角つきの商人
返答は、その日の午前で終えた。
受諾。だが無条件ではない。交易権の保証、生活必需品の関税率の明文化、自治評価基準の共同起草。檻に入るなら、格子の幅をこちらも測る。
山からの急報は、その後まだ一通も増えていない。
三十か。五十か。もう三百か。曖昧なままなのが、いちばん悪い。
アルベルトは書面を受け取り、眼鏡の位置を一度だけ直した。
「今日中には返しません。商人代表と法務官を通します」
「待つ」
「外出は構いません。ただし城壁の内側で」
許可ではなく管理だった。だが断る理由はない。宿舎に戻って待てば、考えは同じところを回り続ける。山で誰かが剣を抜いたかもしれない、その一点を。
◇
昼のゼーレン市場は、朝とは別の街だった。
果物を積んだ荷車。干した魚の匂い。鍛冶屋の槌音。人間たちは忙しく、忙しいときだけはこちらを露骨に見ない。見ないふりをしながら、道だけ少し空ける。
ナーシャが半歩前に出た。
「東側は鍛冶屋が多い」
「匂いでわかるか」
「音でわかる」
剣の柄のそばに置いた手はそのまま、視線だけが通りを舐めていく。市場でも、こいつは戦場の歩き方を崩さない。
鉄の匂いを辿っていくと、小さな露店が並ぶ一角に出た。留め金、包丁、針、蹄鉄。派手な品はない。だが手に取れば、重さの配分がいいとわかる。使うための鉄だ。
店番の男が顔を上げた。
布を額に巻いている。夏の汗除けに見えた。灰色がかった肌は粉で薄められ、耳も髪で隠している。だが、布の端が動いたとき、こめかみの上に短い隆起が見えた。角だ。根元だけ残したような、低い角。
男は俺の視線に気づくと、口の端だけで笑った。
「珍しいか」
人間の発音だった。だが語尾の沈み方に、ドゥルグ語の癖が残っている。
「いや」
「嘘だな。あんた、こっち側だろ」
ナーシャの肩がわずかに動いた。男はそれを見ても怯えなかった。慣れている顔だった。
「騒がないの」
「騒いだら客が減る」
男は針を一束、卓に並べ直した。指先の動きが速い。値札も、包み方も、無駄がない。
「半魔か」
「そう呼ぶ奴もいる」
「他には」
「角つき。灰膚。雑種。土地で違う」
言いながら、男は隣の女客に笑って銅貨を受け取った。女は布の下を見ない。見えていて、見ない。そういう取引だった。
「売れるのか」
「売れるようにしてる」
男は女が離れてから、布の端を指で押さえた。
「見せたら売れない。だから隠す。粉を塗る。髪を伸ばす。角が高けりゃ削る。名前も土地に合わせる。それだけだ」
それだけ、と言った声には、誇りも恥もなかった。水を汲む手順を話すのと同じ響きだった。
ナーシャが低く言った。
「それで生きてるつもりか」
男は初めてナーシャを正面から見た。短い髪の隙間から覗く螺旋の角、灰色の肌、隠す気のない目つき。人間の街に立ちながら、谷にも市場にも馴染まない女だ。
「生きてるよ」
「何を残して?」
「飯を」
即答だった。
「あと借りのない寝床。冬を越す薪。明日の仕入れ」
ナーシャの口元が硬くなる。
「言葉は」
「忘れてない」
「角は」
男は肩をすくめた。
「生え方次第だな」
そこで初めて、布の下の形が見えた。高く伸びる前に削ったのだろう。根元だけが皮膚の下で不自然に膨らんでいる。
将軍の記憶が、その痛みを知っていた。角を折る痛み。共鳴が遠のく痛み。群れの音が薄くなる痛み。
「子供もいるのか」
「二人」
男は針の束を麻紐でくくり直した。
「上は耳が丸い。下は小さい角が出始めた」
「隠すのか」
「本人が決める」
答えが早すぎて、前から何度も聞かれてきたのだとわかった。
「選べるだけのものが、残るか」
自分でも、問いの形で口から出るとは思っていなかった。
男は麻紐を引く手を止めなかった。
「残せるなら大したもんだ」
「俺が決めたのは、ここまでだ。飯が途切れないようにするところまで」
その言い方に、ゾーラの言葉とは別の重さがあった。贖罪でも誇りでもない。生活の重さだ。
「戦前からここに?」
「戦前は南の街道。戦後にゼーレンだ。どっちでもやることは同じだよ。人間は値切る。魔族はまとめ買いする。税吏は面倒だ」
男はそこで笑った。商人の笑いだった。
「あんたら、谷に入るんだってな」
背中の筋肉がわずかに硬くなった。山からの急報は曖昧でも、谷入りの噂はもう流れている。どちらが先に街を走ったのか、考えたくなかった。
「誰から聞いた」
「市場」
男は鼻で笑う。
「評議会より早いよ、この街は」
それはそうだろうと思った。条文より先に、値札が動く。
「残したいんだろ、角も、言葉も、鍛冶も」
「残したい」
「立派だ」
立派。そんな言葉で片づく話ではない。だが男は本気で茶化していなかった。
「でもな」
男は声を少しだけ落とした。
「あんたの子供は、自分で選ぶよ」
まだいない子供の顔は浮かばなかった。代わりに、洞窟で配給の列に並ぶ子供たちの手が浮かんだ。細い指。煤けた爪。角の生え際を掻く癖。
男はそれ以上何も言わず、次の客に向き直った。話は終わりだという顔だった。
◇
評議会の応接室に戻ると、アルベルトの他に商人代表が二人いた。片方は本会議で鍛冶技術の話に最も強く食いついた実利派の男だ。もう一人は帳簿を抱えた女で、こちらを見る目が秤のように冷たい。
「市場はどうでした」
アルベルトが訊いた。
「よく回っている」
「それは結構」
眼鏡の奥の目が、続きを待っていた。
折れた角の断面を親指でなぞる。考えるときの癖は、もう隠さなかった。
「交易条項だ。鉄鉱石じゃない。加工品で出す」
帳簿の女が顔を上げた。
「具体的には」
「釘、鍬、包丁、蹄鉄、荷車の輪留め。戦場の鉄ではなく、冬を越すための鉄だ。ヴァルム山脈の鉱は炭の入り方に癖がある。硬くしすぎず、粘りを残せる」
「その技術を誰が担保する?」
「鍛冶師を名簿化する。流通量も月ごとに出す。必要なら検印も受ける」
言いながら、胃のあたりが少しだけ重くなる。名簿。検印。どの鍛冶師が何を打てるかを、向こうの帳面にも載せるということだ。条約はそういう言葉で現実になる。
数えられる。測られる。必要なら切り分けられる。
だが、現実にしなければ二万人は冬を越えられない。
実利派の男が指先で机を叩いた。
「関税を払っても利益は出るか」
「生活必需品の関税率次第だ。だから明文化を求めた」
「武器を紛れ込ませる」
帳簿の女が言った。
「やらない」
「保証は」
「そちらも査察を持っている」
「名簿があれば、必要になったとき職人だけ抜き出せる」
女は帳簿を閉じた。
「こちらにとっては便利だ」
ナーシャの気配が、扉の外で硬くなった気がした。
「わかって言っているのですね」
「わかっている」
喉が少しだけ熱くなる。
「畑だけでは二万人は抱えきれない。名簿に載るのが嫌でも、腹が減れば選ぶ前に死ぬ」
アルベルトがそこで口を開いた。
「合理的です」
その一言で、部屋の空気が少しだけ動いた。
「農地だけでは二万人を抱えきれない。交易がなければ、ハルト谷は遅れて破綻する。破綻した居住地は、治安問題になる」
商人代表が頷く。アルベルトは頷かなかった。彼はもう一歩先まで言う。
「商業は最良の和平条約だ」
前に聞いたことのない言葉だった。だがこの男なら言う。
「利害が続く限り、双方に相手を今日殺さない理由が残る」
「明日も、だ」
俺が言うと、アルベルトはほんのわずかに口元を動かした。
「原則合意としましょう。細目は詰める」
それで十分だった。今日必要なのは、前に進むことだけだ。
応接室を出ると、廊下の窓から西日が差していた。ナーシャが壁から背を離す。
「通った?」
「原則だけ」
「十分」
「十分じゃない」
言ってから、自分でも声が硬いのがわかった。
「あいつが言った通りだ。名簿に名前が載れば、必要なとき鍛冶師だけ抜き出せる」
ナーシャは少しだけ黙った。怒鳴らなかった。そこが余計にきつい。
「でも、数えられなきゃ飢える」
「わかってる」
「わかってて、通したんでしょ」
その言い方は、前よりも少し商売人に近かった。ゼーレンに来てから、こいつも言葉の選び方が変わってきている。
階段を下りながら、市場の男の声がまだ耳の奥に残っていた。
角を残したいのは立派だ。
でも、あんたの子供は自分で選ぶよ。
まだいない子供のことが、階段を下りてからも消えなかった。




