農家の三男
アルベルト・ヴァイスは軽く頭を下げたまま、視線だけをこちらに上げた。目が笑っていない。口元だけが礼儀正しい曲線を描いている。
「長旅でお疲れでしょう。中へどうぞ。お話は部屋で」
先に立って歩き始めた。靴音が石の廊下に響く。規則正しい歩幅。振り返らない。俺たちがついてくることを確信しているのか、振り返る必要がないほど建物を把握しているのか。たぶん両方だ。
ナーシャが半歩後ろにいた。右手が腰の剣の柄のそばにある。触れてはいない。だが指先が二寸の距離で止まっていた。
廊下を二度曲がった。壁に地図が掛かっていた。大陸の全図。北にヴァルム山脈が描かれている。俺たちが住んでいる山。この地図では、爪の先ほどの面積しかなかった。
アルベルトが扉を開けた。
「どうぞ」
応接室は思ったより狭かった。四人掛けの卓が一つ。椅子が四脚。窓が一つ。壁沿いに本棚があり、書類と製本された冊子が詰まっていた。背表紙は揃っていない。実用の棚だ。飾りではない。
卓の上に、既に茶器が並んでいた。陶器の急須と杯が三つ。小皿に干し果物が載っている。客が来ることを予定し、その人数まで把握していた。当然か。招いたのはこの男だ。
椅子に腰を下ろした。ナーシャは座らず、俺の斜め後ろに立った。腰の剣はそのままだ。建物に入るとき、衛兵は剣を見たが何も言わなかった。アルベルトの指示だろう。武器を預けさせないことも、礼節の一つだ。
「副官殿もどうぞ。椅子は四つあります」
ナーシャが俺を見た。頷いた。ナーシャが隣に座る。アルベルトが向かいに座った。
茶を注ぐ動作が手慣れていた。こぼさない。量が均等。こういう細部に性格が出る。
「ヴァルム山脈から七日、でしたか」
「ええ」
「街の様子は、不快なこともあったかと思います」
一瞬、昨日の石が肩に当たった感触が蘇った。子供の目。恐怖と好奇心。
「街は活気がありました」
それだけ答えた。被害を訴えるつもりはない。同情を引いても交渉の足場にはならない。
アルベルトの目が、わずかに細くなった。俺の答えを量っている。不満を言わなかったことの意味を計算している。この男は、返答の内容ではなく返答の仕方を読む。
「では、本題に入りましょう」
茶杯を手に取った。一口飲んだ。温かい。山では飲めなかった種類の茶だ。
「まず、私のことを少しお話しします」
眼鏡のフレームを右手の人差し指で押し上げた。
「私は農家の三男です。血筋は持ちません。貴族でもなければ、勇者でもない。戦争中に軍師として召し抱えられ、戦後にこの評議会を作りました」
勇者でもない。将軍の記憶にあるエリアスの姿が一瞬ちらついた。勇者は戦後消えた。残ったのが、この眼鏡の男だ。
間を置かず、続けた。
「なぜこれを言うか。私が提示する条件には、王の気まぐれも貴族の体面もない。すべて計算と合意の上にある。血筋で決まったものは、何もない」
農家の三男。自分から明かした。聞かれる前に。
聞かれる前に出す。先例がある。自分の文脈で場を埋める交渉術だ。
だがこの男の場合、手法だけではない。声に自負があった。何もない場所から積み上げた人間の、隠しきれない矜持。
「ありがとうございます、ヴァイス議長」
折れた角の断面を、親指でなぞった。ざらついた感触が指に残る。
「では私も。私は魔族の残存勢力を率いています。約二万名。戦闘員は三千ほど。残りは老人、子供、職人です」
数字を出した。隠しても意味がない。相手はゲルト経由で概算を把握しているはずだ。ならば正確な数字を自分の口から出したほうが、誠意の演出になる。
「ヴァルム山脈で越冬しました。食料は不足していますが、壊滅してはいない」
「二万名」
アルベルトが数字を繰り返した。眼鏡の奥の目が計算をしていた。
「戦闘員が三千。山岳地形に陣を敷いている。先日の遠征隊を退けたのも、あなたの指揮ですね」
「ベルクヴァルト伯の部隊は評議会の命に反した独断でした。我々はそれを知った上で、捕虜を返しています」
「ええ。あれは助かりました」
助かった、と言った。評議会にとって、独断遠征は面倒だったのだ。捕虜返還がアルベルトの政治的立場を助けた。だから「助かった」は感謝ではなく、事実の確認だ。
俺はベルクヴァルト伯の遠征を退けたとき、捕虜を殺さなかった。あの判断が今、この卓の上に置かれている。一手が、何手先に効くかはわからない。
「率直に伺いたい」
アルベルトが茶杯を卓に置いた。音がしなかった。置く動作まで制御している。
「あなたが交渉を望んでいることは書簡で理解しています。では、交渉の材料は何ですか。失礼を承知で言えば、二万人の難民が評議会に提示できるものは多くない」
来た。
交渉の核心。敗者が勝者に差し出せる価値。これがなければ、共存の理由がない。
前世の研究が頭の中を回った。支配者の庇護の下で生き延びた少数民族には、共通点がある。代替できない機能を提供していた。金融、交易の仲介、辺境の防衛。支配者が「こいつらを消すと困る」と判断した集団だけが残った。価値を示せなかった者は消えた。
魔族が出せるものを数えた。鉱石。ヴァルム山脈の鉄は質がいい。だが人間にも鉱山はある。独占ではない。労働力。二万の手は使える。だがそれは奴隷への入口だ。ドラクが知ったら卓を蹴る。不戦の約束。負けた側の不戦に値はつかない。
代替できないもの。人間が持っていないもの。
一つだけある。
折れた角の断面に置いていた親指が、止まった。
共鳴。角を使った意思の伝達。人間には同等の手段がない。
だが共鳴は通信だけではない。記憶の伝達。感情の共有。戦闘時の意識の同期。環境の感知。角は魔族の文化そのものだ。ゾーラが若者に記憶を流し込む灯火の継承も、葬儀で悲しみを分かち合う儀礼も、すべて角を通じて行われる。
その全体像を、この男に渡すわけにはいかない。
だが部分なら出せる。通信だけなら。角と角で短い言葉を伝えられる、それだけの道具だと思わせることはできる。記憶も、感情も、戦闘共鳴も、見せなければ存在しないのと同じだ。
嘘ではない。言わないだけだ。
ゾーラの声が一瞬、頭の奥で響いた。嘘で得た和平は、嘘の上に建つ。あの老女なら、そう言うだろう。
だが全てを見せれば、角の本当の価値を教えることになる。有用なものは管理される。管理されたら、次は制限される。前世で研究した事例が脳裏をよぎった。不可欠な機能を提供し、だからこそ生かされ、だからこそ支配者の手から離れられなくなった民族。
全部は渡さない。通信という窓だけ開ける。奥の部屋は見せない。
茶杯を卓に置いた。
「一つ、提示できるものがあります」
声を落とさなかった。迷いは飲み込んだ。
「角を使った通信です」
アルベルトの右手が、眼鏡のフレームに触れた。押し上げるでもなく、触れるだけ。初めて見せた無意識の動作だった。
「魔族は角を介して、数百メートルの距離で言葉を伝え合うことができます。声を出さずに。人間には同等の手段がない。この技術を交易路に転用すれば、隊商間の連絡、山賊の早期発見、災害の警報が可能になります」
「それは、軍事技術では?」
即座に返ってきた。声に棘はなかった。純粋な確認のように聞こえた。だが、この男の純粋を信じるほど俺は甘くない。
「角で言葉を伝えるだけです。剣にも盾にもならない」
嘘ではない。通信だけなら、その通りだ。戦闘共鳴のことは言っていない。
「……なるほど」
アルベルトは沈黙した。五秒。十秒。眼鏡のフレームから手を離し、干し果物を一つつまんだ。口に入れ、噛んだ。
「興味深い。ただし、即答はしません。持ち帰って検討する必要がある」
「もちろんです」
持ち帰る。刺さった。
この男の前に、俺は窓を一つ開けた。だが奥の部屋は見せていない。角が通信の道具だと思っている限り、この男は角を「便利な器具」としか見ない。記憶の伝達を知らない。感情の共有を知らない。角が魔族の文化の根だと知らない。
知らないままでいてくれ。
だが同時に、不安が喉の奥に残った。窓を開けた以上、この男はいずれ奥の部屋に気づく。知略家とは、そういう生き物だ。
ナーシャが隣で背筋を伸ばした。何も言わない。だが視線がアルベルトの足元に落ちていた。靴。磨かれた靴。農家の三男の、靴。
「ゼルド殿」
アルベルトが名前を呼んだ。初めてだった。それまでは二人称を避けていた。名前を呼ぶタイミングまで計っていたのか。
「一つ、知っておいていただきたいことがある」
目を閉じた。
数秒の沈黙。応接室の窓から差す午後の光が、レンズの縁に反射していた。
目を開けたとき、声のトーンが変わっていた。
「この評議会には、あなた方を皆殺しにしたい派閥がいます」
茶杯を持つ手が止まった。止めた。動揺を見せるわけにはいかない。
「彼らがまだ動いていないのは、私が止めているからです」
眼鏡の奥の目が、俺を見ていた。鋭い。だが冷たくはない。冷たくないからこそ、読めない。
「私の条件を評価する際、それを考慮していただければ」
脅迫か。誠意か。
どちらとも取れる。前世の研究者ならば資料を集めて検証する。だがこの卓の向こう側にいたのは、資料ではなく人間だ。
分析を保留した。判断を急がない。ゾーラなら「それで?」と問い返すだろう。ドラクなら卓を蹴る。俺はどちらでもない。
「考慮します」
それだけ答えた。
アルベルトは頷いた。眼鏡を直し、立ち上がった。
「今日はここまでにしましょう。明日、正式な議題をお持ちします。合理的に進めましょう」
口癖だ。合理的に。この男の「合理的」は、感情を排除するという意味ではない。感情を計算に組み込むという意味だ。
扉が閉まった。足音が廊下を遠ざかっていく。案内の者は来なかった。茶器と干し果物と、俺たち二人だけが応接室に残された。
帰り道は自分で探せ、ということか。あるいは、ここにいる間は好きにしろ、ということか。どちらにせよ、この男のやり方だ。
ナーシャが、小さく息を吐いた。
「あの男の靴」
「気づいたか」
「農家の三男は、ああいう靴の磨き方をしない」
そうだ。泥を知っている人間は、靴を磨くときに底まで磨く。アルベルトの靴は甲だけが光っていた。見せるための靴。磨くことを覚えた人間の靴であって、磨き直す人間の靴ではない。
小さなことだ。だがナーシャはそれを見ていた。
窓の外で、ゼーレンの街の音が聞こえていた。荷馬車と人の声。笑い声。昨日と同じ音。だがこの部屋の中には、昨日にはなかった重さがあった。
殲滅派。皆殺しにしたい派閥。それを止めているのが目の前の男。
俺の分析は、この男を「管理共存派」と分類していた。ゲルトの情報。評議会の四派閥。殲滅・追放・管理共存・無関心。そこまでは知っていた。
だがアルベルトが殲滅派を抑えているという構図は、想定していなかった。対立しているとは思っていた。抑えているとは思わなかった。
この男は、俺が思っていたより大きい。




