三千の命の値踏み
焚き火が燃え尽きかけていた。
最後の薪が崩れ、赤い灰が舞い上がる。東の空がわずかに白み始めている。
夜明けだ。
一晩中、計算していた。折れた角の断面を親指でなぞりながら、頭の中で数字を並べ替え続けた。
七十三。五百。非戦闘員が百以上。
足りない。
ヴァルム山脈に逃げるだけなら、今の人数でもいい。だが山で冬を越して春まで生き延びて、その先は。飢え死にか、掃討軍か。逃げるだけでは死ぬ。
だが戦っても死ぬ。
必要なのは、第三の選択肢だ。
前世の記憶を辿った。先例がある。敗戦国の少数民族が生き残った例を、三十以上調べた。逃げるのではなく、交渉する。勝者が戦後処理の方針を統一する前の混乱期が、唯一の隙だ。
だがこの隙を使うには条件がある。交渉の席について、相手に「この問題を片付けなければ」と思わせるだけの規模がいる。
七十三では相手にされない。五百でも足りない。
三千。
散り散りになった魔族の戦闘員が、大陸のあちこちに残っている。山に集めれば三千は集まる。三千の武装兵。無視できない数だ。殲滅するには軍を動かす必要がある。管理する方が安い。そう思わせるだけの数。
三千の命を値踏みしている。一人一人に名前があり、家族があり、角がある。それを「数」として計算している。
前世の癖だ。少数民族の存続率をグラフにまとめ、学会で統計を語った。だが今は論文ではない。
「寝たの」
ナーシャの声が後ろから聞こえた。
「寝ていない」
「知ってる。ずっと角を触ってた」
ナーシャが横に座った。短く刈った髪の後ろを掻きながら、白くなり始めた東の空を見ている。
「策は」
「できた」
「なら行こう。空が白い」
立ち上がった。膝が軋む。一晩座り続けた体が重い。
◇
ドラクは焚き火の前で目を開けた。鎧を着たまま腰の剣を抱えている。眠っていなかったのだろう。
「来たか」
「策を持ってきた」
「聞くと言った。聞いてやる」
ドラクの背後から兵が集まり始めた。武装した男たちが焚き火を囲む。ゾーラの焚き火からも人が歩いてくる。杖をついた老女が列の先頭に立ち、俺とドラクの間に腰を下ろした。
ゾーラは何も言わなかった。ただ座った。それだけで場の空気が変わる。
百人以上の目が、こちらを見ている。
「南には戻らない。北へ行く。ヴァルム山脈だ」
ドラクの右目が動いた。
「山に逃げ込む話か。俺が言っただろう。飢え死にか凍え死にか——」
「逃げるだけじゃない。交渉する」
三秒、間が空いた。
「交渉」
ドラクが繰り返した。
「敗者が交渉の席につけると、本気で思っているのか」
「つける。今なら」
「今なら、か」
ドラクが立ち上がった。鎧が軋み、焚き火の明かりを反射する。
「負けた側が頭を下げに行く。それを降伏と言うんだ、ゼルド」
ざわめきが広がった。ドラクの兵が頷いている。
「聞け」
ゾーラの声だった。
低い。だが遠くまで通る。杖を膝に置いたまま、白い目で円座を見回している。
ざわめきが止まった。ドラクも口を閉じた。
「ゼルド。続けろ」
俺はドラクを見た。座ってはいない。だが黙っている。それで十分だ。
「人間の評議会は、まだ方針を決めていない。魔族をどう扱うか。殲滅か、管理か、追放か。合意がない。各地の軍が勝手に動いているだけだ」
「合意ができる前に交渉を始める。決まってからでは遅い。殲滅と決まった後に席についても、何も変わらない」
ドラクの顔に嘲りが戻りかけた。だが腕を組んだ。聞いている。
「交渉には材料がいる。何を差し出す」
「まず、戦争をしないという約束だ」
「それだけか」
「それだけで十分だ。三千の武装兵がヴァルム山脈に立てこもっている。掃討するには軍を送る必要がある。冬の山で数千の魔族を狩る。兵站は伸び、犠牲が出る。金がかかる」
東から差し始めた光が、円座の半分を照らしていた。言葉を区切った。
「だが三千の武装兵が『戦わない』と言えば、掃討の必要がなくなる。管理する方が安い。山の中にいるなら脅威にならない。合理的な指導者なら、殲滅より管理を選ぶ」
「合理的なら、か」
ドラクの声から嘲りが消えていた。
「三千か。今、ここには六百もいない」
「散り散りになった連中を集める。ヴァルム山脈に向かいながら、道中の魔族を合流させる。この一帯に三千は残っている」
「集まるか」
「集まる。行き場がないからだ。山に逃げた者も、平原を彷徨っている者も、行く先がない。ヴァルム山脈に集結地があると知れば、来る」
ドラクは俺の顔を見つめた。残った右目が焚き火の光を受けている。
「それで?」
ゾーラの声だった。
「三千を集めて、交渉して。その先は」
「居住地を得る。山脈の南麓に谷がある。人間にとっては辺境の痩せた土地だ。だが住める。あの谷を条約で確保する」
「条約は守られるのか」
「永遠には守られない。だが時間を稼げる。十年。その間に根を張り、交易を始める。人間との経済的なつながりを作れば、排除するコストが上がる」
ゾーラは黙った。象牙色の角の先端をゆっくり撫でている。
ドラクが口を開いた。
「条件がある」
「聞こう」
「俺はお前の部下にはならない。山に着くまでは、北上に付き合う。ヴァルム山脈に着いたら、指揮権はもう一度話し合う」
「わかった」
「もう一つ。交渉が決裂したら、そのときは俺のやり方でやる」
決裂したら、戦う。そう言っている。
断る理由はなかった。交渉が決裂した時点で、他の選択肢は残っていない。
「いいだろう」
ゾーラが杖を地面に一度打った。乾いた音が響いた。
「北へ行く。異論は」
白い目が円座を一周した。
誰も声を上げなかった。
「火を消せ。出発だ」
◇
陽が昇りきった頃には、二つの集団が一つの列になって北へ動いていた。
先頭にドラクの兵。中央にゾーラと非戦闘員たち。後方に俺の七十三人。ナーシャが殿の様子を見に行き、戻ってきた。
「後ろは問題ない。ドラクの兵が二十人ほど、列の横を歩いてる。護衛か、監視か」
「両方だろう」
ナーシャが短く息を吐いた。何か言いかけた顔をして、髪の後ろを掻いた。
列が丘を越え、次の丘へ。北の稜線がわずかに近くなった。
ゾーラが俺の横を通り過ぎた。杖の音が規則的に地面を打つ。歩幅は小さいが、止まらない。
「ゼルド」
「何だ」
「昨夜の問いに、まだ答えていない」
お前の戦は、誰のためだ。
「……わからない」
「正直だな」
ゾーラは前を向いたまま歩き続けた。象牙色の角が朝の光に白い。
「わからないなら、歩きながら考えろ。答えは座っていても出ない」
杖の音が遠ざかった。
列の後ろから子供の声が聞こえた。泣き声ではない。何かを見つけて騒いでいる。
俺は足を止めて、北を見た。
ヴァルム山脈の稜線が、雲の下に黒く横たわっている。あの山に三千を集めて、冬を越して、春に交渉を始める。
前世の先例がある。だが先例通りにいくとは限らない。
前世の知識は、ここまで足を運んでくれた。だがこの世界は論文ではない。数字の一つ一つが呼吸して、計算を裏切る。
ドラクの怒りも、ゾーラの沈黙も、ナーシャの目も、論文には載っていなかった。
風が吹いた。北から、山の匂いがした。
列は丘の向こうへ消えかけている。膝が軋んだ。それでも、足は北を向いた。




