表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/29

谷か、山か

 翌朝、夜が明ける前に宿を出た。


 返答まで三日。そのうち一日を、何も聞けないまま捨てる気はなかった。


 石畳はまだ冷えていた。ゼーレンの城壁は薄青い空を背にして、黒い輪郭だけを見せている。人通りはない。パン屋の煙突から最初の煙が上がり始めたばかりだった。


 ナーシャが半歩後ろを歩いていた。剣は背に回し、右手だけが柄の近くにあった。


「どこまで行く」


「城壁の外だ」


「見張りは?」


「まだ交代前だ。商人が早出するときに使う南門がある」


 昨夜のうちに見ておいた。ゼーレンには、朝市の荷車を先に通す小門がある。人の目が少なく、門番も眠そうだ。


 門を出ると、街道の南に低い丘があった。草が短く、石が多い。ヴァルム山脈は北だ。ここからでは見えない。だが方角だけは、将軍の体が覚えていた。


 丘の中腹で足を止めた。


「ここでやる」


 ナーシャが周囲を見回した。髪の後ろを一度掻き、すぐに手を下ろした。


「人はいない。でも、長くは無理」


「わかってる」


 昨夜の失敗は、距離だけの問題じゃなかった。石の宿舎は共鳴を鈍らせ、街のざわめきは山の声を沈める。


 もう一つ理由がある。届いてしまえば、返事が返ってくる。返事が返ってくれば、答えを聞かされる。


 折れた角の断面を親指でなぞった。ざらついた感触が、考えを一本にする。


 意識を北へ向けた。山の方角。ヴァルム山脈。洞窟群。石積み。焚き火。記録台。配給の列。ゾーラの杖。ドラクの刃こぼれした大刀。


 共鳴を送る。


 最初は何もなかった。頭の中は静かなまま。遠すぎる。やはり無理かと思ったとき、断面の奥が微かに震えた。


 びり、と一度。


 顔を上げた。


「来た」


 ナーシャが振り向いた。剣の柄に置いていた手が止まる。


 もう一度。今度は少し長い。意味はまだ取れない。方向だけ。北から、細い糸のような振動が伸びてくる。


 中継だ。


 山岳戦で使った通信の形が頭に浮かんだ。角の大きい兵を何人も繋ぎ、声を渡していく。山から山へ。尾根から尾根へ。人間の目がない場所だけを選んで。昨夜届かなかったのは、向こうがこちらの位置を定めきれなかったからだ。今朝は違う。向こうも探している。


 振動が三度目に来たとき、言葉の輪郭が生まれた。


『……るか』


 男の声。若い。ヨルンだ。


『聞こえ……か。将軍』


「聞こえる」


 声に出した。共鳴で返せる精度はない。だがナーシャが俺の口を読み、位置をずらしながら角を立てた。補助している。完全ではないが、これでわずかに通る。


『中継……六人。長くは保たない』


 六人。よく繋いだ。尾根ごとに一人置いたのだろう。山の朝を、俺のために使わせている。


「山は」


 短く問う。長く言えば切れる。


 ノイズが混じった。砂を噛むようなざらつき。誰かの息。遠くの風。


『ゾーラ様……いる』


 胸の奥が一拍だけ速くなった。


 次の振動は、老いた声の形をして届いた。


『聞こえるかい、ゼルド』


 ゾーラ。


 頭の中ではなく、骨の内側に声が落ちてくる感覚だった。弱い。だが間違えようがない。


「聞こえる」


『なら聞け。長くは持たない』


 杖の先で地面を叩く姿が浮かんだ。姿は見えないのに、そうとわかる。


『谷は檻だ』


 ノイズ。


『だが……檻は狼も防ぐ』


 ナーシャが横で息を止めたのがわかった。


『山は自由だ。自由だが、腹は満たさん。子は冬に死ぬ。檻に入れば、角は削られるかもしれん。言葉は薄くなるかもしれん。だが冬は越せる』


 途中で何度か途切れた。誰かが中継で息を繋ぎ直している。六人で七日の距離を縮めるには、言葉を削るしかない。


「受けろと?」


 短く返す。


 間があった。共鳴の遅れではない。ゾーラが考えている間だ。


『お前が決めろ』


 即答ではなかった。そこがゾーラらしい。


『ただし覚えておけ。檻に入るとは、守られることじゃない。檻の形を、向こうに決められることだ』


 それでも、と続くはずだった。


 だがその前に、荒い振動が割り込んだ。


『俺は行かん』


 低い声。鈍い怒気。ドラク。


 ナーシャの肩が動いた。


『檻になど入らん。山で死ぬほうがましだ』


 言葉が明瞭すぎた。怒りは共鳴を強くする。将軍の記憶がそう告げる。


「子供もか」


 口から出た。考える前に出ていた。


 途切れ。次に来た声は、怒鳴り声ではなかった。


『子供を檻で育てるのか』


 問いだった。


 ブラウ村の男の目が脳裏を過った。檻。谷。管理。査察。関税。教育条項。五条。正しい怒り。正しい恐怖。正しい不信。正しい実利。


 どれも正しい。だから重い。


『お前は人間の言葉で考えすぎる』


 ドラクの声が軋んだ。


『谷に入れば終わりだ。鍛冶を差し出し、言葉を差し出し、次は角だ。終わりはいつも少しずつ来る』


『行きたい奴は行け。俺は止めん。だが俺と残る奴もいる』


 反論できなかった。反論の材料はある。段階的自治。住居除外。教育条項への修正。交易。だがドラクが言っているのもまた、先の話としては正しい。終わりはいつも少しずつ来る。


 ゾーラが割って入った。


『ドラク』


 短い一言だった。だが石より重かった。


 それきり、数秒、共鳴が乱れた。向こうで何か言い合っているのかもしれない。言葉にはならない。ただ硬い感情だけが、断面の奥を擦った。


 ナーシャが低く言った。


「聞けたでしょ」


「聞けた」


「じゃあ、あとはあんたの番」


 その通りだった。ゾーラは決めろと言った。ドラクは拒んだ。ナーシャは昨夜、もう答えを出していた。


 俺の答えだけが、まだ言葉になっていない。





 丘を下りず、そのまま石の上に座った。ナーシャは少し離れて立ち、南門の方を見ていた。見張りが来たらすぐわかる位置だ。


 前世の記憶を辿った。


 囲われた居住地の写真を見たことがある。板塀の向こうに痩せた子供が立ち、雪の上に足跡が薄く続いていた。山を追われた民の証言録も読んだ。言葉を失い、孫の代で自分たちの歌の意味がわからなくなったと書いてあった。逆に、土地を持てないまま散った集団の記録は、地図の上ではすぐ薄くなった。


 教科書は、その全部を一枚の図にまとめる。境界線と年号と人口の増減。だが図の上に、冬は来ない。


 山の冬を知っているのは、この体だ。配給の列で足を引きずる老人。凍えた子供の指。干し肉を半分に割って黙る母親。雪の夜、洞窟の奥で咳を噛み殺す音。


 山に残れば誇りは守れるかもしれない。少なくとも、すぐには檻に入らない。だが腹は満たせない。春を越えても、その次の冬が来る。


 谷に入れば管理される。査察が来る。条文で守ったつもりの一行も、次の五年で削られるかもしれない。角の研究も進む。ドラクの言う通り、終わりは少しずつ来る。


 だが、谷には畑がある。壁がある。市場に繋がる道がある。学校を建てる余地がある。子供が冬を越える確率が、山より高い。


 その一点だけが、他の全てより重かった。


「ナーシャ」


「何」


「お前は昨日、子供は育てられるかと聞いたな」


「聞いた」


「あれが答えだった」


 ナーシャがこちらを見た。背筋が伸びる。


「山で誇りを守って死ぬより、谷で削られながら次を残す」


「うん」


「受ける」


 言葉にした瞬間、軽くはならなかった。軽くなる決断ではない。ただ、形が定まった。


「ただ受けるだけじゃない」


 折れた角の断面をもう一度なぞった。考える。削られる前に、削られにくくする。


「交易権の保証を文言に固定する。生活必需品の関税率も曖昧にしない。自治の評価基準も、共同起草で明文化する。谷に入るなら、檻の格子の幅をこちらも決める」


 ナーシャが数歩寄ってきた。


「アルベルトは呑む?」


「全部は呑まない。だが一部は呑む。ここまで条文を詰めた以上、向こうも曖昧さの危険はわかっている」


「じゃあ、言えばいい」


 簡単に言う。だが、だからこそ揺れない。


 誰のためだ。


 ゾーラの問いが、少しだけ形を変えた。


 二万人のため、では足りない。歴史のため、でも足りない。俺自身の贖罪でも足りない。


 冬を越す子供のためだ。


 それは哲学ではなく、ナーシャの問いの形を借りた答えだった。美しくはない。だが自分の口で言える。


 そのとき、断面がまた震えた。


 不意打ちのような振動だった。俺もナーシャも同時に空を見た。北の空は白み始めている。中継を解いたはずなのに、細い糸がまだ残っていた。


『将軍』


 ヨルン。息が荒い。


『追って……伝える』


「何だ」


 ノイズが混じる。遠くで誰かが怒鳴っている。今度は声ではなく、感情の濁りが先に来た。苛立ち。焦り。刃を抜く前の空気。


『ドラクが……兵を集めてる』


 胸の奥で何かが沈んだ。


『南の見張り場に……三十……いや、もっと』


 数字が揺れた。中継が崩れかけている。


『止めてはいる。だが……』


 そこで途切れた。


 もう一度来るかと待ったが、来なかった。断面の奥は静かに戻った。静かすぎる頭の中。さっきまでそこにあった糸が、切れている。


 ナーシャが先に動いた。剣の柄を握る。


「黙ってなかった」


「ああ」


 三日あると思っていた。


 だが山は、三日も待たないかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ