「白き眠りからの応答」
その夜、クロウはほとんど眠れなかった。
眠れないと言っても、まったく目を閉じなかったわけではない。
ちゃんと寝台には入ったし、呼吸も整えた。
けれど、頭のどこかがずっと白霜外界の門前に立ったままだった。
――終わらせる者。
あの呼びかけが、耳ではなく胸の奥に残っている。
声ではない。
はっきりした会話でもない。
それでも、あまりにも明確だった。
向こう側は、自分を知っている。
少なくとも、そう呼ぶだけの認識を持っている。
理屈としては、別におかしくないのかもしれない。
王権に連なる門なら、七柱のことを何も知らないはずがない。
終王を知らずにいては、むしろ不自然ですらある。
理屈としてはそうだ。
そうなのだが、実際に呼ばれると話は別だった。
(面倒だな)
(本当に面倒だ)
(知っている相手が向こうにいる、ってことだろ)
(いや、まだ“相手”と決まったわけでもないか)
(でも少なくとも、何かは私を“終わらせる者”として見ていた)
(…重いな)
重い。
重いが、不思議と嫌悪だけではなかった。
怖さはある。
警戒もある。
それでも胸のどこかに**「本当にいたのか」**という、どうしようもなく静かな実感も残っている。
それがまた落ち着かなかった。
いないかもしれないものを相手にしている間は、まだ逃げ道がある。
推測で済ませられる。
記録の問題にできる。
だが、向こう側から言葉の形をした断片が返ってきた以上、もうそれは難しい。
白の向こうに、ただの現象ではない何かがいる。
そこまでは、もう認めるしかなかった。
---
翌朝の門前は、昨日まででいちばん静かだった。
各国とも、もう余計なことは一つもしたくない顔をしている。
帝国は境界でいっそう規律を固め、王国は記録をさらに絞り、連邦は祈りの気配を薄くし、商盟はほとんど影のように人と情報の流れを止めている。
そして黒翼庭の中央。
クロウは昨日と同じ位置に立ちながら、今日は少しだけ感覚が違うことに気づいていた。
昨日までは**“待つために立つ”**だった。
今日はそこへ、もう一つ意味が乗っている。
**呼ばれたあとで、壊さずに立つ**
その違いは大きかった。
向こう側はすでにこちらを見た。
しかも、ただ見ただけではない。
自分を“終わらせる者”として呼んだ。
なら、こちらもまたその事実に浮つかず、崩れずに立たなければならない。
かなり難しい。
そしてかなり面倒だ。
「陛下」
ヴェルミリアがごく小さな声で言う。
「境界、安定」
「ああ」
「記録線、問題なし」
「分かった」
「中央も、昨日のまま保たれています」
「…そうか」
それだけのやり取りだった。
だが、今はそれでいい。
何しろ今日は、少しでも**“今日は来るかもしれない”**という気配を前へ出すと、それだけで白が身を引きそうな感じがある。
期待すら、押しつけになる。
そういう日だった。
(本当に面倒だな)
(来るかもしれない日に限って、期待するなって話なんだろ)
(いや、分かる)
(分かるが、人間そう簡単に期待を消せるかと言われるとだな)
もちろん、顔には出さない。
最近はそれだけはだいぶ上手くなった。
---
朝の観測が始まってしばらくは、何も起きないように見えた。
白は整っている。
門前も乱れていない。
昨日の呼びかけの余韻だけが、静かに場の底へ残っている。
それでも、違いは確かにあった。
白が遠くない。
近づいたわけではない。
距離そのものは相変わらず普通ではない。
だが**“向こう側がただ向こうにあるだけではない”**感じが、昨日よりもさらに濃くなっている。
リュミエラは胸へ手を当てたまま、小さく息を整えていた。
今日はその感知が、これまででいちばん静かだった。
静かで、深い。
怖い。
それは消えない。
だが、怖さの中にある慎重さが、もうはっきりと“誰かのもの”に近づいている。
「どうだ」
アシュレイが低く問う。
「近いです」
リュミエラは答える。
「昨日より、さらに」
「危ないか」
その問いに、彼女は少しだけ目を閉じた。
胸の奥にある気配を確かめるように、数呼吸だけ沈黙する。
「…怖いです」
「それはそうだろうな」
「でも、危ないという感じではありません」
その答えに、アシュレイもすぐには言葉を返さなかった。
怖い。
けれど害意ではない。
深い。
けれど押し潰してくる感じでもない。
向こう側は、こちらへ無理に踏み込むつもりではなく、むしろ慎重に近づき方を測っている。
そんな感触だった。
「昨日より“見ている”感じか」
アシュレイが言う。
「はい」
リュミエラは頷く。
「探っているというより…決めている感じです」
「何を」
「返すかどうかを」
短い答えだった。
だが、それだけで十分だった。
向こう側はいま、まさに決めているのだろう。
返すか。
どこまで返すか。
何を返すか。
そういう段階に、たぶん入っている。
---
王国側でも、リセリアがほとんど同じ結論へ辿り着いていた。
「揺れ方が違います」
彼女は結晶板を抱えたまま言う。
「昨日までは、“こちらを見ている揺れ”でした」
「今日は」
オルフェンが問う。
「“向こう側で何かが定まりつつある揺れ”です」
ザイードが喉の奥で低く息を鳴らした。
「返書、か」
「その可能性が高いです」
言葉としてはまだ慎重だ。
だが、顔はかなり確信に近い。
学者は、分からないものの前で興奮しやすい。
それでも今、リセリアが無理に前へ出ようとしていないこと自体が、この場の正しさを証明しているようでもあった。
知りたい。
だが知りたいからこそ、押さない。
それがいま門前で最も大切な作法だと、王国の人間たちももう十分理解していた。
「記録を続けろ」
オルフェンが静かに言う。
「だが、見すぎるな」
「はい」
「今日は“取る”日ではありません。“受け取れるか”を見る日です」
リセリアは深く頷いた。
そこを間違えれば、せっかく整った白がまた遠のく。
そのことは、誰より彼女自身が分かっていた。
---
帝国でも同じような変化は、別の形で表れていた。
レオンハルトは中央を見たまま、腕を組んでいた。
白は静かだ。
だが昨日までの“整っている白”より、今日はさらに**“意味を返す準備に入っている白”**に見える。
「殿下」
エルマが小さな声で言う。
「今日の白は、こちらの呼吸すら見ている気がします」
「動揺するな、という話だな」
「はい」
レオンハルトは小さく息を吐いた。
帝国にとっても、これはあまり得意な局面ではない。
剣を抜かずに立つ。
境界を押さえる。
そこまではいい。
だが“返書の前触れ”を前にして、なお自分の呼吸まで整えていろと言われると、これはもう戦ではなく作法に近かった。
「面倒だな」
思わず漏れる。
エルマが少しだけ驚いた顔をしたあと、控えめに答える。
「同感です」
それでよかった。
---
昼を少し回った頃、ついに白が変わった。
今までのように浅くもならない。
濃くもならない。
整っていた白が、さらに一段だけ静かになる。
静か、というより、沈むに近い。
場そのものが息を潜めて**“今なら返せる”**ところまで均された感じだ。
門前にいる全員が、それを肌で理解した。
来る。
今度は本当に、来る。
クロウは中央に立ったまま、ほんのわずかにだけ呼吸を止めた。
(落ち着け)
(落ち着け)
(ここで浮くな)
(返事を奪うな)
(受け取るだけでいい)
自分に言い聞かせる。
向こう側は昨日、自分を呼んだ。
なら今日は、その続きを返してくる可能性が高い。
そこでこちらが
“来い”
“見せろ”
“名を出せ”
の気配を出せば、たぶん全部が台無しになる。
だから待つ。
崩れずに。
受け取るためだけに。
そうして数拍。
白の奥で、黒い輪郭がこれまででいちばん安定して立ち上がった。
門だ。
はっきり見えたわけではない。
それでも、あれが門なのだと誰の目にも分かる。
白の中に黒が立つ。
ただの影ではない。
意味を持った境界として。
リュミエラが息を呑む。
リセリアは手の震えを抑えるように記録板を抱え直す。
レオンハルトは一歩も動かず、ただ視線だけを鋭くする。
カイルですら、今日は冗談を挟まない。
そしてその門の向こうから、今度は断片ではないものが返った。
---
最初に来たのは、景色だった。
いや、景色と呼んでいいのかは分からない。
白の向こうに、一瞬だけ別の白が重なる。
こちらの白霜外界より深く、もっと静かで、もっと**“眠っている白”**だった。
雪ではない。
霧でもない。
時間そのものが白く沈んでいるみたいな空間。
その中に、遠く、何かがある。
玉座のようにも見える。
棺のようにも見える。
あるいはただ、眠りを載せるための座なのかもしれない。
そこへ、言葉が重なった。
今度は明確に、クロウへ。
――待たせたな。
短い。
だが、その一言だけで胸の奥が重くなる。
待たせたな。
まるで、本当に長い眠りの向こうから、ようやく返した言葉みたいだった。
クロウは一瞬だけ息を失った。
それは予想していた“神秘的な断片”より、ずっと人の言葉に近かったからだ。
いや、人の言葉というより、王の言葉かもしれない。
謝罪ではない。
言い訳でもない。
ただ事実として**“返すのが遅れた”**と知っている者の言葉。
(本当に…いたな)
今度は誤魔化しようがなかった。
向こう側には明確な意志がある。
しかも、自分へ返すべき言葉を選べるだけの意識がある。
その事実が、思ったよりずっと深く刺さる。
「陛下!」
ヴェルミリアの声が飛ぶ。
だが、それは焦りというより確認に近い。
「…聞こえた」
クロウは小さく答えた。
声が少しだけ低くなる。
抑えないと、自分でも分かるくらい何かが揺れそうだった。
「何と」
ヴェルミリアが問う。
問うが、その声も普段よりわずかに硬い。
「待たせたな、だ」
その一言で、場の空気が変わる。
リュミエラが目を見開いた。
リセリアははっとしたように顔を上げる。
オルフェンが初めてはっきりと息を呑む。
レオンハルトの目が細くなり、アシュレイは無意識に半歩だけ前へ出そうとして、そこで止まった。
誰もその言葉を完全には聞いていない。
だが**“いま終王が向こう側から明確な応答を受け取った”**ことだけは全員が理解した。
しかも、その内容が攻撃でも拒絶でもない。
待たせたな。
それはもう、ただの現象の返しではなかった。
---
白の向こうの景色は、そこで終わらなかった。
一瞬だけ、さらに深い白が開く。
そこには眠りがあった。
長い、長い保留のような眠り。
怠惰でも停滞でもない。
何かを守るために、あえて留まっている眠り。
そしてクロウは、その感触の中にひどく奇妙な既視感を覚えた。
これは、自分とは違う。
だが、まるで無関係でもない。
自分が終わりを引き受ける王なら。
向こうは、まだ終わらせてはいけないものを眠りの中で保留する王。
そんな印象が、一瞬だけ胸をかすめた。
「…そういうことか」
思わず漏れる。
その言葉は誰にも届いたかどうか分からない。
だが自分の中では、かなり大きい理解だった。
向こう側はただ眠っていたのではない。
世界に必要だから、その眠りを引き受けていた。
そしていま、こちらが受け取れる形になったから、ようやく返してきた。
そう考えると、今までの慎重さにも全部筋が通る。
---
だが、その景色も言葉も長くは続かなかった。
門はまだ完全には開いていない。
向こう側の王も、まだこちらへ姿を見せる段ではないのだろう。
白の向こうの深い景色は、静かに輪郭をほどき始める。
門の黒も、少しずつまた白の中へ沈み始める。
それでも今度は、喪失感より**“ここまで返った”**という重みの方が大きかった。
「追うな」
クロウは低く言った。
誰にというより、場全体へ向けて。
「今日はこれでいい」
その判断は、すぐに全員へ伝わる。
オルフェンが頷く。
レオンハルトも異論を挟まない。
アシュレイも、商盟も、連邦も、誰も前へは出ない。
いまここでさらに引き出そうとするのは愚かだ。
そのことを、もう全員が十分に理解していた。
白は再び静かに整い、門の輪郭も薄れていく。
だが、さっきまでそこにあった応答だけは消えない。
待たせたな。
その言葉は、門前に立った全員の記憶へ確かに刻まれていた。
---
引き上げの直前、リュミエラが小さな声で呟いた。
「眠っていたのでしょうか」
ただ眠っていたのではない。
眠ること自体に意味があった。
アシュレイが低く返す。
「たぶんな」
「はい」
彼女は胸へ手を当てる。
「そう感じました」
王国側でも、リセリアが震える息で言う。
「これは、もう記録ではありませんね」
オルフェンが目を閉じた。
「ええ」
「現在です」
帝国のレオンハルトは、最後まで門前から視線を外さなかった。
「王が、もう一柱いる」
エルマが言う。
「はい」
「そして、終王と話した」
「少なくとも、その段に入りました」
それだけで北方均衡の意味は十分変わる。
商盟の後方で、メリゼアはいつもよりずっと真顔だった。
「順番どころじゃないわね」
カイルが苦笑する。
「ええ。まず“本当に返した”の方が先でした」
「高いどころじゃないわ」
その声には、珍しく打算より驚きの方が強く出ていた。
---
そして中央。
クロウは最後にもう一度だけ、白の向こうを見た。
門は見えない。
深い眠りの景色も、もうない。
それでも、そこに確かに“誰か”がいたことだけは分かる。
しかもその相手は、自分を知っていた。
待たせたな、と言った。
その一言には、長い時間と、長い保留と、ようやく返せたという重みが全部入っていた。
「…面倒だな」
小さく漏れた声は、いつものようでいて、いつもと少し違った。
今までの“面倒”は、厄介さや責任の重さに対するものだった。
だが今はそこへ、どうしようもなく個人的な揺れが混じっている。
返事が来た。
本当にいた。
しかも、自分に返した。
それは嬉しいと言うには重すぎる。
怖いと言うには静かすぎる。
だが少なくとも、もう昨日までの自分には戻れない。
白き眠りからの応答は、門前だけでなく、クロウ自身の中にも確かな変化を残していた。
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