「黒翼庭の骨格」
目が覚めた時、部屋の明るさは昨夜とほとんど変わっていなかった。
黒い天井。
細い金の線。
壁際に灯る淡い結晶灯。
窓はある。
だが外へ大きく開かれた窓ではなく、黒い格子と術式ガラスで閉じられた細長い採光窓だった。
そこから差し込む光は、朝焼けのような温かい色ではない。
青白く、薄く、氷越しに届く月明かりを思わせる静かな明るさだった。
クロウは寝台の上で数秒、ぼんやりと天井を見上げる。
夢ではない。
やはり夢ではなかった。
起きれば自分の部屋へ戻っている。
そんな都合のいい展開は当然なく、そこにあるのは相変わらず《黒翼の終王》の私室と、自分のものではないようでいて、もう妙に馴染み始めているこの身体だった。
「…現実か」
口にしてみても、実感は半分くらいしかついてこない。
だが昨日のやり取りや、帝国斥候との接触を思い返せば、嫌でも理解できる。
現実だ。
しかも、かなり面倒な形の。
寝台から起き上がる。
昨夜はそれだけでも妙に緊張したが、今日は少しだけましだった。
身体の動きは相変わらず、不自然なくらい滑らかだ。
それでも“自分のものではない何か”という違和感は、昨日より薄い。
慣れてきているのか。
それはそれで怖い。
軽く部屋を見回す。
長机。
書架。
壁際の棚。
装飾は少ないが、ひとつひとつが重い存在感を持っている。
王の私室、というより。
王が本当に使うための部屋、という印象だった。
見栄だけではない。
機能のある静けさがある。
その時、扉の向こうで控えめに足音が止まる。
「陛下」
ヴェルミリアの声だった。
「お目覚めでいらっしゃいますか」
早いな、とクロウは思う。
いや、時間的には普通なのかもしれない。
だがこの城では、“普通の朝”という感覚自体がまだ曖昧だ。
「入れ」
扉が開く。
ヴェルミリアは昨夜と変わらない、乱れのない姿で入ってきた。
黒いドレス。
白い手袋。
艶のある黒髪。
朝だからといって柔らかくなる感じはない。
だが不思議と、昨日ほど張り詰めた印象でもなかった。
こちらが起きたことを確認した上で、必要な距離と温度に整えてきているように見える。
「お加減はいかがですか」
その問いに、クロウはほんの一瞬だけ迷う。
大丈夫ではない。
精神的にはかなり大変だ。
だが、そう答えるわけにもいかない。
「問題ない」
短く返す。
するとヴェルミリアは自然に頷いた。
「何よりでございます」
信じているのか。
気を遣っているのか。
その両方か。
たぶん両方なのだろう。
「昨夜申し上げた通り、本日は黒翼庭の概要と、外の世界の現状を優先してお伝えいたします」
「ああ」
「その前に、ご朝食はいかがなさいますか」
クロウは一瞬だけ固まった。
朝食。
そうか。食事という概念はあるのか。
いや、あるか。私室があるなら食事もあるだろう。
だが、この身体が何を必要とするのか、自分はまだ知らない。
「…必要なのか、今の私に」
思わずそのまま聞いてしまった。
ヴェルミリアは一切表情を崩さずに答える。
「必要ではございません。ですが、摂取することは可能です。嗜好として召し上がることもございました」
なるほど。
つまり、生きるために必須ではない。
だが、食べること自体はできるらしい。
そこまで聞いて、クロウは少しだけ安心する。
人間からあまりにも遠ざかりすぎていない証拠のように感じたからだ。
「軽いものでいい」
「かしこまりました」
ヴェルミリアは一礼した。
「では、隣室にご用意いたします。そのままご説明も進められますので」
何から何まで手際がいい。
ありがたい。
ありがたいが、やはり胃に来るレベルでありがたい。
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私室の奥に続く扉の向こうは、小さな食堂になっていた。
小さいといっても、王の私室に付属する部屋としての話であり、普通の感覚なら十分に広い。
黒木の長卓。
背の高い椅子。
壁際の飾り棚。
窓は細く、外の淡い光が床へ長く落ちている。
卓上には、すでに食事が並んでいた。
量は多くない。
銀の器に入った濃い色のスープ。
薄く焼かれたパンに似たもの。
果実を煮たらしい皿。
それと、透明なグラスに入った深い赤色の液体。
見た目は普通だ。
少なくとも、王の食卓だから生贄の心臓が並んでいる、みたいな悪趣味ではなくて助かった。
クロウは内心で少しだけ安堵しながら席につく。
ヴェルミリアは対面ではなく、やや斜め後ろの位置に立った。
説明役としてはその方が自然なのだろう。
食事を邪魔せず、必要な時だけ前へ出られる距離だった。
「まず黒翼庭の全体からご説明いたします」
彼女がそう言うと、卓上の空間にまた淡い光が浮かんだ。
今日も便利だな、とクロウは思う。
地図が立体的に広がる。
今度は境界線ではなく、城の内部だ。
巨大な中空構造。
層ごとに区切られた区画。
回廊、広間、塔、保管庫、訓練場、研究区画、墓所、兵舎、監視室。
黒鴉城ネヴァーグレイヴが、一つの城というより一個の都市に近い規模を持っているのが一目で分かった。
「黒翼庭は、大きく五つの中枢機能で成り立っております」
ヴェルミリアが指先を動かすたび、地図上の区画が順番に光る。
「第一に、城そのもの。《黒鴉城ネヴァーグレイヴ》本体。居住、統治、儀式、保管の中枢です」
中央部が淡く輝く。
いま自分がいる御座所も、その光の中に含まれていた。
「第二に、軍勢。黒翼騎士団を中心とした外征・防衛戦力」
北側区画が光る。
訓練場や兵舎らしい構造が見えた。
地図の中でも、そこはどこか重く、密度が高い。
「第三に、諜報。影鴉衆、およびその管制機構」
南側の細い回廊群が浮かび上がる。
他の区画に比べて線が多く、入り組んでいる。
見ているだけで、隠れることそのものを目的にした造りだと分かる。
「第四に、技術と兵装。魂炉、工廠、術式管理区画」
下層の一部が赤く染まる。
そこだけ少し重い光だ。
生き物で言えば、心臓や内臓に近い場所なのかもしれない。
「第五に、記録と知識。死霊書庫、古文書庫、監視記録庫」
最後に、城の最奥近くにある巨大な円形区画が光った。
静かだが、妙な圧を感じる場所だった。
クロウはそれを見ながら、少しずつ理解していく。
城。
軍。
諜報。
技術。
知識。
つまり黒翼庭は、単なる魔王城ではない。
最初から国家規模の組織として設計されているのだ。
そりゃ帝国からすれば脅威だろう。
自分で作っておいて何だが、だいぶ厄介だ。
「現在、通常稼働へ戻っているのはどこまでだ」
問いながら、スープへ視線を落とす。
香りは普通にいい。
恐る恐る口をつけると、驚くほど自然な味がした。
温かい。
少しだけ塩気が強い。
身体の内側へ入ってくる感覚も、ちゃんとある。
食べられる。
この事実は地味に大きかった。
「中枢はほぼ問題ございません」
ヴェルミリアは説明を続ける。
「ただし、千年の沈黙により、稼働を落とした区画は多数ございます。黒翼騎士団は常備分のみ、影鴉衆は境界線展開分のみ、工廠は最低出力。大規模展開を行うには、段階的な復旧が必要です」
「つまり万全の状態には程遠い、と」
「はい」
ヴェルミリアははっきり頷いた。
「ですが、防衛と監視には十分な状態です」
それを聞いて、クロウは少しだけ気が楽になった。
もし「万全の状態です。いつでも世界をひっくり返せます」みたいな話だったら、逆に扱いに困る。
いや、今でも十分困っているが、それでもまだ“準備段階”があるのは救いだ。
「四天王の管轄は」
「私が政務。ガルドが軍事。セラフィナが諜報と粛清。バルザードが技術と兵装の管理です」
分かりやすい。
そして昨日の印象とも、きれいに噛み合う。
「では私は?」
少し踏み込んだ質問だったが、これは聞いておくべきだと思った。
ヴェルミリアは一拍置いてから答える。
「最終決定者にして、黒翼庭そのものの主であらせられます」
やはり重い。
答えとしては当然なのだが、改めて言われると重い。
「より実務的に申しますと」
ヴェルミリアは続けた。
「最終的な決定権を持つのが陛下です。どこまでを見るか。何を許し、何を許さないか。四天王はその補佐で動きます」
…なるほど。
それは昨日、帝国斥候とのやり取りで自分がなんとなく感じ始めていた役割そのものだった。
細部を決めるのは配下。
だが最終的な空気を決めるのは自分。
だからこそ、あの一言一言があんなに重く受け取られていたのか。
「つまり、私は方向性だけ示せばいいと」
「はい」
ヴェルミリアは静かに答える。
「もちろん、細部までお決めになることも可能です。ですが、黒翼庭は本来、陛下のご負担を減らすために設計されております」
それはたぶん、昔の自分の趣味も入っているのだろう。
最強の王の下に、それぞれ超有能な配下がいて、王は最後の決定権を持つ。
そういう構図は確かに格好いい。
格好いいが、いざ自分がその王をやる側になると、胃にとてつもない負担が来る。
パンに似たものを少しちぎって口へ運ぶ。
これも普通に食べられた。
ありがたい。食事が普通というだけで、だいぶ救われる。
「では次に外界についてです」
ヴェルミリアが地図を切り替える。
今度は城ではなく、大陸そのものが浮かんだ。
山脈、海、河川、森林、平原。
そこへ四つの色が広がる。
「現在、世界を分断する勢力は四つ」
北方が赤く染まる。
「竜嶺帝国ザルカディア。軍事覇権国家。今、最も早くこちらへ反応している勢力です」
次に西が白く。
「聖冠連邦アルディウス。宗教国家群の盟主。神話と禁忌に敏感で、対不死・対呪術戦力に秀でます」
南が青く。
「魔導王国エルグレイス。知識と遺産研究を国是とする学術国家です」
東の海沿いが金に。
「蒼海商盟ルヴァンディア。海運、流通、情報を握る商業連合体です」
クロウはその配置を頭に入れる。
北が帝国。
西が宗教。
南が魔導。
東が商業。
分かりやすい。
「勢力として最も厄介なの国はどこだ」
「状況次第で変わります」
ヴェルミリアは即答した。
「正面戦力だけなら帝国。神話的敵意で動くなら連邦。真実に近づこうとする知性としては魔導王国。利で世界をつなぐ意味では商盟。各国の性質や役割が違います故」
よく整理されている。
そして厄介だ。
どの方向から来ても面倒だ。
「今の段階で、こちらの動向を把握しているのは」
「明確に把握しているのは帝国のみです。ですが、監視祠を通じて他国へ情報の断片は流れるでしょう。今夜の件が帝都で流布されれば、数日以内には他の大国も“禁域に何かが起きた”程度の情報は掴むかと」
つまり時間差で広がる。
すぐに全世界が騒ぐわけではない。
だが、遅れて情報は確実に広がる。
物語的には分かりやすい展開だが、当事者としては勘弁してほしい。
クロウは赤い液体の入ったグラスへ視線を落とす。
少し迷ってから口をつけると、こちらは酒ではなく、濃い果汁に近い味がした。
甘さは控えめで、喉へ静かに落ちていく。
助かる。
何もかもがいちいち不穏な世界で、飲み物が普通に飲めるだけで妙に安心する。
「数日のあいだに、各国はどう動く」
ヴェルミリアは大陸図の上に細い光の線を重ねながら答えた。
「帝国は報告と再編。連邦は神学判断の準備。魔導王国は観測記録の照合。商盟は情報の値踏み。おおむね、そのような初動になるかと」
嫌なほど、それぞれの国らしい。
「そして、そのどこもこちらを“ただの伝説”として扱い切れなくなります」
「なぜそう言える」
「昨夜、帝国が持ち帰ったのは情報だけではないからです」
ヴェルミリアは静かに言った。
「沈黙した禁域ではなく、見て、測り、線を引く意志の存在です。それが一度、国家の報告書へ載った時点で、神話は伝説ではなく存在する相手になります」
その言葉は重みをもっていた。
怖いが、納得もできた。
怪異なら封じればいい。
災厄なら討てばいい。
だが、相手が意志を持ってこちらを見返しているなら、話は変わる。
それはもう、政治と軍事と信仰と利害の全部が絡む“存在”になる。
クロウは小さく息をつく。
たった一晩で、だいぶ厄介なところまで来てしまった。
だが同時に、それはもう避けようのない流れでもあるのだろう。
「…そうか」
そう言うと、ヴェルミリアは深く一礼した。
「では本日は、各国ごとの詳細と、黒翼庭内の実務系統を順にお示しいたします」
まだ続くのか、と思った。
思ったが、必要なのも分かる。
ここで逃げても仕方がない。
クロウは無表情のまま、もう一口だけスープを飲んだ。
温かい。
普通の味だ。
それだけで、かろうじて地に足がつく気がした。
神話の王だの、千年の眠りだの、四大国家だの、状況はどう考えても普通ではない。
だが、こうして一つずつ言葉にされ、整理され、理解できる形へ落ちてくるなら、まだ何とかなるかもしれない。
いや、何とかするしかないのだが。
そう思いながら、クロウは卓上に浮かぶ大陸図を見つめた。
いや、見つめることしかできなかった
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