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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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角つきの商人

 返答は、その日の午前で終えた。


 受諾。だが無条件ではない。交易権の保証、生活必需品の関税率の明文化、自治評価基準の共同起草。檻に入るなら、格子の幅をこちらも測る。


 山からの急報は、その後まだ一通も増えていない。


 三十か。五十か。もう三百か。曖昧なままなのが、いちばん悪い。


 アルベルトは書面を受け取り、眼鏡の位置を一度だけ直した。


「今日中には返しません。商人代表と法務官を通します」


「待つ」


「外出は構いません。ただし城壁の内側で」


 許可ではなく管理だった。だが断る理由はない。宿舎に戻って待てば、考えは同じところを回り続ける。山で誰かが剣を抜いたかもしれない、その一点を。





 昼のゼーレン市場は、朝とは別の街だった。


 果物を積んだ荷車。干した魚の匂い。鍛冶屋の槌音。人間たちは忙しく、忙しいときだけはこちらを露骨に見ない。見ないふりをしながら、道だけ少し空ける。


 ナーシャが半歩前に出た。


「東側は鍛冶屋が多い」


「匂いでわかるか」


「音でわかる」


 剣の柄のそばに置いた手はそのまま、視線だけが通りを舐めていく。市場でも、こいつは戦場の歩き方を崩さない。


 鉄の匂いを辿っていくと、小さな露店が並ぶ一角に出た。留め金、包丁、針、蹄鉄。派手な品はない。だが手に取れば、重さの配分がいいとわかる。使うための鉄だ。


 店番の男が顔を上げた。


 布を額に巻いている。夏の汗除けに見えた。灰色がかった肌は粉で薄められ、耳も髪で隠している。だが、布の端が動いたとき、こめかみの上に短い隆起が見えた。角だ。根元だけ残したような、低い角。


 男は俺の視線に気づくと、口の端だけで笑った。


「珍しいか」


 人間の発音だった。だが語尾の沈み方に、ドゥルグ語の癖が残っている。


「いや」


「嘘だな。あんた、こっち側だろ」


 ナーシャの肩がわずかに動いた。男はそれを見ても怯えなかった。慣れている顔だった。


「騒がないの」


「騒いだら客が減る」


 男は針を一束、卓に並べ直した。指先の動きが速い。値札も、包み方も、無駄がない。


「半魔か」


「そう呼ぶ奴もいる」


「他には」


「角つき。灰膚。雑種。土地で違う」


 言いながら、男は隣の女客に笑って銅貨を受け取った。女は布の下を見ない。見えていて、見ない。そういう取引だった。


「売れるのか」


「売れるようにしてる」


 男は女が離れてから、布の端を指で押さえた。


「見せたら売れない。だから隠す。粉を塗る。髪を伸ばす。角が高けりゃ削る。名前も土地に合わせる。それだけだ」


 それだけ、と言った声には、誇りも恥もなかった。水を汲む手順を話すのと同じ響きだった。


 ナーシャが低く言った。


「それで生きてるつもりか」


 男は初めてナーシャを正面から見た。短い髪の隙間から覗く螺旋の角、灰色の肌、隠す気のない目つき。人間の街に立ちながら、谷にも市場にも馴染まない女だ。


「生きてるよ」


「何を残して?」


「飯を」


 即答だった。


「あと借りのない寝床。冬を越す薪。明日の仕入れ」


 ナーシャの口元が硬くなる。


「言葉は」


「忘れてない」


「角は」


 男は肩をすくめた。


「生え方次第だな」


 そこで初めて、布の下の形が見えた。高く伸びる前に削ったのだろう。根元だけが皮膚の下で不自然に膨らんでいる。


 将軍の記憶が、その痛みを知っていた。角を折る痛み。共鳴が遠のく痛み。群れの音が薄くなる痛み。


「子供もいるのか」


「二人」


 男は針の束を麻紐でくくり直した。


「上は耳が丸い。下は小さい角が出始めた」


「隠すのか」


「本人が決める」


 答えが早すぎて、前から何度も聞かれてきたのだとわかった。


「選べるだけのものが、残るか」


 自分でも、問いの形で口から出るとは思っていなかった。


 男は麻紐を引く手を止めなかった。


「残せるなら大したもんだ」


「俺が決めたのは、ここまでだ。飯が途切れないようにするところまで」


 その言い方に、ゾーラの言葉とは別の重さがあった。贖罪でも誇りでもない。生活の重さだ。


「戦前からここに?」


「戦前は南の街道。戦後にゼーレンだ。どっちでもやることは同じだよ。人間は値切る。魔族はまとめ買いする。税吏は面倒だ」


 男はそこで笑った。商人の笑いだった。


「あんたら、谷に入るんだってな」


 背中の筋肉がわずかに硬くなった。山からの急報は曖昧でも、谷入りの噂はもう流れている。どちらが先に街を走ったのか、考えたくなかった。


「誰から聞いた」


「市場」


 男は鼻で笑う。


「評議会より早いよ、この街は」


 それはそうだろうと思った。条文より先に、値札が動く。


「残したいんだろ、角も、言葉も、鍛冶も」


「残したい」


「立派だ」


 立派。そんな言葉で片づく話ではない。だが男は本気で茶化していなかった。


「でもな」


 男は声を少しだけ落とした。


「あんたの子供は、自分で選ぶよ」


 まだいない子供の顔は浮かばなかった。代わりに、洞窟で配給の列に並ぶ子供たちの手が浮かんだ。細い指。煤けた爪。角の生え際を掻く癖。


 男はそれ以上何も言わず、次の客に向き直った。話は終わりだという顔だった。





 評議会の応接室に戻ると、アルベルトの他に商人代表が二人いた。片方は本会議で鍛冶技術の話に最も強く食いついた実利派の男だ。もう一人は帳簿を抱えた女で、こちらを見る目が秤のように冷たい。


「市場はどうでした」


 アルベルトが訊いた。


「よく回っている」


「それは結構」


 眼鏡の奥の目が、続きを待っていた。


 折れた角の断面を親指でなぞる。考えるときの癖は、もう隠さなかった。


「交易条項だ。鉄鉱石じゃない。加工品で出す」


 帳簿の女が顔を上げた。


「具体的には」


「釘、鍬、包丁、蹄鉄、荷車の輪留め。戦場の鉄ではなく、冬を越すための鉄だ。ヴァルム山脈の鉱は炭の入り方に癖がある。硬くしすぎず、粘りを残せる」


「その技術を誰が担保する?」


「鍛冶師を名簿化する。流通量も月ごとに出す。必要なら検印も受ける」


 言いながら、胃のあたりが少しだけ重くなる。名簿。検印。どの鍛冶師が何を打てるかを、向こうの帳面にも載せるということだ。条約はそういう言葉で現実になる。


 数えられる。測られる。必要なら切り分けられる。


 だが、現実にしなければ二万人は冬を越えられない。


 実利派の男が指先で机を叩いた。


「関税を払っても利益は出るか」


「生活必需品の関税率次第だ。だから明文化を求めた」


「武器を紛れ込ませる」


 帳簿の女が言った。


「やらない」


「保証は」


「そちらも査察を持っている」


「名簿があれば、必要になったとき職人だけ抜き出せる」


 女は帳簿を閉じた。


「こちらにとっては便利だ」


 ナーシャの気配が、扉の外で硬くなった気がした。


「わかって言っているのですね」


「わかっている」


 喉が少しだけ熱くなる。


「畑だけでは二万人は抱えきれない。名簿に載るのが嫌でも、腹が減れば選ぶ前に死ぬ」


 アルベルトがそこで口を開いた。


「合理的です」


 その一言で、部屋の空気が少しだけ動いた。


「農地だけでは二万人を抱えきれない。交易がなければ、ハルト谷は遅れて破綻する。破綻した居住地は、治安問題になる」


 商人代表が頷く。アルベルトは頷かなかった。彼はもう一歩先まで言う。


「商業は最良の和平条約だ」


 前に聞いたことのない言葉だった。だがこの男なら言う。


「利害が続く限り、双方に相手を今日殺さない理由が残る」


「明日も、だ」


 俺が言うと、アルベルトはほんのわずかに口元を動かした。


「原則合意としましょう。細目は詰める」


 それで十分だった。今日必要なのは、前に進むことだけだ。


 応接室を出ると、廊下の窓から西日が差していた。ナーシャが壁から背を離す。


「通った?」


「原則だけ」


「十分」


「十分じゃない」


 言ってから、自分でも声が硬いのがわかった。


「あいつが言った通りだ。名簿に名前が載れば、必要なとき鍛冶師だけ抜き出せる」


 ナーシャは少しだけ黙った。怒鳴らなかった。そこが余計にきつい。


「でも、数えられなきゃ飢える」


「わかってる」


「わかってて、通したんでしょ」


 その言い方は、前よりも少し商売人に近かった。ゼーレンに来てから、こいつも言葉の選び方が変わってきている。


 階段を下りながら、市場の男の声がまだ耳の奥に残っていた。


 角を残したいのは立派だ。


 でも、あんたの子供は自分で選ぶよ。


 まだいない子供のことが、階段を下りてからも消えなかった。


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