砕かれた計画
山へ戻る道で、馬を二頭潰した。
一頭目は夜明け前に脚を折り、二頭目は昼の峠で泡を吹いた。どちらにも礼を言う暇はなかった。鞍を外し、荷だけ移して、また走る。
ヴァルム山脈の空気は、ゼーレンより薄く冷たかった。夏でも、山の影は骨に入る。
見張りの若い兵が俺を見つけたとき、顔より先に安堵が崩れた。
「将軍」
「どこだ」
「南の見張り場です。もう整列が」
走った。脚が鉛だった。だが遅れたら終わる。
◇
南の見張り場には、三百より多く見えた。
実数は三百前後でも、武装した魔族が谷筋に詰まれば、それだけで圧になる。槍。弓。刃こぼれした大刀。乾いた怒り。全員が南を向いていた。向こうにいるのは、人間の巡回隊ではない。自分たちを追い詰めた冬と敗北と屈辱だ。
先頭にドラクがいた。
大刀を肩に担ぎ、こちらを見る。左の潰れた目の周りの古傷が、妙に白かった。
「戻ったか」
「戻った」
「早かったな。檻の見学は楽しかったか」
兵たちの何人かが笑った。笑いは軽くなかった。切っ先のように細い。
俺は列の前まで進んだ。高い場所ではない。同じ地面に立つ。群れの前では、上から命じるより、正面で言わなければならないときがある。
「出るな」
短く言った。
ざわめきが走る。
ドラクは大刀を肩から下ろした。
「理由を聞こうか」
「今ここで人間を斬れば、条約は破綻する」
「条約」
唾を吐き捨てるような声だった。
「谷に押し込められる紙切れのことか」
「その紙切れが、二万人の冬を越す」
「二万人」
ドラクは一歩前へ出た。
「いつも数だな、お前は。二万人。三百。十八平方キルタ。関税。査察。数字で腹は膨れるか」
「腹を膨らませるために言っている」
「誇りは」
「誇りだけでは子供は育たない」
その一言で空気が変わった。兵たちの中に、目を伏せた者がいた。洞窟で配給を待っていた家族持ちだ。ドラクの兵にも、子はいる。
ドラクはそれを見逃さなかった。
「子供を檻で育てるのか」
「山で飢えさせるよりましだ」
「まし、か」
低い笑い。
「お前はもう人間の言葉でしか比べられない」
大刀の切っ先が地面を擦った。
「巡回隊を一つ潰せば、あいつらは思い出す。山に魔族がいるとな。勝った気でいる奴らの鼻柱を折ってやる」
「それでどうなる」
「少なくとも、檻の扉に自分から頭は突っ込まん」
「その後は」
ドラクが答えない間に、俺は続けた。
「その後、殲滅派が兵を出す。アルベルトは止められない。山道は封鎖される。交易は消える。冬が来る。お前は死ねる。だが、子供と老人も一緒に死ぬ」
「脅しか」
「計算だ」
「同じだ」
違わない。計算は、たいてい誰かへの脅しになる。
兵たちの後ろで、誰かが小さく咳をした。その音が妙に遠く聞こえた。誰もが、言われた未来を想像している。
ドラクはそこで声を張った。
「聞いたか。こいつはもう勝つ話をしない。死に方の損得しか言わん」
何人かが頷いた。そうだろう。今の俺は、勝利ではなく存続の話しかしていない。
「だがそれでも」
俺は一歩踏み込んだ。
「今はそれでいい。勝てない戦で誇りよく死ぬより、嫌な生き方でも次を残す方がいい」
ドラクの肩が怒りでわずかに上がる。
「お前だけが生き残り方を知っている顔をするな」
「していない」
「してる」
大刀が少し持ち上がった。周囲の兵が息を呑む。
「谷に入れば終わりだ。鍛冶を出し、言葉を薄め、次は角だ。お前は一歩ごとに譲る。それを生き残りと呼ぶ」
「呼ぶ」
言い切った。ためらえば、ここで負ける。
「終わりを遅らせることにも意味はある。遅らせた時間で、子供は文字を覚える。鍬を打つ。言葉を残す。山で死ねば、そこで終わりだ」
「綺麗に言うな」
ドラクの声が割れた。
「お前は檻に入る痛みを、自分では払わん」
「払う」
「ゼーレンに何を置いてきた」
心臓が一拍だけ速くなる。
知っている。こいつは知っている。少なくとも匂いは嗅いでいる。
「副官を残した」
ざわめきが広がる。兵たちの目が動く。ナーシャを知る者は多い。
ドラクが笑った。今度は勝ち誇る笑いではなかった。苦い笑いだ。
「ほら見ろ。檻はもう噛んでる」
否定しなかった。否定できない。
そのとき、列の後方から杖の音が一度だけ響いた。
全員が振り返る。
ゾーラがいた。
石段を上がるだけで苦しいはずなのに、背筋だけはいつも通りまっすぐだった。象牙色の角が陽にくすみ、白く濁った目が兵たちを一人ずつ射抜いていく。
「大母」
誰かが呟く。
ゾーラはドラクの脇を見た。大刀より、その奥にいる兵たちを見る目だった。
「お前たち」
老いた声は大きくない。だが風より遠くまで届いた。
「怒っているな」
誰も答えない。
「当然だ。腹が減り、仲間が死に、負け、今度は谷に入れと言われている。怒るなというほうが無理だ」
そこで杖の先が地面を打つ。
「だが、お前たちの怒りは痛みだ」
ドラクの顎が強張る。
「痛みで戦略は立てられない」
「大母」
ドラクが低く唸る。
「あんたまで檻に入れと言うのか」
「言わん」
即答だった。
「入るかどうかは、ゼルドが決めた。お前が決めることではない。だが今ここで斬れば、決める前に終わる」
ドラクの拳が白くなる。
「終わっていない」
「終わらせる気か」
ゾーラの問いは、刃ではなく重石だった。
長い沈黙が落ちた。風が一つ吹き、槍の穂先が鳴る。
やがてドラクが大刀を下ろした。
屈服ではない。怒りを鞘に戻しただけの動きだった。
「今日は出ない」
兵たちの肩から、わずかに力が抜ける。
「だが、終わっていないぞ、ゼルド」
潰れた左目の周りの古傷が、さらに白く見えた。
「谷に入ってから、お前は毎日この続きを払う」
「わかってる」
「わかっていない」
ドラクは身を翻し、列を割って去った。何人かが迷いながら続き、何人かはその場に残った。三百を一つの意思にまとめていた縄が、今、別の方向に裂けた。
◇
兵が散った後、ゾーラは石に腰を下ろした。座る動作だけで、老いがはっきり見えた。
「無茶をしたな」
「知ってる」
「馬を二頭殺した顔だ」
そんな顔があるのかと思ったが、たぶんあるのだろう。
俺も近くの石に腰を下ろした。脚がようやく自分のものに戻る。
「止まった」
「今日はな」
ゾーラの目が細くなる。
「誰がドラクに交渉の細目を流した」
先に言われた。
「俺も同じことを考えていた」
「三百も集めるには、ただの怒りでは足りん。確かな火種が要る」
確かな火種。谷。査察。鍛冶。ナーシャ残留。山にいる誰かが、ゼーレンの空気を運んでいる。
「内にいる」
「いるだろう」
ゾーラは杖を膝に置いた。
「外の敵は数えられる。内の漏れは数えにくい。お前はそっちのほうが嫌いだろう」
その通りだった。
「戻る」
立ち上がる。
「ナーシャを置いてきた」
ゾーラが目を閉じた。
「あの子は怒っていたか」
「怒ってた」
「なら大丈夫だ」
山を下りる前に、一度だけ振り返った。南の見張り場にはもう兵の列はない。ただ、怒りが消えたわけでもない。
砕いたのは計画だけだ。痛みも恨みも、そのまま残っている。




