ハルト谷の風
ハルト谷は、狭かった。
初めて尾根の上から見下ろしたとき、まずそう思った。川はある。緑もある。畑にできそうな平地もある。だが二万人の魔族が息をつくには、明らかに足りない。
それでも、山の洞窟よりは広かった。
「ここなら掘れる」
ナーシャが言った。
「何を」
「井戸。畑。小屋の柱穴。あと喧嘩の余地」
「最後のは多そうだ」
「多いね」
谷へ下りる列は長かった。老人、子供、荷車、鍛冶道具、干し肉の袋、鍋、角を伏せて眠る赤子。戦の後に残った生活そのものが、山から流れてくる。
谷の入口には、すでに人間の監視塔が立っていた。条約文が乾く前に、境界確認の名目で組まれた木組みの塔だ。簡素だが、高さだけは足りている。上にいる兵の槍先が、陽を返した。
家だ。
檻だ。
両方を同時に思った。
◇
最初の十日は、建てる日々だった。
小屋を組む。川沿いの石をどける。畑の境を切る。井戸を掘る。子供たちは最初だけ物珍しそうに走り回り、三日で飽きて手伝い始めた。飽きる前に仕事がある土地は、まだましだ。
鍛冶師たちは谷の北寄りに工房を作った。炉の煙がまっすぐ上がる場所を選び、風の向きを測り、槌音を鳴らし始める。音があると、群れは少し落ち着く。
ドラクは来なかった。
列が途切れた夕方になっても、北の山道は静かだった。南の見張り場で最後に見た背中を思い出す。列を割って去る大きな背中。何人かが迷い、何人かが続いた。
ナーシャが川辺で石を投げた。二つ。三つ。四つ目は投げずに握ったまま水を見ていた。
「来ないね」
「来ない」
「戻ると思う?」
「思わない」
約二百名。子供も何人かいたはずだ。あいつに家族がいるのかどうかも、俺は知らなかった。三千を数え、二万を束ね、条約に三百と書いた。だがドラクの隣にいた兵の名を、一人も覚えていない。
「あんたのせいじゃない」
ナーシャが石を川に落とした。
「せいだろう」
「全部は違う。半分くらい」
半分か。正直だった。
「じゃあ分かれたんだ」
「そうだ」
あいつが正しい部分もあった。檻に入れば角は削られるかもしれない。鍛冶を出し、言葉を薄め、次は角だ。ドラクの予言のどこからが当たるかを、これから毎日確かめる暮らしが始まる。
◇
結婚の話を最初に言い出したのは、ゾーラだった。
「祝うなら今だ」
焚き火の前、配給の鍋を見ながら、そんな調子で言った。式の段取りを考える口調ではない。明日の天気を言うみたいな声だ。
「今?」
俺が返すと、ゾーラは当然だという顔をした。
「今だ。家が立つ前に、群れの芯を立てる」
ナーシャは黙っていた。嫌なら嫌とすぐ言う女が黙っている時は、嫌ではない。
大きな式はしなかった。できる余裕もない。焚き火を囲み、鍋が煮え、仕事を終えた者から順に座る。その中心で、ゾーラが杖を横に置いた。
「角を」
短い言葉に従う。
ナーシャの右角が、俺の残った右角に触れる。折れた左の断面ではない。残っているほうで触れる。
共鳴が微かに走った。
谷のあちこちで角が震える。祝福の輪が広がっていく。洞窟でやった時より、ずっと遠くまで届く。俺の折れた角では輪の中心には入れない。だが外縁の温度だけは感じられた。
温かかった。
初めて、ここにいていいと思った。同時に、ここにいない者の背中が浮かんだ。すぐに消した。今夜だけはいい。
ナーシャが小さく笑う。
「変な顔」
「どんな」
「少しだけ、生き延びた顔」
たぶんその通りだった。
周りの魔族たちが声を上げる。大げさな祝辞はない。鍋を回し、酒を少し足し、子供が騒ぐ。その程度だ。その程度で十分だった。
ゾーラだけが、少し長く俺たちを見ていた。祝福というより確認の目だった。杖を膝に預け、角が月明かりを受けて白く光っている。前より痩せた、とそのとき初めて気づいた。
◇
夜更け、谷の南端へ一人で歩いた。
新しく立てた杭、まだ浅い溝、遠くで咳をする老人、眠る前の子供の泣き声。生活が、そこら中で形を取り始めている。
丘の向こうに監視塔が見えた。灯が一つ揺れている。
背後から足音。ナーシャだった。
「一人で見るの」
「見ておきたかった」
「何を」
「家か檻か」
ナーシャは俺の隣に立つ。
「両方でしょ」
「だろうな」
「でもさ」
谷のほうを顎で示す。
「檻の中に鍋の匂いがするなら、しばらくは家だよ」
言い方が、妙にこいつらしかった。
家だ。檻だ。両方だ。




