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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第1章 『黒翼の終王、目覚める』

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「第一報を受ける」



 竜嶺帝国ザルカディア、北方方面軍臨時司令所は、夜半を過ぎても明かりが落ちなかった。


 禁域に最も近い前線拠点。


 石造りの要塞をそのまま横へ広げたような施設で、厚い壁、低い天井、無駄のない廊下が続いている。

 華美さはない。

 あるのは実用と防衛、それに軍人たちの気配だけだ。


 中央棟の作戦室にも、今なお複数の術灯が灯っていた。


 机の上には北方地図。

 壁には監視記録。

 床には融けきらない雪が薄く残り、外套を脱いだばかりの兵たちがその湿り気を室内へ持ち込んでいる。


 冷えた空気と、濡れた革の匂い。

 紙と鉄と魔力灯の熱が混じる、前線司令所特有の夜だった。


 その部屋の中央で、ルークスは片膝をついていた。


 帰還から、まだそれほど時間は経っていない。

 外套には雪が残り、飛竜の鞍革の匂いもまだ消えていなかった。

 だが報告を遅らせる余地はない。


 禁域で見たものが事実なら、一刻の遅れが命取りになりかねない。


 机の向こうに立つ男が、低く言う。


「顔を上げろ、ルークス」


 北方方面軍副司令、グレイン将軍。


 年は五十を越えている。体格は大きくない。

 だが背筋はまっすぐで、言葉の一つ一つに鉄の芯が通っていた。

 叩き上げの軍人というより、戦場で判断を積み重ねてきた指揮官の顔だった。


 ルークスはゆっくりと顔を上げる。


 作戦室には他にも数人いた。

 副官たち、地図係、監視官、書記官。

 それに一人、黒いローブをまとった女が壁際に立っている。


 宮廷魔導官派遣員、エルマ・セレス。


 年若い女に見える。

 だが、その瞳は妙に冷静で、この部屋の誰よりも温度が低かった。

 椅子には座らず、最初から最後まで立ったまま報告を聞くつもりらしい。


「報告しろ」


 グレイン将軍が言う。


「見たものを順番に簡潔にそのまま伝えろ。」


「はっ」


 ルークスは答える。


 喉はまだ少し乾いていた。

 だが声は出た。


「禁域境界線へ予定通り接近。谷内部へ先行三、後衛二の編成で侵入しました。侵入前までは通常の監視圧内。魔力濃度の上昇を除けば、物理的異常はありません」


 そこまで口にして、ルークスは少しだけ間を置いた。


 どこから先を“異常”と呼ぶべきか。

 自分の中でも、そこには整理が必要だったからだ。


「谷へ入った直後、環境が変化しました。まず風が消えました。あの地域、あの時間帯で、あそこまで自然に風が止むのは考えにくい」


 地図係の書記官が急いで書き留める音がした。


「次に、飛竜が怯えました。統制不能でした。ですが、理由のない警戒ではなかったと断言できます。軍竜は訓練されております。戦場にも出ております。にもかかわらず、谷へ入った瞬間から明確に怯えた様子を見せました」


 グレイン将軍は口を挟まない。


 ただ聞いている。


 その聞き方が、逆に話しやすかった。

 余計な誘導がない。

 言葉を盛ればすぐ分かるし、削っても見抜かれる。そういう聞き方だ。


「そして、黒い羽を確認しました」


 そこで初めて、室内の何人かが視線を上げた。


「羽?」


 グレイン将軍の問いは短い。


「はっ。鴉の羽に似た黒い羽です。最初の一枚は谷の中ほど。二枚目は谷の出口付近に」


「魔物の羽ばたきは」


「ありません」


 即答できた。


「音も、影も、直接の反応もなし。ただ羽だけが、音もなく落ちました」


「術式の痕跡は?」


 今度はエルマが口を開いた。


 声は静かで、感情が薄い。


 ルークスは彼女へ顔を向ける。


「明確な発動痕は拾えませんでした」


 それが一番気味が悪かった。


 もし強い魔力反応でもあれば、何かしら“敵対的な術”として扱えた。

 だが実際には違う。

 見えない。

 拾えない。

 なのに、確かにこちらは見られていると分かる。


「得体のしれない圧力だけがありました」


 ルークスは言った。


「誰かがいる。少なくとも、こちらの侵入を認識している。そうとしか思えない気配が、谷全体にありました」


 部屋の空気がわずかに重くなる。


 北方方面軍の面々は、禁域を知らないわけではない。

 古い伝承も、封印記録も、山ほど聞かされて育っている。


 だがそれは、あくまで知識として知っているだけだ。

 実際に現場から“見えないが、確かに意志がある”と報告が上がるのは、意味が違う。


 グレイン将軍が低く問う。


「敵影は最後まで視認できなかったのだな」


「はっ」


「では何故、“認識されている”と判断した」


 その問いに、ルークスは短く息を吸った。


 難しい質問だった。

 だが答えるしかない。


「気配です」


「続けろ」


「こちらが谷へ入り、飛竜が怯え、最初の羽が落ちた。そこでいったん停止し、隊を立て直した後、再び進んだ」


 ルークスは思い出す。

 谷の狭さ。

 飛竜の震え。

 雪の上に落ちた異様な黒。


「その後、監視祠へ情報を回しつつ、さらに進むかどうかを協議した直後に、二枚目の羽が谷の出口へ落ちたのです」


 沈黙。


 それがどういう意味か、この部屋の人間なら誰でも分かる。


「…警告か」


 グレイン将軍が呟く。


 ルークスは少し迷ってから頷いた。


「私はそう判断しました」


「断定ではないのだな」


「はっ。断定はできません。ですが、偶然ではありえないかと」


 エルマが壁際で腕を組んだ。


「少なくとも、こちらの接近を“見ている”何かはいる、と」


「はい」


「そして、その何かは、いきなり攻撃するのではなく、境界線を示した」


 ルークスは彼女の言葉に視線を向ける。


 あの谷で自分が抱いた違和感が、短い言葉で整理されていくのが分かった。


「それが、警告である可能性は高いかと」


 エルマは数秒、黙って考えた。


 それからグレイン将軍へ向き直る。


「将軍」


「言え」


「この報告が正しいなら、禁域側は少なくとも二つの性質を持っています」


 作戦室の視線が彼女へ集まる。


「一つ。こちらの侵入を、境界線段階で精密に把握できること」


 エルマは指を一本立てた。


「二つ。把握した上で、即時排除ではなく段階的な反応を返せること」



「つまり」


 彼女は静かに言った。


「相手は“存在している”だけではありません。我々のことを監視し、そして選別しています」


 その一言で、部屋の温度がまた少し下がった。


 グレイン将軍の顔には表情がない。

 だが、机の上で組まれた指先だけがわずかに動いた。


「選んでいる、か」


「はい」


「何を」


「こちらがどこまで踏み込むかを、でしょう」


 エルマははっきりと言った。


「少なくとも今夜の段階では、相手は我々を殲滅しようとはしなかった。ならば、価値がないか、まだその時ではないか、あるいは――」


「測られているか」


 グレイン将軍の言葉に、エルマは小さく頷く。


 ルークスは片膝をついたまま、背中に汗がにじむのを感じていた。


 あの場で自分が抱いた感覚が、こうして言葉になると、改めてぞっとする。

 敵影が見えた方がまだましだった。

 姿のある脅威なら、兵は構えられる。


 だが、見えないまま“判断されている”という感覚は、兵の心を削る。


「祠からの監視補助はどうだった」


 グレイン将軍が視線を戻す。


「最低限です。谷内部の魔力波形は拾えましたが、中心部までは届きませんでした」


「後続部隊の要請は」


「私が止めました」


 ルークスは答える。


「その場で増援を呼べば、こちらが恐慌状態にあると受け取られる可能性がありました。加えて、敵意の有無も不明なまま兵を増やせば、向こうに開戦の意図と見なされる恐れがあると判断しました」


 グレイン将軍は数秒、何も言わなかった。


 その沈黙が長く感じられる。


 やがて、彼はゆっくりと口を開いた。


「妥当な判断だ」


 その一言で、ルークスはようやく肩から少し力が抜けた。


 完全な成功ではない。

 だが少なくとも、現場での判断を愚かとは見なされなかった。


「ご苦労だった。今夜の行動は記録に値する」


「はっ」


「だが、これで終わりではない」


 当然だ。


「中央へは即時報告を上げる。禁域に“何かが起きた”ではなく、“何かが意思を持ってこちらを監視している”と」


 その言い方は、かなり重い。


 かなり重いが、今夜の出来事を表すには適切でもあった。


 エルマが静かに口を挟む。


「一つ、付け加えるべき点がございます」


 グレイン将軍が頷く。


「言え」


「相手は、我々に見せる情報を選んでいます」


 エルマはルークスの報告書へ視線を落とした。


「羽二枚。見えない視線。環境変化。いずれも“存在は伝わるが、その正体は伝わらない”程度に留めています」


 彼女の声は淡々としていた。

 だからこそ、内容が余計に冷たく聞こえた。


「つまり相手は、全力を見せたのではなく、こちらに持ち帰らせる情報そのものを選んでいる可能性があります」


 その分析に、作戦室の何人かが息を呑んだ。


 ルークス自身、そこまでは考えていなかった。


 ただ怖かった。

 ただ不気味だった。

 ただ、これ以上は踏み込むべきではないと思った。


 だがもし、それすら相手の思惑の範囲内だとしたら。


「…悪趣味だな」


 誰かが小さく呟いた。


 グレイン将軍はそれを無視したまま、低く言う。


「悪趣味かどうかはどうでもいい。問題は、相手に意志があることだ」


 それはその通りだった。


「眠っている禁域なら扱いようもある。だが、見て、測って、警告まで寄越すなら話は変わる」


 グレイン将軍は机上の北方地図を見下ろす。


「これを“ただの反応”として中央へ送れば、愚か者が動く。逆に“大災厄の再臨”と騒げば、それはそれで別の愚か者が動く」


 難しい顔で書記官が筆を止める。


「表現を整える必要がある」


 エルマが淡々と補足した。


「恐怖を煽りすぎず、軽視もさせず。帝都が正しく慎重になる程度の文言が必要です」


 言っていることはよく分かる。


 ルークスは初めて、この場にエルマがいる意味を理解した。

 彼女は戦力というより、**現象を言葉へ落とすために**ここにいるのだ。


 グレイン将軍はしばし黙考し、それからルークスへ視線を戻した。


「お前は今夜の報告を整理しろ。感覚ではなく、事実の順で書け」


「はっ」


「羽の位置、飛竜の反応、谷内部の静穏化、祠とのやり取り、すべてだ。余計な言葉は削れ」


「承知しました」


「ただし」


 そこでグレイン将軍の声が少しだけ低くなる。


「お前自身の所感は別紙で付けろ。“現場で何を感じたか”は、それはそれで価値がある」


 ルークスは一瞬だけ目を上げた。


 将軍の顔は変わらない。

 だが、その指示はありがたかった。


 戦場では、数字にならない違和感が命を救うことがある。

 今夜のあれは、まさにそれだった。


「ありがとうございます」


「礼は要らん。生きて帰ったから使えるだけだ」


 ぶっきらぼうな言葉だったが、それで十分だった。


 その時、作戦室の扉が二度叩かれた。


「入れ」


 グレイン将軍の許可と同時に、若い伝令兵が入ってくる。

 外気で頬を赤くしながら、敬礼した。


「将軍閣下! 帝都との通信線、確保できました!」


 早い。


 だが、今夜は遅いよりましだ。


 グレイン将軍は即座に指示を飛ばした。


「第一報を上げる。記録官、要点をまとめろ。エルマ殿、文言の整えを頼みたい」


「承りました」


「ルークスは待機。追加の確認があればその場で答えろ」


「はっ」


 作戦室全体が一気に動き出す。


 紙が広がる。

 術式盤が起動する。

 記録係が走り、伝令兵が廊下へ戻る。


 まるで一つの生き物のように、北方方面軍の中枢が次の動きへ移った。


 ルークスはその場で静かに立ち上がり、壁際へ下がる。


 役目は終わっていない。

 だが少なくとも、最初の報告は渡した。


 これで中央がどう動くか。

 それはもう、自分の手を離れた領域だ。


 ルークスは無意識に、自分の手袋を見た。


 まだ少し震えている。


 谷で感じたあの視線は、こうして暖かい部屋へ戻ってきても、妙に皮膚の下へ残っていた。


 見られていた。


 間違いなく。


 そして、あちらはそれを隠そうともしなかった。


 恐怖と、怒りと、奇妙な納得が混ざる。


 帝国軍人としては腹立たしい。

 だが、斥候としては理解もできる。


 あれは、いきなり潰す相手に向ける態度ではない。


 まず線を見せる。

 それを越えるかどうかを見る。

 越えたなら、その時は――


「…っ」


 そこでルークスは思考を切った。


 その先を想像したくなかったからだ。


 同じ頃。


 帝都へ向けた第一報の文面が、エルマの手で静かに整えられていた。


 禁域反応増大。

 境界線監視において意思ある干渉を確認。

 敵対行動は現時点で限定的。

 ただし、境界線段階での精密把握能力と、警告的反応の存在が強く疑われる。


 そして最後に、一文。


 **禁域は沈黙していない。少なくとも今夜、こちらを見ていた。**


 それを見たグレイン将軍は、何も言わずに頷いた。


 今の帝国に必要なのは、悲鳴ではない。

 だが、楽観でもない。


 慎重な恐れだ。


 そしておそらく――


 その“慎重な恐れ”こそが、禁域の主が今夜、こちらへ持ち帰らせたかったものなのだろう。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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