分散して死ね、集結して生きろ
川の音が聞こえた。
丘を越えた先に、灰色の水面が広がっている。幅は五十メートルほど。流れは速くないが、深い。大人の胸まではある。
渡河地点だ。ゼルドの記憶にある崩れた石橋が、川の中ほどで途切れている。橋脚だけが水面から突き出て、朽ちた石が苔に覆われていた。
三日間走り続けた。
焼けた集落を抜け、丘を越え、谷を渡った。追撃の気配は遠のいていたが、消えてはいない。背中に貼りつくような圧が、ずっと続いていた。
七十七人の足が、川岸で止まった。
◇
問題はすぐに見つかった。
対岸に、人影がある。
角に意識を集中した。折れた左角が拾えるのは数十メートル先までだ。だが目は使える。対岸の林の中に、馬が繋がれているのが見えた。三頭。いや、五頭以上。
「封鎖されてる」
ナーシャが低く言った。丘の陰に伏せて、川の向こうを見ている。革鎧の肩が泥で汚れていた。
「歩哨が二人。林の奥にもう何人かいる。旗は見えないけど、馬の装具が軍のものだね」
「追撃隊の先回りか」
「渡河地点なんて、素人でも潰す」
上流に街道橋がある。騎兵なら北岸に一日で回り込める。
ナーシャの琥珀色の目が、俺を見た。
「で?」
折れた角の断面を、親指でなぞった。ざらつく感触が指先を擦る。
正面突破は論外だ。川の中を渡る歩兵を、対岸から弓で射れば一方的な殺戮になる。迂回するなら上流か下流だが、渡河可能な地点は限られる。ゼルドの記憶が、上流に浅瀬があることを教えてくれた。ここから二キロほど北。
だが対岸の封鎖部隊に気づかれれば、浅瀬にも先回りされる。
一つだけ、方法がある。
「囮を出す」
ナーシャの右手が、腰の片手剣の柄に触れた。
「ここで渡ろうとする振りをする。対岸の連中がこっちに集中している間に、本隊が上流の浅瀬から渡る」
「囮は何人?」
「十五人。足の速い者を選ぶ。渡る振りだけして、対岸が反応したら岸沿いに北へ走る。本隊が渡り終えたら合流する」
「渡る振り、ね」
ナーシャが短く刈った髪の後ろを掻いた。
「弓で射られるよ。川に入った瞬間に」
「だから渡らない。浅瀬に入って、すぐに戻る。射程に入る時間を最短にする」
「それでも死ぬ人は出る」
返す言葉がなかった。
出る。確実に出る。囮は「死ぬかもしれない」ではなく「何人か死ぬ」前提の作戦だ。
折れた角の断面を、もう一度なぞった。
片桐涼の知識が、囮作戦の成功率を計算していた。クルド人ゲリラが山岳地帯で使った陽動撤退。犠牲は出る。だが全滅よりはましだ。数学的に正しい。
だが数学で人は死ぬ。
「囮は俺が出る。十人くれればいい」
ナーシャが言った。背筋が伸び、顎が上がっている。
「お前が?」
「あんたが死んだら、残り全員が死ぬ。あんたは浅瀬の方に行って」
反論できなかった。将軍が囮で死ねば、七十七人の指揮系統が消える。ナーシャの判断は正しい。
正しいことが、喉に引っかかった。
「十人で封鎖部隊の目を引けるか」
「数より騒ぎの大きさだよ。派手にやる」
ナーシャの目が細まった。三秒ほど、俺の顔を見ていた。
「で、あたしたちはどう渡るの」
「本隊が渡り終えたら、俺が北岸を南に戻って封鎖部隊の背後を突く。そのとき渡れ」
「わかった」
◇
兵士たちに作戦を伝えたとき、誰も反対しなかった。
反対する気力が残っていなかったのか、将軍の命令に従う習慣が体に染みついているのか。どちらにしても、無言で頷く兵士たちの顔が、腹の底に重く沈んだ。
ナーシャが十人を選んだ。全員、足の速い若い兵だった。ナーシャが一人一人の顔を見て、名前を呼んで、短く説明した。
「石橋の手前まで走って、川に入る。膝まで。矢が来たら岸に戻って伏せろ。あたしの合図で渡る。それだけ」
それだけ。
だが「それだけ」で死ぬ者がいる。
◇
六十六人を連れて、川沿いに北上した。
岸辺の葦の間を、音を殺して進む。負傷者の呻き声を押し殺し、武器が鳴らないように布で巻いた。
二キロの距離が、途方もなく遠い。
背後で、叫び声が上がった。
ナーシャの囮部隊が動いた。
石橋の残骸に向かって走り、川に飛び込む音。水飛沫。怒号。対岸から矢の音が鳴った。乾いた、短い音が連続する。
奥歯を噛み締めて、歩いた。走れない。走れば音が出る。
浅瀬に着いたとき、背後の喧騒はまだ続いていた。
「渡れ」
囁くように言った。兵士たちが浅瀬に入る。水は腰の高さ。冷たい。晩秋の水が骨に沁みる。負傷者を支えながら、一人ずつ渡していく。
角に意識を集中した。南の方角に、ナーシャの気配を探る。
ノイズだらけの、かすかな振動。まだいる。まだ動いている。
だがそれ以上は読み取れない。
最後の一人が北岸に上がった。
兵士たちを林の中に伏せさせ、五人を連れて南へ走った。北岸沿いに、石橋の方角へ。
走りながら、南の喧騒が遠ざかった。矢の音が止み、叫び声が消えた。
封鎖部隊が見えた。林の中に弓を構え、まだ南岸を睨んでいる。背中を向けていた。
五人を左右に散らし、背後から斬りかかった。
弓兵は近接に弱い。最初の一人の喉を突き、二人目の手から弓を叩き落とした。残りは馬に飛び乗って逃げた。
剣を草で拭った。手の甲に返り血が散っていた。
南岸に向かって腕を上げた。葦の陰から、人影が動いた。
◇
丘の裏に集結した。
ナーシャの部隊が追いついてきたのは、しばらく後だった。
数えた。
七人。
十一人で出て、七人。四人が帰ってこない。
ナーシャが俺の前に立った。革鎧の胸当てに矢が刺さっている。浅く刺さって止まっていたが、引き抜いた跡が赤い。息が荒く、灰色の肌が土と汗で斑になっている。
「渡れた?」
「渡れた」
「よかった」
ナーシャの声は平坦だった。短く刈った髪の後ろを掻いて、兵士たちの方へ歩いていこうとした。
「四人は」
ナーシャの足が止まった。背中が、一瞬だけ硬くなる。
「二人は矢。一人は川で流された。もう一人は」
言葉が途切れた。
「もう一人は、逃げ遅れた。目の前で」
ナーシャの硬い手が、腰の剣の柄を握りしめていた。指が白い。
何か言うべきだった。だが将軍の声は、何も出てこなかった。
俺が命じた作戦だ。十人を囮に出せと命じたのは俺だ。ナーシャが志願したのも、四人が死んだのも、俺の計算の結果だ。
二十三人。そして四人。
折れた角の断面を、親指でなぞった。計算で出した答えは正しかった。六十六人は渡れた。だが正しさの味は、血の味がする。
◇
北に向かって歩き始めた。
七十三人。百人いた集団が、五日で三割近く減った。
だが前を向いたとき、空気が変わった。
丘を一つ越えた先に、山が見えた。
ヴァルム山脈。灰色の稜線が、曇天の空に黒々と横たわっている。雪を被った峰が、雲の切れ間から覗いている。
兵士の一人が、立ち止まった。
「山だ」
声が震えていた。恐怖ではない。
「山が見える」
周囲の兵士たちが、一人、また一人と足を止めて北を見た。魔族の故地。ヴァルムの山。角を持つ者が生まれた土地。
ナーシャが横に来た。山を見上げて、短く息を吐いた。
「まだ遠いね」
「まだ遠い」
「でも、見えた」
ナーシャの琥珀色の目が、山の稜線を追っている。その目に、初めて疲労以外のものが浮かんでいた。
五秒だけ、立ち止まった。
それから、また歩き出した。
◇
山の稜線に向かって歩き続けていた夕暮れ、前方の丘の上に影が見えた。
一人ではない。数十。いや、それ以上。丘の斜面を覆うように、武装した集団が立っている。
角が見えた。
魔族だ。
だが俺の集団ではない。鎧の形が違う。旗が見える。赤い布。第一軍団の色だ。
先頭に立つ男が、丘の上からこちらを見下ろしていた。
大柄な体。両方の角が完全に残っている。角の先端が黒い。純血の魔族の証とされる色だ。全身に戦傷。左目が潰れている。鎧を着たまま、剣を抜いてもいないが、立っているだけで周囲の空気が重い。
ゼルドの記憶が、この男を知っていた。
ドラク。第一軍団の元副長。
味方か。
だがドラクの残った右目が、俺を睨んでいた。歓迎の色はない。




