谷か、山か
翌朝、夜が明ける前に宿を出た。
返答まで三日。そのうち一日を、何も聞けないまま捨てる気はなかった。
石畳はまだ冷えていた。ゼーレンの城壁は薄青い空を背にして、黒い輪郭だけを見せている。人通りはない。パン屋の煙突から最初の煙が上がり始めたばかりだった。
ナーシャが半歩後ろを歩いていた。剣は背に回し、右手だけが柄の近くにあった。
「どこまで行く」
「城壁の外だ」
「見張りは?」
「まだ交代前だ。商人が早出するときに使う南門がある」
昨夜のうちに見ておいた。ゼーレンには、朝市の荷車を先に通す小門がある。人の目が少なく、門番も眠そうだ。
門を出ると、街道の南に低い丘があった。草が短く、石が多い。ヴァルム山脈は北だ。ここからでは見えない。だが方角だけは、将軍の体が覚えていた。
丘の中腹で足を止めた。
「ここでやる」
ナーシャが周囲を見回した。髪の後ろを一度掻き、すぐに手を下ろした。
「人はいない。でも、長くは無理」
「わかってる」
昨夜の失敗は、距離だけの問題じゃなかった。石の宿舎は共鳴を鈍らせ、街のざわめきは山の声を沈める。
もう一つ理由がある。届いてしまえば、返事が返ってくる。返事が返ってくれば、答えを聞かされる。
折れた角の断面を親指でなぞった。ざらついた感触が、考えを一本にする。
意識を北へ向けた。山の方角。ヴァルム山脈。洞窟群。石積み。焚き火。記録台。配給の列。ゾーラの杖。ドラクの刃こぼれした大刀。
共鳴を送る。
最初は何もなかった。頭の中は静かなまま。遠すぎる。やはり無理かと思ったとき、断面の奥が微かに震えた。
びり、と一度。
顔を上げた。
「来た」
ナーシャが振り向いた。剣の柄に置いていた手が止まる。
もう一度。今度は少し長い。意味はまだ取れない。方向だけ。北から、細い糸のような振動が伸びてくる。
中継だ。
山岳戦で使った通信の形が頭に浮かんだ。角の大きい兵を何人も繋ぎ、声を渡していく。山から山へ。尾根から尾根へ。人間の目がない場所だけを選んで。昨夜届かなかったのは、向こうがこちらの位置を定めきれなかったからだ。今朝は違う。向こうも探している。
振動が三度目に来たとき、言葉の輪郭が生まれた。
『……るか』
男の声。若い。ヨルンだ。
『聞こえ……か。将軍』
「聞こえる」
声に出した。共鳴で返せる精度はない。だがナーシャが俺の口を読み、位置をずらしながら角を立てた。補助している。完全ではないが、これでわずかに通る。
『中継……六人。長くは保たない』
六人。よく繋いだ。尾根ごとに一人置いたのだろう。山の朝を、俺のために使わせている。
「山は」
短く問う。長く言えば切れる。
ノイズが混じった。砂を噛むようなざらつき。誰かの息。遠くの風。
『ゾーラ様……いる』
胸の奥が一拍だけ速くなった。
次の振動は、老いた声の形をして届いた。
『聞こえるかい、ゼルド』
ゾーラ。
頭の中ではなく、骨の内側に声が落ちてくる感覚だった。弱い。だが間違えようがない。
「聞こえる」
『なら聞け。長くは持たない』
杖の先で地面を叩く姿が浮かんだ。姿は見えないのに、そうとわかる。
『谷は檻だ』
ノイズ。
『だが……檻は狼も防ぐ』
ナーシャが横で息を止めたのがわかった。
『山は自由だ。自由だが、腹は満たさん。子は冬に死ぬ。檻に入れば、角は削られるかもしれん。言葉は薄くなるかもしれん。だが冬は越せる』
途中で何度か途切れた。誰かが中継で息を繋ぎ直している。六人で七日の距離を縮めるには、言葉を削るしかない。
「受けろと?」
短く返す。
間があった。共鳴の遅れではない。ゾーラが考えている間だ。
『お前が決めろ』
即答ではなかった。そこがゾーラらしい。
『ただし覚えておけ。檻に入るとは、守られることじゃない。檻の形を、向こうに決められることだ』
それでも、と続くはずだった。
だがその前に、荒い振動が割り込んだ。
『俺は行かん』
低い声。鈍い怒気。ドラク。
ナーシャの肩が動いた。
『檻になど入らん。山で死ぬほうがましだ』
言葉が明瞭すぎた。怒りは共鳴を強くする。将軍の記憶がそう告げる。
「子供もか」
口から出た。考える前に出ていた。
途切れ。次に来た声は、怒鳴り声ではなかった。
『子供を檻で育てるのか』
問いだった。
ブラウ村の男の目が脳裏を過った。檻。谷。管理。査察。関税。教育条項。五条。正しい怒り。正しい恐怖。正しい不信。正しい実利。
どれも正しい。だから重い。
『お前は人間の言葉で考えすぎる』
ドラクの声が軋んだ。
『谷に入れば終わりだ。鍛冶を差し出し、言葉を差し出し、次は角だ。終わりはいつも少しずつ来る』
『行きたい奴は行け。俺は止めん。だが俺と残る奴もいる』
反論できなかった。反論の材料はある。段階的自治。住居除外。教育条項への修正。交易。だがドラクが言っているのもまた、先の話としては正しい。終わりはいつも少しずつ来る。
ゾーラが割って入った。
『ドラク』
短い一言だった。だが石より重かった。
それきり、数秒、共鳴が乱れた。向こうで何か言い合っているのかもしれない。言葉にはならない。ただ硬い感情だけが、断面の奥を擦った。
ナーシャが低く言った。
「聞けたでしょ」
「聞けた」
「じゃあ、あとはあんたの番」
その通りだった。ゾーラは決めろと言った。ドラクは拒んだ。ナーシャは昨夜、もう答えを出していた。
俺の答えだけが、まだ言葉になっていない。
◇
丘を下りず、そのまま石の上に座った。ナーシャは少し離れて立ち、南門の方を見ていた。見張りが来たらすぐわかる位置だ。
前世の記憶を辿った。
囲われた居住地の写真を見たことがある。板塀の向こうに痩せた子供が立ち、雪の上に足跡が薄く続いていた。山を追われた民の証言録も読んだ。言葉を失い、孫の代で自分たちの歌の意味がわからなくなったと書いてあった。逆に、土地を持てないまま散った集団の記録は、地図の上ではすぐ薄くなった。
教科書は、その全部を一枚の図にまとめる。境界線と年号と人口の増減。だが図の上に、冬は来ない。
山の冬を知っているのは、この体だ。配給の列で足を引きずる老人。凍えた子供の指。干し肉を半分に割って黙る母親。雪の夜、洞窟の奥で咳を噛み殺す音。
山に残れば誇りは守れるかもしれない。少なくとも、すぐには檻に入らない。だが腹は満たせない。春を越えても、その次の冬が来る。
谷に入れば管理される。査察が来る。条文で守ったつもりの一行も、次の五年で削られるかもしれない。角の研究も進む。ドラクの言う通り、終わりは少しずつ来る。
だが、谷には畑がある。壁がある。市場に繋がる道がある。学校を建てる余地がある。子供が冬を越える確率が、山より高い。
その一点だけが、他の全てより重かった。
「ナーシャ」
「何」
「お前は昨日、子供は育てられるかと聞いたな」
「聞いた」
「あれが答えだった」
ナーシャがこちらを見た。背筋が伸びる。
「山で誇りを守って死ぬより、谷で削られながら次を残す」
「うん」
「受ける」
言葉にした瞬間、軽くはならなかった。軽くなる決断ではない。ただ、形が定まった。
「ただ受けるだけじゃない」
折れた角の断面をもう一度なぞった。考える。削られる前に、削られにくくする。
「交易権の保証を文言に固定する。生活必需品の関税率も曖昧にしない。自治の評価基準も、共同起草で明文化する。谷に入るなら、檻の格子の幅をこちらも決める」
ナーシャが数歩寄ってきた。
「アルベルトは呑む?」
「全部は呑まない。だが一部は呑む。ここまで条文を詰めた以上、向こうも曖昧さの危険はわかっている」
「じゃあ、言えばいい」
簡単に言う。だが、だからこそ揺れない。
誰のためだ。
ゾーラの問いが、少しだけ形を変えた。
二万人のため、では足りない。歴史のため、でも足りない。俺自身の贖罪でも足りない。
冬を越す子供のためだ。
それは哲学ではなく、ナーシャの問いの形を借りた答えだった。美しくはない。だが自分の口で言える。
そのとき、断面がまた震えた。
不意打ちのような振動だった。俺もナーシャも同時に空を見た。北の空は白み始めている。中継を解いたはずなのに、細い糸がまだ残っていた。
『将軍』
ヨルン。息が荒い。
『追って……伝える』
「何だ」
ノイズが混じる。遠くで誰かが怒鳴っている。今度は声ではなく、感情の濁りが先に来た。苛立ち。焦り。刃を抜く前の空気。
『ドラクが……兵を集めてる』
胸の奥で何かが沈んだ。
『南の見張り場に……三十……いや、もっと』
数字が揺れた。中継が崩れかけている。
『止めてはいる。だが……』
そこで途切れた。
もう一度来るかと待ったが、来なかった。断面の奥は静かに戻った。静かすぎる頭の中。さっきまでそこにあった糸が、切れている。
ナーシャが先に動いた。剣の柄を握る。
「黙ってなかった」
「ああ」
三日あると思っていた。
だが山は、三日も待たないかもしれない。




