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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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分散して死ね、集結して生きろ

 川の音が聞こえた。


 丘を越えた先に、灰色の水面が広がっている。幅は五十メートルほど。流れは速くないが、深い。大人の胸まではある。


 渡河地点だ。ゼルドの記憶にある崩れた石橋が、川の中ほどで途切れている。橋脚だけが水面から突き出て、朽ちた石が苔に覆われていた。


 三日間走り続けた。


 焼けた集落を抜け、丘を越え、谷を渡った。追撃の気配は遠のいていたが、消えてはいない。背中に貼りつくような圧が、ずっと続いていた。


 七十七人の足が、川岸で止まった。



 問題はすぐに見つかった。


 対岸に、人影がある。


 角に意識を集中した。折れた左角が拾えるのは数十メートル先までだ。だが目は使える。対岸の林の中に、馬が繋がれているのが見えた。三頭。いや、五頭以上。


「封鎖されてる」


 ナーシャが低く言った。丘の陰に伏せて、川の向こうを見ている。革鎧の肩が泥で汚れていた。


「歩哨が二人。林の奥にもう何人かいる。旗は見えないけど、馬の装具が軍のものだね」


「追撃隊の先回りか」


「渡河地点なんて、素人でも潰す」


 上流に街道橋がある。騎兵なら北岸に一日で回り込める。


 ナーシャの琥珀色の目が、俺を見た。


「で?」


 折れた角の断面を、親指でなぞった。ざらつく感触が指先を擦る。


 正面突破は論外だ。川の中を渡る歩兵を、対岸から弓で射れば一方的な殺戮になる。迂回するなら上流か下流だが、渡河可能な地点は限られる。ゼルドの記憶が、上流に浅瀬があることを教えてくれた。ここから二キロほど北。


 だが対岸の封鎖部隊に気づかれれば、浅瀬にも先回りされる。


 一つだけ、方法がある。


「囮を出す」


 ナーシャの右手が、腰の片手剣の柄に触れた。


「ここで渡ろうとする振りをする。対岸の連中がこっちに集中している間に、本隊が上流の浅瀬から渡る」


「囮は何人?」


「十五人。足の速い者を選ぶ。渡る振りだけして、対岸が反応したら岸沿いに北へ走る。本隊が渡り終えたら合流する」


「渡る振り、ね」


 ナーシャが短く刈った髪の後ろを掻いた。


「弓で射られるよ。川に入った瞬間に」


「だから渡らない。浅瀬に入って、すぐに戻る。射程に入る時間を最短にする」


「それでも死ぬ人は出る」


 返す言葉がなかった。


 出る。確実に出る。囮は「死ぬかもしれない」ではなく「何人か死ぬ」前提の作戦だ。


 折れた角の断面を、もう一度なぞった。


 片桐涼の知識が、囮作戦の成功率を計算していた。クルド人ゲリラが山岳地帯で使った陽動撤退。犠牲は出る。だが全滅よりはましだ。数学的に正しい。


 だが数学で人は死ぬ。


「囮は俺が出る。十人くれればいい」


 ナーシャが言った。背筋が伸び、顎が上がっている。


「お前が?」


「あんたが死んだら、残り全員が死ぬ。あんたは浅瀬の方に行って」


 反論できなかった。将軍が囮で死ねば、七十七人の指揮系統が消える。ナーシャの判断は正しい。


 正しいことが、喉に引っかかった。


「十人で封鎖部隊の目を引けるか」


「数より騒ぎの大きさだよ。派手にやる」


 ナーシャの目が細まった。三秒ほど、俺の顔を見ていた。


「で、あたしたちはどう渡るの」


「本隊が渡り終えたら、俺が北岸を南に戻って封鎖部隊の背後を突く。そのとき渡れ」


「わかった」



 兵士たちに作戦を伝えたとき、誰も反対しなかった。


 反対する気力が残っていなかったのか、将軍の命令に従う習慣が体に染みついているのか。どちらにしても、無言で頷く兵士たちの顔が、腹の底に重く沈んだ。


 ナーシャが十人を選んだ。全員、足の速い若い兵だった。ナーシャが一人一人の顔を見て、名前を呼んで、短く説明した。


「石橋の手前まで走って、川に入る。膝まで。矢が来たら岸に戻って伏せろ。あたしの合図で渡る。それだけ」


 それだけ。


 だが「それだけ」で死ぬ者がいる。



 六十六人を連れて、川沿いに北上した。


 岸辺の葦の間を、音を殺して進む。負傷者の呻き声を押し殺し、武器が鳴らないように布で巻いた。


 二キロの距離が、途方もなく遠い。


 背後で、叫び声が上がった。


 ナーシャの囮部隊が動いた。


 石橋の残骸に向かって走り、川に飛び込む音。水飛沫。怒号。対岸から矢の音が鳴った。乾いた、短い音が連続する。


 奥歯を噛み締めて、歩いた。走れない。走れば音が出る。


 浅瀬に着いたとき、背後の喧騒はまだ続いていた。


「渡れ」


 囁くように言った。兵士たちが浅瀬に入る。水は腰の高さ。冷たい。晩秋の水が骨に沁みる。負傷者を支えながら、一人ずつ渡していく。


 角に意識を集中した。南の方角に、ナーシャの気配を探る。


 ノイズだらけの、かすかな振動。まだいる。まだ動いている。


 だがそれ以上は読み取れない。


 最後の一人が北岸に上がった。


 兵士たちを林の中に伏せさせ、五人を連れて南へ走った。北岸沿いに、石橋の方角へ。


 走りながら、南の喧騒が遠ざかった。矢の音が止み、叫び声が消えた。


 封鎖部隊が見えた。林の中に弓を構え、まだ南岸を睨んでいる。背中を向けていた。


 五人を左右に散らし、背後から斬りかかった。


 弓兵は近接に弱い。最初の一人の喉を突き、二人目の手から弓を叩き落とした。残りは馬に飛び乗って逃げた。


 剣を草で拭った。手の甲に返り血が散っていた。


 南岸に向かって腕を上げた。葦の陰から、人影が動いた。



 丘の裏に集結した。


 ナーシャの部隊が追いついてきたのは、しばらく後だった。


 数えた。


 七人。


 十一人で出て、七人。四人が帰ってこない。


 ナーシャが俺の前に立った。革鎧の胸当てに矢が刺さっている。浅く刺さって止まっていたが、引き抜いた跡が赤い。息が荒く、灰色の肌が土と汗で斑になっている。


「渡れた?」


「渡れた」


「よかった」


 ナーシャの声は平坦だった。短く刈った髪の後ろを掻いて、兵士たちの方へ歩いていこうとした。


「四人は」


 ナーシャの足が止まった。背中が、一瞬だけ硬くなる。


「二人は矢。一人は川で流された。もう一人は」


 言葉が途切れた。


「もう一人は、逃げ遅れた。目の前で」


 ナーシャの硬い手が、腰の剣の柄を握りしめていた。指が白い。


 何か言うべきだった。だが将軍の声は、何も出てこなかった。


 俺が命じた作戦だ。十人を囮に出せと命じたのは俺だ。ナーシャが志願したのも、四人が死んだのも、俺の計算の結果だ。


 二十三人。そして四人。


 折れた角の断面を、親指でなぞった。計算で出した答えは正しかった。六十六人は渡れた。だが正しさの味は、血の味がする。



 北に向かって歩き始めた。


 七十三人。百人いた集団が、五日で三割近く減った。


 だが前を向いたとき、空気が変わった。


 丘を一つ越えた先に、山が見えた。


 ヴァルム山脈。灰色の稜線が、曇天の空に黒々と横たわっている。雪を被った峰が、雲の切れ間から覗いている。


 兵士の一人が、立ち止まった。


「山だ」


 声が震えていた。恐怖ではない。


「山が見える」


 周囲の兵士たちが、一人、また一人と足を止めて北を見た。魔族の故地。ヴァルムの山。角を持つ者が生まれた土地。


 ナーシャが横に来た。山を見上げて、短く息を吐いた。


「まだ遠いね」


「まだ遠い」


「でも、見えた」


 ナーシャの琥珀色の目が、山の稜線を追っている。その目に、初めて疲労以外のものが浮かんでいた。


 五秒だけ、立ち止まった。


 それから、また歩き出した。



 山の稜線に向かって歩き続けていた夕暮れ、前方の丘の上に影が見えた。


 一人ではない。数十。いや、それ以上。丘の斜面を覆うように、武装した集団が立っている。


 角が見えた。


 魔族だ。


 だが俺の集団ではない。鎧の形が違う。旗が見える。赤い布。第一軍団の色だ。


 先頭に立つ男が、丘の上からこちらを見下ろしていた。


 大柄な体。両方の角が完全に残っている。角の先端が黒い。純血の魔族の証とされる色だ。全身に戦傷。左目が潰れている。鎧を着たまま、剣を抜いてもいないが、立っているだけで周囲の空気が重い。


 ゼルドの記憶が、この男を知っていた。


 ドラク。第一軍団の元副長。


 味方か。


 だがドラクの残った右目が、俺を睨んでいた。歓迎の色はない。

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