表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/29

雪解けの足音

 ルッツの母親は、洞窟の奥にいた。


 小柄な女だった。灰色の肌に深い皺が刻まれ、角は片方が欠けている。戦で折れたのか、生まれつきなのかはわからない。膝の上に毛皮を広げ、繕い物をしていた。針を動かす手が止まらない。俺が入ってきたのを見ても、手が止まらない。


「ルッツの母上ですか?」


 手が止まった。


 針を持ったまま、顔を上げた。何も言わなかった。目だけが俺を見ている。


 何を言うべきか、考えてきた。ナーシャに「先に言いに行きなよ」と言われてから三日かかった。言葉を組み立てては壊し、壊しては組み立てた。外交文書なら書ける。だがこれは外交文書ではない。


「息子さんは、山を守って死にました」


 それだけ言った。


 母親の手が、膝の上の毛皮を握った。針が毛皮に突き刺さった。


「知ってる」


 声は低かった。震えていなかった。


「仲間が運んできた。角が、まだ温かかった」


 俺は何も言えなかった。ナーシャが正しかった。手紙はその後でいい。


 頭を下げて、洞窟を出た。


 外の空気が冷たかった。雪が溶け始めている。岩の表面が濡れて光っていた。水の匂いがする。冬の終わりが近い。





 焚き火の前に石板を置いた。


 炭の棒を手に取った。石板の表面に、最初の一文字を書いた。指で擦って消した。書き直した。また消した。


 評議会への書簡。一通の手紙が、二万人の命を左右する。


 折れた角の断面を、親指でなぞった。


 前世の記憶が動いた。外交文書には構造がある。冒頭で自分の立場を示し、相手の行為に言及し、自分の意思を伝え、具体的な提案で締める。感情は入れない。事実だけを並べる。事実の選び方で立場を示す。


 だが問題は、どの事実を選ぶかだ。


 あの夜、戦場で頭の中に組み立てた文案がある。「貴評議会の命に反して我々を攻撃した部隊を、我々は撃退した。だが負傷兵は殺さず下山させた。先の偵察隊も無傷で返している。我々は話し合う用意がある」。


 声に出して読んでみた。足りない。こちらから「話し合いたい」と言えば請願になる。評議会が伯を止めなかった責任には触れていない。事実の配置が甘い。


「ゼルド」


 ゾーラの声だった。杖をついて焚き火の近くまで来ていた。象牙色の角が火の光を受けて鈍く光っている。白く濁り始めた目が、石板の上を見ている。


「何を書いている?」


「評議会への手紙だ」


 ゾーラは杖を立てたまま、焚き火の向かいに腰を下ろした。動作が遅くなっている。半年前は杖なしで歩いていた。


「読め」


「『新秩序評議会議長アルベルト・ヴァイス殿。貴下の命に反して我々を攻撃した部隊を、我々は撃退した。だが負傷兵は殺さず下山させた。先の偵察隊も無傷で返している。我々は話し合う用意がある』」


 沈黙が落ちた。焚き火が爆ぜた。


「下手に出すぎだね」


 ゾーラの声は平坦だった。五十年の記憶を口で伝え、耳で継いできた長老だ。文字は読めないが、言葉の重心は誰より正確に量る。


「どこが?」


「『話し合う用意がある』。お前から頼んでいる。書簡を持っているのはお前だ。評議会の命令に反した伯を止めなかった責任は向こうにある。なのにお前から頭を下げてどうする」


 ゾーラの指が角の根元を撫でた。濁った目が焚き火の向こうを見ている。


「だが挑発もするな。『撃退した』は事実だが、勝ち誇って書けば殲滅派の怒りを買う。書簡の目的は戦うことではない。扉を開けることだ」


「では、どう書く?」


「お前が考えろ。私は字が読めない」


 ゾーラは火を見ている。目が濁っていても、見ているものは遠い。


 やはりそこだ。ゾーラも同じところを突いた。「話し合う用意がある」は請願だ。立場が弱い側の言葉だ。事実はそうだが、文面でそう見せる必要はない。


 書き直した。


「『新秩序評議会議長アルベルト・ヴァイス殿。貴評議会の書簡を拝読した。ベルクヴァルト伯の部隊は撃退したが、負傷兵は下山させ、先の偵察隊も返還している。我々は、貴評議会が方針を決定する際の判断材料を提供する用意がある』」


「もう一度」


「『判断材料を提供する用意がある』」


「それだ。お前は話し合いたいのではなく、相手の判断に必要な情報を持っていると言っている。対等ではないが、必要とされる立場だ」


 ゾーラの口元がわずかに動いた。


「それから、名乗りなさい。誰が書いたかわからない手紙は、捨てられる」


「名乗れば的になる」


「名乗らなければ、相手にされない。どちらを選ぶ?」


 迷った。だが迷いは短かった。匿名の手紙は弱い。署名がなければ、返書の宛先もない。


 末尾に書き加えた。「ヴァルム山脈魔族残存勢力統率 ゼルド」。


 将軍の位は書かなかった。魔王軍の将軍という肩書きは、人間にとっては敵将の名刺だ。統率という曖昧な言葉を選んだ。指導者ではあるが、軍の長ではないという姿勢を見せる。


「ゾーラ。一つ聞く」


「何だ?」


「この手紙は、正しいか?」


 ゾーラの杖が地面を叩いた。一度だけ。


「正しいかどうかは知らない。だがお前が書かなければ、誰も書かない。それだけだ」


 焚き火の向こうで、ゾーラが立ち上がった。杖に体重をかけ、ゆっくりと背を向けた。洞窟の奥に戻っていく足音が、遠ざかっていった。





「何だ、それは?」


 ドラクの声が背後から飛んできた。


 振り返ると、洞窟の入口に大柄な体が立っていた。腕を組み、残った右目が石板を見ている。読めないはずだ。人間の文字を読む魔族はほとんどいない。だが石板に何かを書いている行為自体が、ドラクの怒りを呼ぶ。


「評議会への手紙だ」


「手紙」


 ドラクの声に嘲りがあった。


「お前は文を書くのが好きだな。石板に歴史を刻む。人間に手紙を送る。文を書くくらいなら剣を研げ。矢を作れ。次に来るのは二百人じゃ済まない」


「剣は研いでいる。矢も作っている。だがそれだけでは足りない」


「足りなければ死ぬ。それだけだ」


 ドラクが一歩近づいた。大刀の柄に手がかかっている。刃こぼれした大刀。あの戦場で将校の胸当てを割った刀だ。


「ゼルド。お前の手紙が届いて、人間が何と返すと思っている? 『武装解除しろ。山を降りろ。膝を折れ』。それ以外の答えがあると思うか?」


「あるかもしれない。ないかもしれない。だが聞いてみなければわからない」


「聞いてみる間に、刃がなまる。矢がなくなる。兵が死ぬ。四人死んだのを忘れたか?」


 忘れていない。ルッツの母親の、針を毛皮に突き刺した手を忘れていない。


「忘れていない。だからこそ、次に四人殺さなくていい方法を探している」


「方法。お前はいつもそうだ。方法を探す。策を練る。だがお前の策で死ぬのは俺たちだ」


 ドラクは俺を見ていた。残った右目の奥に、怒りと疲労が混じっている。怒りだけなら無視できる。だが疲労がある。五十年戦い続けた男の、戦いしか知らない男の疲れだ。


「お前の言うことにも一理ある。だが文を書く間も、剣は研いでいる。両方やる」


「両方。器用だな」


 ドラクは鼻を鳴らした。だが大刀の柄から手が離れた。踵を返しかけて、一瞬だけ足が止まった。右肩が落ちていた。五十年前にはなかった傾きだ。


 そのまま出て行った。反対はしない。だが賛成もしない。





 ゲルトが来たのは、戦闘から二十日後だった。


 南の山道を、荷馬を引いて一人で上ってきた。前と同じ革手袋に、前と同じ日焼けした顔。遠征軍が撤退したのを見て、商売の再開を判断したのだろう。商人は嗅覚が鋭い。


「お変わりなく。遠征隊を追い返したと聞きましてな。山の下では大騒ぎでしたよ。ベルクヴァルト伯の面目は丸潰れだ」


 穀物の袋を検分しながら、ゲルトは軽い口調で言った。


「伯はどうしている?」


「領地に引きこもっておりますよ。評議会からお叱りが来たとか来ないとか。まあ、独断で軍を出して負けたんですから、立場は悪いでしょうな」


「評議会は?」


「まだ何も決めていません。ただ、あなた方の存在が無視できなくなったのは確かです。魔族が正規軍を山で返り討ちにした。それは事件です」


 ゲルトの目が細くなった。怯えのない目だ。計算の目だ。


「頼みがある」


「商売以外の頼みは高くつきますよ」


「この手紙を、ゼーレンの評議会に届けてほしい」


 石板ではない。墨を磨り、ゲルトの交易品の筆を取った。羊皮紙に清書した。ゲルトの荷に紛れさせるなら、石板では目立つ。


 ゲルトは羊皮紙を受け取り、広げもせずに畳んで懐に入れた。


「中身は?」


「評議会への書簡だ。交渉を求めている」


「交渉」


 ゲルトの表情から軽さが消えた。


「これは商売ではない。私が評議会に手紙を届けたと知れたら、ただの商人では済まなくなる」


「わかっている。だが他に手段がない」


 ゲルトは懐の羊皮紙に手を当てたまま、しばらく黙っていた。焚き火の音だけが続いた。


「届けましょう。ただし、対価は金ではなく情報で頂く。今後の交渉の経過を、私に教えてもらう。商人にとって、先の読める情報ほど高い品はない」


「約束する」


「では、次の取引の際に」


 ゲルトは立ち上がり、革手袋の皺を直した。荷馬の手綱を引き、山道を下り始めた。一度だけ振り返った。


「返事が来ればいいですな。来なかった場合の策も、考えておくことです」


 背中が曲がり角に消えた。





 三週間が過ぎた。


 雪が溶けた。岩壁を伝う水が増え、洞窟の入口に氷柱はもうない。斜面に緑が覗き始めている。日が伸びた。朝晩はまだ冷えるが、昼の日差しに温もりがある。春が近い。


 返事は来なかった。


 矢を削った。石を集めた。ドラクの兵が山道の石積みを補修した。ナーシャが備蓄を数え直した。できることをやった。返事を待つ以外に、できることは限られていた。


 夜、洞窟の奥でナーシャが聞いた。


「来ると思う?」


「わからない。来なければ、別の手を考える」


「別の手って?」


「わからない」


 ナーシャは何も言わなかった。右手が腰の剣に触れて、離れた。


 四日後の朝だった。


 南の見張りが叫んだ。


「山道に人が見える。三人。荷馬なし」


 駆けた。石積みの上から見下ろした。


 山道の曲がり角を、三人の人間が歩いてきた。武装していない。剣もない。短弓もない。先頭の男が、長い棒の先に布を掲げている。


 布に紋章がある。鷲と天秤。見たことのない意匠だ。どこの王家のものでもない。戦後に作られた紋章だろうか。


 ナーシャが横に立った。息を呑む気配がした。


「商人じゃない」


「違う」


「兵士でもない」


「違う。外交使節だ」


 三人の男が、石積みの手前で立ち止まった。


 先頭の男が顔を上げた。五十がらみの痩せた男だ。仕立ての良い外套が山道の土埃で汚れている。革靴の底が削れていた。山を歩き慣れた足ではない。それでも、ここまで登ってきた。


 目が合った。男は逃げなかった。


 手紙は届いた。


 隣のナーシャを見た。ナーシャもこちらを見ていた。何も言わなかった。だが口元が、わずかに動いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ