「終焉の玉座」
その夜。
《黒鴉城ネヴァーグレイヴ》最奥、御座所は静かだった。
クロウは眠れていなかった。
寝台へ横になってから、かなりの時間が経ったはずだ。
だが意識は妙にはっきりしている。
疲れている。頭も怖い。思考も鈍くなっているはずなのに、眠りへ落ちる感覚だけが薄い。
体の問題か。
種族の問題か。
それとも、ただ単に頭が回りすぎているだけか。
どれでもありえた。
天井を見上げる。
黒い天井。
細い金の線。
部屋の隅で淡く灯る結晶灯。
静かすぎる。
静かすぎるせいで、かえって色々考えてしまう。
千年。
四天王。
帝国。
神話。
終焉の玉座。
黒翼の終王。
単語だけが、頭の中でぐるぐる回る。
「…寝ろ」
自分で自分に言ってみる。
当然、眠気は来ない。
しかもこの部屋、妙に快適なのが困る。
寝台も、温度も、光の具合も、全部がちょうどいい。
無駄に広いのに落ち着かない感じはなく、逆に静かに休めるよう整えられているのが分かる。
昔の自分が「王の私室なんだから完璧に快適であるべき」みたいな気持ちで設定したのかもしれない。
過去の自分の趣味に今の自分が振り回されている感じがして、少し腹が立った。
その時だった。
遠く、扉の外で控えめな足音が止まる。
誰か来た。
クロウは反射的に起き上がりかけて、少しだけ動きを抑える。
焦るな。
ここで慌てると格好がつかない。
「…何だ」
短く声をかける。
扉の向こうから返ってきたのは、ヴェルミリアの声だった。
「お休みのところ失礼いたします。急を要するものではございません」
急を要しないなら朝でよくないか、と思った。
だが、この城における“朝”という概念がどこまで人間的なのか、まだよく分からない。
「申せ」
「帝国側の第一報が上がりました」
早いな。
本当に早い。
いや、そういう国だと分かっていたつもりではいた。
だが、分かっているのと実際に来るのは別だ。
「入れ」
静かに扉が開く。
ヴェルミリアは相変わらず乱れ一つない姿で入ってきた。
黒いドレス。
白い手袋。
整いすぎた顔立ち。
だが、その瞳の奥には、冷たいだけではない、はっきりした知性の光がある。
彼女は寝台へ近づきすぎず、適切な距離で一礼した。
「帝国北方方面軍は、今夜の接触を“意思ある警告”として受け取ったようです」
クロウは少しだけ眉を動かしかける。
「…どうして分かった」
「境界線通信の傍受です」
当たり前のように言うな。
いや、有能なのは分かる。
分かるが、情報の取れる範囲が広すぎる。
「内容はおおむね、こちらの想定通りでした。禁域は沈黙していない。こちらを精密に把握している。現時点で敵対行動は限定的。ですが、“線”は示された、と」
そこまで正確に読まれたか。
クロウは複雑な気分になる。
自分としては、何とか穏便に済ませようとしただけだ。
だが結果としては、“境界を示し、相手に判断させる王”みたいな格好になっている。
困る。
…困るのだが、少しだけ安心もした。
向こうがきちんと受け取っているなら、少なくとも今すぐ雑に踏み込んでくる確率は下がる。
「中央は」
「まだ割れております。恐れる者、測ろうとする者、強気に出たがる者。ただし少なくとも今夜の段階では、即時進軍を主張できる空気ではなさそうです」
なら悪くない。
悪くないどころか、かなり上出来だ。
「…そうか」
クロウは短く返した。
ヴェルミリアはその一言をどう受け取ったのか、わずかに目を伏せる。
「陛下のご判断が実を結びました」
違う。
いや、半分くらいはそうかもしれないが、そこまで堂々と言われると気まずい。
クロウは少しだけ言葉を選んでから返す。
「まだ一手目だ。決めつけるな」
「はい」
ヴェルミリアは素直に頭を下げた。
「ですが、今夜の一手で帝国は“こちらが何も知らぬ災厄ではない”と理解しました。その一点だけでも大きな差です」
その評価には頷ける。
少なくとも、向こうは今夜、“ただの怪異”ではなく“意志ある相手”を見た。
なら次からは、交渉にせよ戦いにせよ、何かしらの意思決定としてぶつかってくる。
雑な事故戦争よりは、まだ対処しやすい。
…たぶん。
ヴェルミリアがさらに続ける。
「今後数日は、帝国もこちらも大きくは動かないでしょう。ですので、その間に陛下へ最低限お目通しいただきたいものがございます」
嫌な予感がした。
「何だ」
「黒翼庭の全体構造と、千年のあいだに変化した外の世界の概要でございます」
それは必要だ。
ものすごく必要だ。
必要なのだが、改めて言われると気が怖い。
「…どの程度の量だ」
「必要最低限に絞りお伝えします」
ヴェルミリアは即答した。
「陛下がご存じであるべきことを最優先に。細部は後回しにいたします」
その配慮はありがたい。
本当にありがたい。
「明日より、順にお伝えします」
「分かった」
そこまで話してから、クロウは少しだけ迷い、それでも口にした。
「ヴェルミリア」
「はい」
「今夜は助かった」
言ってしまってから、少し素直すぎたかと思う。
だがヴェルミリアは一切驚かなかった。
むしろ、ごく自然に一礼する。
「もったいないお言葉です。私は、陛下の御意を形にしたにすぎません」
そこまで言われると、逆にこちらが気まずい。
いや、実際かなり助けられているのだ。
あの場で彼女がいなければ、たぶんもう少しひどいことになっていた。
それに。
千年待っていた相手に対して、それくらいは言うべきだろうという気持ちも少しあった。
「…そういうことにしておく」
クロウが言うと、ヴェルミリアはほんのわずかにだけ、表情を和らげた。
「はい。では、そのように」
それから彼女は再び一礼し、静かに部屋を辞した。
扉が閉まる。
また静寂が戻る。
だが、今度の静けさは少しだけ違っていた。
帝国は、今夜の出来事を“意思ある警告”として受け取った。
そして黒翼庭では、自分の一言一言がそのまま盤面の線になる。
怖い。
やはり怖い。
それでも、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、自分がこの場に座る意味を考え始めているのかもしれなかった。
クロウは再び寝台へ身を横たえる。
「…明日、か」
小さく呟く。
明日からは、黒翼庭の中身を知ることになる。
千年の空白を埋める作業も始まる。
帝国も次の手を考える。
世界も少しずつ、こちらを現実として認識し始める。
面倒だ。
怖い。
だが、やるしかない。
その実感だけを胸に抱いたまま、クロウは目を閉じる。
さっきまでは、閉じても思考ばかりが回っていた。
だが今は少し違う。
帝国は受け取った。
黒翼庭は動いている。
そして少なくとも、自分は今夜の役目をひとまず終えた。
そう思った瞬間、張りつめていた何かがようやく緩んだ。
まぶたの裏へ、静かな闇が落ちてくる。
千年という言葉の重さも、
四天王の信頼の重さも、
まだ何一つ解けてはいない。
それでも。
いまは沈んでいいと、そう思えた。
その直前、扉の向こう、遠い回廊のさらに向こうから、また小さく鐘の音がした。
北方帝国では今ごろ、持ち帰られた報告が誰かの机の上へ届き始めているのだろう。
そして黒翼庭では、四天王がもう次の盤面を整え始めている。
自分だけが置いていかれないようにしなければならない。
そう思いながら。
今度こそクロウの意識は、ゆっくりと暗い眠りの底へ沈んでいった。
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