「盤面を編む宰相」
谷の上を映す立体地図の中で、帝国斥候の光点が再び動き始めた。
先頭の三つが、いったん停止する。
わずかに間を置き、それから慎重に間隔を取り直した。
後衛の二つは高度を少し上げ、谷の境界線を回り込むような軌道へ移っていく。
立て直したのか、とクロウは思う。
少なくとも、完全に腰が引けているわけではないらしい。
恐れながらも前へ出る。
軍人としては、たぶん正しい反応なのだろう。
ただ、それを正しいと思えるのは、こちらが玉座の間から安全に見ているからだ。
自分があの場にいたら進みたくない。
絶対に進みたくない。
「止まって、進み直したか」
クロウがそう呟くと、ガルドが低く応じた。
「悪くない指揮です」
珍しく、わずかに評価が混じっていた。
「怯えた兵はすぐ分かる。あの隊長は、恐れながらも隊を崩していない」
なるほど、とクロウは思う。
こういう評価がさらっと出るあたり、本当に武人なのだろう。
強さだけでなく、崩れ方と立て直し方を見ている。
ヴェルミリアは地図から目を離さないまま、静かに言葉を継いだ。
「つまり帝国は、現時点で“逃げる理由”より“持ち帰る情報の価値”を優先している、ということです」
「ある意味、こちらにとっては好都合でもあります」
セラフィナが言う。
「恐怖で足を止める者より、恐怖を抱えたまま前へ出る者の方が、意図を読みやすい」
その言い方は、分かるような、分かりたくないような感じだった。
クロウは地図の上の光点を見つめながら、頭の中で状況を噛み砕いていく。
帝国は、こちらを測りに来た。
だが向こうもかなり警戒している。
今のところ、まだ“試しに踏み込んでいる”段階だ。
なら、こちらもその範囲内で返すべきだろう。
変に刺激しすぎず、しかし甘く見られもしない形で。
難易度が高い。
社会人時代にやった調整業務を思い出す。
思い出したくはないが、こういう「向こうの出方を見ながら、こちらの境界線だけはきっちり引く」感覚は妙に仕事に似ていた。
違うのは、失敗した時の被害がたぶん国家規模だという点くらいだ。
…いや、“くらい”では済まないな。
本当に気が重い。
「陛下」
ヴェルミリアが呼ぶ。
「旧監視祠に向かっている一騎ですが、進路が確定しました」
地図上で、南へ逸れた光点が細い尾根を渡っていく。
その先に、小さな円形構造物が淡く表示されていた。あれが監視祠なのだろう。
「予定通り、祠を経由して後続への情報共有を狙うものと思われます」
「止められるか」
聞いてから、クロウは少しだけ反省した。
“止める”という言い方は強すぎたかもしれない。
だがヴェルミリアは平然と答える。
「容易です」
即答だった。
怖い。
「ただし、陛下のお考えに沿うのであれば、今は止めない方がよろしいかと」
「理由は」
「二つございます」
ヴェルミリアは白い手袋の指を一本立てた。
「一つ。帝国側がどの程度の情報を、どの速度で共有するつもりなのかを追跡できます。祠へ行かせれば、彼らの通信系統と緊急時の手順が見えます」
理にかなっている。
そして、二本目の指が静かに立った。
「二つ。ここで祠ごと沈黙させれば、帝国は“こちらが外周すべてを掌握している”と即座に判断するでしょう。そうなれば、次の手が極端になります」
それももっともだ。
クロウは素直に頷きかけて、動きを止めた。
玉座の上の王がいちいち大きく頷くのも何か違う気がして、結局わずかに顎を引くだけで済ませる。
「その通りだ。まだ早い」
言った瞬間、四天王の空気がまたわずかに引き締まった。
駄目だ。
“まだ早い”という言葉、たぶんもう自分の想像以上に重い意味を持ち始めている。
だが今さら別の言い方も思いつかない。
慎重に行こうと言えば段階戦略になり、様子を見ろと言えば選別になる。もうどうしろというのか。
セラフィナが祈るように手を組んだ。
「では、祠そのものはそのままに。内部の会話のみ拾います」
「できるのか」
「影鴉なら」
あっさりした答えだった。
「小さく、軽く、気配が薄い。吹雪と夜に紛れれば、人の目にはまず映りません」
便利すぎる。
いや、便利というか恐ろしい。
自分が敵に回したくない能力ランキングの上位だ。
クロウは改めて思う。
本当に、どうして昔の自分はこんな連中を全力で作ったんだ。
楽しかったのだろう。
ものすごく分かる。
分かるが、今は困る。
「行かせろ」
「承知いたしました」
セラフィナが目を伏せると同時に、地図上の空間へ小さな黒点が二つ生まれた。
羽ばたきらしい動きはない。
ただ、影が影の中へ滑り込むように、するりと谷筋へ降りていく。
影鴉か。
こうして見ると本当に小さい。
普通の鳥より少し大きい程度だ。
だが、その黒は妙だった。
光を受けない黒。
輪郭だけが辛うじてあるような、不自然な存在感の薄さ。
地図の上でさえそうなのだから、現地で見抜ける人間はほとんどいないだろう。
「…便利だな」
思わず本音が漏れた。
一瞬、しまったと思ったが、もう遅い。
バルザードがぱっと顔を上げた。
「ええ、ええ!セラフィナの影鴉衆は本当に優秀でして!ただ、あれでも第一世代よりかなり丸くなっておりまして、初期型はもう少し気配が濃く、その代わり内部に呪食機構と自壊式の反転眼を――」
「説明は後でいい」
クロウは即座に切った。
「今は状況を見ろ」
「失礼しました!」
バルザードは素直に引き下がる。
引き下がるが、片眼鏡の奥の目はまだ明らかに喋りたがっていた。
危ない危ない。
地図の上で、影鴉の一羽が谷上の岩陰へ、もう一羽が監視祠へ向かう。
動きは速いのに、見ていると妙に静かだった。
その間にも、帝国の先行三騎はさらに谷の奥へ入っていく。
進むか。
本当に進むんだな。
クロウは少しだけ感心した。
恐怖に足を取られながら、それでも命令と役割を優先する。
帝国が軍事国家だという話も納得できる。
相手が雑魚の方が話は楽かもしれない。
だが、その方が話としてはつまらないし、今後の展開も薄く――
いや、自分はいま何を考えている。
創作の都合みたいな感想が混ざったぞ。
現実だ。
少なくとも今は。
「陛下」
ガルドが不意に口を開いた。
「許されるなら、一つだけ」
「何だ」
「谷の北側に、黒翼騎士を二名だけ伏せます」
クロウは地図を見る。
谷は細く、左右の岩壁が高い。
確かに、何かあった時に北側の尾根筋から圧をかけるのが最も速い。
「見せるな」
「御意」
ガルドは短く応じた。
「抜くためではなく、収めるための剣もあります」
ちょっと格好いいな、とクロウは思った。
そしてそれが自分の配下の台詞だという事実に、少しだけ気分が複雑になる。
「行け」
「はっ」
ガルドが頭を垂れると、地図の端に新たな二点が現れた。
こちらは影鴉とは違い、輪郭のある光点だ。
それでも帝国斥候に比べれば動きが妙に滑らかで、地形を半ば無視しているようにすら見えた。
黒翼騎士。
名前通り、たぶん空と陸の両方を使うのだろう。
強いんだろうな、とクロウは他人事のように思った。
いや、他人事ではない。
その強い連中が全員、こちらの一言を重く受け止めすぎているのが問題なのだ。
帝国斥候の動きを追いながら、ヴェルミリアはさらに別の術式を展開した。
今度は地図ではない。
いくつもの細い光線が宙に浮かび、それが交差しながら文字列のような形を作っていく。
人名、地名、所属、記号。
整理された情報が階層ごとに並び、まるで巨大な思考の樹そのものが形を得たようだった。
クロウは少し目を見張る。
何だこれ。
すごいな。
すごいが、どこから情報を引っ張ってきているんだ。
「帝国側の予測行動です」
ヴェルミリアは当然のように言った。
「現時点で取り得る選択肢を大別すると三つ。斥候のみで引く、祠を経由して後続を呼ぶ、あるいは距離を保ったまま上空観測へ移るかです」
「そこまで読めるのか」
「おおよそは、ですが」
さらりと言う。
「帝国は武を尊びますが、愚かではありません。最初から大軍をぶつけることはしないでしょう。ただ、こちらの反応が鈍いと見れば、踏み込む速度は上がるはずです」
嫌な分析だった。
そしてたぶん正しい。
「なら、鈍く見せすぎるのも駄目か」
クロウがそう言うと、ヴェルミリアはわずかに口元を緩めた。
笑みに見えるが、温度は低い。
「はい。ですので、“見えていないわけではない”とだけ伝えるのが理想かと」
それだ。
まさに今ほしい答えはそれだった。
過剰に脅さない。
だが無反応でもない。
境界線だけ見せる。
「どうする」
「すでに手を打っております」
ヴェルミリアの返答に、クロウは一瞬だけ固まる。
「…何?」
「谷へ落とした羽です」
あれか。
あの、鴉の羽。
「陛下の庭に無断で踏み込む以上、まずは“気づいている”ことを示す必要がございました」
いや、それはまあ、分かる。
分かるが、いつの間にやったんだ。
「私が命じたか」
「命じられてはおりません」
ヴェルミリアは静かに頭を下げた。
「ですが、陛下が“監視する”と仰った時点で、相手にも“監視されている”自覚を持たせるべきだと判断いたしました」
理屈は通っている。
通っているのが厄介だ。
クロウは心の中で呻いた。
たぶんこれだ。
この人が一番危ない。
いや、一番有能なのだが、その有能さが全部こちらの曖昧な意図を最大限いい感じに解釈してしまう。
「…今回は不問だ」
結局そう返すしかない。
今さらそこを責めても仕方がないし、結果としてはまだ穏当な範囲に収まっている。
ヴェルミリアはさらに一礼した。
「寛大なるご判断に感謝いたします」
そこまで大袈裟な話ではない。
ないのだが、この場ではいちいち訂正しない方がいい気がしてきた。
たぶんその方が被害が少ない。
たぶん。
「では次です」
ヴェルミリアが宙の情報樹を指先でなぞる。
「帝国が斥候段階で得る情報を、どこまで許容するか。そこを決める必要がございます」
「…例えば?」
「城の全容は見せず。中枢も論外。境界線地形と気配だけなら許容範囲。加えて、“ここから先は危険”という線を、できれば地形と空気で覚えさせるのがよいかと」
上手い。
やり方が、上手い。
何というか、本当に宰相なのだなと思う。
政治と軍事と情報戦の真ん中にいる人間の発想だ。
「つまり、見せるものと見せないものを分けるのか」
「はい。相手に持ち帰らせる情報すら、こちらで整えます」
怖い。
だが必要でもある。
クロウは少しだけ考えてから言った。
「やりすぎるな」
自分でも便利な言葉だと思う。
便利だが、この陣営ではたぶんあまり抑止力になっていない。
案の定、ヴェルミリアは静かに頷きながらこう返した。
「ご安心ください。過不足なく、最低限にいたします」
その“最低限”の基準が自分と同じであることを、クロウは心の底から祈った。
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