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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第6章

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「返書の前触れ」

 

 その夜、黒鴉城ネヴァーグレイヴは妙に静かだった。


 いや、静かなのはいつものことだ。

 この城はもともと、騒がしさとはあまり縁がない。

 廊下を行き交う足音も控えめで、扉の開閉も慎重で、声が響くこと自体が少ない。


 けれど今夜の静けさは、普段の“何も起きていない静けさ”とは明らかに違っていた。


 何かが起きたあとで。

 しかも、その起きたことがあまりにも重くて。

 それを見た全員が、まだその意味をうまく飲み込み切れていない時の静けさだった。


 白の向こうから返った断片。


 ――まだ。


 たったそれだけ。

 声ですらない。

 はっきりした会話でもない。

 長い言葉でもない。


 なのに、その一語だけで、門前にいた全員の立ち位置が少し変わってしまった。


 向こう側には意志がある。

 慎重さがある。

 そして、こちらを見ている。


 そこまではもう、誰にもごまかせなかった。


 ---


 小会議室の卓には、今日の記録がまだ片づけられずに並んでいた。


 門前位相、安定継続。

 受容配置、維持。

 白の整い、継続。

 意味断片、受領。

 応答、未成立。

 ただし前触れ、明確化。


 言葉にすると、どうしても硬い。

 書き方としては正しい。

 余計な感情を混ぜない、記録として優秀な整理だ。


 だが内容は、かなり凶悪だった。


 クロウは卓の前に立ち、記録板の一行をじっと見つめていた。


 **意味断片、受領**


 ひどい書かれ方だな、と少し思う。


 もちろん、記録としては正しい。

 むしろこれ以上ないくらい真っ当だ。

 だが、実際にその断片を受け取った側の感覚は、そんな乾いた文で済むものでもなかった。


(返った)

(本当に返った)

(まだ、それだけだ)

(でも、それだけじゃない)

(意味がある)

(向こう側に意志がある)


 そこまで考えて、また少しだけ頭が重くなる。


 面倒だ。

 ずっと面倒だと思ってきた。

 補助宮も。

 白霜外界も。

 門も。

 門前秩序も。

 全部、ずっと面倒だった。


 けれど、今日の“面倒”は今までとは少し違う。


 嫌なだけではない。

 重いだけでもない。


 返ってきたのだ。

 ほんの少しでも。

 確かに、向こう側から。


 それをどう受け止めればいいのか、自分でもまだうまく決めきれない。

 喜んでいいのか。

 警戒を深めるべきなのか。

 あるいは、もっと別の何かなのか。


 扉が静かに開き、ヴェルミリアが入ってきた。


「陛下」


「ああ」


「各国、今夜は静観へ移りました」


「だろうな」


 今日のところは、誰も動けないだろう。

 あれだけの断片を前にして、軽々しく次へ踏み込めるほど、門前にいた面々は愚かではない。


「帝国は」


 ヴェルミリアが続ける。


「“返答前段階の成立”として整理しております」


「王国は」


「“応答の直前にある接触”との見解です」


「商盟は」


「“値の跳ね上がる予告”と見ています」


 そこは商盟らしい。


「連邦は」


「言葉を選べておりません」


 それもまた、連邦らしかった。


 強い名を置きたい国ほど、いま起きたことにはすぐ名を置けない。

 なにしろ相手の方から“まだ”と返してきたのだ。

 こちらが強く断じるには、あまりにも繊細すぎる。


「…当然か」


 クロウは小さく言った。


 そして少しだけ間を置いてから聞く。


「お前はどう見る」


 ヴェルミリアはすぐには答えなかった。

 卓の上の記録板へ一度だけ視線を落とし、それから静かに言う。


「陛下に対して、明確に“向こう側が見ている”と示された段階かと」


 その言い方は、あまりにも正確だった。


 こちらが探っているだけではない。

 向こうもまた、こちらを見て、返し方を選んでいる。


 だから“まだ”なのだろう。


 返る気がないのではない。

 返るつもりはある。

 ただ、まだ足りない。


「…嫌なくらい筋が通るな」


 クロウが言うと、ヴェルミリアはほんのわずかにだけ目元を和らげた。


「はい」


「そういう時の方が困る」


「存じております」


 本当に存じている顔で言うので、少しだけ力が抜けた。


 ---


 翌朝、門前に立つ各国の空気は明らかに昨日までと違っていた。


 静かだ。

 だがその静けさは、慎重さだけではない。


 全員が、**「今日は何かあるかもしれない」**と思っている。


 その期待とも不安ともつかないものを、表へ出さないように必死で抑えている静けさだった。


 帝国は一層きっちりと境界線を保っている。

 誰か一人でも余計な気の緩みを見せれば、それがそのまま場を壊しかねないと理解しているのだろう。


 王国は昨日よりさらに記録線を細くした。

 見たい。

 だが、見たい気持ちが強すぎると場が乱れる。

 それを知っている者の絞り方だった。


 連邦は、祈りの声をさらに薄くしている。

 リュミエラの感知を乱さず、同時に意味を厚くしすぎないためだ。


 商盟はほとんど気配だけになっていた。

 もはや“売るためにいる”というより、“崩させないためにいる”に近い。


 そして黒翼庭の中央。


 クロウは昨日と同じ位置に立ちながら、内心ではかなり落ち着かなかった。


(来るのか)

(いや、来ないかもしれない)

(来ないかもしれないが、来る気配はある)

(来るなら来るで困る)

(困るが)

(来ないよりはいい)

(というか…本当に、いたんだな)


 そこへ戻る。


 昨日までなら、まだ“いるかもしれない”で誤魔化せた。

 だが、もうそれは無理だ。


 返ってきた。

 短くても。

 断片でも。

 向こう側から意味が来た。


 ならもう、現象ではない。

 人格、とまで言い切るにはまだ早いかもしれない。

 それでも、“誰か”と呼ぶ方が近い段階に入っている。


 その事実が、じわじわと効いていた。


 ---


 朝の観測は、恐ろしいほど静かに進んだ。


 昨日の断片をもう一度引き出そうとする者はいない。

 誰も“見たい”を前へ出さない。

 それでも場に緊張は満ちている。


 まるで、白そのものが耳を澄ませているみたいだった。


 リュミエラは昨日と同じ位置に立ち、胸へ手を当てたまま目を閉じていた。

 今日は感知の仕方がまた少し違う。


 近い。

 昨日よりもさらに近い。

 だが、それは圧ではなく“距離の縮まり”として感じられた。


 白の向こうにいる何かが、こちらの場の形を確かめながら、昨日より半歩だけ寄っている。


「…深いです」


 小さく漏れた声に、アシュレイが視線だけを向ける。


「昨日よりか」


「はい」


「危ないか」


 その問いに、リュミエラは少しだけ考えてから首を振った。


「怖いです」


「それはそうだろうな」


「でも、危ないという感じではありません」


 そこが重要だった。


 怖い。

 だが、害意ではない。

 恐ろしい。

 だが、押し潰すようなものではない。


 向こう側の慎重さが、むしろこちらの慎重さと噛み合って、いまは奇妙な均衡になっている。


「なら」


 アシュレイが低く言う。


「今日も、こちらは余計なことをしないだけだな」


「ええ」


 それしかない。

 そしてたぶん、それが一番難しい。


 ---


 王国側では、リセリアが記録板へ目を落としたまま、ほとんど呼吸も浅くしていた。


「昨日の続きじゃない」


 彼女がかすかに言う。


「何が違う」


 オルフェンが問う。


「昨日は断片が“返った”だけでした」


「はい」


「今日は、“こちらがそれを受け取れるかを見ている”感じがあります」


 その言い方に、オルフェンの目が細くなる。


 受け取れるか。


 つまり向こう側は、断片を置いただけではない。

 その断片のあと、こちらがどう場を保つかをさらに見ている。


「…試しているのではなく」


 オルフェンが低く言う。


「確かめている、ですか」


「はい」


 リセリアは頷く。


「こちらが“まだ”をどう受け取るか、その続きを見ているように思えます」


 それは、かなり人間的な慎重さだった。

 そして、人間的であるからこそ余計に重い。


 ---


 帝国でも同じような変化は別の形で表れていた。


 レオンハルトは中央を見たまま、腕を組んでいた。

 白は静かだ。

 だが昨日までの“整っている白”より、今日はさらに“意味を待っている白”に見える。


「殿下」


 エルマが小さな声で言う。


「今日の白は、こちらの動揺すら見ている気がします」


「動揺するな、という話だな」


「はい」


 レオンハルトは小さく息を吐いた。


 帝国にとっても、これはあまり得意な局面ではない。

 剣を抜かずに立つ。

 境界を押さえる。

 そこまではいい。


 だが“返書の前触れ”を前にして、なお自分の呼吸まで整えていろと言われると、これはもう戦ではなく作法に近かった。


「面倒だな」


 思わず漏れる。


 エルマが少しだけ驚いた顔をしたあと、控えめに答える。


「同感です」


 それでよかった。


 ---


 昼を過ぎても、昨日のような明確な断片は返らなかった。


 だが、それは無意味な停滞ではないと全員が感じていた。


 白が静かに続いている。

 場も崩れていない。

 つまり“まだ”は拒絶ではなく、続きを待つ言葉だったのだろう。


 その理解が、各国の沈黙をさらに深くした。


 そして、昼の終わりに近づいた頃。


 クロウのところへ、今度は明確に届いた。


 最初は音ではなかった。

 呼びかけでもない。


 ただ、白の向こうにあるはずの遠さが、一瞬だけこちらへ向きを変えた。


 次いで、胸の奥へ何かが静かに触れる。


 昨日より深い。

 昨日よりも、ずっと“こちらを見ている”。


 クロウはほんのわずかに息を止めた。


(来る)


 そう思った瞬間に、それは言葉になった。


 ――終わらせる者。


 短い。

 だが、今度は間違いなく言葉だった。


 誰かの声を耳で聞いたわけではない。

 それでも意味として、名前を呼ぶ代わりのように、その呼びかけだけがはっきりと届いた。


 終わらせる者。


 それはクロウに向けられていた。

 誰がどう聞こうと、そこだけは疑いようがない。


 背筋に静かなものが走る。


 怖いわけではない。

 いや、怖さもある。

 だがそれ以上に、現実になってしまった、という重さの方が大きかった。


 向こう側は、自分を知っている。


 少なくとも、そう呼ぶに足るものとして見ている。


「陛下?」


 ヴェルミリアの声がした。


 気づけば、彼女がほんの半歩だけ近づいている。

 いつもより慎重な、だがすぐ支えに入れる距離だ。


「…来た」


 クロウは小さく言った。


 声は低かったが、自分でも少しだけ乾いていたのが分かった。


「何が」


「呼ばれた」


 その一言で、ヴェルミリアの目が見開かれる。

 珍しい顔だった。


 彼女だけではない。

 中央から少し離れた場所にいたリュミエラも、はっとしたように顔を上げた。


「今」


 彼女が小さく呟く。


「今、名ではない呼びかけが…」


 アシュレイがすぐにリュミエラを見る。


「お前にも分かったのか」


「意味だけ、少し」


 王国側も異変を察している。

 リセリアが記録板を見たまま、息を呑む。


「位相が変わった」


「どう変わった」


 オルフェンが問う。


「返ってきた断片が、昨日より深い。誰か一人へ焦点を合わせた感じです」


 帝国もまた、中央を見たまま動かない。

 レオンハルトの表情が、昨日までと違うものになっていた。


「終王か」


 低く呟く。

 エルマは答えない。

 答えなくても、もうそうとしか見えない。


 ---


 門前には、奇妙な静寂が落ちていた。


 誰も何も言わない。

 いや、言えない。


 呼ばれたのはクロウだ。

 その事実が、場の中心を一段深く変えてしまった。


 クロウ自身も、すぐ次の言葉は返せなかった。


 返せなかった、というより、返していいのかまだ分からなかった。


(どうする)

(返すのか)

(いや、返事を奪うなと言ったのは私だ)

(ここでこちらから強く返すのは違う)

(だが、黙るのも違うのか?)

(…落ち着け)


 そういう時ほど、余計なことはしない方がいい。


 呼ばれた。

 それだけでも今日は十分すぎる。


「陛下」


 ヴェルミリアがごく低い声で言う。


「いまは」


「分かっている」


 クロウは短く返す。


 そして白の向こうを見たまま、静かに呼吸を整えた。


 返事を奪うな。

 なら、自分がやるべきことは“呼ばれたことを壊さず受け止める”方だろう。


 向こう側はまだ姿を見せていない。

 まだ門そのものも開いていない。

 なら、この呼びかけはたぶん“応答の前触れ”のさらに深い段だ。


 焦れば壊れる。

 それだけは、もう嫌というほど分かっている。


 しばらくして、白の向こうの気配は再び静かに引いた。


 消えたのではない。

 昨日と同じだ。

 ただ、置くべき断片だけを置いて、また慎重さの中へ戻った。


 終わらせる者。


 その呼びかけだけが、まだ胸の奥に残っている。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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