「監視祠へ向かう影」
立体地図の一角で、南へ逸れた帝国斥候が監視祠へ近づいていた。
対する影鴉は、すでに先回りしている。
セラフィナが目を閉じたまま、静かに報告する。
「祠の内部、確認いたしました。人員は七名。うち三名が監視官、二名が祈祷師、一名が記録係、残る一名は護衛。帝国所属ではなく、混成管理です」
「予想より少ないな」
「祠はあくまで簡易拠点ですので」
ヴェルミリアが補足する。
「本格的な情報集積はさらに後方で行うのでしょう。ですが、ここで収集された情報もまた、複数国家へ分配されるはずです」
面倒だ。
面倒だが、情報が流れること自体は止められない。
なら、どんな形で流すかが重要になる。
「会話は拾えるか」
クロウが聞くと、セラフィナは頷いた。
「はい。間もなく」
その瞬間、立体地図の横へもう一つ、淡い光の幕が現れた。
映像ではない。
音だけを術式で拾っているらしい。言葉が少し遅れて、揺らぎを帯びたまま広間へ浮かび上がる。
最初に聞こえたのは、風の音だった。
吹きさらしの尾根を渡る、乾いた北風。
扉の軋み。
雪を踏む音。
それから、人の声。
『帝国軍斥候隊、緊急照会だ! 禁域中心部での反応増大を確認、監視補助を要請する!』
若い男の声だった。
張っている。
緊張を押さえ込みながら、必要以上に強く響かせている声だ。
続いて、祠の中から別の声が返る。
『…確認する。所属と印を』
『竜嶺帝国北方方面軍、第三偵察線所属! 隊長ルークスの名で照会する!』
帝国側の所属が一つ取れた。
セラフィナが目を閉じたまま言う。
「記録しました」
早い。
地図上の光点と同様、こちらの情報処理速度もだいぶ普通ではない。
光の幕の向こうで、男の声が続く。
『現在、先行三騎が谷内部を監視中。異常な静穏化、飛竜の怯え、視認不能の圧あり。禁域側がこちらを認識している可能性が高い』
その一文が浮かんだ瞬間、玉座の間にいた全員の空気がわずかに変わった。
**認識している可能性が高い**
向こうも、そこまでは読んだか。
ヴェルミリアが小さく言う。
「羽一枚で十分でしたね」
だから、その一言が怖いんだって。
クロウは心の中だけで突っ込む。
だが確かに、相手へ“見られている”意識を植え付けるという意味では、効果的すぎるほど効果的だった。
音声はさらに続いた。
『繰り返す。禁域側が認識している可能性が高い。だが、現時点で直接的な攻撃はなし。再度言う、直接的な攻撃は――』
そこで一度、言葉が乱れた。
祠の中でざわめきが起きる。
別の、年配の低い声が割って入る。
『攻撃がない? 本当にか』
『少なくとも今はだ! だが、谷に入った瞬間に空気が変わった。誰かに見られている』
その表現に、バルザードが感心したように小さく息を漏らした。
「ほう。感覚は悪くありませんね」
「喜ぶところではない」
クロウが言うと、バルザードは慌てて頭を下げた。
「失礼しました。ですが、相手がきちんと脅威を認識しているのは悪くありません。愚かにも無策で突っ込まれる方が後々の手間が増えますので」
それもそうか。
この世界では、いちいち理屈が通るのが困る。
言っていることがだいたいが正しい。正しいから止めれない。
音声がまた変わる。
『後続部隊を呼ぶか?』
『いや、待て。まだ早い』
その一言に、玉座の間の空気が一瞬だけ止まった。
クロウは少しだけ気まずくなる。
向こうも“まだ早い”と言った。
ただそれだけなのに、妙に言葉が被った感じがして落ち着かない。
変なところで共鳴しないでほしい。こっちはこっちで色々いっぱいいっぱいなのだが。
ヴェルミリアは静かに目を細めた。
「帝国側にも、無闇に踏み込む愚将ばかりではないようですね」
ガルドが低く唸る。
「隊長の判断か」
「おそらく」
セラフィナが答える。
光の幕の向こうで、ルークスの声が続いた。
『いまここで後続部隊を呼べば、こちらが怯んだと見られる。まずは祠からの監視を重ねろ。谷内部の反応を拾えるだけ拾う。俺たちはさらに先に進む』
そう来たか、とクロウは思う。
帝国の隊長、ルークス。
思った以上に肝が据わっている。
怖がりながら、それでも止まらない。
たぶんこの世界では強い側の人間なんだろうな。
「陛下」
セラフィナが静かに呼ぶ。
「祠側はまだ後続部隊を呼びません。ですが、監視精度を上げるため、術式を一段深く回そうとしています」
「こちらへ干渉は」
「届きません。境界線の空気を撫でる程度です」
ならまだ問題はない。
問題はないが、そのまま放置すると“禁域側は見ているだけだ”という認識が固まるかもしれない。
難しい。
圧を見せるだけで、手は出さない。
だが甘くも見せない。
やはり難しい。
「…もう一枚、落とせるか」
クロウは考えた末に言った。
ヴェルミリアがほんのわずかに視線を上げる。
「羽を、ですか」
「ああ。ただし近づけすぎるな。脅しになるからな」
自分で言っていて、何の微調整をしているんだろうと思う。
だが今はこれが一番ましに思えた。
「祠ではなく、谷の出口付近だ。これ以上踏み込めば次はない、くらいの境界線でいい」
数拍の沈黙。
それからヴェルミリアが、ゆっくりと頭を垂れた。
「…なるほど」
嫌な“なるほど”なんだ⁉
「帝国に“境界線”だけを教えるのですね」
そこまで格好いい話ではないんだが。
いや、でもまあ、結果としてはそうか。
「そうだ」
とりあえず短く返す。
するとヴェルミリアは、今度こそはっきりと微笑んだ。
「お任せを」
怖い。
その一言がとても怖い。
だが、ここで止めるのも違う。
クロウは結局、何も言わずに地図を見つめた。
地図の上で、谷の出口付近へ小さな黒点が一つ動く。
影鴉ではない。もっと大きく、もっと濃い。
黒翼騎士か、あるいはヴェルミリア自身が術で投影しているのか。
判別はつかなかった。
次の瞬間、地図の中の白い雪原へ、また一枚、黒い羽が落ちた。
今度は先ほどよりも大きい。
しかも位置が絶妙だった。
谷の先。
これ以上進めば外へは戻れない、そのぎりぎりの線。
祠の音声が乱れる。
『…っ、おい、いまの見えたか!?』
『羽だ! まただ!』
『どこに落ちた!?』
『谷の出口だ! いや、違う、あれは――』
若い声が息を呑む。
『道を、塞いでるのか…?』
実際に塞いでいるわけではない。
たった一枚の羽だ。人が跨げば済む。
だが、そう見えるのだ。
それ以上は進むなと、空気そのものが言っているように。
クロウは地図を見ながら、少しだけ寒気を覚えた。
上手い。
上手すぎる。
たったこれだけで“境界線”を作ってしまうのか。
祠の向こうで、帝国側がざわめく音が続く。
『隊長に伝えろ! 谷の先に新たな徴候あり! 繰り返す、新たな徴候――』
そこで音が一度途切れ、別の声が重なる。
『待て。文言を選べ。“攻撃”ではない。これは“警告”だ』
ルークスの声だった。
玉座の間にいた誰もが、その一言を聞き逃さなかった。
ヴェルミリアが静かに言う。
「悪くありませんね」
ガルドも低く続ける。
「少なくとも、見所はある」
セラフィナはわずかに微笑んだ。
「では、まだ選別の余地はございます」
やめてくれ。
人の生殺与奪を見定めるみたいな言い方はやめてほしい。
クロウは心の中でそう思いながらも、表情だけは静かなまま保った。
そして、少しだけ理解する。
この場にいる四人にとって、自分の言葉はもう単なる指示ではない。
世界のどこまでを許し、どこからを許さないか、その線引きそのものなのだ。
怖い。
本当に怖い。
しかも、その線引きが相手にちゃんと伝わってしまっているのが、なおさら怖い。
「帝国斥候、進行停止」
ガルドが告げた。
地図上で、谷内部の三点がぴたりと止まる。
後衛の二点も高度を維持したまま、わずかに後方へ下がった。
祠からの音声には、短い沈黙が流れていた。
それから、ルークスの声。
『…ここまでだ。これ以上は踏み込まない』
クロウは内心で少しだけ安堵した。
よかった。
本当によかった。
少なくとも今この瞬間、全面衝突は避けられそうだ。
『監視結果をまとめる。谷内部に明確な監視あり。禁域側は我々の接近を認識している。攻撃意志は不明。ただし、境界線の提示あり。これを持ち帰る』
祠の向こうで、記録係が慌てて筆記する気配がする。
紙をめくる音。
筆記具の擦れる音。
祈祷師の小さな息。
ヴェルミリアはその言葉を聞き終えると、満足げではない、だが確かな納得を含んだ顔で目を伏せた。
「十分です」
「…何がだ」
クロウが聞くと、ヴェルミリアは静かに答えた。
「帝国が、警告を警告として受け取れる国であることが分かりました」
大げさだ。
大げさなのだが、間違ってもいない気がしてくるのが嫌だった。
「少なくとも今夜の段階では、無用に線を踏み越えるほど愚かではないようです」
セラフィナも続ける。
「ならば、いきなり潰す必要はございません」
だから、その物騒な基準は何なんだ。
いや、もう今さら驚かないけれども。
クロウは玉座の肘掛けに指先を置き、わずかに考える。
いま必要なのは、おそらく二つだ。
一つは、このまま撤退させること。
もう一つは、“見ているぞ”という意識だけを残すこと。
「追うな」
クロウは言った。
「帰らせろ。だが、監視は切るな」
四天王が一斉に頭を垂れる。
「「「「御意」」」」
やはり揃いすぎていて怖い。
だが、今のは悪くない指示だったと思う。
たぶん。
おそらく。
できればそうであってほしい。
地図の上で、帝国斥候の光点がゆっくりと反転する。
谷を出て、来た道を戻る形だ。
祠へ向かった一騎も、そこで合流するつもりらしい。
少なくとも第一段階は終わった。
そう思った時。
バルザードが、ぽつりと呟いた。
「ですが…面白いですね」
嫌な前振りだ。
クロウは無言のままそちらを見る。
バルザードは片眼鏡の位置を直しながら、地図を見つめていた。
「帝国の隊長、あれは自分で“警告”と表現しました。つまり相手は、陛下の意図を一段浅いところであっても掴み始めています」
「言いたいことを簡潔にしなさい」
ヴェルミリアが刺すように言う。
だがバルザードは、珍しく真面目な声音のまま続けた。
「はい。要するに、次からはもっと慎重に来るでしょう。慎重に、ですが、より深く」
その一言で、玉座の間の空気が少し変わる。
クロウも意味は分かった。
一度境界を見せた以上、相手は次にその境界の性質を探ろうとする。
今夜は引いた。
だが、引いたから終わりではない。
むしろ始まりだ。
ヴェルミリアが静かにまとめる。
「ええ。帝国は今夜、“触れてはならないものが確かに存在している”と知った。ですから次は、その“触れてはならないもの”がどこまで何を許すのかを測りに来ます」
クロウは表情を変えないまま、心の中で呻いた。
面倒だ。
やっぱり面倒だ。
しかし避けられないのも分かる。
「…なら、その次に備えろ」
短くそう言う。
「だが、繰り返す。まだ早い」
その言葉に、ヴェルミリアは深く頭を垂れた。
「承知いたしました。では帝国には、今しばらく自らの頭で考えさせましょう」
セラフィナは柔らかく微笑む。
「不安と敬意は、よい抑止になります」
ガルドはただ一言。
「境界は守らせます」
バルザードはやけに晴れやかな顔で頷いた。
「では私は、次の“静かな対応”に備えて監視系のみ強化しておきます!」
監視系のみ、という言葉が信用できるかどうかはさておき。
クロウは、ここでようやくほんの少しだけ肩の力を抜いた。
もちろん見た目には出ていないはずだ。
たぶん。
今夜は乗り切った。
少なくとも、いきなり血の雨にはならなかった。
だが、その代わりに確定したことがある。
帝国は、また来る。
しかも次は、今夜よりずっと慎重で、ずっと本気に近い形で。
そしてこちらの配下たちは、その一手一手すべてに意味を見出し、勝手に万全の盤面を整えていく。
胃が痛い。
いや、この体に胃があるのかは知らない。
だが、あると仮定するなら確実に痛い。
クロウは地図の上から消えていく帝国斥候の光点を見送りながら、静かに思った。
たぶんこれが、始まりなのだろう。
千年ぶりに目覚めた王としての最初の夜は、どうにか大崩れせずに終わった。
その事実だけが、いまは唯一の救いだった。
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