三日で答えを出せ
本会議場は、応接室の三倍の広さがあった。
長い楕円形の卓が中央に据えられ、椅子が十二脚並んでいた。椅子はすべて埋まっていた。評議会の議員が着席し、その背後に随員が立っている。三十人近い人間が一つの部屋にいた。
俺とナーシャは、卓の一端に置かれた椅子に座った。楕円の尻尾。残りの全員が、俺たちの方を向いている。
窓が三つ。光は入るが、開け放たれてはいない。初夏の風が入らない。汗が首筋を伝った。暑さだけではない。
アルベルトが楕円の頭に立った。手元に冊子を持っている。見慣れた冊子だった。三週間、あの冊子と向き合ってきた。だが今日は、冊子の表紙に評議会の紋章が押されていた。鷲と天秤。金の型押し。
公式の文書になった。
「議員各位。本日は、魔族残存勢力との和平条約の最終提案を提示します」
アルベルトの声は、応接室のときより半音低かった。部屋の広さに合わせている。聞かせる声ではなく、記録される声だった。
「三週間にわたる個別交渉を経て、全十二条の条項が策定されました。各条の概要を読み上げます」
議員たちの視線が俺に集まった。十二対の目。その中に、温度が違うものが混じっていた。
正面やや左。壮年の男。顎に傷がある。目が据わっていた。隣の痩せた女も同じ目をしている。座り方が違う。他の議員が背もたれに触れているのに対し、この二人は前のめりだった。
殲滅派。ゲルトの情報にあった派閥が、今、人間の形をして座っている。
アルベルトが冊子を開いた。
「第一条。居住地の指定。ハルト谷をもって魔族の居住区とする」
ハルト谷。三週間の交渉で何度も名前が出た土地。将軍の記憶にある。ヴァルム山脈の南麓、東西を岩壁に挟まれた小さな谷だ。農耕は辛うじてできる。だが狭い。二万人を養うには足りない。
「第二条。武装の制限。携帯武器は認めるが、攻城兵器の保有を禁ずる」
「第三条。定期査察。年二回の査察を受け入れ、武器庫、工房、集会場を対象とする。住居への立ち入りは行わない」
一条ずつ、アルベルトの声が読み上げていく。三週間かけて詰めた文言が、この部屋に解き放たれていく。各条で俺が削った一語、書き直させた一文が、この議員たちの前で初めて日の目を見る。
「第四条。交易権。品目別関税を適用する」
「第五条。戦争犯罪の公式認知。魔族指導部は五十年戦争における戦争犯罪の事実を認め、評議会にその記録を提出する」
五条で、空気が変わった。殲滅派の壮年の男が、卓の上で指を組んだ。組み方が強い。指の関節が白くなっていた。
アルベルトは構わず続けた。六条、七条、八条。行政報告、人口調査、評議会法遵守。九条は教育条項に変わっている。読み上げた文言に「制限」の二文字はなかった。十条、十一条、十二条。修正条項。
「以上が全十二条です」
冊子を閉じた。
「なお、居住地として指定したハルト谷は、ヴァルム山脈南麓の谷です。面積は約十八平方キルタ。農耕は可能ですが、人口を全て養うには交易に依存する必要があります。この点は条件の一部として設計されています」
十八平方キルタ。小さな数字だった。二万人が暮らすには窮屈で、逃げるには狭すぎる。
ナーシャの手が膝の上で握られていた。表情は動いていない。だが手だけが、聞いたものの重みを測っていた。
「質疑に入ります」
アルベルトが着席した。眼鏡のフレームを押し上げ、議員たちを見渡した。
最初に手を挙げたのは、顎に傷のある壮年の男だった。
「発言を求めます」
声が太い。鍛えた喉だった。軍人か、もとは。
「議長。提案を拝聴しました。いくつか確認させていただきたい」
立ち上がった。椅子を引く音が高く響いた。
「第五条。戦争犯罪の公式認知。記録を提出するとある。では聞く。この記録は、誰が書くのか。彼ら自身が書くのか」
アルベルトが答えた。
「共同起草を想定しています。魔族側の記述と、評議会の調査記録を照合する形で——」
「照合?」
男が遮った。
「ブラウ村を知っていますか、議長」
沈黙が落ちた。アルベルトの指が眼鏡のフレームに触れたが、押し上げなかった。
「ブラウ村は旧占領地の西にあった集落です。ありました。今はない。五十年戦争の十五年目に魔族の軍勢が焼きました。住民は二百三十七名。逃げた者は七名。残りは焼けるか、斬られるか、どちらかでした」
男の声は平坦だった。怒鳴っていない。怒鳴るより遥かに重い声だった。
「私はブラウ村の生き残りの一人です。七歳でした」
部屋の空気が凝固した。
将軍の記憶が、俺の内側で暴れた。ブラウ村。覚えがある。第三軍団の管轄区域ではなかった。だがヴェルガの命令で戦線を押し上げた時期だ。焼いたのは第一軍団か第二軍団か。どちらでも同じだ。魔族が焼いた。この体が属していた軍が、焼いた。
「照合というのは、つまり、この男が——」
男の目が俺に向いた。
「——この角つきの将軍が、自分たちの罪を自分で書くということですか」
答えなかった。答える場面ではない。この男の怒りは正しい。正しい怒りに反論する言葉を、俺は持っていない。
男は視線を俺から外さないまま続けた。
「私が言いたいのは一つです。彼らに土地を与えることの意味を、この評議会は理解しているのか。ブラウ村を焼いた者たちの子孫が、二十年後にハルト谷で笑っている未来を、私たちは許容するのか」
許容するのか。
問いの形をした刃だった。反論の余地が設計されていない。
「以上です」
男が座った。椅子を引く音はしなかった。静かに座った。怒りの質が変わっていた。叩きつける怒りではない。据わった怒りだ。長い時間をかけて固まった、石のような怒り。
沈黙が六秒続いた。
次に手を挙げたのは、卓の右端に座っていた恰幅のいい男だった。商人の身なりをしている。
「発言を求めます」
声が柔らかい。商人の声だ。
「先ほどの議員の言葉は重く受け止めます。しかし、別の観点からも検討すべきかと存じます。ヴァルム山脈の鉄鉱石の加工技術は、現在人間の鍛冶師には再現できません。魔族の鍛冶技術が交易品として流通すれば、復興の速度は二倍にも三倍にもなります」
実利派。経済の論理。ゲルト経由で出回った鉄器が、この男の商売を動かしている。
「土地を与えることは投資です。谷に閉じ込めておけば管理もしやすい。追い回すより安い。合理的に考えれば——」
合理的に。アルベルトの口癖が、別の口から出た。だが意味が違う。アルベルトの「合理的」は論理の重みだった。この男の「合理的」は、金の重みだ。
殲滅派の男が立ちかけた。アルベルトが片手を上げ、制した。
「他にご発言は」
三人目の議員が挙手した。追放派の論理を述べた。四人目は無関心派に近い口調で実務上の問題を指摘した。五人目が殲滅派寄りの立場で五条の不十分さを攻撃した。
俺は聞いていた。反論の余地はあった。だが発言を求められるまで口を開かないと決めていた。
この場は交渉の場ではない。アルベルトが言った通りだ。宣告の場だ。条件はもう動かない。動くのは、受諾か拒否かだけだ。
質疑が一巡した。アルベルトが立ち上がった。
「ゼルド殿」
初めて俺に向けた。
「本提案に対する返答を、三日以内にいただきたい。受諾、拒否、あるいは修正の要望があれば、三日後の会議で表明していただく」
三日。
折れた角の断面を親指でなぞった。ざらついた感触。この角では、山まで声は届かない。
「承知しました」
声は平坦だった。平坦でなければならなかった。
立ち上がった。ナーシャが半拍遅れて立った。椅子が鳴った。
部屋を出るとき、殲滅派の男と目が合った。ブラウ村の生き残り。七歳の子供だった男。今は顎に傷のある壮年の議員だ。
その目に、殺意はなかった。殺意より静かなものがあった。確信だ。お前たちは、ここにいるべきではない。
反論できなかった。
◇
宿舎の扉を閉めた。
ナーシャが窓辺に座り、膝の上で両手の拳を開いたり閉じたりしていた。議場を出てからずっとそうしていた。
「あの男」
「ブラウ村の?」
「ああ」
ナーシャは窓の外を見ていた。ゼーレンの街が夕暮れに染まり始めている。屋根の上に鳥が飛んでいた。
「あの男の言っていることは、正しい」
ナーシャが振り向いた。
「何を言ってる」
「正しいと言った。我々は焼いた。あの男の村を焼いた」
「あんたは焼いてない」
「この体は焼いた」
ナーシャの口が閉じた。将軍ゼルドの体。将軍が属していた軍。ナーシャはそこに触れない。触れないことが、俺たちの間にある暗黙の壁だった。
「三日だ」
話題を変えた。壁にぶつかっている余裕はない。
「三日で、受けるか退くか決める」
「退いたら?」
「殲滅派に傾く。アルベルトが抑えている蓋が外れる」
「受けたら?」
「ハルト谷に入る。二万人で、十八平方キルタの谷に住む」
「……狭い」
「狭い。だが屋根がある。畑がある。壁がある。山よりはましだ」
ナーシャが髪の後ろを掻いた。
「山のことを聞いた?」
「聞けていない」
聞けていない。三週間、山との通信が途絶えている。折れた角の共鳴範囲は数十メートル。ゼーレンから山までは七日の距離だ。
ドラクが何をしているか、わからない。ゾーラが無事かも、わからない。食料がもっているかも。
一人で決めなければならない。
「ナーシャ」
「何」
「お前なら、どうする」
ナーシャの背筋が伸びた。
「あたしに聞くの?」
「聞いている」
ナーシャは数秒黙った。拳を開き、膝の上に手を広げた。
「あの谷で、食べ物は育つ?」
「辛うじて。足りない分は交易で補う」
「子供は? 子供を育てられる場所?」
「山よりはいい。学校も建てられる」
「じゃあ受ける」
即答だった。
「山で飢えるより、谷で食べる方がいい。檻でもいい。子供が育てば、檻は壊せる」
ナーシャの答えは常に具体的だった。哲学ではない。食料と子供。手で触れるものだけで判断する。
だがドラクはそう言わない。ゾーラもそう言わない。山の二万人が全員、ナーシャのように考えてくれるわけではない。
「三日あるんでしょ」
「ある」
「なら今日は寝なさい。明日考えればいい」
ナーシャが寝台の毛布を引っ張った。窓の外は暗くなっていた。ゼーレンの灯りが、遠くの窓に点り始めている。
眠れない。
卓の前に座った。交渉の記録を広げた。三週間分の冊子。各条の論点と妥協点。アルベルトの書き込みの写し。
全条項を通して見直した。
ハルト谷。十八平方キルタ。農耕可能だが不十分。部分武装解除。査察は年二回、住居には入らない。関税は品目別。自治は五年評価。教育条項。戦争犯罪の公式認知。
拒否した場合を計算した。殲滅派が勢いづく。アルベルトの政治基盤が崩れる。評議会が軍事行動を承認する。山に軍が来る。二度目の遠征。今度は独断ではない。評議会の正式な命令だ。
耐えられるか。一度目はベルクヴァルト伯の独断遠征だった。数百人を退けた。だが次は数千人で来る。石も矢も底をつきかけている。共鳴ネットワークで索敵はできるが、数で押されたら終わりだ。
受諾した場合を計算した。ハルト谷に入る。二万人が狭い谷で暮らす。交易で食料を補う。高関税が重い。査察が来る。角を調べようとする学者も来るかもしれない。自治は五年で評価される。失敗すれば縮小。
そして五条。戦争犯罪の公式認知。
ブラウ村の男の目が蘇った。七歳のとき、村が焼けるのを見た男の目。石の怒り。
その男の怒りは正しい。正しい怒りに対して、「生き残る権利がある」と言い返すことは、論理的には可能だ。だがブラウ村の焼け跡の上に立って、同じことが言えるか。
俺は前世で、こういう事例を研究していた。加害者の末裔が存続権を主張する場面を、何十と読んだ。教科書の中では、答えは明快だった。法的な枠組みを作り、個人の罪と集団の存続を切り分ける。集団罰は不正義だ。子供に親の罪を背負わせるな。
教科書は正しい。だが教科書には、ブラウ村の男の目は載っていない。
折れた角の断面に指を当てた。
山が遠い。
ゾーラならどう答える。「我々は罰を受けて当然だ」と言うだろう。ドラクなら「檻に入るくらいなら死ぬ」と言う。ナーシャは「子供が育つなら受ける」と言った。
三人の答えがあって、どれも正しくて、どれも足りない。
俺の答えは何だ。
冊子を閉じた。蝋燭の灯りが揺れていた。ナーシャの寝息が聞こえる。
三日。七十二時間。二万人。
山に届けたい。この条件を見せて、意見を聞きたい。ゾーラに問いたい。ドラクに吠えさせたい。
角に手を当てた。折れた角の、ざらついた断面。共鳴を送ってみた。意識を北に向けた。山の方角。七日の距離。
何も返ってこない。静かだった。頭の中が静かすぎた。
一人だ。
蝋燭が揺れた。窓の隙間から風が入っていた。ゼーレンの夜風。石と人間の街の風だ。山の風ではない。
三日で答えを出す。俺が。一人で。




