「返書の前触れ」
その夜、黒鴉城ネヴァーグレイヴは妙に静かだった。
いや、静かなのはいつものことだ。
この城はもともと、騒がしさとはあまり縁がない。
廊下を行き交う足音も控えめで、扉の開閉も慎重で、声が響くこと自体が少ない。
けれど今夜の静けさは、普段の“何も起きていない静けさ”とは明らかに違っていた。
何かが起きたあとで。
しかも、その起きたことがあまりにも重くて。
それを見た全員が、まだその意味をうまく飲み込み切れていない時の静けさだった。
白の向こうから返った断片。
――まだ。
たったそれだけ。
声ですらない。
はっきりした会話でもない。
長い言葉でもない。
なのに、その一語だけで、門前にいた全員の立ち位置が少し変わってしまった。
向こう側には意志がある。
慎重さがある。
そして、こちらを見ている。
そこまではもう、誰にもごまかせなかった。
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小会議室の卓には、今日の記録がまだ片づけられずに並んでいた。
門前位相、安定継続。
受容配置、維持。
白の整い、継続。
意味断片、受領。
応答、未成立。
ただし前触れ、明確化。
言葉にすると、どうしても硬い。
書き方としては正しい。
余計な感情を混ぜない、記録として優秀な整理だ。
だが内容は、かなり凶悪だった。
クロウは卓の前に立ち、記録板の一行をじっと見つめていた。
**意味断片、受領**
ひどい書かれ方だな、と少し思う。
もちろん、記録としては正しい。
むしろこれ以上ないくらい真っ当だ。
だが、実際にその断片を受け取った側の感覚は、そんな乾いた文で済むものでもなかった。
(返った)
(本当に返った)
(まだ、それだけだ)
(でも、それだけじゃない)
(意味がある)
(向こう側に意志がある)
そこまで考えて、また少しだけ頭が重くなる。
面倒だ。
ずっと面倒だと思ってきた。
補助宮も。
白霜外界も。
門も。
門前秩序も。
全部、ずっと面倒だった。
けれど、今日の“面倒”は今までとは少し違う。
嫌なだけではない。
重いだけでもない。
返ってきたのだ。
ほんの少しでも。
確かに、向こう側から。
それをどう受け止めればいいのか、自分でもまだうまく決めきれない。
喜んでいいのか。
警戒を深めるべきなのか。
あるいは、もっと別の何かなのか。
扉が静かに開き、ヴェルミリアが入ってきた。
「陛下」
「ああ」
「各国、今夜は静観へ移りました」
「だろうな」
今日のところは、誰も動けないだろう。
あれだけの断片を前にして、軽々しく次へ踏み込めるほど、門前にいた面々は愚かではない。
「帝国は」
ヴェルミリアが続ける。
「“返答前段階の成立”として整理しております」
「王国は」
「“応答の直前にある接触”との見解です」
「商盟は」
「“値の跳ね上がる予告”と見ています」
そこは商盟らしい。
「連邦は」
「言葉を選べておりません」
それもまた、連邦らしかった。
強い名を置きたい国ほど、いま起きたことにはすぐ名を置けない。
なにしろ相手の方から“まだ”と返してきたのだ。
こちらが強く断じるには、あまりにも繊細すぎる。
「…当然か」
クロウは小さく言った。
そして少しだけ間を置いてから聞く。
「お前はどう見る」
ヴェルミリアはすぐには答えなかった。
卓の上の記録板へ一度だけ視線を落とし、それから静かに言う。
「陛下に対して、明確に“向こう側が見ている”と示された段階かと」
その言い方は、あまりにも正確だった。
こちらが探っているだけではない。
向こうもまた、こちらを見て、返し方を選んでいる。
だから“まだ”なのだろう。
返る気がないのではない。
返るつもりはある。
ただ、まだ足りない。
「…嫌なくらい筋が通るな」
クロウが言うと、ヴェルミリアはほんのわずかにだけ目元を和らげた。
「はい」
「そういう時の方が困る」
「存じております」
本当に存じている顔で言うので、少しだけ力が抜けた。
---
翌朝、門前に立つ各国の空気は明らかに昨日までと違っていた。
静かだ。
だがその静けさは、慎重さだけではない。
全員が、**「今日は何かあるかもしれない」**と思っている。
その期待とも不安ともつかないものを、表へ出さないように必死で抑えている静けさだった。
帝国は一層きっちりと境界線を保っている。
誰か一人でも余計な気の緩みを見せれば、それがそのまま場を壊しかねないと理解しているのだろう。
王国は昨日よりさらに記録線を細くした。
見たい。
だが、見たい気持ちが強すぎると場が乱れる。
それを知っている者の絞り方だった。
連邦は、祈りの声をさらに薄くしている。
リュミエラの感知を乱さず、同時に意味を厚くしすぎないためだ。
商盟はほとんど気配だけになっていた。
もはや“売るためにいる”というより、“崩させないためにいる”に近い。
そして黒翼庭の中央。
クロウは昨日と同じ位置に立ちながら、内心ではかなり落ち着かなかった。
(来るのか)
(いや、来ないかもしれない)
(来ないかもしれないが、来る気配はある)
(来るなら来るで困る)
(困るが)
(来ないよりはいい)
(というか…本当に、いたんだな)
そこへ戻る。
昨日までなら、まだ“いるかもしれない”で誤魔化せた。
だが、もうそれは無理だ。
返ってきた。
短くても。
断片でも。
向こう側から意味が来た。
ならもう、現象ではない。
人格、とまで言い切るにはまだ早いかもしれない。
それでも、“誰か”と呼ぶ方が近い段階に入っている。
その事実が、じわじわと効いていた。
---
朝の観測は、恐ろしいほど静かに進んだ。
昨日の断片をもう一度引き出そうとする者はいない。
誰も“見たい”を前へ出さない。
それでも場に緊張は満ちている。
まるで、白そのものが耳を澄ませているみたいだった。
リュミエラは昨日と同じ位置に立ち、胸へ手を当てたまま目を閉じていた。
今日は感知の仕方がまた少し違う。
近い。
昨日よりもさらに近い。
だが、それは圧ではなく“距離の縮まり”として感じられた。
白の向こうにいる何かが、こちらの場の形を確かめながら、昨日より半歩だけ寄っている。
「…深いです」
小さく漏れた声に、アシュレイが視線だけを向ける。
「昨日よりか」
「はい」
「危ないか」
その問いに、リュミエラは少しだけ考えてから首を振った。
「怖いです」
「それはそうだろうな」
「でも、危ないという感じではありません」
そこが重要だった。
怖い。
だが、害意ではない。
恐ろしい。
だが、押し潰すようなものではない。
向こう側の慎重さが、むしろこちらの慎重さと噛み合って、いまは奇妙な均衡になっている。
「なら」
アシュレイが低く言う。
「今日も、こちらは余計なことをしないだけだな」
「ええ」
それしかない。
そしてたぶん、それが一番難しい。
---
王国側では、リセリアが記録板へ目を落としたまま、ほとんど呼吸も浅くしていた。
「昨日の続きじゃない」
彼女がかすかに言う。
「何が違う」
オルフェンが問う。
「昨日は断片が“返った”だけでした」
「はい」
「今日は、“こちらがそれを受け取れるかを見ている”感じがあります」
その言い方に、オルフェンの目が細くなる。
受け取れるか。
つまり向こう側は、断片を置いただけではない。
その断片のあと、こちらがどう場を保つかをさらに見ている。
「…試しているのではなく」
オルフェンが低く言う。
「確かめている、ですか」
「はい」
リセリアは頷く。
「こちらが“まだ”をどう受け取るか、その続きを見ているように思えます」
それは、かなり人間的な慎重さだった。
そして、人間的であるからこそ余計に重い。
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帝国でも同じような変化は別の形で表れていた。
レオンハルトは中央を見たまま、腕を組んでいた。
白は静かだ。
だが昨日までの“整っている白”より、今日はさらに“意味を待っている白”に見える。
「殿下」
エルマが小さな声で言う。
「今日の白は、こちらの動揺すら見ている気がします」
「動揺するな、という話だな」
「はい」
レオンハルトは小さく息を吐いた。
帝国にとっても、これはあまり得意な局面ではない。
剣を抜かずに立つ。
境界を押さえる。
そこまではいい。
だが“返書の前触れ”を前にして、なお自分の呼吸まで整えていろと言われると、これはもう戦ではなく作法に近かった。
「面倒だな」
思わず漏れる。
エルマが少しだけ驚いた顔をしたあと、控えめに答える。
「同感です」
それでよかった。
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昼を過ぎても、昨日のような明確な断片は返らなかった。
だが、それは無意味な停滞ではないと全員が感じていた。
白が静かに続いている。
場も崩れていない。
つまり“まだ”は拒絶ではなく、続きを待つ言葉だったのだろう。
その理解が、各国の沈黙をさらに深くした。
そして、昼の終わりに近づいた頃。
クロウのところへ、今度は明確に届いた。
最初は音ではなかった。
呼びかけでもない。
ただ、白の向こうにあるはずの遠さが、一瞬だけこちらへ向きを変えた。
次いで、胸の奥へ何かが静かに触れる。
昨日より深い。
昨日よりも、ずっと“こちらを見ている”。
クロウはほんのわずかに息を止めた。
(来る)
そう思った瞬間に、それは言葉になった。
――終わらせる者。
短い。
だが、今度は間違いなく言葉だった。
誰かの声を耳で聞いたわけではない。
それでも意味として、名前を呼ぶ代わりのように、その呼びかけだけがはっきりと届いた。
終わらせる者。
それはクロウに向けられていた。
誰がどう聞こうと、そこだけは疑いようがない。
背筋に静かなものが走る。
怖いわけではない。
いや、怖さもある。
だがそれ以上に、現実になってしまった、という重さの方が大きかった。
向こう側は、自分を知っている。
少なくとも、そう呼ぶに足るものとして見ている。
「陛下?」
ヴェルミリアの声がした。
気づけば、彼女がほんの半歩だけ近づいている。
いつもより慎重な、だがすぐ支えに入れる距離だ。
「…来た」
クロウは小さく言った。
声は低かったが、自分でも少しだけ乾いていたのが分かった。
「何が」
「呼ばれた」
その一言で、ヴェルミリアの目が見開かれる。
珍しい顔だった。
彼女だけではない。
中央から少し離れた場所にいたリュミエラも、はっとしたように顔を上げた。
「今」
彼女が小さく呟く。
「今、名ではない呼びかけが…」
アシュレイがすぐにリュミエラを見る。
「お前にも分かったのか」
「意味だけ、少し」
王国側も異変を察している。
リセリアが記録板を見たまま、息を呑む。
「位相が変わった」
「どう変わった」
オルフェンが問う。
「返ってきた断片が、昨日より深い。誰か一人へ焦点を合わせた感じです」
帝国もまた、中央を見たまま動かない。
レオンハルトの表情が、昨日までと違うものになっていた。
「終王か」
低く呟く。
エルマは答えない。
答えなくても、もうそうとしか見えない。
---
門前には、奇妙な静寂が落ちていた。
誰も何も言わない。
いや、言えない。
呼ばれたのはクロウだ。
その事実が、場の中心を一段深く変えてしまった。
クロウ自身も、すぐ次の言葉は返せなかった。
返せなかった、というより、返していいのかまだ分からなかった。
(どうする)
(返すのか)
(いや、返事を奪うなと言ったのは私だ)
(ここでこちらから強く返すのは違う)
(だが、黙るのも違うのか?)
(…落ち着け)
そういう時ほど、余計なことはしない方がいい。
呼ばれた。
それだけでも今日は十分すぎる。
「陛下」
ヴェルミリアがごく低い声で言う。
「いまは」
「分かっている」
クロウは短く返す。
そして白の向こうを見たまま、静かに呼吸を整えた。
返事を奪うな。
なら、自分がやるべきことは“呼ばれたことを壊さず受け止める”方だろう。
向こう側はまだ姿を見せていない。
まだ門そのものも開いていない。
なら、この呼びかけはたぶん“応答の前触れ”のさらに深い段だ。
焦れば壊れる。
それだけは、もう嫌というほど分かっている。
しばらくして、白の向こうの気配は再び静かに引いた。
消えたのではない。
昨日と同じだ。
ただ、置くべき断片だけを置いて、また慎重さの中へ戻った。
終わらせる者。
その呼びかけだけが、まだ胸の奥に残っている。
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