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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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23/29

砕かれた計画

 山へ戻る道で、馬を二頭潰した。


 一頭目は夜明け前に脚を折り、二頭目は昼の峠で泡を吹いた。どちらにも礼を言う暇はなかった。鞍を外し、荷だけ移して、また走る。


 ヴァルム山脈の空気は、ゼーレンより薄く冷たかった。夏でも、山の影は骨に入る。


 見張りの若い兵が俺を見つけたとき、顔より先に安堵が崩れた。


「将軍」


「どこだ」


「南の見張り場です。もう整列が」


 走った。脚が鉛だった。だが遅れたら終わる。





 南の見張り場には、三百より多く見えた。


 実数は三百前後でも、武装した魔族が谷筋に詰まれば、それだけで圧になる。槍。弓。刃こぼれした大刀。乾いた怒り。全員が南を向いていた。向こうにいるのは、人間の巡回隊ではない。自分たちを追い詰めた冬と敗北と屈辱だ。


 先頭にドラクがいた。


 大刀を肩に担ぎ、こちらを見る。左の潰れた目の周りの古傷が、妙に白かった。


「戻ったか」


「戻った」


「早かったな。檻の見学は楽しかったか」


 兵たちの何人かが笑った。笑いは軽くなかった。切っ先のように細い。


 俺は列の前まで進んだ。高い場所ではない。同じ地面に立つ。群れの前では、上から命じるより、正面で言わなければならないときがある。


「出るな」


 短く言った。


 ざわめきが走る。


 ドラクは大刀を肩から下ろした。


「理由を聞こうか」


「今ここで人間を斬れば、条約は破綻する」


「条約」


 唾を吐き捨てるような声だった。


「谷に押し込められる紙切れのことか」


「その紙切れが、二万人の冬を越す」


「二万人」


 ドラクは一歩前へ出た。


「いつも数だな、お前は。二万人。三百。十八平方キルタ。関税。査察。数字で腹は膨れるか」


「腹を膨らませるために言っている」


「誇りは」


「誇りだけでは子供は育たない」


 その一言で空気が変わった。兵たちの中に、目を伏せた者がいた。洞窟で配給を待っていた家族持ちだ。ドラクの兵にも、子はいる。


 ドラクはそれを見逃さなかった。


「子供を檻で育てるのか」


「山で飢えさせるよりましだ」


「まし、か」


 低い笑い。


「お前はもう人間の言葉でしか比べられない」


 大刀の切っ先が地面を擦った。


「巡回隊を一つ潰せば、あいつらは思い出す。山に魔族がいるとな。勝った気でいる奴らの鼻柱を折ってやる」


「それでどうなる」


「少なくとも、檻の扉に自分から頭は突っ込まん」


「その後は」


 ドラクが答えない間に、俺は続けた。


「その後、殲滅派が兵を出す。アルベルトは止められない。山道は封鎖される。交易は消える。冬が来る。お前は死ねる。だが、子供と老人も一緒に死ぬ」


「脅しか」


「計算だ」


「同じだ」


 違わない。計算は、たいてい誰かへの脅しになる。


 兵たちの後ろで、誰かが小さく咳をした。その音が妙に遠く聞こえた。誰もが、言われた未来を想像している。


 ドラクはそこで声を張った。


「聞いたか。こいつはもう勝つ話をしない。死に方の損得しか言わん」


 何人かが頷いた。そうだろう。今の俺は、勝利ではなく存続の話しかしていない。


「だがそれでも」


 俺は一歩踏み込んだ。


「今はそれでいい。勝てない戦で誇りよく死ぬより、嫌な生き方でも次を残す方がいい」


 ドラクの肩が怒りでわずかに上がる。


「お前だけが生き残り方を知っている顔をするな」


「していない」


「してる」


 大刀が少し持ち上がった。周囲の兵が息を呑む。


「谷に入れば終わりだ。鍛冶を出し、言葉を薄め、次は角だ。お前は一歩ごとに譲る。それを生き残りと呼ぶ」


「呼ぶ」


 言い切った。ためらえば、ここで負ける。


「終わりを遅らせることにも意味はある。遅らせた時間で、子供は文字を覚える。鍬を打つ。言葉を残す。山で死ねば、そこで終わりだ」


「綺麗に言うな」


 ドラクの声が割れた。


「お前は檻に入る痛みを、自分では払わん」


「払う」


「ゼーレンに何を置いてきた」


 心臓が一拍だけ速くなる。


 知っている。こいつは知っている。少なくとも匂いは嗅いでいる。


「副官を残した」


 ざわめきが広がる。兵たちの目が動く。ナーシャを知る者は多い。


 ドラクが笑った。今度は勝ち誇る笑いではなかった。苦い笑いだ。


「ほら見ろ。檻はもう噛んでる」


 否定しなかった。否定できない。


 そのとき、列の後方から杖の音が一度だけ響いた。


 全員が振り返る。


 ゾーラがいた。


 石段を上がるだけで苦しいはずなのに、背筋だけはいつも通りまっすぐだった。象牙色の角が陽にくすみ、白く濁った目が兵たちを一人ずつ射抜いていく。


「大母」


 誰かが呟く。


 ゾーラはドラクの脇を見た。大刀より、その奥にいる兵たちを見る目だった。


「お前たち」


 老いた声は大きくない。だが風より遠くまで届いた。


「怒っているな」


 誰も答えない。


「当然だ。腹が減り、仲間が死に、負け、今度は谷に入れと言われている。怒るなというほうが無理だ」


 そこで杖の先が地面を打つ。


「だが、お前たちの怒りは痛みだ」


 ドラクの顎が強張る。


「痛みで戦略は立てられない」


「大母」


 ドラクが低く唸る。


「あんたまで檻に入れと言うのか」


「言わん」


 即答だった。


「入るかどうかは、ゼルドが決めた。お前が決めることではない。だが今ここで斬れば、決める前に終わる」


 ドラクの拳が白くなる。


「終わっていない」


「終わらせる気か」


 ゾーラの問いは、刃ではなく重石だった。


 長い沈黙が落ちた。風が一つ吹き、槍の穂先が鳴る。


 やがてドラクが大刀を下ろした。


 屈服ではない。怒りを鞘に戻しただけの動きだった。


「今日は出ない」


 兵たちの肩から、わずかに力が抜ける。


「だが、終わっていないぞ、ゼルド」


 潰れた左目の周りの古傷が、さらに白く見えた。


「谷に入ってから、お前は毎日この続きを払う」


「わかってる」


「わかっていない」


 ドラクは身を翻し、列を割って去った。何人かが迷いながら続き、何人かはその場に残った。三百を一つの意思にまとめていた縄が、今、別の方向に裂けた。





 兵が散った後、ゾーラは石に腰を下ろした。座る動作だけで、老いがはっきり見えた。


「無茶をしたな」


「知ってる」


「馬を二頭殺した顔だ」


 そんな顔があるのかと思ったが、たぶんあるのだろう。


 俺も近くの石に腰を下ろした。脚がようやく自分のものに戻る。


「止まった」


「今日はな」


 ゾーラの目が細くなる。


「誰がドラクに交渉の細目を流した」


 先に言われた。


「俺も同じことを考えていた」


「三百も集めるには、ただの怒りでは足りん。確かな火種が要る」


 確かな火種。谷。査察。鍛冶。ナーシャ残留。山にいる誰かが、ゼーレンの空気を運んでいる。


「内にいる」


「いるだろう」


 ゾーラは杖を膝に置いた。


「外の敵は数えられる。内の漏れは数えにくい。お前はそっちのほうが嫌いだろう」


 その通りだった。


「戻る」


 立ち上がる。


「ナーシャを置いてきた」


 ゾーラが目を閉じた。


「あの子は怒っていたか」


「怒ってた」


「なら大丈夫だ」


 山を下りる前に、一度だけ振り返った。南の見張り場にはもう兵の列はない。ただ、怒りが消えたわけでもない。


 砕いたのは計画だけだ。痛みも恨みも、そのまま残っている。


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