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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第6章

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78/90

「連邦は祈る位置を探している」

 

 聖冠連邦アルディウスは、ものごとに名前を置く国だ。


 異端。

 奇跡。

 試練。

 加護。

 救済。

 災厄。


 そうやって名を置き、意味を定め、祈りの向きをそろえてきた。

 何をどう呼ぶかが決まれば、人の心も、騎士の剣も、教会の言葉も、同じ方向へ進む。


 だからこそ、いま北で起きていることは、連邦にとってひどく扱いづらい。


 何かがある。

 それはもう否定できない。

 門もある。

 反応もある。

 返ってきそうな気配すらある。


 それなのに、まだ強い名前を置くには早い。


 神敵と断じるには、少し理屈がありすぎる。

 奇跡と呼ぶには、不穏すぎる。

 災厄と決めつけるには、向こうがあまりにも慎重すぎる。


 名を急げば、たぶん壊す。

 かといって何も言わなければ、祈りの置き場がなくなる。


 その中間が、連邦はいちばん苦手だった。


 ---


 白霜外界の門前から少し離れた連邦側の前進拠点は、他国に比べてやや整いすぎていた。


 白い布幕。

 簡易祭壇。

 祈祷用の細い燭台。

 聖句板。

 騎士の詰所ですら、どこか小さな礼拝堂のような空気を持っている。


 それ自体は連邦らしい。

 むしろ、連邦らしすぎると言ってもよかった。


 だが、今はその“らしさ”が少しだけ浮いていた。


 門の前では、強い意味を置きすぎること自体が危うい。

 それを全員が、言葉にしきれないまま感じているからだろう。


 朝の薄い光の中で、リュミエラは簡易祭壇の前に立っていた。


 祈りの姿勢はいつも通りだ。

 手を組み、目を閉じ、静かに呼吸を整える。


 けれど胸の奥は、少しもいつも通りではなかった。


 近い。


 以前よりずっと近い。

 でも、まだ目覚めてはいない。

 こちらへ踏み込んでもいない。


 ただ、“返れる位置を探している”ような、ひどく慎重な気配だけが、白の向こうにじっとある。


 その慎重さが、かえって彼女を緊張させた。


 乱暴なものなら分かりやすい。

 拒めばいい。

 備えればいい。

 祓うべきものなら、祓うための言葉を選べばいい。


 だが今感じているものは、そうではない。


 こちらを壊しに来るのではなく、

 こちらが壊れないかを見ているような近さだった。


「…難しいです」


 小さく呟いた声は、自分でも驚くほどかすかだった。


 その時、外の足音が一つ止まる。


「入るぞ」


 アシュレイの声。


「どうぞ」


 彼が中へ入ってくる。

 鎧は着ていない。

 門前に出る前の軽装だ。

 そのぶん表情がよく見える。


 寝不足ではない。

 だが、ここ数日ずっと“考え続けている顔”をしていた。


「また強くなったか」


 彼はいつものように回りくどさを省いて聞いた。


「はい」


 リュミエラは頷く。


「昨日より、少し」


「怖いか」


 少しだけ間を置いてからの問いだった。


 リュミエラはすぐには答えなかった。


 怖い。

 それは本当だ。

 だが、それだけでもない。


「…前より、怖さだけではなくなっています」


 アシュレイは眉を上げる。


「どういう意味だ」


「前は、近づいてくるものに感じました」


 彼女は胸へ手を当てる。


「でも今は違います。近づくというより、“返ろうとしている”感じがするんです」


 アシュレイは黙った。


 妙な言い方だ。

 だが、いまの北方禁域の話に限って言えば、妙な言い方ほどよく当たる。


「返る、か」


「はい」


「来る、じゃなくて」


「ええ」


「…そっちの方が近いな」


 彼は低く言った。


 実際、門の前で起きていることを思い返すと、その方がしっくりくる。


 向こうから襲いかかるような圧はない。

 むしろこちらの騒ぎや押しつけをひどく嫌っている。

 それでも完全に閉じているわけではない。


 なら、あれは“返りかけている”のだ。


 リュミエラはアシュレイの言葉に、少しだけ安心したように目を伏せた。

 自分の感覚が、ただ曖昧な不安だけではないと分かるのは助かる。


 ---


「法王猊下には」


 アシュレイが言う。


「今日もう一度、感触を伝える」


「はい」


「グラウスには、どうする」


 その名が出ると、部屋の空気が少しだけ硬くなる。


 異端審問長グラウス。

 連邦の中でいちばん強い言葉を早く置きたがる男。


 彼が無能なわけではない。

 むしろ逆だ。

 有能だからこそ、名づけと断定の力を信じすぎている。


 だが今の北方禁域は、その力で押すには少し繊細すぎた。


「必要なことは伝えるべきだと思います」


 リュミエラが静かに言う。


「でも」


「でも?」


「“何かが返ろうとしている”と、そのまま言うのは危うい気がします」


 アシュレイは腕を組んだ。


「刺激になるか」


「はい」


 それだけではない。

 たぶん意味を急がせる。


 “返ろうとしている”と聞けば、強硬派はそれを“なら今こそ名を置くべきだ”に変えるだろう。

 そして今それをやられるのは、かなりまずい。


「じゃあこうか」


 アシュレイは少し考え、それから言った。


「“北方感応は深まっている。だが、強く意味を置くほどむしろ遠ざかる可能性がある”」


 リュミエラは小さく頷く。


「その方が、近いです」


「だろうな」


 少なくとも、いま言えるのはそこまでだ。


 ---


 その日の午前、法王庁の一室ではユリオス十三世が二人の話を静かに聞いていた。


 年老いた法王は、報告の途中で何度か目を閉じた。

 祈っているようにも、考えているようにも見える沈黙だった。


「返ろうとしている」


 彼はゆっくりその言葉を繰り返した。


「はい」


 リュミエラが答える。


「正確かどうかは分かりません。ですが、来るというより、その方が近い気がします」


「そして、強く名を置くと遠ざかるかもしれぬ」


「ええ」


 法王は再びしばらく黙った。


 年長者の沈黙には、不思議な重さがある。

 急がない。

 だが、その遅さが怠慢ではないと分かる。


 やがて彼は言った。


「では、いま連邦が探すべきは名ではありませんな」


 アシュレイが顔を上げる。


「猊下」


「祈る位置です」


 その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。


 祈る位置。


 名前ではなく、位置。

 意味を押しつけるのではなく、どういう距離で祈るか。


「神学の言葉で言えば」


 法王は続けた。


「こちらの意味を先に置けば、相手の返礼を奪うことがあります」


 それは、あまり一般的な教義の言い回しではない。

 だが今の北には妙に合っていた。


 強く祈れば、意味も強くなる。

 意味が強くなれば、こちらの理屈が前へ出る。

 前へ出すぎれば、向こうが返る余地を押し潰してしまう。


「だから今は、祈りすぎるな」


 リュミエラが小さく息を呑む。


 祈りすぎるな。

 それは連邦の人間にとって、かなり重い命令だった。


 だが、分からなくもない。


 祈らないのではない。

 意味を捨てるのでもない。

 ただ、返ってくるものをこちらの言葉で先に囲い込むなということだ。


「グラウスには」


 アシュレイが低く言う。


「私から伝えます」


「お願いします」


 法王は静かに頷いた。


「いまはまだ、裁きの位置ではありません」


 その言葉は、連邦の中でもかなり強い部類に入る。


 少なくともこの部屋では、方針がはっきりした。


 北へ強い名を置くな。

 祈るなら、受け取る側に寄れ。


 ---


 だが当然、それで全員が納得するわけではない。


 異端審問局の執務室で、グラウスはアシュレイの報告を聞き終えたあと、しばらく無言だった。


「祈る位置を探せ、と」


 低い声で言う。


「そうだ」


 アシュレイは真っ直ぐ答える。


「いま強い意味を置くほど、門の向こうは閉じるかもしれない」


「“かもしれない”」


 グラウスはその曖昧さを嫌うように繰り返した。


「そこまで来ても、まだ“かもしれない”か」


「そうだ」


 アシュレイは譲らない。


「いまの北は、断じた瞬間に間違う可能性が高い」


 睨み合いに近い沈黙が落ちた。


 この二人は、真正面から衝突する相手ではない。

 だが価値観の向きはかなり違う。


 グラウスは名を欲しがる。

 アシュレイは見たことにだけ名を置きたがる。


 そして、いまの北方禁域では後者の方が少しだけ強い理由を持っていた。

 門が嫌うからだ。


「聖女も同意見か」


 グラウスが問う。


「ああ」


「法王猊下も」


「同じだ」


 そこまで聞いて、グラウスは小さく息を吐いた。


 不満はある。

 だが猊下、聖女、勇者、この三つが揃っている以上、表向き真っ向からは押しにくい。


「…なら、連邦はどう立つ」


 彼は問いを変えた。


 そこが重要だった。

 止まるのではない。

 どう立つかだ。


「門の前で、意味を押しつけない位置に立つ」


 アシュレイは言う。


「少なくとも、いまはそれが一番ましだ」


「屈したように見えるぞ」


「見えるなら見せておけ」


 かなり強い言い方だった。


「門が嫌う以上、そこで無理を通しても意味がない」


 グラウスは目を細めた。

 その顔にはまだ納得しきらない硬さが残っている。


 だが、それでも一線は越えなかった。


「…分かった」


 低く、短く言う。


「少なくとも当面は、だ」


 それで十分だった。


 連邦の強硬派が完全に静かになることはない。

 だが“当面は”でも押さえられるなら、いまはそれが大きい。


 ---


 夕方、連邦側前進拠点では小さな祈祷が行われていた。


 大規模なものではない。

 鐘も鳴らさない。

 声を張り上げることもしない。


 ただ、白い布幕の内側で、数人が短い祈りを共有するだけだ。


 それは儀式というより**「自分たちが祈りすぎないための確認」**に近かった。


 リュミエラはその中央ではなく、少しだけ脇に立っていた。

 中心に立つと意味が強くなる気がしたからだろう。

 いま大事なのは、前へ出すぎないことだ。


 アシュレイも剣を置いたまま、その場にいる。

 彼は祈りの人間ではない。

 だが、祈りの位置を乱さないために立つことはできる。


「こういうの、変な感じだな」


 祈りのあと、彼がぽつりと言った。


「何がですか」


 リュミエラが聞く。


「祈るな、じゃなくて祈りすぎるな、って話だよ」


 それはたしかに変だ。


 連邦でそんな言い方をすることは、そう多くない。


「でも」


 リュミエラは少しだけ笑った。


「いまは、その違いが大きいのだと思います」


「だろうな」


 アシュレイも頷く。


 祈らないのではない。

 名づけないのでもない。

 ただ、向こう側が返ってきても壊れないように、その位置と強さを探る。


 それは連邦にとって、かなり新しい経験だった。


 ---


 その夜、黒鴉城へ届いた連邦側の簡潔な報告には、こうあった。


 **連邦は門前で意味を急がない。祈りは場を乱さぬ範囲に留める。**


 その文を読んだクロウは、少しだけ眉を上げた。


「連邦がここまで素直に寄せるとはな」


 机の向こうのヴェルミリアが答える。


「勇者殿と聖女様が前に出ているからでしょう」


「…助かるな」


 また本音が出た。


 ヴェルミリアもそれをそのまま受け止める。


「はい」


「かなり」


 帝国に続いて連邦にもそれを思う日が来るとは、人生は分からない。

 いや、人生と言っていいのかはともかく。


「連邦の役割は、意味を定めることではなく、意味を乱さぬことへ移りつつあります」


 ヴェルミリアが静かに言う。


「祈る位置を探している、か」


「おそらく」


 それはかなり大きい前進だった。


 帝国は外を押さえる。

 連邦は意味を押しすぎない。

 王国は見る。

 商盟は流れを崩さない。


 少しずつだが、各国が“受け取る場”の部品へ変わり始めている。


(面倒だな)

(だが、ちゃんと前に進んでる)

(嫌なくらいちゃんと進んでるんだよな)


 そういう時は、大抵次もちゃんと面倒が待っている。

 だが少なくとも今日は、連邦が少しだけ正しい位置へ寄った。

 それだけで十分な収穫といえるのだった。





最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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