エピローグ 「会いに行く」
門前で返事が返ったという事実は、雪崩のように一気に広がる種類のものではなかった。
むしろ逆だった。
それは最初、ひどく静かに各国の中へ沈んでいった。
大声で言いふらせる類の話ではない。
軽々しく報じれば、意味だけが先に膨らむ。
意味が膨らめば、また誰かが自分の都合で言葉を置きたがる。
そうなれば今度は、せっかく返ってきたものまで閉じかねない。
だから、どの国も最初は沈黙を選んだ。
だが沈黙を選んだからといって、世界が変わっていないわけではない。
むしろ、変わったものほど静かに重くなる。
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竜嶺帝国ザルカディアでは、北方地図の横へ新しい紙が一枚だけ足されていた。
余計な飾りも、色もない。
ただ、簡潔な文字で書かれている。
**門前均衡、第二段階へ移行**
レオンハルトはその文をしばらく見ていた。
第一段階は、門前秩序の成立。
第二段階は、応答の確認。
軍事国家らしい整理だった。
感傷はない。
だが、その無機質な言い回しの奥にある重さまでは消えない。
「父上は何と」
彼が問うと、エルマは手元の報告書を閉じた。
「“門前に席を保て”とのことです」
「変わらんな」
「はい」
皇帝ヴァルゼオン三世らしい判断だ。
王がもう一柱いる可能性が、いよいよ現実になった。
なら帝国がやるべきことは、慌てて押すことではない。
門前で外されないことだ。
「終王は」
レオンハルトが低く言う。
「次に何をすると思う」
「おそらく、会いに行く準備を始めるかと」
エルマの答えに、レオンハルトは小さく頷いた。
そうだろう。
返事が来たなら、次はその先だ。
門前に秩序を置き、受容配置を作り、応答を受け取った。
なら、次は“向こう側へ届く”段になる。
そこを帝国がどう見るか。
どう立つか。
それもまた、新しい均衡の一部になる。
「境界を崩すな」
レオンハルトは言う。
「はい」
「中央を急かすな」
「承知しました」
「そして」
「次の席が生まれるなら、帝国はそこから外れるな」
エルマは深く頭を下げた。
帝国は前へ出すぎない。
だが、見失いもしない。
それが今の強さだった。
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魔導王国エルグレイスでは、中央記録院の一角に新しい保管棚が設けられていた。
補助宮。
白霜外界。
眠王中継遺構。
門前秩序。
そして、その一段下。
**応答記録・第一次**
リセリアはその札を見て、何とも言えない顔をした。
「重いですね」
「ええ」
オルフェンは静かに答える。
「ですが、これ以外の名を付ける方が不誠実でしょう」
それもその通りだ。
まだ完全接続ではない。
姿を見たわけでもない。
会話が成立したわけでもない。
それでも“応答があった”ことだけは、もはや疑いようがない。
だから記録も、その事実に合わせるしかない。
「神話が、ついに注釈じゃなくなりました」
リセリアがぽつりと言う。
オルフェンはわずかに目を細めた。
「はい」
「今までは、古い文献の向こうでした。失われた王、眠れる王、保留された白。そういう記述を追っていた」
「ええ」
「でも、もう違います」
彼女は記録棚へ置かれた新しい札を見る。
「現在です」
その一言は、学者としてかなり深い告白だった。
記録しているのではない。
いま起きているものに立ち会っている。
それは喜びでもあり、怖さでもある。
「終王は、どう動くでしょう」
リセリアが問う。
「待ち方を変えたように」
オルフェンはゆっくり言った。
「次は、届き方を変えるでしょう」
その表現は、王国らしく少し遠回しで、かなり正確だった。
会いに行く。
それをそのまま言ってもよかった。
だが、いまの段階では“届き方を変える”の方がしっくりくる。
まだ門は完全には開いていない。
なら、次に必要なのは向こう側へ届くための条件を揃えることだ。
王国の役目は明快だった。
見誤らないこと。
そして次の条件が何であるかを、最も正確に記録すること。
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蒼海商盟ルヴァンディアでは、価値の表が一晩で書き換わっていた。
門前順序案件。
第二圏観測席。
境界安定権。
待機権。
受容配置参加権。
その一番下に、新しく小さく追加された札。
**接見前段階**
メリゼアはそれを見て、机へ片肘をついた。
「嫌な言葉ね」
カイルが苦笑する。
「でも、ぴったりです」
「そうなのよ」
接見。
まだそこまで行っていない。
だが、もう“ただの応答”でもない。
向こう側の王は終王に返した。
なら次に価値を持つのは、誰がその先の段に立つのかという話になる。
商盟としては、そこへ一番早く値札を付けたい。
だが同時に、一番雑に扱いたくない。
いまここで“接見順を売る”などと言い出したら、たぶん全部が下品になる。
そして下品になった瞬間に、門の向こうはまた遠ざかるだろう。
「短期派は」
メリゼアが問う。
「静かです。今度ばかりは本当に」
「いいことね」
彼女は少しだけ笑った。
「ようやく怖がるべきものを怖がり始めた」
怖がる。
そこが大事だった。
門前で余計なことをすると、自分たちの得ではなく、世界全体の順番が崩れる。
そこまで理解した短期派は、もはや短期派としては半分失格みたいなものだ。
だが、いまはそれでいい。
短期より、外されない方が高い。
「終王は」
カイルが言う。
「おそらく次の段へ進みます」
「ええ」
メリゼアも頷いた。
「そして今度は、“待つ”じゃなく“届く”の方へ行く」
それは商人にも分かる変化だった。
門前に秩序を置き、受け取りの場を作り、応答を受け取った。
そこまで行ったなら、次はその先へ伸びるしかない。
「なら商盟は」
メリゼアが言う。
「道を売るんじゃないわね」
「ええ」
「道を崩さないことに値を置く」
それがこの国のやり方だった。
正面に立たない。
だが、流れが死なないようにする。
海の国は、そうやって一番大きな利益を拾う。
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聖冠連邦アルディウスでは、静けさが一番深かった。
法王庁の一室で、ユリオス十三世は長い時間何も言わなかった。
窓から差す光は淡く、卓の上には北方報告が一枚だけ置かれている。
**応答確認。個別呼応あり。名づけ保留**
いかにも連邦らしい書き方だ。
応答は認める。
だが、名前はまだ保留する。
それは弱さではなく、今の段階ではむしろ誠実さに近かった。
「名が遠のきましたな」
法王がようやく言う。
アシュレイが頷く。
「はい」
「ですが、理解は近づいた」
「ええ」
そこが連邦にとって、いちばん難しいところだった。
普通なら逆だ。
理解が浅いから名を置く。
名を置いてから、そこへ意味を重ねる。
だが、いま北で起きていることはその逆を要求している。
名を急ぐと外す。
理解を深めるほど、まだ強く断じられなくなる。
信仰国家にとっては、かなり苦しい形の真実だった。
「聖女はどう感じています」
法王が問う。
リュミエラは少しだけ目を伏せたあと、答えた。
「怖いです」
「はい」
「でも、それだけではありません」
「ええ」
「眠りは、閉ざしているのではなく、留めている感じがしました」
その表現に、法王はゆっくりと頷いた。
留める。
保つ。
まだ終えてはいけないものを、眠りの中で抱える。
それは災厄の王というより、むしろある種の守り手に近い。
もちろん、その守り手が人にとって優しいとは限らない。
だが少なくとも、“ただ滅ぼすもの”ではなかった。
「グラウスは」
アシュレイが低く言う。
「納得していません」
「でしょうな」
「ですが、今日の応答で強く出る理由もまた減りました」
「ええ」
法王は静かに言った。
「向こうが返してきた以上、こちらから意味を奪うのは違います」
それが今の連邦の結論だった。
まだ名を置かない。
まだ断じない。
祈るなら、壊さぬ位置で。
それは窮屈だ。
だが、いまの北にはその窮屈さの方が正しい。
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そして黒鴉城ネヴァーグレイヴ。
夜の小会議室には、またクロウだけが残っていた。
最近は本当にこの時間が増えた。
王というのはもっとこう、玉座で何かを待つものだと思っていた。
実際にはかなりの時間、記録板と地図の前に立っている。
理不尽である。
机の上には、今日までの整理が並んでいた。
門前秩序、成立。
受容配置、成功。
意味断片、受領。
個別呼応、確認。
向こう側存在、確定。
そこまで来て、さらに最後にヴェルミリアが追記した一文がある。
**次段階予測:接近ではなく接見**
それを見て、クロウは思わず少しだけ顔をしかめた。
「重いな」
声に出る。
接見。
別に間違ってはいない。
むしろ、かなり近い。
だが言葉にされるとやはり重い。
こちらが会いに行く。
あるいは、向こうと会うための段に入る。
返事が来たなら、たしかに次はそうなるのだろう。
窓の外は暗い。
北は見えない。
それでも白の向こうに、もう一柱の王がいるという事実だけは消えない。
「…一人ではなかった、か」
小さく呟く。
その言葉は、少し前までならどこか他人事みたいに聞こえただろう。
だが今は違う。
終王としての責任は変わらない。
面倒なことも減らない。
むしろこれから増える可能性の方が高い。
それでも。
一人ではなかった。
その一事が、思っていたよりずっと深く、自分の中に残っている。
嬉しいと言うには重い。
救いだと言うにはまだ早い。
それでも、来ないままよりはいい。
その程度には、もうはっきりしていた。
クロウは記録板の上に指を置いたまま、静かに息を吐く。
返事は来た。
なら次は、その返事の先へ進む番だ。
「…会いに行くことになるんだろうな」
誰に聞かせるでもない声だった。
だがその時、扉の向こうからヴェルミリアの落ち着いた声がした。
「はい」
どうやら、また残っていたらしい。
「…いたのか」
「失礼いたしました」
まったく悪びれない返しである。
「ですが、おそらく陛下はそう仰るかと」
「嫌な読みだな」
「光栄です」
少しだけ、ほんの少しだけだが、クロウは苦笑しそうになって、それを堪えた。
会いに行く。
その言葉はまだ重い。
だが、目を逸らすほどではない。
白き眠りからの応答は、世界だけではなく、クロウの孤独の形まで少し変えてしまったのだった。
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