角を磨く日
最初の収穫は、期待の半分だった。
二年目の夏。麦は穂をつけたが、土が痩せていた。川沿いの畑だけがどうにか形になり、斜面寄りは背丈すら揃わない。足りない分は交易で埋めるしかなかった。
谷の入口で、関税表を持った人間の役人が待っている。
「管理費の増額に伴い」
そういう言い方で、去年より二割多く取っていった。
予想はしていた。条約は静かに侵食される。紙に書いた基準は、紙の外で痩せる。
予想していたことと、荷車一台分の麦がその場で減るのを見ることは、同じではない。
ナーシャが舌打ちした。
「管理って何を管理してるの」
「俺たちだろう」
「腹が立つ」
「知ってる」
知っている。こっちも同じだ。
◇
それでも谷は、機能していた。
文字記録の板は年ごとに増えた。鍛冶工房は釘、鍬、包丁、蹄鉄を打ち、人間の商人は顔をしかめながらも買っていく。子供たちは午前に共通語、午後にドゥルグ語を学んだ。共鳴だけでは届かない記憶を、文字で補う。洞窟で始めた火が、ようやく形になった。
初めての査察が来たのも、その年だった。
査察官は丁寧だった。だからこそ嫌だった。丁寧な筆致で、人口、工房数、家畜、井戸、学び舎の広さまで書き取っていく。
「住居には入りません」
当然のように言う。入らないことが恩恵みたいな顔で。
アルベルトの署名した基準は守られていた。今のところは。
今のところ、だ。
「何年もつと思う」
査察官が帰ったあと、ナーシャが訊いた。
「五年の前に削ろうとする」
「止められる?」
「そのために記録を残してる」
言いながら、自分で苦笑した。記録は刃ではない。だが刃だけでは残らないものもある。
外からの報せは、さらに悪くなっていた。アルベルトの支持基盤が痩せ、殲滅派が地方議会で議席を増やしている。交易税は毎年のように理由を変えて重くなる。
条約は壊れていない。だが関税の書類を開くたび、前の年より行が増えている。そういう侵食だった。
◇
四年目の秋、ゾーラが角を磨き始めた。
死期を悟った老人がする準備だ。死者の道を、曇った角のまま歩かないための儀礼。谷の子供たちは最初、何の遊びかと遠くから見ていたが、すぐに空気を読んで静かになった。
ゾーラは軒先に座り、布と油で象牙色の角をゆっくり磨く。膝には毛布。日差しは柔らかい。
「手伝うか」
「要らん」
「そう言うと思った」
隣に座る。風が冷えていた。
「谷はどうだ」
「狭い」
「そうだろうな」
「でも子供は増えた」
「そうだろうな」
それだけで、会話はしばらく足りた。
やがてゾーラが角を磨く手を止める。
「お前」
「何だ」
「お前は、お前が装っている者ではないな」
息が止まった。
風の音が急に遠くなる。何年も隠してきたわけではない。問われないことに甘えていただけだ。
「……いつから」
「最初から、少し変だと思っていた」
ゾーラは前を見たまま言う。
「将軍ゼルドは、あんなふうに子供の皿を見ない。飢えた顔を数えても、眠れなくなったりせん」
返す言葉がない。
「何者かは問わん」
濁った目がこちらへ動く。
「何をしたかを見てきた」
その視線は、暴くためのものではなかった。測った上で置く視線だ。
「灯火はお前の手にある。消すな」
「俺が」
「お前が誰でも関係ない」
即断だった。
「山で散るはずだった子が、谷で字を書いている。鍋の数が増えた。歌が一つ、石板に残った。それをしたのはお前だ」
胸の奥で、何かがゆっくり崩れた。目が熱くなり、折れた角の断面がじくりと痛んだ。
「消すな」
もう一度だけ言う。
頷くしかなかった。
◇
ゾーラはその夜に死んだ。
静かな最期だった。呼吸が一つ浅くなり、次が来なかった。ナーシャが気づき、俺を呼び、谷の長老たちが集まり、誰も泣かなかった。泣くのは後でいいと、全員が知っていた。
翌朝、砕骨の葬送が行われた。
魔族は死者の角を砕き、風へ返す。共鳴を大地に閉じ込めず、散らすためだ。ゾーラの角は最後まで美しかった。磨いたばかりの象牙色が朝日に光る。
砕く役目を任されたとき、手が止まった。
ナーシャが隣に立つ。
「やりな」
低い声だった。
石槌を振り下ろす。硬い音が一度、谷へ響いた。象牙色の欠片が布の上へ散る。誰かが息を呑み、次の瞬間、共鳴が広がった。
悲しみだった。
谷中の角が震え、失ったものの大きさを一つの波にする。俺の折れた角は輪の中心に届かない。それでも外縁の震えだけは拾えた。
自分の涙なのか、群れの涙なのかわからなかった。
葬送が終わり、風が欠片をさらっていく。ヴァルム山脈の方角へ。あの人は最後まで、山を背にしたままだった。
◇
日が落ちてから、谷の外れの石に一人で座った。
隣にナーシャが来る。何も言わず、しばらく同じ向きで座る。
「知ってたんだ」
ようやく出た声は、思ったより細かった。
ナーシャは前を見たまま答える。
「あの人は何でも知ってた」
「そうだな」
「いつもそうだった」
沈黙が戻る。ナーシャが膝に手を置いた。そのまま動かなかった。俺も動かなかった。
ゾーラがいない世界は、驚くほど静かだった。止める声がもうない。その静けさが、谷の風より冷たかった。




