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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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ハルト谷の風

 ハルト谷は、狭かった。


 初めて尾根の上から見下ろしたとき、まずそう思った。川はある。緑もある。畑にできそうな平地もある。だが二万人の魔族が息をつくには、明らかに足りない。


 それでも、山の洞窟よりは広かった。


「ここなら掘れる」


 ナーシャが言った。


「何を」


「井戸。畑。小屋の柱穴。あと喧嘩の余地」


「最後のは多そうだ」


「多いね」


 谷へ下りる列は長かった。老人、子供、荷車、鍛冶道具、干し肉の袋、鍋、角を伏せて眠る赤子。戦の後に残った生活そのものが、山から流れてくる。


 谷の入口には、すでに人間の監視塔が立っていた。条約文が乾く前に、境界確認の名目で組まれた木組みの塔だ。簡素だが、高さだけは足りている。上にいる兵の槍先が、陽を返した。


 家だ。


 檻だ。


 両方を同時に思った。





 最初の十日は、建てる日々だった。


 小屋を組む。川沿いの石をどける。畑の境を切る。井戸を掘る。子供たちは最初だけ物珍しそうに走り回り、三日で飽きて手伝い始めた。飽きる前に仕事がある土地は、まだましだ。


 鍛冶師たちは谷の北寄りに工房を作った。炉の煙がまっすぐ上がる場所を選び、風の向きを測り、槌音を鳴らし始める。音があると、群れは少し落ち着く。


 ドラクは来なかった。


 列が途切れた夕方になっても、北の山道は静かだった。南の見張り場で最後に見た背中を思い出す。列を割って去る大きな背中。何人かが迷い、何人かが続いた。


 ナーシャが川辺で石を投げた。二つ。三つ。四つ目は投げずに握ったまま水を見ていた。


「来ないね」


「来ない」


「戻ると思う?」


「思わない」


 約二百名。子供も何人かいたはずだ。あいつに家族がいるのかどうかも、俺は知らなかった。三千を数え、二万を束ね、条約に三百と書いた。だがドラクの隣にいた兵の名を、一人も覚えていない。


「あんたのせいじゃない」


 ナーシャが石を川に落とした。


「せいだろう」


「全部は違う。半分くらい」


 半分か。正直だった。


「じゃあ分かれたんだ」


「そうだ」


 あいつが正しい部分もあった。檻に入れば角は削られるかもしれない。鍛冶を出し、言葉を薄め、次は角だ。ドラクの予言のどこからが当たるかを、これから毎日確かめる暮らしが始まる。





 結婚の話を最初に言い出したのは、ゾーラだった。


「祝うなら今だ」


 焚き火の前、配給の鍋を見ながら、そんな調子で言った。式の段取りを考える口調ではない。明日の天気を言うみたいな声だ。


「今?」


 俺が返すと、ゾーラは当然だという顔をした。


「今だ。家が立つ前に、群れの芯を立てる」


 ナーシャは黙っていた。嫌なら嫌とすぐ言う女が黙っている時は、嫌ではない。


 大きな式はしなかった。できる余裕もない。焚き火を囲み、鍋が煮え、仕事を終えた者から順に座る。その中心で、ゾーラが杖を横に置いた。


「角を」


 短い言葉に従う。


 ナーシャの右角が、俺の残った右角に触れる。折れた左の断面ではない。残っているほうで触れる。


 共鳴が微かに走った。


 谷のあちこちで角が震える。祝福の輪が広がっていく。洞窟でやった時より、ずっと遠くまで届く。俺の折れた角では輪の中心には入れない。だが外縁の温度だけは感じられた。


 温かかった。


 初めて、ここにいていいと思った。同時に、ここにいない者の背中が浮かんだ。すぐに消した。今夜だけはいい。


 ナーシャが小さく笑う。


「変な顔」


「どんな」


「少しだけ、生き延びた顔」


 たぶんその通りだった。


 周りの魔族たちが声を上げる。大げさな祝辞はない。鍋を回し、酒を少し足し、子供が騒ぐ。その程度だ。その程度で十分だった。


 ゾーラだけが、少し長く俺たちを見ていた。祝福というより確認の目だった。杖を膝に預け、角が月明かりを受けて白く光っている。前より痩せた、とそのとき初めて気づいた。





 夜更け、谷の南端へ一人で歩いた。


 新しく立てた杭、まだ浅い溝、遠くで咳をする老人、眠る前の子供の泣き声。生活が、そこら中で形を取り始めている。


 丘の向こうに監視塔が見えた。灯が一つ揺れている。


 背後から足音。ナーシャだった。


「一人で見るの」


「見ておきたかった」


「何を」


「家か檻か」


 ナーシャは俺の隣に立つ。


「両方でしょ」


「だろうな」


「でもさ」


 谷のほうを顎で示す。


「檻の中に鍋の匂いがするなら、しばらくは家だよ」


 言い方が、妙にこいつらしかった。


 家だ。檻だ。両方だ。


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