差し出すもの
ゼーレンに戻ったのは、三日目の朝だった。
城門の前で馬を降りたとき、脚が石みたいに重かった。門兵が通行証を確認する間も、寝られそうだった。
ナーシャは宿舎の前にいた。壁にもたれ、腕を組み、俺を見るなり鼻で息を吐く。
「遅い」
「戻った」
「見ればわかる」
それだけだった。それだけで、胸の奥の硬いものが少しほどけた。
「無事だったか」
「腹は立った。けど無事」
人質扱いされた三日を、その一言で済ませる。こいつのこういうところに、何度も助けられている。
戻ってからも、すぐに署名とはいかなかった。
山で止めたのは出撃だけで、条約の削り合いまでは止まらない。そこからさらに二十日近く、文言は行き来した。
◇
最終条約文書は、前より厚くなっていた。
修正した文言、注釈、付帯規定。机に置かれた冊子は、もう提案ではなく制度の顔をしている。
アルベルトの向かいに座り、ページをめくる。紙の匂い、蝋の匂い、インクの乾いた匂い。どれも血の匂いではないのに、命の値段を決めている。
「南の件は」
アルベルトが先に訊いた。
「止めた」
「副官殿のおかげで、こちらも待てました」
ナーシャは何も言わなかった。礼を受け取る気はない顔だ。
冊子の一条目。ハルト谷居住権。
二条。携帯武器のみ保有可。攻城兵器禁止。
三条。年二回の査察。武器庫、工房、集会場。住居除外。
四条。交易権。生活必需品の関税率明記。加工品輸出の許可。
五条。戦争犯罪の公式認知。
そこで指が止まった。
紙に書かれた一文は短い。だがこの先、何世代ぶんも引用される長さを持っていた。
「重いですか」
アルベルトが言った。
「軽くはない」
「ですが、削れません」
「わかってる」
削れない。わかっている。ブラウ村の男の目が削らせない。
ページを繰る。行政報告、人口調査、評議会法遵守、教育条項、修正手続き。
どの条にも、数えるための言葉が入っていた。名簿。年次。規格。報告書。共同審査。
数えられる。測られる。逸脱を見つけられる。管理される。
「読む顔が、前より静かですね」
「慣れたわけじゃない」
「では?」
折れた角の断面を親指でなぞる。
「差し出すものの形が見えてきただけだ」
ナーシャが横から言った。
「多い?」
「多い」
「それでも出す?」
「出す」
即答した。
「なんで」
ナーシャの問いは、アルベルトに向けたものではない。俺への問いだ。
「ここで紙にしておかないと、次は紙にもならないからだ」
アルベルトが小さく頷く。意味を理解した顔だった。
「制度に書かれた不利益は、交渉できる」
「書かれていない不利益は?」
「暴力になります」
その言葉は冷たかったが、嘘ではない。
ナーシャが舌打ちをこらえるように口を閉じる。
「嫌な理屈」
「俺も嫌いだ」
「でも使う」
「使う」
そこでアルベルトが一枚の別紙を差し出した。付帯文書だった。査察の運用基準、教育実施の協議手順、交易検印の管理体制。
「ここに、あなたが求めた共同起草の条項を入れました。少なくとも、最初の五年は」
「最初の」
「ええ。永遠の保証はありません」
正直な男だ。だから信用できるわけではない。正直に限界を言う男は、限界を超えたときも淡々と切る。
「十分だ」
「十分ではないでしょう」
「それでも、今は十分だ」
腹が減れば、人は次の五年の前に死ぬ。
その単純な事実が、条約の善悪をいつも追い越す。
◇
調印は、そこからさらに六日後に決まった。
宿舎へ戻る途中、ナーシャが珍しく何も言わなかった。石畳の足音だけが並ぶ。
部屋に入ってから、ようやく口を開く。
「あんた、戻る前より嫌な顔してる」
「山で怒鳴られて、こっちで数えられた」
「どっちも嫌だね」
「嫌だ」
椅子に腰を下ろす。冊子を机へ置いた音が妙に大きい。
「でも」
ナーシャが冊子に触れた。紙には触れず、表紙の端を指で弾く。
「この中に、谷があるんでしょ。畑も、子供が寝る屋根も」
「ある」
ナーシャは少し考えてから、頷いた。
「じゃあ署名しな」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない。簡単じゃないから、あたしが言う」
その言い方で、背中が少し軽くなる。結論そのものより、結論を一人で持たなくていい瞬間が軽い。
冊子を開き、最後のページを見る。署名欄は空白だった。空白はいつも、埋める前がいちばん広く見える。
折れた角の断面が、じくりと痛んだ。
この文書に、二万人の命と引き換えに差し出すものの目録が書いてある。明日、その目録の下に自分の名を書く。




