調印
調印室は、思っていたより小さかった。
本会議場のような演出はない。長い机が一本、窓が一つ、壁に評議会の紋章。大きな決定ほど、案外狭い部屋で行われるのかもしれないと思った。
俺の前に条約文書。向かいにアルベルト。脇に書記官。後ろに数人の証人。ゾーラは椅子に座って見届け、ナーシャは壁際に立っている。
アルベルトが文書の最終確認を読み上げる。日付、当事者、条項、付帯文書の有効性。声はいつも通りだが、少しだけ乾いていた。
「異議は」
ない。ある。だが今ここで言う異議は、条約への異議ではなく、生き残りへの異議になる。
「ない」
「では」
ペンが差し出された。人間の羽根ペンは軽い。軽すぎて、逆に腹が立つ。
署名欄に名を書く。
ゼルド。
インクが紙へ染みる。ペンを置いた瞬間、指がわずかに震えた。交渉の間は一度も震えなかったのに、終わった途端に来る。
アルベルトも署名した。流れるような字だった。練習された字だ。人に見せるための署名。
公印が押される。蝋の熱い匂いがした。
息を吐いた。肺の底に溜まっていた空気が、ようやく出口を見つけたようだった。
配給の列の老人。凍えた子供の指。干し肉を半分に割る母親。山の冬を越えた全員の顔が、一度に押し寄せて消えた。
生き残れた。
喉の奥が焼けるように熱かった。泣くのかと思ったが、泣けなかった。
勝ったわけではない。ただ、次の冬へ進む権利だけは取った。
ナーシャが壁際で目を閉じる。ほんの一瞬だけだった。次にはもう開いている。
ゾーラは何も言わない。杖の頭に指を置いたまま、じっと文書を見ていた。
アルベルトが静かに言った。
「これは始まりだ。終わりではない」
「それだけは同意する」
苦笑に近いものが、互いの口元を一瞬だけ動かした。
◇
式が終わってから気づいた。
ブラウ村の男はいなかった。殲滅派の議員も二人欠けていた。欠席にしたのか、させたのかはわからない。だが祝福しない形で存在を示したことだけはわかる。
アルベルトも気づいていたはずだが、何も言わなかった。
その夜、城の一角の小部屋で酒が出た。祝宴というより、後片づけのような席だった。杯は二つだけ。書記も衛兵も外にいる。
「飲みますか」
「飲む」
断る理由がない。
薄い葡萄酒は、山で飲む蒸留酒よりずっと弱かった。だが疲れた体には十分だった。
「あなたが魔族でなければ」
アルベルトが杯を置いた。
「部下に欲しかった」
「あなたが人間でなければ」
俺も置く。
「受けたかもしれない」
アルベルトが笑った。初対面の頃の、計算の笑みとは少し違う。
「惜しいですね」
「ああ」
惜しい。たぶん嘘だ。だが今は、嘘でも悪くない酒だった。
「条約は持ちますか」
訊いてみた。
アルベルトは正直に考えた後で答えた。
「私がいる間は」
「その先は」
「侵食されるでしょう」
予想通りだった。予想通りでも、聞くと腹に沈む。
「殲滅派は消えません。実利派は、利益が薄くなれば離れる」
そこで一度言葉を切った。杯の底を見る。
「制度だけが残ります。守る人間が痩せても」
「わかりやすい」
「あなたも同じことを考えていた顔です」
否定しない。
「だから、五年の基準を書かせた」
「良い交渉でした」
「嫌な交渉だった」
「ええ」
アルベルトは杯の底を見る。
「それでも、必要でした」
必要。便利な言葉だ。必要の下には、だいたい誰かの痛みが積まれている。
「山へ戻る」
俺が言うと、アルベルトは頷いた。
「ハルト谷は、紙の上では今日からあなた方の居住地です。現実の上でもそうするために、急いでください」
紙の上では。
その冷たさが、この男の美徳であり限界でもある。
◇
初秋の乾いた風が出た朝、谷へ向かう列の先頭に立った。
山は遠く、谷はまだ見えない。だが背後には、確かに調印済みの文書がある。
ナーシャが馬を寄せた。
「少しは安心した?」
「一瞬だけ」
「短いね」
「そういうもんだ」
ナーシャは鼻で笑う。
「じゃあ、その一瞬は取ったってことでいい」
それでいいのだと思った。
前を向く。
平和は脆い。だから急がなければならない。




