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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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魔王が死んだ、その日から

 頭の中が、静かすぎる。


 それが最初の違和感だった。さっきまで何千という鼓動が重なり合い、呼吸が同期し、筋肉の動きが自分のもののように流れ込んでいた。戦闘共鳴。仲間の生命が自分の中に響く、あの熱い奔流。


 それが消えた。


 音が消えたのではない。耳には聞こえている。怒号、悲鳴、鋼と鋼がぶつかる金属音。ヴァルデ平原を覆う戦場の喧騒は、むしろ耳が痛いほどだった。

 だが頭蓋の内側が空洞になっている。共鳴の残響すらない。自分の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。


 寒い。


 晩秋の夜明け。地面に霜が降りている。だが体を震わせているのは気温ではなかった。内側から火が消えたような冷たさ。何千もの仲間と繋がっていた回路が、いきなり断線した感覚。耳が聞こえなくなったのとは違う。


 帰属を、失った。


 いや、違う。俺には、そもそも帰属がない。


 体が覚えている感覚と、頭が認識している事実が噛み合わない。共鳴の喪失を「帰属の消滅」として悲鳴を上げているのは、この体だ。


 俺は片桐涼だ。三十一歳。比較歴史学の非常勤講師。東京の安アパートで論文を書いていた男。


 だったはずの男が、なぜ戦場にいる。


 右手を見た。灰色がかった肌。太い指。爪の間に乾いた血がこびりついている。将軍ゼルドの記憶が、映像のように頭の中に浮かんだ。


 人間の兵士を斬ったときの血だ。昨日の夜明け前、陣地の前で。


 胃がせり上がった。


 だが体は吐かなかった。この体は、人を斬ることに慣れている。



 地面に膝をついていた。目の前に死体がある。


 魔族の兵士。螺旋状にねじれた角が、頭から生えている。ナーヴクランの兵。ゼルドの部下だ。胸を貫かれ、目が開いたまま曇天の空を見つめている。


 そいつの顔を、ゼルドの記憶が知っていた。名前はグレン。入隊三年目。妹がいる。頬にそばかす。いつも飯を大盛りにしていた。


 記憶は鮮明だ。だが俺の中に何も起きない。他人の日記を読んでいるような距離感。


 指が震えた。感情ではなく、その感情の不在に。


 顔を上げると、世界が見えた。


 ヴァルデ平原。夜明けの薄い光が、壊れた陣地と散乱する旗を照らしている。地面には屍が点在し、その間を生き残った兵士たちが逃げ惑っていた。


 方向がバラバラだった。北に走る者、東に走る者、立ち止まって叫んでいる者。指揮系統が完全に崩壊している。


 ゼルドの記憶が、理由を教えてくれた。


 魔王ヴェルガの七枝角が砕けた。


 七つに枝分かれした巨大な角。魔族の象徴。五十五年間の戦争を率いた魔王の、共鳴の核。それが勇者の一撃で粉砕された瞬間、全軍の戦闘共鳴が崩壊した。数万の魔族兵が、一斉に孤独に投げ出された。


 壊走だ。


 このまま何もしなければ、全員死ぬ。先例がある。ナポレオンのワーテルローでも、長篠の後の武田でも、壊走する軍を騎兵が追い、決戦以上の死者が出た。


 立ち上がった。膝がふらつき、左の肩甲骨のあたりに鈍い痛みが走る。だが折れてはいない。動ける。


 左手で頭に触れた。角がある。螺旋状にねじれた角。右は無事だ。左は、半分から先がない。


 断面がざらついている。戦傷だ。ゼルドの記憶では、二年前の戦闘で人間の魔法使いに砕かれた。以来、共鳴の範囲が半減している。


 角に意識を集中し、体が覚えているやり方で内側から振動を送った。


 何も返ってこない。


 いや。遠くで、微かに。ノイズだらけの反応がある。数百メートル先。それ以上は届かない。半分折れた角では、この距離が限界だった。


 だが近くにいる兵士には届く。


 周囲を見回すと、五十メートル以内に六人の魔族兵がいた。うち二人は座り込んで動かない。一人は泣いている。残り三人が、おろおろと辺りを見回している。


「止まれ」


 ゼルドの声だ。低く、太い。将軍の声。


 六人の視線が集まった。兵士たちの目に、微かな光が戻る。彼らは指揮官の声を待っていた。共鳴が消え、孤立し、恐怖に呑まれかけていた。


 こいつらを死なせるわけにはいかない。


 なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。片桐涼は誰のリーダーでもなかった。ゼミの学生すら持てない非常勤講師だ。だがこの体は将軍で、目の前に怯えた兵士がいて、何もしなければ全員死ぬ。


 それだけで十分だった。


「武器を持て。立て。俺についてこい」


 兵士たちが立ち上がった。六人。たった六人だ。だがゼロよりいい。


 北を見た。ヴァルム山脈の稜線が、夜明けの空にうっすらと見える。あの山に辿り着けば、少なくとも追撃からは逃れられる。天然の要塞。魔族の故地。


 だがここから二百キロ以上ある。間道を使えば、もっとかかる。


 先に、人を集めなければ。



 走りながら、二つの記憶を重ねていた。


 ゼルドの記憶が地形を教え、片桐涼の知識が戦術を組み立てる。追撃が来る。この平原は遮蔽物がない。全軍をまとめる時間はない。手の届く範囲で、動ける者を集めて走れ。


 修士論文の参考文献が浮かんだ。クルド人ペシュメルガの撤退戦術。大軍に追われたとき、小集団に散って逃げ、あらかじめ決めた地点で合流する。全員で逃げるより、生存率が高い。


 だが合流地点を共鳴で伝える手段がない。半分折れた角では数百メートルが限界だ。


 走りながら、声を張った。


「北に走れ。丘を目指せ。丘の向こうに川がある。川沿いに北上しろ」


 肉声で届く範囲は狭い。だがこの六人が走り始めれば、途中で合流する者が出てくる。雪崩のように。


 兵士の一人が横に並んだ。若い。角が小さく、目が赤い。泣いていた方だ。


「将軍。共鳴が聞こえません。魔王陛下は」


「死んだ」


 若い兵士の足が止まりかけた。


「止まるな。走れ。魔王は死んだが、お前はまだ生きている」


 右手で兵士の背中を押すと、足が動き始めた。


 魔王は死んだ。


 その言葉の重みを、片桐涼は知識として理解していた。五十五年間の戦争。七クランを統合したカリスマ。象徴。


 だがゼルドの体は、もっと深いところで震えていた。共鳴を通じて何十年も繋がっていた存在が消えた。自分の一部が切り取られた感覚。


 ゼルドの記憶が、ヴェルガの顔を見せた。七つに枝分かれした巨大な角。老いてなお鋭い目。最後に見たのは三日前、出陣前の軍議だ。


 同じ記憶の中に、別の映像がある。


 ヴェルガの命令で、人間の村を焼いた記憶。逃げる住民の背中。子供の泣き声。ゼルドの手が剣を振り下ろす映像。


 俺の手ではない。


 だがこの体の手だ。


 この指についた血は、俺のものではない。だが今、この指は俺のものだ。


 吐き気を噛み殺して、走った。



 走り始めて二十分ほどで、集団が膨れ始めた。


 六人が十人になり、二十人になった。走っている方向が同じ者が、自然と合流してくる。共鳴が消えた今、肉声と姿が見える距離にいる将軍に、縋るように集まってくる。


 五十人を超えた頃、背後から声が聞こえた。


「ゼルド」


 女の声。低く、鋭い。


 振り返った。


 小柄な女が全力で走ってきていた。螺旋状にねじれた両角。右の角に、深い刀傷が走っている。黒い短髪が汗で額に張り付き、筋肉質の腕に血がついている。自分の血ではない。


 ナーシャ。


 ゼルドの記憶が、この女を知っていた。第三軍団の小隊長。二歳年下。ゼルドの副官。


 彼女の後ろに、二十人ほどの兵士が走っている。隊列を保っている。恐慌状態の周囲と比べると、異質なほど統率が取れていた。


 ナーシャが追いつき、横に並んだ。息が荒い。だが足は止めない。


「生きてたか」


「生きてる」


「共鳴が切れた。全軍」


「わかっている。魔王が死んだ」


 ナーシャの短く刈った髪の後ろを、手が掻いた。一瞬だけ足が鈍る。


 だが、すぐに走り出した。


「方角は」


「北。丘陵地帯を抜けて、川沿いに山脈を目指す」


「追撃は」


「来る。朝には必ず来る」


 ナーシャが横目で俺を見た。


「あんた、変わったね」


 心臓が跳ねた。


「何がだ」


「いつもなら真っ先に反撃って言うくせに。撤退なんて、あんたの口から初めて聞いた」


 ゼルドの記憶が裏付けた。元の将軍は攻撃的な指揮官だった。撤退を嫌い、前進を好んだ。ヴェルガに重用された理由の一つだ。


「角が半分ない。共鳴が使えない。反撃は不可能だ」


 事実だ。だが、撤退を命じた本当の理由は違う。


 ナーシャは黙った。しばらく走ってから、短く言った。


「で? 山に着いたら」


「まず生き延びる。先のことはそれからだ」


「先のこと、考えてるくせに」


 返事をしなかった。


 考えている。走りながらも、止まらない。この体の持ち主の記憶を借りて、この体の持ち主の声で、この体の持ち主の部下に命令を出している。他人の人生を乗っ取って。他人の罪を背負って。


 右手の指が、無意識にリズムを刻んでいた。


 キーボードを叩く癖。論文を書いていた指の記憶。この体のものではない動き。


 ナーシャが、その指を見ていた。琥珀色の目が細まる。


 何も言わなかった。



 丘陵地帯の入り口に差しかかった頃、集団は百人を超えていた。


 丘の斜面を登りながら、後方を振り返った。


 ヴァルデ平原が広がっている。夜明けの光が、屍と壊れた陣地を照らしていた。まだ走っている者が見える。北に向かっている者もいれば、東や西に散っている者もいる。


 この中の何割が、山に辿り着けるだろうか。


 よくて四割。残りは追撃に呑まれる。


 数万いた魔王軍のうち、生き残れるのは多く見積もって二万。


 二万人を、どうするのか。


 答えは出ていない。今は走るだけだ。


 丘の上に立ったとき、ナーシャが隣に来た。


「ゼルド」


「なんだ」


 ナーシャの右手が、腰の剣に触れた。


「南を見ろ」


 振り返った。


 南の地平。ヴァルデ平原の向こう。夜明けの光の中に、砂塵が上がっていた。


 横に広がる砂塵の列。一筋ではない。三筋、四筋。平行に、北に向かって伸びている。


 騎兵だ。


 追撃騎兵の縦列が、延々と続いている。


 先例がある。壊走する敵を追撃しない勝者はいない。知識通りだ。だが知識通りであることは、何の慰めにもならなかった。


 丘の下には、まだ平原を走っている魔族の兵士たちが見える。彼らの背後から、砂塵の壁が迫っている。


 ナーシャが、低く言った。


「間に合わないね。あの人たち」


 返す言葉がなかった。


 折れた角の断面を、親指でなぞった。ざらついた感触。計算で出てくる答えは一つしかない。


 丘を越えた者は生き残る。越えられなかった者は死ぬ。


 俺にできるのは、目の前の百人を走らせ続けることだけだ。


「走れ」


 振り返らずに、言った。


「北へ走れ。止まるな」


 背後で、砂塵の列が平原を飲み込んでいく。


 ナーシャが、走りながら俺の腕を掴んだ。振り返るな、と言う代わりに。

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