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魔族撤退戦記 ~勇者が魔王を殺した、その日から~  作者: どみさん


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14/29

俺の戦は、誰のためだ

 使節が去ってから、十五日が経った。


 返答はまだない。ヘルマンが山道を下りていった朝、逆提案を刻んだ羊皮紙は確かに懐にあった。それがゼーレンに届き、評議会で読まれ、議論され、再び使者の足で戻ってくるまでに何日かかるか。


 山の日差しが変わった。南斜面の雪は完全に消え、岩肌が乾いている。洞窟の入口に差す光が深くなった。冬の間は届かなかった場所まで陽が入る。


 焚き火の前に座っていた。夜だった。他の火は消えているか、遠くに小さく揺れている。石積みの見張りが交代する足音が聞こえた。





 杖の音が近づいた。


 岩を打つ一定の間隔。ゾーラの歩き方だった。


「起きていたか?」


 俺の横に、ゆっくりと腰を下ろした。杖を膝の上に置く。焚き火の光が象牙色の角を照らした。


「眠れないだけだ」


「それは返事にならん」


 ゾーラの濁った目が火を見ていた。風が変わり、煙が東に流れた。


 しばらく、火の音だけが続いた。


「行くのだろう。ゼーレンに」


「……ああ」


「決めたか?」


「決めた」


 ゾーラの指が、膝の上の杖の頭に触れた。確かめるように、ゆっくりと。


「行く前に、答えろ」


 火の粉が一つ、夜空に上がって消えた。


「お前の戦は、誰のためだ」


 同じ問いだった。この山に辿り着く前、丘の上でドラクと対峙した夜に聞いた問い。あの時は答えなかった。答える暇がなかった。


 今は違う。暇はある。問いの意味もわかっている。逃げ場がないことも。だから答えた。


「この山の二万人のためだ」


 ゾーラは黙っていた。


 長い沈黙だった。焚き火の薪が崩れ、火の形が変わった。


「それはお前の理由だ」


 声に怒りはなかった。ただ事実を述べていた。


「誰のためか、と聞いている」


 何が違う。わからなかった。ただ、退けられたことが喉の奥に引っかかった。


 象牙色の角の先端を、ゾーラの指が撫でた。


「お前は数を数える。二万人。三千の戦闘員。四つの条件。逆提案の四項目。数えることは悪くない。だが数の向こうに、顔は見えているか」


 焚き火が風に煽られ、一瞬だけゾーラの顔が明るくなった。濁った目が、俺を見ていた。


「ルッツの母親は、東の洞窟で配給の列に毎朝並ぶ。ドラクの部下の若い兵は、石積みの見張りで毎晩震えている。生まれたばかりの子を抱えた女が、水汲みに片道半刻かけている。お前はそれを知っているか」


 知っている。配給の記録で名前を見た。見張りの交代表を組んだ。水場の報告を受けた。


 だが顔は知らない。


 二万人という数字は知っている。その中身を、俺は知らない。五ヶ月もこの山にいて、知ろうとしなかった。


「……答えられない」


 自分の声が低く震えていた。五ヶ月前なら、答えられないことに苛立ちはしなかった。研究対象を眺めるように、この山を見ていたから。


「そうだ。答えられない」


 ゾーラは立ち上がらなかった。杖を膝に置いたまま、火を見ていた。


「研究者のお前は二万人を救う。将軍のお前は三千の兵を動かす。だが、誰かのために戦える男は、まだお前の中にいない」


 研究者。ゾーラはそう言った。ナーシャが言った言葉と同じだ。


 反論したかった。だが言葉がなかった。ゾーラの言う通りだと、体のどこかが認めていた。


「……変われるのか。俺は」


 口をついて出た。問うつもりはなかった。


 ゾーラは答えなかった。ただ、火を見たまま、長く息を吐いた。


「ゼーレンに行け。答えはここにはない」


 杖を手に取り、ゾーラが立ち上がった。膝が軋む音がした。背筋はまっすぐだった。立ち際に、しわだらけの手が俺の肩に触れた。一瞬だった。


「ただし、答えを持たずに帰ってくるな」


 焚き火を離れ、暗がりに消えていった。杖の音が遠ざかる。





 翌朝、ドラクが来た。


 石積みの脇の岩に座っていた俺の前に、立ったまま見下ろした。大刀を背に負い、右肩が落ちている。残った右目が、曇った空を映していた。


「行くのか」


「行く」


「殺されるか、囚われる」


「可能性はある」


「可能性じゃない。そうなる」


 ドラクの声には怒りがなかった。昨日までの激昂が嘘のように、静かだった。それが逆に重かった。


「お前が死んだら、二万人はどうなる」


「お前がいる」


 言ってから、しまったと思った。指揮権の話ではない。ドラクが守る、という意味で言った。だがこの男にとっては同じことだ。


 ドラクの右目が俺を射た。


「俺は、お前の留守番じゃない」


「わかっている」


「わかっていない。お前は、交渉で何かを持ち帰れると思っている。だが人間は約束を守らない。お前の先例とやらが教えなかったか」


 先例は教えている。約束は破られる。条約は侵食される。それでも結ばなければ、始まらない。


 だがそれを言っても、この男には届かない。


「三つの条件は覚えている」


 ドラクが、俺を試すように黙った。


「お前の部下にはならない。指揮権は再議論する。そして、決裂すれば俺は戦う」


 ドラクの口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。


「覚えているなら、わかるだろう。お前が帰ってこなければ、三つ目が発動する」


 背を向けた。大刀の柄が揺れた。


「ドラク」


 声が出ていた。考えるより先に。


 ドラクの足が止まった。振り返らなかった。大刀を背負った背中が、曇った空の下で動かない。


「俺からも一つだ。俺が戻るまで、決裂はお前から起こすな」


 先例ではなかった。教科書の引用でもなかった。俺の言葉だった。


 ドラクの肩が動いた。笑ったのか、怒ったのか、背中からはわからなかった。


「……帰ってくるのか」


「帰ってくる」


 迷いはなかった。約束できる根拠もなかった。だがこの男に曖昧な言葉を渡すわけにはいかない。


 ドラクは何も言わず、石積みの向こうに消えた。





 夕暮れに、ナーシャが荷をまとめていた。


 俺の洞窟の入口に、革袋が二つ並んでいた。水と干し肉。短剣が一本、布に巻かれている。


「何をしている」


「荷造り」


「誰の」


「私の」


 ナーシャは振り返らずに革紐を結んでいた。灰色の肌に夕日が当たり、右角の刀傷が影を落としていた。


「一人で行くつもりだったの?」


 手が止まった。振り返った。


「お前は副官だ。山に残って——」


「副官は将軍の隣にいるものでしょう」


 言い切った。背筋が伸び、顎がわずかに上がった。戦場に出る前の姿勢だった。だが声が、わずかに震えていた。


「ゼーレンは敵の首都だ。行けば角を見ただけで石が飛ぶ。剣を抜けば口実を与える。抜かなければ殺されるかもしれない。それでも行くの?」


「それでも行くのか、は私の台詞」


 ナーシャの右手が腰の剣の柄に触れた。触れて、離した。


「護衛がいなくてどうするの。あんた、剣はからっきしでしょう」


 否定できなかった。将軍の体には剣技の記憶があるが、俺の体がそれを再現できるかは怪しい。


 ナーシャの目を見た。怖いのだ。それでも来ると決めている。その強さが、今の俺には眩しかった。


 天秤にかけた。


 二人で山を離れれば、配給を仕切る副官も消える。元文官は実務はできるが、ドラクを止める力はない。だがナーシャを置いていけば、俺はゼーレンで一人だ。護衛もなく、この体の剣を振るえるかも怪しい男が、敵の議長と向き合う。


 交渉が崩れれば、山に副官がいても意味がない。


「わかった。来い」


 ナーシャの目が一瞬だけ見開かれた。それから、口元が緩んだ。


「山は元文官に引き継ぐ。配給と水場と見張りの交代表は?」


「昨日のうちに渡した」


 もう済ませていたのか。俺が決める前に、この女は動いていた。


「ドラクには、待てと言った」


 ナーシャの手が止まった。革紐を結ぶ指が、宙で固まった。


「……言ったの?」


「今朝。俺が戻るまで決裂を起こすなと」


 ナーシャは俺の顔をしばらく見ていた。何かを探すような目だった。それから、小さく頷いた。


「明日の朝、発つ」


「わかっている」


 礼を言うべきだった。だが口が動かなかった。ナーシャは一瞬だけ笑って、荷の紐を確かめに戻った。





 夜が明けた。


 洞窟を出ると、空が白んでいた。東の稜線に光の線が走り、岩肌が赤く染まった。風は南から吹いている。春の匂いがした。草と、湿った土の匂い。


 荷を背負い、石積みの外に出た。ナーシャが先に立っていた。革袋を肩にかけ、剣を腰に差している。短く刈った髪が風に揺れた。


 山道を見下ろした。使節が登ってきた道。ヘルマンが削れた靴で登り、逆提案を懐に下りていった道だ。これから七日、この道を下る。旧占領地を抜け、平原を渡り、ゼーレンに着く。


 先例がある。


 敗者の指導者が勝者の首都に赴いて交渉した事例は、前世の記憶にいくつもある。成功したものも、失敗したものも。殺されたものも。


 先例が——


 止めた。


 口の中で途切れた言葉を、飲み込んだ。前世の教科書に書いてあったことが、これから俺の体で起きる。教科書の中の人物は、こういう朝に何を考えていたのか。書いてなかった。調べておけばよかった。


 折れた角の断面を、親指でなぞった。ざらついた感触。五ヶ月前より、指に馴染んでいた。


「行くぞ」


 ナーシャが頷いた。二人で山道を下り始めた。


 石が転がる音が谷に響いた。朝の光が前方の道を照らしている。足元の草が露に濡れていた。


 背後で、声が聞こえた。


「戻ってこい」


 ゾーラだった。石積みの上に立っていた。杖を突き、背筋をまっすぐにして、白く濁った目がこちらを見ていた。


 振り返らなかった。


 誰のためか。まだ答えられない。だが、何のためかなら言える。


 あの山の連中が、角を削らずに生きていける場所を守る。子供が生まれた時に共鳴で祝える暮らしを、残す。


 それがゼーレンで通じるかはわからない。だが俺の口から出る言葉は、それしかない。


 足を速めた。ナーシャの足音が、半歩後ろからついてくる。


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