灯火はまだ消えていない
ゾーラが死んでから、谷の朝は少しだけ早くなった。
誰かが穴を埋めるために、皆が半歩ずつ前へ出る。長老の席は空いたままだが、空いたまま回ることに全員が慣れ始めていた。
俺は記録台の前に座る時間が増えた。収穫量、交易品目、出生、死亡、学び舎で覚えた新しい文字。実務は多い。多いほうがいい。考える時間が減るからだ。
「ゼルド」
子供の声に顔を上げる。
戸口に立っていたのは、戦後に生まれた世代の一人だった。角はまだ短く、目だけが妙にまっすぐだ。
「何だ」
「魔王って、どんな人だったの」
筆が止まる。
こういう質問が来る時期だとは、わかっていた。戦後生まれの子供にとって、魔王は飢えより遠い。歌や噂の中の名だ。
「急だな」
「先生が、知らないまま嫌うなって」
たぶん学び舎の教師が余計な宿題を出した。だが悪くない。
椅子をもう一つ引く。
「座れ」
子供は素直に座った。足が床に届いていない。
「魔王は」
言葉を選ぶ。簡単にしてはいけない。複雑にしても伝わらない。
「俺たちのために戦った者だ」
子供が頷く。
「それで?」
「人も傷つけた者だ」
頷きが止まる。
「いい人じゃなかったの」
将軍の記憶が奥で軋んだ。この体の手が焼いた街がある。この体の声で死地に送った兵がいる。目の前の子供の角は、まだ柔らかい。
「良いとか悪いとかだけで言える相手じゃない」
「じゃあ、嫌いでいい?」
難しい顔をする。難しい顔をする年じゃないのに、谷の子供は早くそういう顔を覚える。
「嫌うなら、何をしたか知ってからにしろ」
「好きになるかもしれない」
「それでもいい」
子供の目がまっすぐだった。その目を、しばらく見ていた。
子供は少し考えたあと、真面目に頷いた。
「じゃあ、まず読む」
「そうしろ」
立ち上がりかけたところで、戸口からナーシャの声が飛ぶ。
「難しい顔してないで、手伝って」
振り返る。片手に洗い桶、もう片手で腰を押さえている。怒っているわけではない。忙しいだけだ。
「今行く」
「今」
「今」
子供が笑った。
「ゼルド、怒られてる」
「そうだな」
記録の束を閉じる。紙と板の匂いが少し残った。
◇
夕方、谷には煙が上がっていた。
竈の煙。鍋の匂い。子供の声。工房の最後の槌音。遠くで、共鳴のかすかな残響。派手なものは何もない。脆く、壊れやすく、明日にはまた税や査察や病で揺れる日常だ。
それでも、日常だった。
尾根の上へ上がる。ここからだと、谷全体が小さな火の集まりに見える。あの日見た監視塔は、まだ立っている。檻は消えていない。
だが火も消えていない。
折れた角の断面に触れる。ざらついた感触は変わらない。変わらないまま、ここまで来た。
ゾーラの最後の声がよみがえる。
灯火はお前の手にある。消すな。
消していない。
「飯だよ」
谷の底からナーシャが呼ぶ。
振り返る。煙の上がる方へ、灯りの方へ、声のする方へ。
一度だけ、尾根の向こうを見る。
山も、監視塔も、夕暮れの色の中では同じ影だった。
そのさらに奥で、ごく小さな火がひとつ揺れた。谷の火か、山の火かはわからない。
火のほうへ下りていく。
灯火はまだ消えていない。
◇
第1部「灯火はまだ消えていない」完。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
条約は結ばれました。でも、ゼルドの戦はまだ終わっていません。
守ったものを、守り続けられるのか――第2部の構想はあります。
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