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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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角を磨く日

 最初の収穫は、期待の半分だった。


 二年目の夏。麦は穂をつけたが、土が痩せていた。川沿いの畑だけがどうにか形になり、斜面寄りは背丈すら揃わない。足りない分は交易で埋めるしかなかった。


 谷の入口で、関税表を持った人間の役人が待っている。


「管理費の増額に伴い」


 そういう言い方で、去年より二割多く取っていった。


 予想はしていた。条約は静かに侵食される。紙に書いた基準は、紙の外で痩せる。


 予想していたことと、荷車一台分の麦がその場で減るのを見ることは、同じではない。


 ナーシャが舌打ちした。


「管理って何を管理してるの」


「俺たちだろう」


「腹が立つ」


「知ってる」


 知っている。こっちも同じだ。





 それでも谷は、機能していた。


 文字記録の板は年ごとに増えた。鍛冶工房は釘、鍬、包丁、蹄鉄を打ち、人間の商人は顔をしかめながらも買っていく。子供たちは午前に共通語、午後にドゥルグ語を学んだ。共鳴だけでは届かない記憶を、文字で補う。洞窟で始めた火が、ようやく形になった。


 初めての査察が来たのも、その年だった。


 査察官は丁寧だった。だからこそ嫌だった。丁寧な筆致で、人口、工房数、家畜、井戸、学び舎の広さまで書き取っていく。


「住居には入りません」


 当然のように言う。入らないことが恩恵みたいな顔で。


 アルベルトの署名した基準は守られていた。今のところは。


 今のところ、だ。


「何年もつと思う」


 査察官が帰ったあと、ナーシャが訊いた。


「五年の前に削ろうとする」


「止められる?」


「そのために記録を残してる」


 言いながら、自分で苦笑した。記録は刃ではない。だが刃だけでは残らないものもある。


 外からの報せは、さらに悪くなっていた。アルベルトの支持基盤が痩せ、殲滅派が地方議会で議席を増やしている。交易税は毎年のように理由を変えて重くなる。


 条約は壊れていない。だが関税の書類を開くたび、前の年より行が増えている。そういう侵食だった。





 四年目の秋、ゾーラが角を磨き始めた。


 死期を悟った老人がする準備だ。死者の道を、曇った角のまま歩かないための儀礼。谷の子供たちは最初、何の遊びかと遠くから見ていたが、すぐに空気を読んで静かになった。


 ゾーラは軒先に座り、布と油で象牙色の角をゆっくり磨く。膝には毛布。日差しは柔らかい。


「手伝うか」


「要らん」


「そう言うと思った」


 隣に座る。風が冷えていた。


「谷はどうだ」


「狭い」


「そうだろうな」


「でも子供は増えた」


「そうだろうな」


 それだけで、会話はしばらく足りた。


 やがてゾーラが角を磨く手を止める。


「お前」


「何だ」


「お前は、お前が装っている者ではないな」


 息が止まった。


 風の音が急に遠くなる。何年も隠してきたわけではない。問われないことに甘えていただけだ。


「……いつから」


「最初から、少し変だと思っていた」


 ゾーラは前を見たまま言う。


「将軍ゼルドは、あんなふうに子供の皿を見ない。飢えた顔を数えても、眠れなくなったりせん」


 返す言葉がない。


「何者かは問わん」


 濁った目がこちらへ動く。


「何をしたかを見てきた」


 その視線は、暴くためのものではなかった。測った上で置く視線だ。


「灯火はお前の手にある。消すな」


「俺が」


「お前が誰でも関係ない」


 即断だった。


「山で散るはずだった子が、谷で字を書いている。鍋の数が増えた。歌が一つ、石板に残った。それをしたのはお前だ」


 胸の奥で、何かがゆっくり崩れた。目が熱くなり、折れた角の断面がじくりと痛んだ。


「消すな」


 もう一度だけ言う。


 頷くしかなかった。





 ゾーラはその夜に死んだ。


 静かな最期だった。呼吸が一つ浅くなり、次が来なかった。ナーシャが気づき、俺を呼び、谷の長老たちが集まり、誰も泣かなかった。泣くのは後でいいと、全員が知っていた。


 翌朝、砕骨の葬送が行われた。


 魔族は死者の角を砕き、風へ返す。共鳴を大地に閉じ込めず、散らすためだ。ゾーラの角は最後まで美しかった。磨いたばかりの象牙色が朝日に光る。


 砕く役目を任されたとき、手が止まった。


 ナーシャが隣に立つ。


「やりな」


 低い声だった。


 石槌を振り下ろす。硬い音が一度、谷へ響いた。象牙色の欠片が布の上へ散る。誰かが息を呑み、次の瞬間、共鳴が広がった。


 悲しみだった。


 谷中の角が震え、失ったものの大きさを一つの波にする。俺の折れた角は輪の中心に届かない。それでも外縁の震えだけは拾えた。


 自分の涙なのか、群れの涙なのかわからなかった。


 葬送が終わり、風が欠片をさらっていく。ヴァルム山脈の方角へ。あの人は最後まで、山を背にしたままだった。





 日が落ちてから、谷の外れの石に一人で座った。


 隣にナーシャが来る。何も言わず、しばらく同じ向きで座る。


「知ってたんだ」


 ようやく出た声は、思ったより細かった。


 ナーシャは前を見たまま答える。


「あの人は何でも知ってた」


「そうだな」


「いつもそうだった」


 沈黙が戻る。ナーシャが膝に手を置いた。そのまま動かなかった。俺も動かなかった。


 ゾーラがいない世界は、驚くほど静かだった。止める声がもうない。その静けさが、谷の風より冷たかった。


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