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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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ドラクの剣

 北からの報せは、夕方に来た。


 評議会の書記が宿舎の扉を叩いたとき、ナーシャはもう立っていた。剣の柄に手を置き、俺より先に扉へ半歩出る。


「ヴァルム山脈方面から急報です」


 書記は巻いた羊皮紙を差し出した。封蝋はヘルマンの印だった。切る前から、いい内容ではないとわかった。急報は、だいたい字が急いでいる。


 開く。


 文は短かった。


 ドラク、南の見張り場を掌握。戦士三百前後。巡回隊襲撃の可能性。山内緊張。早急の対応乞う。


 喉の奥が乾いた。


「規模が出たな」


 ナーシャが言った。


「三百」


「あいつ、本気だ」


 書記は視線を上げないまま続けた。


「議長がお待ちです。今すぐ」





 アルベルトの執務室には、窓が二つあった。どちらも開いているのに、部屋の空気は重かった。


 机の上には、すでに同じ急報が置かれていた。アルベルトは眼鏡の位置を直しもせず、その紙を指で押さえている。


「確認します」


 声が低い。


「あなたの民が、三百規模で我が方の巡回隊を襲う準備をしている」


「まだ襲ってはいない」


「まだ、です」


 訂正はしなかった。そこが、この男の線引きだ。


「ここで攻撃が起きれば、殲滅派は待っていましたとばかりに条約を破棄しろと言うでしょう。今回は私も止め切れない」


「止める」


「どうやって」


 問われる前から決めていたような声が出た。


「山へ戻る」


 ナーシャが俺を見た。驚きではない。確認の目だ。


 アルベルトは椅子に深く座り直した。


「通常の隊列なら七日の距離です」


「評議会の継ぎ馬を潰せば、片道一日半まで縮む」


「それでも往復は限界ぎりぎりです」


「三日くれ」


 自分で言って、無茶だとわかる。だが無茶以外に残っていない。


 アルベルトは沈黙した。窓の外で荷車の車輪が石を鳴らす。その音だけが部屋を通った。


「三日で、行って、止めて、戻ると」


「戻る」


「戻れなければ」


「そのときは、切れ」


 ナーシャの視線が一瞬だけ刺さった。そういう言い方をするな、と言いたげな目だった。


 アルベルトはやっと眼鏡に触れた。


「合理的ではありません」


「承知している」


「ですが、他に手もない」


 指が眼鏡のフレームを押し上げる。


「三日です。それ以上は延ばしません」


「十分だ」


「まだ話は終わっていません」


 アルベルトの視線がナーシャへ動いた。


「誠意を見せていただく必要がある」


 部屋の空気がわずかに冷えた。


「どういう意味だ」


「あなたが山へ戻るなら、副官殿にはゼーレンに残ってもらう」


 ナーシャの顎が上がる。


「人質か」


「担保です」


「言い換えるな」


 アルベルトは怒りを買うことを承知の顔で続けた。


「あなた方が攻撃を選ばないと示すには、それしかない。副官殿がここにいる限り、あなたも軽率な命令は出せない」


 正しい。胸糞の悪い形で、正しい。


 ナーシャが剣の柄を握った。抜きはしない。抜けば全てが終わるからだ。


「私を残せば、あんたらは安心か」


「安心はしません。計算するだけです」


「それなら、こいつのやってることと同じだ」


 ナーシャは俺を見ずに言った。責めているのではない。事実として。


「残る」


 俺が言った。


 ナーシャの手が止まる。


「残ってくれ」


「命令?」


「頼む」


 初めて、そう言ったかもしれない。


 ナーシャはしばらく何も言わなかった。窓の外の光が少し傾く。街のざわめきが遠い。


「生きて戻ってこい」


 飾りのない声だった。


「戻る」


「戻れなかったら」


「そのときは」


「そのときは、あたしがあんたを呪う」


 それで話は終わった。慰めより、ずっといい。





 出立は夜になった。


 門を出る前、ナーシャと二人で馬屋の影に立った。人目が少ない場所を選んだつもりだったが、ゼーレンには完全な影などない。


「山に着いたら、まずドラク?」


「まずゾーラだ。まだ動けるなら、あの人の言葉で止まる」


「止まらなかったら」


「俺が止める」


 言い切る。群れの前でなくても、ここでは迷いを見せられない。こいつは、迷いより決断を欲しがる。


 ナーシャが短く息を吐いた。


「人間の街、嫌いだ」


「知ってる」


「でも残る。あんたが谷を選んだ意味が、三日で無駄になるのはもっと嫌だ」


 その言い方で、二人の間にあったものが少し変わった。護衛だけではない。副官だけでもない。谷の未来を、こいつは自分のものとして言った。


 俺は折れた角の断面に触れた。ざらつきは、出立のたびに少し鋭くなる気がする。


「帰ったら」


 言いかけて、止めた。


「何」


「いや。帰ってから言う」


 ナーシャは眉をひそめた。


「そういうの、嫌い」


「知ってる」


「じゃあ今言え」


 言えなかった。ここで言葉にしたら、三日で戻れなかったとき、その言葉だけが残る。


「帰ってからだ」


 ナーシャは諦めたように肩を落とし、次の瞬間にはいつもの顔に戻った。


「なら帰ってこい」


 門が開く。


 馬腹を蹴った。石畳の音が土の道に変わり、ゼーレンの灯りが背後へ流れていく。


 三日で往復しなければ、全てが終わる。


 前を向いた。北へ。山へ。


 帰ってから言う言葉が、まだ喉の奥に残っている。それを届けるために走る。ドラクの剣より先に。


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