「ただ静かでは足りない」
黒鴉城ネヴァーグレイヴの朝は、今日も静かだった。
だが、それは心が休まる静けさではない。
むしろ逆だった。
やるべきことは、もうだいたい見えている。
足りないものが何かも、薄々分かっている。
あとは、そのことを誰が最初にはっきり口に出すか。そんな種類の静けさだった。
こういう朝は、たいていろくでもない。
小会議室の卓には、いつものように地図と記録板が並んでいた。
白霜外界。
門前固定点。
第一圏、第二圏、第三圏。
各国の配置。
門前位相の変動記録。
そして、一番端に置かれた整理板の上に、最近やたらと目に入る文言。
**応答未成立。**
これが地味に気に障る。
理不尽に腹を立てているわけではない。
怒る相手がいるわけでもない。
ただ、ここまで来てなおその一文が残っていると、“あと一歩の手前で止められている”感じが強すぎて、どうにも気が重くなるのだ。
クロウは記録板を見ながら、内心でかなり率直に思っていた。
(近い)
(絶対に近い)
(でも、まだ返事じゃない)
(何なんだこれは)
(ここまで来て“あと少しお待ちください”みたいな空気なの、本当に嫌だな)
もちろん、門の向こうに受付係がいるわけではない。
いたらいたで、それはそれでかなり嫌だ。
だが気分としては、わりと近い。
反応はある。
誰かがいる気配もある。
門の向こうに“何もない”とは、もうとても思えない。
なのに会話にはならない。
こちらの存在は届いている気がするのに、向こうからはまだ、はっきりした形で返ってこない。
だから余計に、“では何が足りないのか”を考えざるを得ない。
そして、その答えがだいたい嫌な方向へ転がっていくことも、最近はもう十分に学んでいた。
扉が静かに開き、ヴェルミリアが入ってくる。
「おはようございます、陛下」
「ああ」
クロウは短く返した。
「整理は」
「済んでおります」
やはり早い。
この人は本当に、こちらがまだ“嫌だな”の段階にいるうちに、大体“では並べますね”の段階まで進んでいる。
頼もしい。
頼もしいが、少しだけ待ってほしくなる時もある。
ヴェルミリアは記録板を三枚、順に卓へ置いた。
「昨夜までの門前観測を再整理しました」
「言え」
「はい」
一枚目は、門前位相の変動記録。
二枚目は、各国配置ごとの白の整い方。
三枚目は、反応が返りかけてはまだ返事にならない、その中途半端で、それゆえに重い変化をまとめた板だった。
「まず結論から申し上げます」
ヴェルミリアは落ち着いた声で言った。
「門前秩序は、安定しております」
「そうだな」
そこはもう、かなり確かだった。
各国は順番を守り始めた。
勝手な前進は減った。
外からの余計な術式も消えた。
第二圏の試験的観測も成立した。
つまり、壊さない条件はかなり見えている。
「ですが」
来た。
やはり来る。
「応答そのものは、いまだ成立しておりません」
「…そうだな」
そこが問題なのだ。
静かにしている。
壊していない。
順番も守っている。
門の機嫌も、前よりはずっといい。
なのに返事にはならない。
なら結論は一つしかない。
「ただ静かならいい、わけじゃないんだな」
クロウが低く言うと、ヴェルミリアは頷いた。
「はい」
「それが昨夜の結論でもありました」
分かっている。
分かっているが、言葉にされるとやはり少し嫌だ。
(そうなんだよな)
(“余計なことをするな”だけで全部済むなら、もう返ってきていい)
(でも返ってこない)
(ってことは、“何もしない”と“受け取る準備がある”は別なんだよな)
(面倒だな)
かなり面倒だった。
静かにしていればいい、というのは楽だ。
人間にとっては分かりやすい。
だが今回必要なのは、ただ黙って立っていることではない。
返ってくるものを壊さず受け取れる形で、そこにいることらしい。
それは一段難しい。
しかも、ものすごく“最後の一歩”っぽい面倒である。
---
そこへ、ガルドとバルザードも入ってきた。
しばらくしてセラフィナも現れ、いつものように小会議室は四天王込みの整理の場になる。
全員が揃うと、話は早い。
早いが、そのぶん逃げ場もない。
「帝国の外縁警戒は引き続き安定」
ガルドが短く報告する。
「門前へ直接の圧はかけていません」
「魔導王国は?」
クロウが問う。
「第二圏観測記録の再解析中」
バルザードが答えた。
「ずいぶんと丁寧に“門そのものではなく門前の変化”を見ています」
「商盟は」
「短期派の再浮上なし」
セラフィナが言う。
「少なくとも表では、ですが」
「それで十分だ」
いまは本当にそうだ。
短期派が門前でまた何かを始めなければ、それだけでかなり助かる。
「連邦は」
クロウが聞くと、セラフィナは少しだけ目を細めた。
「揺れております」
「いつも通りだな」
「はい」
それでも、前よりはましだった。
連邦は意味を急ぐ国だ。
だが前の段階で、“急いで名を置くほど門に嫌われる”気配はさすがに学んでいる。
つまり今、各国は全体としてかなり静かだ。
静か。
なのに返事は来ない。
ならやはり、問題は静かさそのものではない。
---
クロウはしばらく地図を見て、それから言った。
「確認するが」
全員の視線が集まる。
「いま門前にあるのは、“壊さないための秩序”だ」
「はい」
ヴェルミリアが答える。
「争わない。勝手に触らない。順番を守る。門が先ですね」
「そうだ」
それは全部、壊さないための条件だ。
遠ざけられないための線引きだ。
言い換えれば、まだ守りの条件でしかない。
「なら」
クロウは続ける。
「返ってきても壊れないようにするには、それとは別の何かが要る」
「はい」
やはりヴェルミリアは迷わない。
「門前を、“受け取る場”へ変える必要があります」
出た。
たぶん今日の本題だろうと思っていたが、やはりそこに来る。
受け取る場。
言葉としては分かる。
だが分かったからといって、すぐ具体になるわけでもない。
「…具体で言うと何だ」
クロウが聞くと、バルザードが口を開きかけた。
嫌な予感がしたので、クロウは先に釘を刺す。
「派手な儀式の話ならやめろ」
「違います!」
珍しく即座に否定した。
「今回はそういう方向ではありません!」
少し安心する。
この男は放っておくと、次の瞬間には“受容増幅陣列試作七案!”とか言い出しかねない。
それを今やられると本当に困る。
「では何だ」
「恐らくですが」
バルザードは観測盤へ指を当てた。
「“何もしない”のではなく、“返ってきても崩れない位置を示す”ことです」
「位置」
「はい。人の位置、視線の向き、意味の中心。そういうもの全部です」
そこでヴェルミリアが引き取る。
「言い換えるなら、門前に“返ってきたものが収まる形”を作ることかと」
少し分かりやすくなった。
返ってきても収まる形。
それはたしかに、ただ静かにしていることとは違う。
いまの門前秩序は、あくまで“人間側が騒がない形”に過ぎない。
だが必要なのは、もっと先だ。
返ってきたものがそこで壊れない。
人間側の意味や力で押し潰さない。
門前そのものが受け皿として成立している。
そういう形が要るのだろう。
(面倒だな)
(かなり具体になったが、なった分だけ余計に面倒だ)
(受け皿を作れ、ってことだろ)
(それを誰がどう定義するんだ)
(…また私か)
そこへ自然に着地するのが、いちばん嫌だった。
---
「陛下」
ヴェルミリアが静かに言う。
「はい、そういう顔をなさると思っておりました」
「どういう顔だ」
「“結局また私か”というお顔です」
言われて、クロウは一瞬だけ黙った。
この女は時々、本当に余計なところまで正確だ。
「…否定はしない」
「存じております」
返しが早い。
「ですが、おそらく今回は本当にそうかと」
「だろうな」
そこはもう、自分でも分かっていた。
門前秩序が成立した時もそうだった。
第二圏を誰に渡すかを決めた時もそうだ。
門が嫌わない線引きは、結局いまのところクロウの言葉を中心に形になっている。
なら“受け取る場”を定めるのも、やはり自分の役目になる可能性が高い。
面倒だ。
ひどく面倒だ。
だが、ここで“知らない”をやる方がもっと面倒になる。
それももう、だいぶ分かっている。
「各国は」
クロウが問う。
「いまの門前秩序に従っている」
「はい」
「帝国は外を押さえている」
「はい」
「王国は見方を理解している」
「はい」
「連邦は意味を急がない方へ少し寄った」
「はい」
「商盟も、少なくとも場は崩さない」
「はい」
そこまで言うと、だいたい見えてくる。
つまり各国は、少なくとも“壊さない側”へ半歩ずつ寄っている。
なら次は、それをもう一段だけ“受け取る側”へ組み替える。
帝国は圧を抑える位置。
王国は記録を保つ位置。
連邦は祈りと意味を乱さない位置。
商盟は外からの流れを崩さない位置。
そして黒翼庭は、その中心。
気づくと、もうだいぶ具体だった。
(本当に嫌だな)
(嫌なんだが、理屈としてはかなり見えてきた)
(だから余計に逃げにくい)
逃げにくいというか、逃げたら全部が雑になる。
そこが一番つらい。
---
しばらく沈黙が落ちたあと、クロウは静かに言った。
「待つだけでは駄目なんだな」
誰にともなく、だが全員に向けて。
「待つに値する形で、待たないといけない」
その言葉に、四天王は一斉に頭を下げた。
やはりそうなる。
別に今のは決め台詞のつもりではない。
かなり普通に、いま考えたことをそのまま口にしただけだ。
だが門前案件に関しては、その“普通に考えたこと”がいちいち一段重く響いてしまう。
「その通りかと」
ヴェルミリアが言う。
「“何もしない”ではなく、“返ってきてもよい位置を保つ”」
「ええ」
セラフィナもやわらかく続ける。
「待つだけでは、ただ沈黙です。ですが受け取るつもりで待てば、その沈黙にも形が生まれます」
言っていることはかなり綺麗だ。
綺麗だが、言い換えると**“ただぼんやり待つな。ちゃんと受け取る気で待て”**という話でもある。
それはすごく分かる。
そしてすごく面倒だ。
「…つまり」
クロウは低く言った。
「門前を変える必要がある」
「はい」
「次は、待つための場にする」
その一言で、空気が少しだけ動いた。
決まった。
少なくとも四天王にとっては、もうそれで十分なのだろう。
クロウとしてはまだ**“そうするしかないな”**くらいの気持ちなのだが、周囲はもうその言葉を“では具体に落とします”の段階で受け取る。
やはり早い。
(いや、分かる)
(分かるが本当に早いな)
(こっちはまだ少し“嫌だな”が残ってるんだが)
だが、それも口には出さない。
---
「配置案を組みます」
ガルドが低く言う。
「現在の第一圏から第三圏を再定義し、門前中央の意味を保ちます」
「記録線も再調整いたします」
バルザードが続く。
「見るためではなく、返ってきても崩さないための配置へ」
「連邦側の立ち位置も探ります」
セラフィナが言う。
「リュミエラ様の感知は、おそらく場の静けさに寄与するでしょう」
「商盟と帝国にも、立ち位置の意味を理解させます」
最後にヴェルミリア。
「単なる席替えではなく、“受け取るための配置”として」
全部、もう前へ進んでいる。
クロウは少しだけ遠い目をしたくなったが、何とか堪えた。
「好きにしろ」
短く言う。
「ただし、やりすぎるな」
それだけは必要だ。
場の意味を作ろうとして、人間側が一気に儀式めいた圧を増したら本末転倒である。
この門前は、そういう“こちらの熱量過多”をかなり嫌う。
「承知いたしました」
ヴェルミリアが答える。
「静かに、ですが明確に整えます」
その表現は、かなり良かった。
静かに。
だが明確に。
たぶん今必要なのは、まさにそれだ。
---
会議がひと段落したあと、クロウは一人だけ少し長く卓の前に残っていた。
地図の上にある門前図。
各国の位置。
白霜外界。
門前固定点。
そして、自分が立つはずの中央。
ここに意味が集まる。
集まってしまう。
それが嫌でないわけではない。
だが、だからこそ逃げられない。
(待つ王、か)
(本当にそういう役目になるのか)
(終わらせる側のはずなんだがな)
(いや、終わらせるためにも受け取らないといけない時があるのか)
(…そういうことなんだろうな)
少しずつ、自分の中でも繋がってくる。
終王だからこそ、返ってきたものを壊さず受け止める責任がある。
ただ切るだけではない。
ただ裁くだけでもない。
それはこれまでの自分の王としての在り方を、少しだけ広げる話でもあった。
ひどく面倒だ。
だが、目を逸らしたくはない。
「…やるしかない、か」
小さく呟く。
すると、いつの間に戻ってきていたのか、扉のそばにいたヴェルミリアが静かに言った。
「はい」
「…いたのか」
「失礼いたしました」
まったく悪びれない。
「ただ、陛下がそう仰ると思っておりましたので」
「嫌な読みだな」
「光栄です」
少しだけ、本当に少しだけだが、クロウは息を抜いた。
こういう時、この女があまり過剰な慰めを言わないのはありがたい。
やるしかない時に“でも無理しなくていいんですよ”みたいなことを言われる方が、たぶん今は困る。
やるしかない。
なら、やるだけだ。
「門前を変える」
もう一度、自分でも確認するように言う。
「次は、待つための場にする」
「はい」
ヴェルミリアは深く頷いた。
「そこから先で、ようやく向こう側は返しやすくなるのでしょう」
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