追撃は夜明けに来る
蹄の音が、夜の底から湧いてきた。
丘の斜面に伏せた体に、地面を通じて振動が伝わる。一頭や二頭ではない。数百。地鳴りに近い。
予測は当たった。追撃は夜明けに来る。壊走する敵を一晩放置して翌朝追うのは、古今東西の勝者が繰り返してきたパターンだ。夜間は地形が読めず、味方の誤射がある。だが夜明けとともに視界が開けば、騎兵は無防備な歩兵を蹂躙できる。
先例通りだ。
だが先例通りであることは、何の慰めにもならない。昨日も同じことを思った。
「来たね」
隣に伏せたナーシャが、低く言った。声に震えはない。
「来た」
丘の上から南を見下ろした。夜明け前の薄い光の中に、丘陵地帯の入り口が見える。昨日の夕方、俺たちが通った道だ。
そこを、騎馬の列が埋めていた。
松明は持っていない。夜明けの光だけを頼りに、北へ向かっている。隊列は横に広い。丘の間を縫うように、三列、四列と並走している。
網だ。逃げる獲物を追い込む網。
百人の部下を振り返った。丘の裏側に身を潜めている。寒さで体を丸め、武器を握る手が白い。誰も眠れていなかった。
◇
ゼルドの記憶が、この丘陵地帯の地形を教えてくれた。
北に向かう道は三本ある。東の尾根沿い、中央の谷筋、西の森の中。どれもヴァルム山脈に繋がるが、中央の谷筋が最も早い。そして最も見つかりやすい。
折れた角の断面を、親指でなぞった。ざらつく感触が指先に伝わる。
三手に分ける。全員で逃げれば一網打尽だ。
だが合流地点を伝える手段がない。角に意識を集中し、内側から振動を送った。
返ってくるのは、数十メートル先の兵士たちの微かな反応だけ。百メートル先はもう届かない。疲労で範囲が縮んでいる。
肉声で伝えるしかない。
「ナーシャ」
「なに?」
「部隊を三つに分ける。東の尾根、中央の谷、西の森。合流地点はこの先の渡河地点。川の北岸に、崩れた石橋がある」
ゼルドの記憶にある地形だ。渡河地点まで二日。三隊が別々の道を辿り、川で落ち合う。
ナーシャの琥珀色の目が、暗がりの中で俺を見た。
「三つに分けたら、各個撃破される」
「全員で走ったら、全員捕まる」
「で、誰がどこを走るの?」
「東の尾根は足の速い三十人。身軽な者を選べ。中央の谷は俺が率いる。四十人。負傷者はこっちに入れる」
「西は?」
「お前だ。三十人でここに残れ。俺たちが出た後、追撃を引きつけて西の森に抜けろ」
ナーシャの右手が、腰の剣に触れた。
「殿ね。追撃を全部引き受けろってこと?」
「お前しかできない。森に入れば馬は使えない」
ナーシャは三秒ほど黙った。
それから、背筋を伸ばして顎を上げた。
「わかった」
振り返りかけた足を、止めた。
「ゼルド」
「なんだ?」
「中央が一番見つかりやすい道だって、わかってて自分で行くんだ」
返事をしなかった。負傷者を抱えた集団が最も見つかりやすい道を行く。囮になる、とは言わなかった。言えば、ナーシャは反対する。
「……死ぬなよ」
ナーシャが背を向けた。腰の剣が歩調に合わせて揺れている。小柄な背中が丘の暗がりに溶け、すぐに見えなくなる。
◇
三隊に分かれるのに、一刻もかからなかった。
命令は肉声で伝えた。共鳴が使えない以上、目の前の兵士一人一人に声をかけるしかない。将軍の声は低く太く、暗闇でもよく通った。
東の尾根隊が最初に動いた。身軽な三十人が、音を立てずに丘を越えていく。
四十人を連れて中央の谷へ向かった。負傷者が八人。歩けるが走れない者が十人以上。最も遅い集団だ。少しでも先に距離を稼ぐ。
走り出す前に振り返った。丘の上にナーシャが立っている。革鎧の小さな輪郭が夜明け前の空を背にしている。三十人を従えたまま、南を見つめて動かない。一瞬だけ目が合った。暗くて表情は見えない。
走り出した直後から、背後で蹄の音が大きくなった。
◇
谷を走りながら、頭の中で計算していた。
追撃騎兵の速度は徒歩の三倍。だが丘陵地帯では馬の機動力が制限される。谷筋は狭い。騎兵は縦列でしか入れない。先頭の数騎を止めれば、後続は渋滞する。
問題は、いつ追いつかれるかだ。
日が昇った。
谷の底に朝日が差し込み、霜が溶け始める。足元がぬかるむ。負傷者の足がさらに遅くなる。
後方で、叫び声が聞こえた。
振り返った。谷の入り口に、騎馬の影が見える。五百メートル。いや、もっと近い。
「走れ」
将軍の声が谷に反響した。兵士たちの足が速まる。だが負傷者は走れない。腕を引く者、肩を貸す者。列が伸びる。
角に意識を集中した。東の尾根隊の気配を探る。
何も感じない。距離が離れすぎた。
西の森隊は。
微かに。ノイズの向こうに、人の気配がある。ナーシャの隊だ。まだ近い。
だがそれ以上の情報は読み取れない。戦っているのか、逃げているのか。生きているのか。
耳が塞がれた指揮官。目の前の四十人の声は聞こえる。だがそれ以外の六十人は、闇の中にいる。
奥歯を噛み締めて、走った。
◇
谷の狭まった地点で、追撃を食い止めた。
崖に挟まれた幅十メートルの隘路。ここなら騎兵は一度に二騎しか入れない。
俺が先頭に立った。
将軍の体は、戦い方を覚えていた。剣の重み。足の運び。敵の馬が突進してくる瞬間に横に跳び、騎手の脇を切り上げる動作。頭で考えるより先に体が動いた。
片桐涼の意識が、その動きを上から見ていた。
自分の腕が人を斬っている。血が飛ぶ。悲鳴が上がる。だが体は止まらない。次の敵、その次の敵。機械のように正確に、剣が振るわれる。
三十分で、追撃は止まった。
隘路の入り口に、人間の騎兵の死体が五つ転がっている。後続は引き返した。狭い谷で魔族の将軍と戦うのは、割に合わないと判断したのだろう。迂回するはずだ。時間は稼げた。
剣についた血を、草で拭った。
手が震えていた。戦闘の興奮ではない。この体が人を斬ったことへの、片桐涼の拒絶反応だ。だが吐き気は昨日より薄い。
慣れ始めている。
その事実が、吐き気より怖かった。
◇
日が傾き始めた頃、角に振動が走った。
微かな、途切れ途切れの共鳴。距離にして数百メートル。方角は東。
東の尾根隊の生き残りが、近くにいる。
角を振動させて返信した。位置を示す信号。共鳴が通じるぎりぎりの距離だ。
三十分後、東の尾根隊の兵士が七人、谷に合流した。
七人。三十人いたはずの隊の、七人。
先頭の兵士は顔が土と血で汚れていた。右腕がだらりと垂れている。
「将軍。東の尾根で追撃に捕まりました。隊長が殿を務めて、俺たちだけ逃がされました」
二十三人が死んだ。俺が東に送った二十三人が。
角の断面を親指でなぞった。ざらついた感触。この角がもう少し長ければ、東の隊と共鳴で連絡が取れた。追撃の接近を知らせられた。迂回を指示できた。
だが折れた角では届かなかった。
その瞬間、微かな共鳴が角に流れ込んだ。ノイズだらけの、かすかな振動。東の方角から。距離はもう届かないほど遠い。
悲鳴だった。
共鳴の残響として角に届く、死にゆく者の最後の叫び。言葉にならない恐怖と痛みが、頭蓋の内側を引っ掻いた。一瞬で途切れる。
角を失った者の最後の共鳴。死の間際に角が最後の振動を放つ。それが遠くの角に、残響として届くことがある。
ゼルドの記憶が、そう教えてくれた。
膝が折れかけた。
だが足に力を入れた。四十七人の兵士が、将軍の顔を見ている。ここで膝をつくわけにはいかない。
「北へ進む。合流地点まであと一日だ」
声は震えなかった。
◇
夜になって、西の森隊と合流した。
ナーシャが三十人全員を連れて戻ってきた。一人も欠けていない。
ナーシャの短い黒髪が汗で張り付き、革鎧の肩当てが片方ずれている。返り血が灰色の腕を黒く汚していた。だが足取りはしっかりしている。
「東の隊は?」
「七人だけ合流した」
ナーシャの足が、一瞬止まった。
「二十三人」
「ああ」
ナーシャは何も言わなかった。短く刈った髪の後ろを掻いて、兵士たちの方へ歩いていった。怪我の確認を始める。
合流した七十七人の兵士が、谷の奥で身を寄せ合っていた。百人いた集団が、一日で二割以上減った。
焚き火は焚けない。追撃に位置を知らせるだけだ。暗闇の中、冷えた体を互いに温めている。
北の空に、星が出ていた。ヴァルム山脈の稜線は見えない。まだ遠い。
◇
翌朝、北へ向けて再び走り始めた。
丘陵地帯を抜ける頃、前方に黒い柱のようなものが何本も突き立っているのが見えた。
近づくと、焼けた集落だった。石壁が崩れ、屋根のない建物が並んでいる。
だが焼かれたのは最近ではない。壁の焦げは古く、崩れた石の間から草が伸びている。一年以上前の火だ。
兵士の一人が呟いた。
「人間にやられたのか?」
違う。
将軍の記憶が、映像のように蘇った。この集落を焼いたのは魔族だ。ヴェルガに従わなかった同胞の村を、三年前、ゼルドの手が焼いた。
同胞が、同胞を焼いた。
記憶の中で、角をぶつけ合って遊んでいた子供たちの声が聞こえる。炎の向こうで途切れる。
俺の手ではない。だがこの体の手だ。
焼けた集落の前に立ち尽くした。
ナーシャが横に来た。焼け跡を見て、短く息を吐いた。
「知ってる? ここ」
「ああ」
ナーシャの琥珀色の目が、細まった。
「あんたが焼いたの?」
「この体が」
ナーシャの視線が、俺の角から顔に降りてきた。折れた角ではなく、目を見ている。
「この体が、ね」
低い声だった。ナーシャは答えを待たずに踵を返し、兵士たちの方へ歩いていった。
折れた角の断面を、親指でなぞった。
守ろうとしている魔族が、かつて何をしたのか。この手が、何をしたのか。
答えは出ない。だが足は止められない。
北へ。まだ北へ。




