを見ていた。何も言わなかった。だが口元が、わずかに動いた。




