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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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差し出すもの

 ゼーレンに戻ったのは、三日目の朝だった。


 城門の前で馬を降りたとき、脚が石みたいに重かった。門兵が通行証を確認する間も、寝られそうだった。


 ナーシャは宿舎の前にいた。壁にもたれ、腕を組み、俺を見るなり鼻で息を吐く。


「遅い」


「戻った」


「見ればわかる」


 それだけだった。それだけで、胸の奥の硬いものが少しほどけた。


「無事だったか」


「腹は立った。けど無事」


 人質扱いされた三日を、その一言で済ませる。こいつのこういうところに、何度も助けられている。


 戻ってからも、すぐに署名とはいかなかった。


 山で止めたのは出撃だけで、条約の削り合いまでは止まらない。そこからさらに二十日近く、文言は行き来した。





 最終条約文書は、前より厚くなっていた。


 修正した文言、注釈、付帯規定。机に置かれた冊子は、もう提案ではなく制度の顔をしている。


 アルベルトの向かいに座り、ページをめくる。紙の匂い、蝋の匂い、インクの乾いた匂い。どれも血の匂いではないのに、命の値段を決めている。


「南の件は」


 アルベルトが先に訊いた。


「止めた」


「副官殿のおかげで、こちらも待てました」


 ナーシャは何も言わなかった。礼を受け取る気はない顔だ。


 冊子の一条目。ハルト谷居住権。


 二条。携帯武器のみ保有可。攻城兵器禁止。


 三条。年二回の査察。武器庫、工房、集会場。住居除外。


 四条。交易権。生活必需品の関税率明記。加工品輸出の許可。


 五条。戦争犯罪の公式認知。


 そこで指が止まった。


 紙に書かれた一文は短い。だがこの先、何世代ぶんも引用される長さを持っていた。


「重いですか」


 アルベルトが言った。


「軽くはない」


「ですが、削れません」


「わかってる」


 削れない。わかっている。ブラウ村の男の目が削らせない。


 ページを繰る。行政報告、人口調査、評議会法遵守、教育条項、修正手続き。


 どの条にも、数えるための言葉が入っていた。名簿。年次。規格。報告書。共同審査。


 数えられる。測られる。逸脱を見つけられる。管理される。


「読む顔が、前より静かですね」


「慣れたわけじゃない」


「では?」


 折れた角の断面を親指でなぞる。


「差し出すものの形が見えてきただけだ」


 ナーシャが横から言った。


「多い?」


「多い」


「それでも出す?」


「出す」


 即答した。


「なんで」


 ナーシャの問いは、アルベルトに向けたものではない。俺への問いだ。


「ここで紙にしておかないと、次は紙にもならないからだ」


 アルベルトが小さく頷く。意味を理解した顔だった。


「制度に書かれた不利益は、交渉できる」


「書かれていない不利益は?」


「暴力になります」


 その言葉は冷たかったが、嘘ではない。


 ナーシャが舌打ちをこらえるように口を閉じる。


「嫌な理屈」


「俺も嫌いだ」


「でも使う」


「使う」


 そこでアルベルトが一枚の別紙を差し出した。付帯文書だった。査察の運用基準、教育実施の協議手順、交易検印の管理体制。


「ここに、あなたが求めた共同起草の条項を入れました。少なくとも、最初の五年は」


「最初の」


「ええ。永遠の保証はありません」


 正直な男だ。だから信用できるわけではない。正直に限界を言う男は、限界を超えたときも淡々と切る。


「十分だ」


「十分ではないでしょう」


「それでも、今は十分だ」


 腹が減れば、人は次の五年の前に死ぬ。


 その単純な事実が、条約の善悪をいつも追い越す。





 調印は、そこからさらに六日後に決まった。


 宿舎へ戻る途中、ナーシャが珍しく何も言わなかった。石畳の足音だけが並ぶ。


 部屋に入ってから、ようやく口を開く。


「あんた、戻る前より嫌な顔してる」


「山で怒鳴られて、こっちで数えられた」


「どっちも嫌だね」


「嫌だ」


 椅子に腰を下ろす。冊子を机へ置いた音が妙に大きい。


「でも」


 ナーシャが冊子に触れた。紙には触れず、表紙の端を指で弾く。


「この中に、谷があるんでしょ。畑も、子供が寝る屋根も」


「ある」


 ナーシャは少し考えてから、頷いた。


「じゃあ署名しな」


「簡単に言うな」


「簡単じゃない。簡単じゃないから、あたしが言う」


 その言い方で、背中が少し軽くなる。結論そのものより、結論を一人で持たなくていい瞬間が軽い。


 冊子を開き、最後のページを見る。署名欄は空白だった。空白はいつも、埋める前がいちばん広く見える。


 折れた角の断面が、じくりと痛んだ。


 この文書に、二万人の命と引き換えに差し出すものの目録が書いてある。明日、その目録の下に自分の名を書く。


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