震える手
七日、歩いた。
山を下り、旧占領地の荒野を抜け、平原に出た。道は次第に広くなり、轍が増え、荷馬車とすれ違うようになった。人間の目がこちらに向く回数も増えた。足を止める者、荷馬車の御者が手綱を引いて道の端に寄る者。角を見ているのだ。
ゼーレンの城門は、朝日の中で白かった。
石造りの門柱が高く、その上に旗が翻っている。鷲と天秤。評議会の紋章だった。門の前に兵が四人、槍を構えている。
ナーシャが半歩後ろについていた。革鎧の胸当てに矢の引き抜き跡。短く刈った黒髪から螺旋状の角が覗き、右角の刀傷に朝の光が当たっていた。灰色の肌。腰の剣。どこから見ても魔族の戦士だった。
通行許可証を差し出した。ヘルマンが持ち帰った逆提案への返答に同封されていた羊皮紙。アルベルト・ヴァイスの署名と評議会の印。
兵が許可証を見て、俺の角を見て、もう一度許可証を見た。
「通れ」
短い一言だった。兵の目は許可証にではなく、俺の折れた角に張り付いていた。
◇
街は、活きていた。
石畳の大通りに荷馬車が行き交い、露店が並んでいる。焼いた肉の匂い。子供の声。鍛冶屋の槌音。山の洞窟で五ヶ月暮らした目には、眩しかった。
人間の街だ。戦争に勝った側の街。
最初は視線だった。すれ違う人間が足を止め、こちらを見る。角を見る。灰色の肌を見る。腰の剣を見る。見て、目を逸らす。
次に囁きが来た。
「角つきだ」
「なんでこんな所に」
「評議会が入れたのか」
声は背後から聞こえた。振り返らなかった。ナーシャの足音が半歩後ろで硬くなっていた。
大通りを渡り、市場の脇を抜けた。人が密集する場所を通るたびに、空気が変わった。声が大きくなった。
「出ていけ」
正面から言われた。太った男だった。エプロンをつけている。肉屋か、パン屋か。顔が赤い。
立ち止まらなかった。背筋を伸ばしたまま、歩いた。
石が飛んできたのは、路地を曲がった先だった。
小さな石だった。肩に当たって跳ねた。痛みは大したことがない。振り返ると、子供が三人、建物の角に隠れた。顔だけ覗かせて、こちらを見ている。恐怖と好奇心が混ざった目だった。
将軍の記憶が蘇った。この街ではないが、似た街だった。魔王軍が南の都市を攻めた夜、建物に火を放った。逃げる人間を追わなかったのは慈悲ではない。追う必要がなかっただけだ。火が全てを片付けた。
あの夜に逃げた子供の親が、今日この街にいるかもしれない。
ナーシャの右手が腰の剣の柄を握っていた。指が白い。歩調が半拍速くなっている。
「抜くな」
小声で言った。
ナーシャは答えなかった。柄を握ったまま、前を向いていた。顎が上がっている。歩調がさらに速くなった。だがここで剣を抜けば、すべてが終わる。
大通りに戻った。人間たちは道を開けた。開けたのは礼儀ではない。近づきたくないのだ。
市場の一角で、染物屋の軒先に色とりどりの布が揺れていた。赤、青、黄。山では見なかった色だった。一瞬、布の染料と織り方に目が向いた。交易品としての価値を計算する目。研究者の目だ。すぐに前を向いた。今は、それを見る場面ではない。
通行許可証の裏に、宿舎の場所が書かれていた。大通りから二本奥の静かな路地。石造りの小さな建物。窓が三つ。入口に鍵がかかっていて、門番が許可証を確認してから開けた。
迎賓館ではなかった。管理された訪問者のための箱だった。
◇
扉を閉めた。
部屋は狭かった。寝台が二つ、机が一つ、水差しが一つ。壁は白い漆喰で、窓から午後の光が差していた。
ナーシャが剣を外して寝台に置いた。革紐を解く手は、まだ力が入っていた。
「……座って」
ナーシャが言った。俺の手を見ていた。
右手が震えていた。
気づいていなかった。街を歩いている間は、背筋を伸ばすことだけ考えていた。足を止めないことだけ。石が当たっても歩くことだけ。それで手一杯だった。
寝台に腰を下ろした。両手を膝に置いた。右手が小刻みに揺れている。止められなかった。
前世で、教科書を読んでいた。敗者の指導者が勝者の首都に入る場面を、何度も何度も読んだ。屈辱と忍耐の記録。政治的な分析を加え、論文にまとめ、学生に講義した。
教科書には、手が震えるとは書いていなかった。
石を投げた子供の目を、教科書は記録していなかった。恐怖と好奇心が入り混じった、あの目を。あの目に映っていたのは、俺ではない。俺が入っているこの体が指揮した軍が焼いた都市の記憶だ。
誰のためだ。
ゾーラの声が、喉の奥に蘇った。答えを持たずに帰ってくるな。
二万人のためにここに来た。だがあの石は、二万人に向けられたものではない。この体が焼いた街の記憶に向けられている。
ナーシャが隣に座った。
何も言わなかった。ただ、額の角を俺の背中に当てた。軽く。触れるか触れないか程度の力で。
共鳴はほとんど届かなかった。半分折れた角では、輪郭しか拾えない。言葉にならない。感情の色もわからない。
だが、温度だけが伝わった。ここにいる、という一点だけが。
右手の震えが、ゆっくりと止まった。
「ナーシャ」
「なに」
「……ありがとう」
ナーシャは答えなかった。角を離し、立ち上がった。窓の外を見ていた。街の音が遠くに聞こえる。荷馬車の車輪が石畳を叩く音。人の声。笑い声。
「あいつらは、笑っている」
呟くように言った。声に色がなかった。
「私たちに石を投げた後で、笑って買い物をしている」
言葉が途切れた。窓枠に置いた手が、握りしめられていた。
何も言えなかった。ナーシャの怒りは正しい。正しいが、ここでは使えない。使えば交渉が壊れる。
ナーシャはしばらく窓の外を見ていた。それから、背を向けたまま言った。
「明日は、もっとまっすぐ歩く」
それだけだった。
◇
朝が来た。
窓から差す光で目が覚めた。街の音が早い。荷馬車と人の足音。パンの焼ける匂いが微かに入ってくる。
寝台から起き上がり、水差しの水で顔を洗った。冷たかった。
折れた角の断面を、親指でなぞった。ざらついた感触。昨日の街を思い出した。石と、視線と、子供の目。そして宿舎で震えた手。
今日は震えない。そう決めた。できるかどうかは別として、決めた。
ナーシャが革鎧の紐を締め直していた。剣を腰に差す。背筋が伸びている。昨夜の怒りは顔に出ていなかった。
「行くぞ」
「ええ」
宿舎を出た。朝の空気が冷たかった。石畳の大通りを、昨日と同じように歩いた。視線が来る。囁きが来る。だが今朝は石は来なかった。
評議会の建物は、大通りの突き当たりにあった。三階建ての石造り。正面に鷲と天秤の紋章が大きく掲げられている。門の前に衛兵が二人。
許可証を見せた。衛兵が中に通した。
建物の入口に、一人の男が立っていた。
痩身。長身。金属フレームの眼鏡をかけている。服装は質素だが清潔で、靴が磨かれていた。目が鋭い。こちらを見て、軽く頭を下げた。
「ゼーレンへようこそ。アルベルト・ヴァイスです」




