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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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18/29

合理的に考えましょう

 教育条項の草案は、三日で承認された。


 アルベルトは草案を読み、二箇所に修正を入れ、翌日に評議会の書記に回した。修正内容は軽微だった。「魔族側が自主的に」を「評議会との協議の上で」に変え、「家庭内の使用は自由」を「家庭内の使用は制限しない」に変えた。意味はほぼ同じだ。だが主語が違う。自主から協議へ。自由から非制限へ。許可を与える側が、こちらではなく向こうになった。


 指摘しなかった。この程度の書き換えで九条が教育条項に変わるなら、安い。


 そこから、毎日が交渉だった。


 朝、宿舎を出る。石畳の大通りを歩く。視線と囁きはまだ来るが、石は飛ばなくなった。角つきが毎日歩いていることに、街が慣れ始めていた。


 評議会の建物に入る。応接室。アルベルトが既に座っている。冊子が開かれ、ペンが用意されている。茶は出なくなった。二日目以降、茶を出す余裕がなくなったのか、あるいは茶を出す段階が終わったのか。


 一条ずつ、詰めた。


 第三条。定期査察。


「年二回の査察を受け入れていただく」


「査察の範囲は?」


「居住区全域。倉庫、工房、集会場を含む」


「住居は?」


「含みません。個人の住居には立ち入らない」


 ここは譲れた。先例がある。査察が住居に踏み込まない限り、日常生活の尊厳は保てる。踏み込む査察は、いずれ弾圧になる。


「ただし、武器庫は査察対象です」


「当然です」


 武器庫の査察は受け入れた。隠す理由がない。攻城兵器は持っていない。携帯武器は許可されている。見せて困るものがなければ、見せたほうがいい。


 第四条。交易権。


「関税は通常の三倍」


「三倍は実質的な封鎖です」


 声を落とさなかった。数字の話は冷静に。


「通常関税の品目と三倍関税の品目を分けることは可能ですか。生活必需品は通常関税、贅沢品は三倍。これなら財政的にも合理的だ」


「合理的に考えましょう」


 口癖が出た。だが今回は刃ではなかった。眼鏡のフレームを押し上げ、冊子の余白にペンを走らせた。


「品目別の関税率を設定する。具体的な品目リストは別途協議。これでいいですか」


「結構です」


 一つ通った。また一つ。


 毎日、こうだった。一条ずつ。時に一項ずつ。文言の一語を巡って半日議論し、翌日に持ち越し、その翌日に妥協点を見つける。


 アルベルトの交渉は正確だった。譲る箇所と譲らない箇所が明確で、譲るときは速く、譲らないときは根拠を積み上げた。感情で押してこない。こちらが論理で押せば、論理で返してくる。こちらが前世の先例を持ち出せば、この世界の先例で返してくる。


 対等ではない。向こうが勝者で、こちらが敗者だ。だが卓の上では、論理の重みだけが通貨だった。


 奇妙だった。この男との交渉には、不思議なリズムがあった。





 転機は、自治権の議論で来た。


「段階的な自治を求めます」


 折れた角の断面を親指でなぞった。ここが一番重い。


「居住区内の行政を我々が管理する。税の徴収、治安の維持、教育。評議会は外交と軍事に関与し、内政は我々に委ねる」


 アルベルトの指が眼鏡のフレームに触れた。触れただけで、押し上げなかった。


「自治は段階的に。最初は評議会の監督下で運営し、五年ごとに評価する。問題がなければ権限を拡大する」


「逆に聞きます」


 声のトーンが変わった。低く、静かに。


「五年で信頼が積めなかった場合は?」


「権限を縮小する可能性がある、ということですか」


「可能性ではなく、条件です。自治を認めるには、まず信頼を積む必要がある。信頼は査察で測る」


「査察は監視と同義です」


「信頼がなければ、監視は必要です」


 正論だった。戦争に負けた側が、勝者の監視なしに自治を得た事例は少ない。先例がある。だが先例はどちらの方向にも向く。監視なしの自治が機能した例も、監視付きの自治が形骸化した例もある。


「では、こうしましょう」


 アルベルトがペンを取った。


「初期の五年間は査察付きの限定自治。五年後に評議会が評価し、問題がなければ査察を年一回に減らし、権限を拡大する。十年後に再評価」


 十年。二度の評価。長い。だが、ゼロよりはいい。


「査察の基準を事前に明文化してください。基準が曖昧なまま評価されるのは、恣意的な権限縮小に繋がります」


「それは合理的だ」


 今度は口癖ではなく、本音だった。声に感心の色があった。


 冊子に書き込む音がしばらく続いた。ペンが紙を引っ掻く、乾いた音。この男は思考を文字にする。頭の中で保留しない。形にして、検証する。


「査察基準の明文化。起草は共同で行いましょう」


 通った。自治権の骨格が固まった。完全ではない。だが骨はある。





 交渉が二週間を過ぎた頃、アルベルトが話題を変えた。


「あなた方の鍛冶技術について伺いたい」


 予想していなかった。条文の議論が続くと思っていた。


「ヴァルム山脈の鉄鉱石は質が高い。あなた方の鍛冶師が加工した鉄器は、ゲルト経由で一部が流通しています。評議会の商人たちが注目している」


 ゲルト。あの商人の交易路が、ここまで繋がっていた。


「商人たちの関心は?」


「農具と工具。戦後の復興で需要が高い。人間の鍛冶師だけでは追いつかない」


 経済。交渉の材料が、政治から経済に移った。


「我々の鍛冶技術を交易品として提供することは可能です。ただし、交易の条件は関税の枠組みの中で対等に扱われる必要がある」


「対等?」


 アルベルトが言葉を繰り返した。また量っている。


「交易は双方に利益がある。我々が鉄器を提供し、あなた方が穀物と資材を提供する。これは依存ではなく、相互利益です」


「あなたの言う相互利益は理解できます。しかし、商人が望んでいるのは利益であって、共存ではない」


 鋭い。この男は、俺が実利派の存在をレバレッジにしようとしていることを見抜いている。


「おっしゃる通りです。商人は共存を望んでいない。利益を望んでいる。だからこそ、利益がある限り商人は我々の存続を支持する。感情ではなく利害で結ばれた関係のほうが、長持ちします」


 沈黙が五秒。


「……面白い論法だ」


 アルベルトが笑みを浮かべた。交渉の場で初めて見る笑みだった。教育条項のときとは違う。目の奥に光があった。


「利害で結ぶ。感情より長持ちする。あなたは自分の民をそこまで冷静に分析できる」


「冷静でなければ、ここには座っていません」


「ええ。だからあなたとは話ができる」


 褒め言葉ではない。この男が「話ができる」と言うとき、それは「制御できる」に近い。俺が合理的であることは、アルベルトにとっても都合がいい。感情で暴れる交渉相手より、計算で動く相手のほうが予測しやすい。


 窓の外で馬車の音がした。ゼーレンの初夏は日が長い。交渉を始めた頃は夕暮れが早かったが、今は窓の光がなかなか消えない。


「交易の具体的な枠組みは、関税協議と並行して詰めましょう。品目リスト、数量、決済方法。商人代表を交えた会議を設定します」


「了解しました」


 交易が条約に組み込まれる。経済的な依存関係。これが第二の柱になる。共鳴通信が第一の柱。交易が第二。柱が多いほど、条約は壊れにくい。


 だが柱を増やすということは、壊れたときの損失も大きくなるということだ。





 宿舎に戻ると、ナーシャが窓辺に座っていた。


 短く刈った髪の後ろを掻いている。何かを考えるときの癖だ。


「で? どうだった」


「交易の話が出た。鍛冶技術を出す」


「鉄器か。山の鍛冶師が喜ぶ」


「喜ぶかどうかは、条件次第だ」


 ナーシャが窓の外を見た。街の灯りが点き始めている。人間の家の窓から、夕食の煙が立ち上っていた。


「山のことが気になる」


「ああ」


「ドラクは黙っているか?」


「わからない」


 正直に答えた。山との通信は、ここではできない。折れた角の共鳴範囲は数十メートル。ゼーレンから山までは七日の距離がある。


 共鳴通信の中継を頼めば届く可能性はある。だがそれは、人間の目の前で共鳴通信を使うことになる。角の研究が進んでいるとアルベルトが言った。通信の実演は、研究材料を与えることに等しい。


「連絡を取りたいが、取れない」


「なぜ」


「角のことを調べている連中の前で、角を使って見せるわけにはいかない」


 ナーシャの目が細くなった。


「あんたが通信だと言ったから、調べ始めた。あんたが使って見せなければ、調べる材料が増えない」


 正しい。だが別の正しさもある。


「使わなくても、彼らは調べている。既に手元に資料がある。戦場で折れた角や、死体から回収した角が研究材料になっている可能性がある」


 ナーシャの右手が腰に動きかけて、止まった。剣は寝台の上だ。行き場を失った手が、膝の上で拳になった。


「……山には、帰ったら真っ先に行く」


「ああ。帰ったら」


 帰れるのか。この交渉がいつ終わるのか。終わったとき、山はまだ無事なのか。


 翌日も交渉は続いた。その翌日も。


 条文が一つずつ固まっていく。固まるたびに、残りの交渉余地が狭くなった。アルベルトは時間を味方にしている。こちらには山がある。山には二万人がいる。食料は底を突きかけている。交渉を急げば足元を見られ、長引けばドラクが暴れる。


 どちらに転んでも、時間は俺の味方ではない。


 交渉が三週間を過ぎた日の終わり、アルベルトが立ち上がりながら言った。


「ゼルド殿」


 冊子を閉じ、眼鏡を外した。布で拭いた。レンズに息を吹きかけ、丁寧に拭く。初めて見る仕草だった。交渉の鎧を脱いだように見えた。


「明後日、本会議を招集します」


 眼鏡をかけ直した。鎧が戻った。


「最終提案を提示します。全条項を統合した、評議会としての正式な条件です」


「最終、ですか」


「これ以上の個別交渉はありません。受諾か、拒否か。あなたの覚悟次第です」


 覚悟。この男がこの言葉を使うのは初めてだった。合理でも計算でもない。覚悟。


「本会議には殲滅派の議員も出席します。彼らの前で、私が提案を読み上げる。あなたの反応も、彼らが見ている」


 つまり、交渉の余地はもうない。本会議の場は、交渉の場ではなく、宣告の場だ。受けるか、退くか。


「了解しました」


 声は平坦だった。平坦でなければならなかった。


 応接室を出た。廊下を歩いた。ナーシャが隣にいた。足音が石の床に響く。二人分の足音だけが、長い廊下に反射していた。


「覚悟次第、か」


 ナーシャが呟いた。


「覚悟はとっくにしている。あんたは?」


 答えなかった。覚悟とは何だ。受諾の覚悟か。拒否の覚悟か。どちらを選んでも二万人の運命が変わる。


 宿舎の扉を開けた。夕暮れの光が部屋に差し込んでいた。机の上に、冊子が積まれている。交渉の記録。毎晩書き留めた各条の論点と妥協点。


 三週間、この卓でやってきたことを振り返った。一条ずつ文言を削り、書き直し、妥協点を探した。剣は振っていない。血も流していない。だがこれが俺の戦だ。


 ゾーラの声が蘇った。お前の戦は、誰のためだ。


 答えはまだ出ない。だが、戦い方だけは見えてきた。


 折れた角の断面を親指でなぞった。ざらついた感触。山の匂いはしない。ここはゼーレンだ。石と人間の街だ。


 明後日。二万人が、山で待っている。

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