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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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追撃は夜明けに来る

 蹄の音が、夜の底から湧いてきた。


 丘の斜面に伏せた体に、地面を通じて振動が伝わる。一頭や二頭ではない。数百。地鳴りに近い。


 予測は当たった。追撃は夜明けに来る。壊走する敵を一晩放置して翌朝追うのは、古今東西の勝者が繰り返してきたパターンだ。夜間は地形が読めず、味方の誤射がある。だが夜明けとともに視界が開けば、騎兵は無防備な歩兵を蹂躙できる。


 先例通りだ。


 だが先例通りであることは、何の慰めにもならない。昨日も同じことを思った。


「来たね」


 隣に伏せたナーシャが、低く言った。声に震えはない。


「来た」


 丘の上から南を見下ろした。夜明け前の薄い光の中に、丘陵地帯の入り口が見える。昨日の夕方、俺たちが通った道だ。


 そこを、騎馬の列が埋めていた。


 松明は持っていない。夜明けの光だけを頼りに、北へ向かっている。隊列は横に広い。丘の間を縫うように、三列、四列と並走している。


 網だ。逃げる獲物を追い込む網。


 百人の部下を振り返った。丘の裏側に身を潜めている。寒さで体を丸め、武器を握る手が白い。誰も眠れていなかった。



 ゼルドの記憶が、この丘陵地帯の地形を教えてくれた。


 北に向かう道は三本ある。東の尾根沿い、中央の谷筋、西の森の中。どれもヴァルム山脈に繋がるが、中央の谷筋が最も早い。そして最も見つかりやすい。


 折れた角の断面を、親指でなぞった。ざらつく感触が指先に伝わる。


 三手に分ける。全員で逃げれば一網打尽だ。


 だが合流地点を伝える手段がない。角に意識を集中し、内側から振動を送った。


 返ってくるのは、数十メートル先の兵士たちの微かな反応だけ。百メートル先はもう届かない。疲労で範囲が縮んでいる。


 肉声で伝えるしかない。


「ナーシャ」


「なに?」


「部隊を三つに分ける。東の尾根、中央の谷、西の森。合流地点はこの先の渡河地点。川の北岸に、崩れた石橋がある」


 ゼルドの記憶にある地形だ。渡河地点まで二日。三隊が別々の道を辿り、川で落ち合う。


 ナーシャの琥珀色の目が、暗がりの中で俺を見た。


「三つに分けたら、各個撃破される」


「全員で走ったら、全員捕まる」


「で、誰がどこを走るの?」


「東の尾根は足の速い三十人。身軽な者を選べ。中央の谷は俺が率いる。四十人。負傷者はこっちに入れる」


「西は?」


「お前だ。三十人でここに残れ。俺たちが出た後、追撃を引きつけて西の森に抜けろ」


 ナーシャの右手が、腰の剣に触れた。


殿(しんがり)ね。追撃を全部引き受けろってこと?」


「お前しかできない。森に入れば馬は使えない」


 ナーシャは三秒ほど黙った。


 それから、背筋を伸ばして顎を上げた。


「わかった」


 振り返りかけた足を、止めた。


「ゼルド」


「なんだ?」


「中央が一番見つかりやすい道だって、わかってて自分で行くんだ」


 返事をしなかった。負傷者を抱えた集団が最も見つかりやすい道を行く。囮になる、とは言わなかった。言えば、ナーシャは反対する。


「……死ぬなよ」


 ナーシャが背を向けた。腰の剣が歩調に合わせて揺れている。小柄な背中が丘の暗がりに溶け、すぐに見えなくなる。



 三隊に分かれるのに、一刻もかからなかった。


 命令は肉声で伝えた。共鳴が使えない以上、目の前の兵士一人一人に声をかけるしかない。将軍の声は低く太く、暗闇でもよく通った。


 東の尾根隊が最初に動いた。身軽な三十人が、音を立てずに丘を越えていく。


 四十人を連れて中央の谷へ向かった。負傷者が八人。歩けるが走れない者が十人以上。最も遅い集団だ。少しでも先に距離を稼ぐ。


 走り出す前に振り返った。丘の上にナーシャが立っている。革鎧の小さな輪郭が夜明け前の空を背にしている。三十人を従えたまま、南を見つめて動かない。一瞬だけ目が合った。暗くて表情は見えない。


 走り出した直後から、背後で蹄の音が大きくなった。



 谷を走りながら、頭の中で計算していた。


 追撃騎兵の速度は徒歩の三倍。だが丘陵地帯では馬の機動力が制限される。谷筋は狭い。騎兵は縦列でしか入れない。先頭の数騎を止めれば、後続は渋滞する。


 問題は、いつ追いつかれるかだ。


 日が昇った。


 谷の底に朝日が差し込み、霜が溶け始める。足元がぬかるむ。負傷者の足がさらに遅くなる。


 後方で、叫び声が聞こえた。


 振り返った。谷の入り口に、騎馬の影が見える。五百メートル。いや、もっと近い。


「走れ」


 将軍の声が谷に反響した。兵士たちの足が速まる。だが負傷者は走れない。腕を引く者、肩を貸す者。列が伸びる。


 角に意識を集中した。東の尾根隊の気配を探る。


 何も感じない。距離が離れすぎた。


 西の森隊は。


 微かに。ノイズの向こうに、人の気配がある。ナーシャの隊だ。まだ近い。


 だがそれ以上の情報は読み取れない。戦っているのか、逃げているのか。生きているのか。


 耳が塞がれた指揮官。目の前の四十人の声は聞こえる。だがそれ以外の六十人は、闇の中にいる。


 奥歯を噛み締めて、走った。



 谷の狭まった地点で、追撃を食い止めた。


 崖に挟まれた幅十メートルの隘路(あいろ)。ここなら騎兵は一度に二騎しか入れない。


 俺が先頭に立った。


 将軍の体は、戦い方を覚えていた。剣の重み。足の運び。敵の馬が突進してくる瞬間に横に跳び、騎手の脇を切り上げる動作。頭で考えるより先に体が動いた。


 片桐涼の意識が、その動きを上から見ていた。


 自分の腕が人を斬っている。血が飛ぶ。悲鳴が上がる。だが体は止まらない。次の敵、その次の敵。機械のように正確に、剣が振るわれる。


 三十分で、追撃は止まった。


 隘路の入り口に、人間の騎兵の死体が五つ転がっている。後続は引き返した。狭い谷で魔族の将軍と戦うのは、割に合わないと判断したのだろう。迂回するはずだ。時間は稼げた。


 剣についた血を、草で拭った。


 手が震えていた。戦闘の興奮ではない。この体が人を斬ったことへの、片桐涼の拒絶反応だ。だが吐き気は昨日より薄い。


 慣れ始めている。


 その事実が、吐き気より怖かった。



 日が傾き始めた頃、角に振動が走った。


 微かな、途切れ途切れの共鳴。距離にして数百メートル。方角は東。


 東の尾根隊の生き残りが、近くにいる。


 角を振動させて返信した。位置を示す信号。共鳴が通じるぎりぎりの距離だ。


 三十分後、東の尾根隊の兵士が七人、谷に合流した。


 七人。三十人いたはずの隊の、七人。


 先頭の兵士は顔が土と血で汚れていた。右腕がだらりと垂れている。


「将軍。東の尾根で追撃に捕まりました。隊長が殿を務めて、俺たちだけ逃がされました」


 二十三人が死んだ。俺が東に送った二十三人が。


 角の断面を親指でなぞった。ざらついた感触。この角がもう少し長ければ、東の隊と共鳴で連絡が取れた。追撃の接近を知らせられた。迂回を指示できた。


 だが折れた角では届かなかった。


 その瞬間、微かな共鳴が角に流れ込んだ。ノイズだらけの、かすかな振動。東の方角から。距離はもう届かないほど遠い。


 悲鳴だった。


 共鳴の残響として角に届く、死にゆく者の最後の叫び。言葉にならない恐怖と痛みが、頭蓋の内側を引っ掻いた。一瞬で途切れる。


 角を失った者の最後の共鳴。死の間際に角が最後の振動を放つ。それが遠くの角に、残響として届くことがある。


 ゼルドの記憶が、そう教えてくれた。


 膝が折れかけた。


 だが足に力を入れた。四十七人の兵士が、将軍の顔を見ている。ここで膝をつくわけにはいかない。


「北へ進む。合流地点まであと一日だ」


 声は震えなかった。



 夜になって、西の森隊と合流した。


 ナーシャが三十人全員を連れて戻ってきた。一人も欠けていない。


 ナーシャの短い黒髪が汗で張り付き、革鎧の肩当てが片方ずれている。返り血が灰色の腕を黒く汚していた。だが足取りはしっかりしている。


「東の隊は?」


「七人だけ合流した」


 ナーシャの足が、一瞬止まった。


「二十三人」


「ああ」


 ナーシャは何も言わなかった。短く刈った髪の後ろを掻いて、兵士たちの方へ歩いていった。怪我の確認を始める。


 合流した七十七人の兵士が、谷の奥で身を寄せ合っていた。百人いた集団が、一日で二割以上減った。


 焚き火は焚けない。追撃に位置を知らせるだけだ。暗闇の中、冷えた体を互いに温めている。


 北の空に、星が出ていた。ヴァルム山脈の稜線は見えない。まだ遠い。



 翌朝、北へ向けて再び走り始めた。


 丘陵地帯を抜ける頃、前方に黒い柱のようなものが何本も突き立っているのが見えた。


 近づくと、焼けた集落だった。石壁が崩れ、屋根のない建物が並んでいる。


 だが焼かれたのは最近ではない。壁の焦げは古く、崩れた石の間から草が伸びている。一年以上前の火だ。


 兵士の一人が呟いた。


「人間にやられたのか?」


 違う。


 将軍の記憶が、映像のように蘇った。この集落を焼いたのは魔族だ。ヴェルガに従わなかった同胞の村を、三年前、ゼルドの手が焼いた。


 同胞が、同胞を焼いた。


 記憶の中で、角をぶつけ合って遊んでいた子供たちの声が聞こえる。炎の向こうで途切れる。


 俺の手ではない。だがこの体の手だ。


 焼けた集落の前に立ち尽くした。


 ナーシャが横に来た。焼け跡を見て、短く息を吐いた。


「知ってる? ここ」


「ああ」


 ナーシャの琥珀色の目が、細まった。


「あんたが焼いたの?」


「この体が」


 ナーシャの視線が、俺の角から顔に降りてきた。折れた角ではなく、目を見ている。


「この体が、ね」


 低い声だった。ナーシャは答えを待たずに踵を返し、兵士たちの方へ歩いていった。


 折れた角の断面を、親指でなぞった。


 守ろうとしている魔族が、かつて何をしたのか。この手が、何をしたのか。


 答えは出ない。だが足は止められない。


 北へ。まだ北へ。

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