俺はまだ膝を折っていない
「ナーヴクランの残りか」
ドラクの声が、丘の上から降ってきた。
大柄な体が斜面を踏みしめ、背後から武装した兵が次々と現れる。五人、十人。まだ増える。丘の稜線が人影で埋まっていく。
数えた。三十。五十。まだ止まらない。
丘の裏にも人がいる。この集団は、見えている分だけではない。
「七十三人か」
ドラクが一瞥で俺の集団を数えた。残った右目が動いている。左目は潰れた瞼が窪んでいるだけだ。
「少ないな」
折れた角の断面を、親指でなぞった。
先例がある。敗戦後の敗残兵が合流するとき、最も危険なのは最初の接触だ。どちらが指揮するかを巡って、味方同士で血が流れる。
「ドラク」
ゼルドの記憶が名前を引き出した。第一軍団の副長。ヴェルガの直属。二度の大攻勢を率いた攻撃型の指揮官。有能で、苛烈。
「久しぶりだな、ゼルド」
ドラクが目の前に立った。頭一つ分、俺より大きい。両方の角が後方に大きく湾曲し、先端が黒い。夕暮れの光を吸い込んでいる。
「第三軍団は何人生き残った」
「ここにいる全員だ」
「七十三人。三千いた第三軍団の、七十三人か」
嗤いはしなかった。だが声に嘲りが混じっている。
「お前は何人連れている」
「五百と少し。第一軍団の残りと、道中で拾った連中だ」
五百。俺の七倍。
ドラクが丘の下を顎で示した。
「降りろ。話がある」
命令の形だった。だが剣は抜いていない。それが今のところの答えだ。
◇
丘の下の空地に、両集団の兵が向かい合って立っている。ドラクの兵は武装が整い、顔に精気がある。俺の七十三人は泥と血にまみれ、半数が負傷していた。
「南に戻る」
ドラクが言った。
「何だと」
「南に戻って、人間どもを叩く。散り散りになった連中を集めれば一万は残っている。それだけいれば一戦できる」
奥歯を噛み締めた。
「一戦して、どうする」
「殺す。殺されたら殺し返す。それが戦だ」
「勝てるのか」
ドラクの右目が細くなった。
「勝てるか、ではない。やるか、やらないかだ」
「負ければ全員死ぬ」
「逃げても死ぬ。山に逃げ込んで冬を越せると思うか? 飢え死にか、凍え死にか。好きな方を選べ」
反論できなかった。ドラクは正しい。それが腹に重い。
だが計算は嘘をつかない。
「人間の追撃は組織的じゃない。評議会の統一命令がまだ出ていない。各地の軍が勝手に動いているだけだ。今なら山に入れる」
「逃げる。逃げる、と」
ドラクが一歩、距離を詰めた。鎧の胸当てが視界を塞ぐ。
「お前の口から出るのは逃げることだけか、ゼルド。第一軍団は逃げたことがない。ヴェルガ陛下の盾として、常に最前線にいた」
「その最前線から五百人しか帰ってきていない」
「お前は七十三人だ」
ドラクの右手が腰の剣の柄に触れた。
同時に、ナーシャが横から半歩前に出た。右手が腰の剣に触れている。
誰も動かなくなった。
「ゼルド」
ドラクの声が低くなった。
「お前は七十三人しか残せなかった。俺は五百残した。どちらが指揮を執るべきか、数字が答えているだろう」
「数が多い方が偉いなら、お前はヴェルガの半分以下だ」
ドラクの目が剥いた。残った右目の白い部分が見えた。
だが殴りかかっては来なかった。三秒ほど俺の顔を睨んでから、口を開いた。
「お前は変わったな、ゼルド。前はもう少し黙っている男だった」
心臓が跳ねた。ナーシャと同じ言葉だ。
「角が折れると、口が軽くなるのか」
◇
もう少しで血が流れるところだった。
ドラクの兵が剣に手をかけ、俺の兵が身構えた。ナーシャの右手は柄から離れていない。
だが、止まった。
止めたのは、俺でもドラクでもない。
丘の裏側から、人の群れが現れた。
武装していない。鎧もない。杖をつく老人。子供を抱えた女。荷を背負った男。角を持つ者たち。だが兵士ではない。
非戦闘員だ。
数が多い。五十、百。まだ来る。丘の裏にこれだけの人が隠れていた。
「兵士だけじゃなかったのか」
ナーシャが低く言った。短く刈った髪から螺旋状の角が覗いている。髪の後ろを掻いた。
「行く当てのない連中が、道中で合流してきた」
ドラクの声から、初めて嘲りが消えた。
列の先頭に、一人の老女がいた。杖をついているが背筋がまっすぐで、歩く速度に衰えがない。象牙色に変色した角が、古い艶を持っている。
ゾーラ。ヴォルグクランの大母。ゼルドの記憶がそう教えた。七クランの長老衆の筆頭。魔王ヴェルガすら、この老女の前では声を下げた。
白く濁り始めた目がこちらを見た。ゾーラはドラクと俺の間を通り過ぎ、立ち止まった。杖を地面に一度だけ打つ。乾いた音が空地に響いた。
誰も動かなくなった。
「二つ聞く」
ゾーラの声は低い。だが不思議と遠くまで通る。
「ドラク。お前はこの子たちを連れて、南に戻るのか」
老女の白い目が、非戦闘員の列を示した。子供がいる。老人がいる。歩くのがやっとの者がいる。
ドラクが黙った。
「ゼルド」
白い目が、俺に向いた。
「お前の戦は、誰のためだ」
言葉が出なかった。
簡単な問いだ。この山の連中のためだ。生き残るためだ。
だが口が動かない。「この七十三人のため」と即答できない自分がいた。二十七人を死なせた。それは「誰のため」だったのか。
ゾーラは答えを待たなかった。
「火を焚け。話はそれからだ」
杖を突いて、非戦闘員の方へ歩いていった。小さな背中が、ドラクの大きな体の横を通り過ぎる。ドラクは道を空けた。
◇
夜になった。
焚き火が三つ。二つの集団が混ざることなく、別々に火を囲んでいる。三つ目の焚き火はゾーラの周囲で、非戦闘員たちが身を寄せ合っていた。子供の泣き声が、ときどき聞こえる。
ドラクが焚き火の向こうから立ち上がり、こちらに来た。
「ゼルド」
「なんだ」
「大母の言うことはわかる。南に戻れば、あの連中は足手まといだ」
ドラクの声に、怒りがない。疲れている。
「だが山に逃げるだけでは死ぬ。冬が来る。食料がない。追撃が来れば、老人と子供を抱えて逃げ回るのか」
「策はある」
「策か。お前の策で、東の隊は何人死んだ」
二十三人。言葉が突き刺さった。
「聞いてやる」
ドラクが俺を見下ろした。残った右目が焚き火の光を受けて、赤く光っている。
「策があるなら聞いてやる。夜明けまでに答えを出せ。俺が納得しなければ、五百を連れて南に戻る」
ドラクの背中が焚き火の明かりに消えた。
ナーシャが横に来た。
「で、策はあるの」
「ある。ありかけている」
ナーシャが三秒ほど俺の顔を見て、短く刈った髪の後ろを掻いた。
「夜明けまでか。寝られないね」
焚き火の向こうに、ゾーラの小さな影が見えた。杖を膝に置き、子供たちに囲まれて座っている。
五百の兵と非戦闘員。俺の七十三人を合わせれば、大きな集団になる。
この集団を、一晩でまとめる計画を作れ。
ゾーラの問いが頭の中で繰り返していた。お前の戦は、誰のためだ。
答えはまだ出ない。だが計画を出さなければ、五百人が南に消える。
南に消えた五百人は、死ぬ。




