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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第5章

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68/90

「ここで争うな」

 


 嫌な予感というものは、大抵小さな違和感から始まる。


 最初から大きく鳴り響く警鐘ではない。

 耳をつんざくような危険の知らせでもない。


 むしろ逆だ。


 ほんの少しの体の傾き。

 息を吸う速さ。

 視線が向く先。

 並んで立っているはずの列の中で、どこか一か所だけ力の入り方が違う。


 そういう、普通なら見落としてしまうくらいの小さなずれとして現れる。


 そして白霜外界の門前では、その小さな違和感ほど危ない。


 大きな敵意なら、まだ対処しやすい。

 はっきりした殺気なら、警戒もできる。


 だがこの場所で本当に怖いのは、本人にすら「これくらいなら大丈夫だろう」と思わせる半歩だ。


 クロウは第三圏の外れ、連邦側の列のさらに後ろで、ごくわずかに前へ出ようとする気配を見た瞬間、内心でかなり率直に思った。


(あっ、駄目なやつだ)

(本当に駄目なやつだ)

(頼むから今はやめろ)


 だが、世の中は頼んだだけで止まってくれるほど親切ではない。


 その気配は、聖騎士団本隊ではなかった。

 前に整然と立つ騎士たちではない。

 もっと後ろ。

 正規の並びから半歩ずれた位置にいた、強硬派寄りの護衛役たちだ。


 おそらく意図は単純だ。


 少しでも前に出たい。

 少しでも近くで見たい。

 あるいは、連邦の立場が他国より弱く見えるのが我慢できなかったのかもしれない。


 どれも人間らしい。

 ごく普通の感情だ。


 だが、今この場で一番やってほしくない種類の人間らしさだった。


 白霜外界の前では、そういう「少しくらい」が一番危ない。


「…止めろ」


 クロウは低く言った。


 誰に向けたわけでもない。

 いや、この場合は全員に向けて、でいいのだろう。


 その一言には、怒鳴りつけるような強さはなかった。

 だが、だからこそ余計に重かった。


 今ここで動くな。

 これ以上は危ない。

 そういう意味だけをまっすぐに落とす声だった。


 だが、その声が飛んだ瞬間には、もう遅かった。


 前のめりになった気配の一つが、第三圏の線を半歩だけ越えた。


 たった半歩。


 戦場なら誤差だ。

 宮廷なら、無礼と断じるには少し弱い。

 街中なら、誰も気にしない。


 だが白霜外界の門前では、その半歩がひどく大きかった。


 白が変わる。


 周囲の白が、音もなく一段濃くなった。


 吹雪にはならない。

 荒れもしない。

 風が唸るわけでもない。


 ただ、さっきまで“向こうに門がある前提で薄くなっていた白”が、すっと元の曖昧さへ戻り始める。


 それまで、白はかすかに門の輪郭を許していた。

 見えないながらも、そこに構造が立っていることを認めていた。


 その白が、無言のまま、ひとつ前の段階へ戻る。


 全員の空気が凍った。


「下がれ!」


 アシュレイの声が飛ぶ。


 鋭い。

 迷いがない。

 連邦の列が一斉に張り詰める。


 だが、その半歩を踏み越えた聖騎士は、何が起きたのかまだ分かっていなかったらしい。

 顔を上げ、白の向こうを見ようとした、その瞬間――彼の立っていた地面の距離感だけがずれた。


 消えたわけではない。

 落ちたわけでもない。


 ただ、“そこに立っているはずの位置”が、ふっと横へ滑る。


 足場そのものが消えたわけではない。

 だが、自分の体と地面とのつながりだけが、ほんの一瞬、合わなくなる。


「っ!」


 短い息が漏れ、聖騎士の姿が一瞬だけ白へ沈みかけた。


 白の中へ飲まれる、というほど大げさではない。

 だが、“このままあと半拍遅れたら、どこへ立っていたのか分からなくなる”と全員が悟るには十分な崩れ方だった。


 ガルドが動くより早く、連邦側からアシュレイが踏み出し、腕を掴んで引き戻す。


 その動きは速かった。

 速く、そして正しかった。


 変に大きく動かない。

 無理に引き寄せすぎない。

 第三圏の内側へ、元の並びへ戻すことだけに集中した、訓練された動きだった。


 聖騎士は地面を踏み直すように第三圏の内側へ転がり戻り、そこでようやく、自分の顔色の悪さに気づいたように荒く息を吐いた。


「今のは」


 オルフェンが低く呟く。


「白が拒んだ、か」


「ええ」


 リセリアの声も緊張している。


「門前の安定から外れました」


 言葉としては静かだ。

 だが意味は重い。


 たった半歩。

 それだけで、白霜外界は「お前はそこに立つな」と言ったのだ。


 クロウはほんの少しだけ目を閉じたくなった。


(ほら見ろ)

(だから言った)

(いや、言ったというか、まだ言い切る前だったが)

(本当にもう…)


 こういう時に限って、自分の嫌な予感はきれいに当たる。


 ---


 連邦側の列が揺れる。


 グラウスの目が鋭く細まり、周囲の聖騎士たちには一瞬で緊張が走った。

 無理もない。


 いま起きたのは、ただの小さな失敗ではない。

 連邦側の不用意な前進が、門前そのものに拒まれたのだ。


 見方によっては、連邦だけが門前秩序を乱そうとしたようにも映る。


 だが、そこで無理に体裁を整えようとするともっと悪化する。


 アシュレイは掴み戻した騎士を後ろへ押しやり、すぐにこちらへ向き直った。


「連邦側の不手際だ」


 その声は真っ直ぐだった。


「謝罪する」


 早い。

 かなり早い。


 クロウはそこに少しだけ救われた。


 ここで言い訳を始められると、たぶんもっと面倒だった。

「誤解だ」とか「事故だ」とか「一歩ではない」とか、そういう話を始められれば、門前の空気そのものが濁る。


 だがアシュレイは、いま大事なのが面子ではなく、門前の空気だと理解している。


「…次はない」


 クロウは短く言った。


 本人の中ではかなり普通の注意だ。

 次はない。

 つまり、次はもっとひどくなるからやめろ、という意味である。


 だがその一言は、やはり門前では重かった。


 白が、今度はわずかに揺れを戻す。

 完全には浅くならない。

 だが、“そこまでなら聞く”という程度には戻る。


 その様子を見て、カイルがひどく静かに息を呑んだのが分かった。

 メリゼアの気配も、後方で一段硬くなる。


 帝国側ではレオンハルトが目を細め、エルマが門前の白の変化を必死に記録している。

 魔導王国は言うまでもない。

 オルフェンもリセリアも、今のやり取りそのものを“門前秩序が現象に裏打ちされた瞬間”として見ている顔だ。


(やめてくれ)

(今のは普通の注意だ)

(かなり普通に“お前らそれ以上やるともっと危ないぞ”と言っただけなんだが)


 だが現実には、そうは見えないのだろう。


 連邦側の強硬派が半歩を越えた。

 白が拒んだ。

 クロウが「次はない」と言った。

 白が少し戻った。


 並べると、たしかに重い。


 非常に困る。


 ---


「…門は、終王を嫌ってはいないのか」


 誰かが、かなり小さな声で呟いた。


 誰の声かは分からなかった。

 だが、この場の全員が似たことを思ったのだろう。


 クロウが引いた線。

 第三圏。

 勝手な前進の禁止。

 門が先。


 それらを、門そのものが少なくとも拒んでいない。


 むしろ、そこから外れた時だけ白が濃くなった。


 なら、今この場で一番“門に嫌われない立ち位置”を知っているのは誰か。


 答えは、分かりすぎるほど分かりやすい。


 黒翼の終王だ。


 連邦の列が静まる。

 帝国はさらに無駄を削いだ空気になる。

 王国は観測と理解を優先する顔つきへ変わる。

 商盟は“値段が変わった”と理解した目になる。


 門前の力関係が、今の一瞬で目に見えないまま少しだけ傾いた。


 クロウはその空気の変化を肌で感じて、内心でかなりうんざりしていた。


(ほら重くなった)

(本当に重くなった)

(だからこういう“門がタイミングよく反応する”のやめてくれ)

(注意しただけなのに、何で一段階ずつ王の裁定みたいになっていくんだ)


 もちろん理由は分かる。

 門がそう反応しているからだ。

 理屈としては理解できる。

 感情として納得したくないだけである。


 ---


 ここで場を放っておくと、今度は“では次の一歩をどうするか”でまた揺れる。


 だから、クロウは早めにその先を塞ぐことにした。


「ここで争うな」


 静かに言う。


 最初から言おうとしていた。

 だが今は、さっきよりずっと重く響く。


「門の前で血を流せば、全員が遠ざかる」


 それは本音だ。

 脅しではない。

 たぶん、本当にそうなる。


 白霜外界と門が、いま人間側の争いを“余計な圧”とみなしているなら、血の匂いなど最悪だ。

 国家の理屈も、正義も、そういう場所ではただの騒音でしかない。


 レオンハルトが先に頷いた。


「異論はない」


 帝国の肯定は大きい。

 軍事国家がその場で武を引くと明言するのだから。


 次いでオルフェン。


「魔導王国も同意します。門前での衝突は観測そのものを壊すでしょう」


 カイルは苦笑めいた気配を混ぜて言う。


「商盟としても同意します。壊れた順番に値は付きませんので」


 連邦は一拍遅れた。

 だが、アシュレイがはっきりと前へ出る。


「連邦も受け入れる。少なくとも、この場で剣を抜く気はない」


 そこへ、ずっと黙っていたグラウスがようやく口を開いた。


「“少なくとも”、か」


 空気がまた少し張る。


 嫌だな、と思う。

 非常に嫌だ。


 グラウスはクロウを真正面から見ていた。


「黒翼の終王」


 声は硬い。

 だが感情だけではない。


「門の前では門が先。ここで争うな。勝手に触るな」


 一つずつ確認するように言う。


「それが貴様の線引きか」


 クロウは数拍だけ彼を見返した。


 ここで言い淀むと、たぶん余計な意味が乗る。

 かといって強く断じすぎても面倒だ。

 だから、なるべく普通に返す。


「そうだ」


 短く。


「門が閉じれば、全員が損をする」


 本人の中では、かなり率直な実務的回答だ。

 だが、グラウスの目はそれを別の重さで受け取っているようだった。


「…なるほど」


 彼は低く言った。


「終王は、いまはまだ“選別の場を壊さぬ”ことを優先するか」


 違う。

 いや、違わないのだが。

 出発点の気持ちはもっと「門の前で国家間衝突とか勘弁してくれ」である。


(違うんだよな)

(そうじゃなくて、もっと普通に“事故るな”なんだよ)

(何でそんなに毎回言葉が大きくなるんだ)


 だが、ここで訂正してもたぶん意味はない。

 むしろややこしくなる。


「好きに取れ」


 クロウは言った。


「だが、線は越えるな」


 そこだけは変わらない。


 グラウスはまだ硬い顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。


 少なくとも、この場では飲んだのだろう。


 ---


 こうして門前には、まだ正式な文書もないまま、一つの前提が落ちた。


 ここで争うな。

 勝手に触るな。

 門が先だ。

 線を越えるな。


 それだけだ。

 かなり普通の注意事項である。

 だが、門がそれを否定していない以上、この場では十分すぎるほど重い。


 ヴェルミリアが半歩だけ前へ出る。


「では、門前の暫定規律として確認いたします」


 出た。

 やはりそうなる。


(いや、もう“暫定規律”になったのか)

(早いな)

(本当に早いな)

(まだ私は“普通に注意しただけ”くらいの気持ちなんだが)


 だが止める理由もない。

 むしろ、今ここで言葉にしておかないと、また誰かが“自分だけは例外”をやりかねない。


 ヴェルミリアは落ち着いた声で並べていく。


「第一。門前での無断前進を禁ずる」


「第二。武力衝突、威圧行為、大規模術式展開を禁ずる」


「第三。門への接触は黒翼庭側の確認を経た場合のみ」


「第四。各国は第三圏に留まり、指示があるまで第二圏へ進まない」


 その言葉が白い地平の前で一つずつ形になる。


 帝国が頷く。

 王国が頷く。

 商盟は表情を変えずに受け止める。

 連邦は少し硬いままだが、否定はしない。


「異論は」


 ヴェルミリアが問う。


 数秒の沈黙。


「ない」


 レオンハルトが言い、オルフェンが続き、カイルが軽く一礼し、最後にアシュレイがはっきりと頷いた。


 これで門前の最初の線は、少なくとも場の了解として成立した。


 文書はまだない。

 だが、こういう場では紙より先に空気で決まることがある。


 今がそれだった。


 ---


 少しだけ風が抜ける。


 白霜外界の向こう、見えない門のある方向で、白がほんのわずかに浅くなった。


 今度は誰も見間違えない。


 門が、少なくともこの線引きを拒んでいない。


「…ほんとうに」


 リセリアが小さく呟く。


「門前秩序が成立した」


 魔導王国の言葉としては、かなり正確だった。


 帝国はそれを軍事均衡の新前提として見るだろう。

 商盟は順番の固定と見る。

 連邦はまだ意味を置きたがるだろう。

 だが少なくとも、いま門前にあるものはただの臨時停戦ではない。


 門が嫌わない範囲での秩序。


 つまり、かなり強い。


 クロウはその白の浅まりを見て、少しだけ肩の力を抜きかけたが、すぐにやめた。


(いや、まだだ)

(ここで安心すると次に何か来る)

(知ってる)

(こういう時に限って、本当に来るんだよな)


 残念ながらその予感は、また当たる。


 第三圏のさらに外、誰も視線を向けていなかった斜面の方から、小さな術式の脈動が一度だけ走った。


 細い。

 だが、門前では十分すぎるほど目立つ。


 バルザードが真っ先に顔を上げた。


「っ、外から!」


 セラフィナの目が細くなる。


「陛下…!」


 商盟の私設観測線か。

 あるいは、さっきの流れに乗り遅れたどこかの独断か。


 術式は大きくない。

 偵察用、あるいは位置固定用の軽いものだ。

 だが、門の前で“外からこっそり別の線を通す”という時点で最悪だった。


「止めろ!」


 クロウの声が低く飛ぶ。


 その声と同時に、白が今度は明確に濃くなった。


 全員が息を呑む。


 門前に置いた秩序を、門自身が試し始めた。

 そう見えるほど、反応は速かった。


 白の奥で、見えない門がひどく静かに機嫌を悪くしている。


 その実感が、門前の全員の背筋を一気に冷たくした。




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