「痕跡はあるのに定まらない」
白霜外界から戻ったあと、クロウが最初にしたことは、休息でも食事でもなく、椅子に座ってしばらく黙ることだった。
黙ると言っても、深く物思いに耽っていたわけではない。
単純に、疲れたのだ。
白い景色。
ずれる距離感。
信用ならない足跡。
そして最後に現れた、門のようでもあり塔のようでもある黒い影。
嫌だった。
実に嫌だった。
(いや、本当に疲れるな、あれ)
(戦う方がまだ分かりやすいぞ)
(殴ればいい相手の方がずっと親切だ)
世の中には、“正面から来る敵”より“意味がずれる場所”の方が面倒なこともある。
最近よく分かってきた。
分かりたくなかったが。
黒鴉城ネヴァーグレイヴの小会議室には、白霜外界から持ち帰った観測記録が山のように積まれていた。
外部観測。
親衛隊の記録。
影鴉衆の記録。
バルザード製の観測機材の出力。
死書官群による照合結果。
机の上は完全に、ろくでもない真実が少しずつ明らかになる前触れの顔をしていた。
見たくない。
だが見ないと次がもっと面倒になる。
この構図がもう完全に定着しているのが悲しい。
窓の外は曇っていた。
北の空は低く、色が薄い。
白霜外界から戻ってきたばかりだというのに、あの白さはまだ視界の奥に残っている。
目を閉じれば消える種類の景色ではなかった。
むしろ、目を閉じた時の方が足元の不確かさだけが思い出される。
「陛下」
ヴェルミリアが記録板を抱えて入ってきた。
「整理が終わりました」
「終わったのか」
「第一段階はですが…」
その言い方は嫌な予感しかしない。
第一段階ということは、第二第三が当然のように控えているということだ。
やめてほしい。
心に優しくない。
だが、ここで「第一段階って何だ」と顔に出すのももう格好がつかない。
クロウは黙って頷いた。
「言え」
短く言うと、ヴェルミリアはすぐに机へ記録板を広げた。
彼女の指先はいつも通り迷いがない。
持ち帰った情報が多ければ多いほど、彼女はかえって静かになる。
焦りを外へ出さず、順番だけを整える。
そういうところは本当に有能だと思うし、助かっている。
助かっているのだが、その有能さが“次の面倒へ向けた準備の速さ”にも直結しているのがたまに困る。
「白霜外界で観測した黒い門影ですが、結論から申し上げますと、“移動している”とは断定できません」
「断定できない?」
「はい」
ヴェルミリアは冷静に続ける。
「見えた位置は観測者ごとに異なります。距離も一定しません。ですが、時間軸上の“出現の核”だけは一致しております」
クロウは眉をひそめた。
「簡単に言え」
「はい」
ヴェルミリアはほんの少しだけ言い換えを考えた。
「黒い影そのものが動いているのではなく、こちら側の“そこへ向かう位置”がずれている可能性が高い、ということです」
なるほど。
なるほどだが、理解したところで嬉しさは一切ない。
(つまり、あっちはそこにある)
(こっちの“どこから見てるか”の方が狂っている)
(うん、嫌だな)
(知れば知るほど嫌さが増すの、どうにかならないのか)
ならない。
たぶんならない。
むしろ、こういうのは本質に近づくほどさらに嫌になる。
“見えているのに位置が定まらない”ではない。
“位置を定めようとするこちらの前提の方が揺らされている”のだとすれば、門影は白霜外界の中でただ立っているだけで、こちら側が勝手にそこへ辿り着けていないことになる。
それは、とても面倒だった。
「白霜外界は、景色をずらしているのではありません」
今度はバルザードが言った。
いつの間に入ってきたのか分からない。
気配を消す方向をその男が覚えてどうする。
「観測者と対象の“結び方”をずらしています」
「だから簡単に言え」
「こちらが正しく近づけていないのです!」
大きな声で分かりやすく言われると、それはそれで腹が立つ。
いや、バルザードは悪くないのだが。
「補助宮の時とは違いますね」
セラフィナが静かに言う。
彼女もすでに室内にいて、壁際で記録を読んでいた。
白い指先で記録板を押さえたまま、視線だけを上げる。
その落ち着きは、逆に少し怖い。
「補助宮は主を認識して開きました。ですが白霜外界の向こう側は、陛下を見ているのに、まだ“通し方”を決めていないのです」
その言葉に、クロウは少しだけ視線を上げた。
見ているのに、通し方を決めていない。
妙にしっくり来る。
補助宮の時は、あれでも“こちら側の施設”だった。
主認証が通れば、あとは段階の問題だった。
だが今度は違う。
向こう側にあるのは、まだ見ぬ別王の痕跡に連なるものだ。
自分に無関係ではないとしても、“同じ城の扉”ほど素直ではないのだろう。
「つまり」
クロウはゆっくり言った。
「白霜外界は、道を隠しているんじゃない」
「こちらが、正しい近づき方をしているかを見ているということか」
言いながら、自分で少し嫌になった。
妙に当たっている感じがしたからだ。
その通りだった場合、次に必要なのは力押しでも速度でもない。
たぶん、“何を基準に正しいと見なされるか”を見つけることになる。
そして、そういう答えはたいてい面倒な手順の先にある。
ヴェルミリアが深く頷いた。
「まさしく」
やめてほしい。
そんな即答されると、余計に逃げ道がなくなる。
(いや、今のは半分くらい勘だぞ)
(勘なんだが)
(最近、勘で言ったことが妙にちゃんとした判断になるの、本当に困るな…)
本人としては困る。
周囲は助かっているらしい。
その温度差がひどい。
---
ガルドが、壁際から低い声で言った。
「もう一点」
「何だ」
「親衛隊の記録を照合しました。門影が最も安定して見えたのは、陛下が“追うな”と命じられた後です」
「…そうか」
それも嫌な報告だった。
たぶん、白霜外界は“飛びつく者”より“見極める者”の方へ、わずかに姿を定めやすい。
つまり最短で取りに行こうとすると逃げ、順番を守ろうとすると少しだけ応じる。
そういう相手かもしれない。
(面倒くさいな)
(いや、本当に面倒くさいな)
(何だその駆け引き。人の心でも読んでるのか)
読んでいる可能性は、普通にある。
王権現象とか偏在王権とかいう話が出ている時点で、そういう“いかにも嫌な可能性”はだいたい候補に入ってしまうのが最悪だった。
「影鴉衆の側でも同じ傾向です」
セラフィナが続ける。
「門影を直接追おうとした観測者ほど見失い、周辺の出現条件を見ようとした者ほど、長く視認しております」
「なら、やることは一つですね」
ヴェルミリアがすぐに言う。
「門影そのものではなく、“門影が見える条件”を揃えるべきです」
もっともだ。
もっともなのだが、そうすると次の段階はだいたい“もう一回行く”になる。
そこが嫌だ。
クロウは少しだけ視線を逸らした。
窓の外は薄曇りだった。
白霜外界は見えない。
見えないだけで、存在はもうはっきりしている。
「陛下」
バルザードが妙に弾んだ声で言う。
「仮説がございます!」
その言い方で嫌な予感が三割増しになる。
だが無視もできない。
「聞くだけ聞こう」
かなり消極的な返事になったが、バルザードは気にしていないらしい。
「門影は、本体ではありません」
「だろうな」
「ですが、単なる幻像でもない」
「それもそうだろうな」
「つまり、“固定されきっていない中継遺構の輪郭だけが、外へ漏れている”可能性があります!」
言い切った。
室内が少し静かになる。
クロウは机上の記録を見た。
白霜外界。
黒い門影。
補助宮で得た断片記録。
眠り継続。
偏在。
繋がる。
嫌になるくらい繋がる。
「中継遺構」
クロウが復唱すると、バルザードは片眼鏡の奥をきらりと光らせた。
「はい!補助宮が終王の記録と認証を支える境界施設だったように、眠王にもまた、本体へ至る前の固定用遺構があっておかしくありません」
「それが白霜外界の中で、半ば埋もれたまま輪郭だけ漏れている、と」
ヴェルミリアが整理すると、バルザードは大きく頷く。
「まさに!」
元気がいい。
嫌なぐらい元気だ。
こちらは今、“当たっていそうだから嫌だな”の方が大きいのに。
(いやまあ、筋は通っているんだよな)
(筋は通っているが、通っている時ほど本当に面倒なんだよ)
(何でだろうな)
たぶん、夢が夢で終わらなくなるからだ。
仮説のままなら、まだ少しは楽でいられる。
だが、理屈が通った瞬間、それは“次に現地で確かめるべきもの”へ昇格してしまう。
仕事が増える。
とてもよくない。
---
そこへ、珍しくヴェルミリアが少しだけ慎重な間を置いてから言った。
「ですが、ひとつ問題があります」
「何だ」
「もし本当に中継遺構だとしても、現状の我々は“そこに正しく近づく条件”をまだ持っておりません」
クロウは少しだけ安堵した。
良かった。
いきなり“では明日踏み込みましょう”とはならないらしい。
それだけでだいぶ心が軽い。ほんの少しだが。
「白霜外界は、陛下の存在に反応しております」
ヴェルミリアは続ける。
「しかし補助宮の時のように、即座に“主”として通す様子は見せませんでした」
「違う王権だからだろう」
クロウが言うと、ヴェルミリアは頷く。
「はい。ゆえに、必要なのは認証ではなく“接続の手順”かと」
接続の手順。
その言葉は嫌だ。
いかにも試行錯誤が必要そうで嫌だ。
しかも間違えると、ろくでもないことになる響きがある。
(うん、嫌だな)
(何だろうな、最近“嫌だな”ばかり言っている気がする)
(でも本当に嫌なんだから仕方ないだろう)
それはそうだ。
「つまり」
クロウは椅子へもたれながら言う。
「次に必要なのは、“門影そのもの”じゃない。“どういう時に門影が定まるか”をもっと詰めることだ」
「はい」
ヴェルミリアは答えた。
「加えて、陛下がどのような位置取りをした時に白霜外界の反応が安定したかも再検証します」
「追わないと決めた時だな」
クロウがぽつりと呟く。
セラフィナがすぐに反応した。
「ええ。あれは明確でした」
「欲を出した側から見失う、か」
クロウは低く言った。
それは妙に、この手の遺構らしい。
補助宮もそうだった。
王権の施設は、だいたい“力があるか”だけでなく、“何をしに来たか”を見ている節がある。
なら、白霜外界の向こう側も似たようなものかもしれない。
(本当に、ろくでもない世界だな)
(だが、まあ…筋は通ってるんだよな)
(筋が通ってるから余計に厄介なんだが)
理不尽ならまだ、どこかで諦めもつく。
だが理屈があると、対処もまた必要になってしまう。
---
会議はそのまま次の段階へ移った。
死書官群が、白霜外界での視線方向、停止位置、発話内容、歩調変化まで記録から抜き出す。
バルザードは門影の揺らぎを補助宮の複写記録と重ね合わせる。
セラフィナは影鴉衆の感覚報告を定性的なままではなく、順番ごとに並べ直させる。
ガルドは“切り離されなかった位置”だけを抽出して、護衛配置の見直しに入る。
全員、有能だった。
ありがたい。
だが有能すぎるせいで、“やっぱりもう一回行く流れ”が着々と整っていく。
(いや、逃げるつもりはない)
(ないが、準備が整うのが早すぎるんだよな…)
少しはためらってほしい。
もう少し“本当に行きますか?”とか聞いてほしい。
だが、この城でそういう確認はほとんど意味を持たない。
最終的に行くと分かっているからだろう。
そこへヴェルミリアが新しい板を差し出した。
「陛下」
「何だ」
「門影が現れた時、白霜外界内の位相変動は一度、浅く落ち着いています」
「落ち着いている?」
「はい」
彼女は記録板を回し、クロウにも見えるように置いた。
「乱れていた記録針の揺れ幅が、あの時だけ小さくなっております。つまり門影の出現は、単に“何かが見えた”だけではなく、“白霜外界そのものが一時的に形を定めた”可能性があります」
それは大きかった。
黒い影そのものだけが重要なのではない。
それが見えた瞬間、周囲の白まで少しだけ落ち着いた。
なら、門影は白霜外界のノイズではなく、逆に“正しい位置”へ寄る時の兆候かもしれない。
「白が薄くなった、とセラフィナが言っていましたね」
ヴェルミリアが視線を向ける。
「はい」
セラフィナは頷いた。
「景色が消えたというより、“隠し方が浅くなった”印象でした」
「なら」
クロウはゆっくり言った。
「門影を見つけるんじゃない。白がどこで浅くなるかを追え」
これだ、と思った。
影そのものを目で追うと位置がずれる。
なら、影が出る手前の“白の薄まり方”の方を見るべきだ。
かなり普通の発想だと思う。
眩しいものがあるなら、その前に影が変わる、みたいな。
だが四天王の反応はやはり、少し違った。
「なるほど」
ヴェルミリアが深く頷く。
「対象そのものではなく、対象が世界へ与える前兆から固定条件を逆算する、と」
バルザードも目を輝かせる。
「直接座標ではなく、座標の“揺れが止まる瞬間”を追うわけですね!」
ガルドは低く言った。
「護衛も、前方ではなく周辺の変化を見る形へ改めます」
セラフィナは微笑む。
「影鴉衆には、門影ではなく“白の浅まり”を記録させましょう」
全員が一斉に動き始める。
クロウは少しだけ天井を見た。
(いや、今のは普通だろう)
(かなり普通に“本体を追うな、周辺を見ろ”と言っただけなんだが)
(それでも毎回こうなるの、本当に何なんだろうな…)
だがもう慣れつつある自分もいて、それがさらに嫌だった。
---
しばらくして、室内のざわめきがひと段落した頃。
ガルドが短く問うた。
「次の踏査はいつにしますか」
来た。
当然来る。
来ると思っていた。
思っていたが、やはり聞かれると少し心が重い。
クロウは記録板を見た。
白霜外界は、急げば応じる類ではない。
むしろ、急いだ方が見失う可能性が高い。
なら答えは一つだ。
「準備が整ってからだ」
静かに言う。
「焦るな。白霜外界にこちらの都合を押しつけるな」
それも本音だ。
行きたくないから引き延ばしているわけではない。
たぶん。
いや、少しはあるかもしれないが、それだけではない。
この手の場所は、“こちらが準備不足のまま入る”のが一番よくない。
それだけは確かだ。
「承知いたしました」
ヴェルミリアが頭を下げる。
「では、次は“影”ではなく“白”を測る準備を整えます」
「好きにしろ」
クロウが言うと、バルザードが勢いよく頷いた。
「では試作機をもう二案ほど!」
「最低限にしろ」
反射的に釘を刺す。
「もちろんです!」
その返事で安心できた試しがない。
---
会議が終わったあと、クロウは珍しく少し遅れて立ち上がった。
皆が退室していく中、ヴェルミリアだけが残る。
「陛下」
「何だ」
「お疲れですか」
「少しな」
正直に答える。
「だが、方向は見えた」
それは本当だった。
白霜外界がどういう類の面倒さなのか、少し輪郭がみえた。
影を追えば逃げる。
順番を守れば少しだけ応じる。
王権そのものではなく、その外へ漏れる前兆を見た方が近づきやすい。
面倒だ。
だが、完全に理不尽でもない。
「…本当に、嫌な場所ですね」
ヴェルミリアが珍しく、ほんの少しだけ率直に言った。
クロウは思わず目を上げた。
「お前でもそう思うか」
「思います」
即答だった。
「陛下があれほど率直に嫌がられる理由がよく分かります」
「率直に嫌がっていたか、私は」
「そう見えました」
やめてほしい。
少しだけ恥ずかしい。
だが、少しだけ救われもした。
少なくとも、自分だけが“うわ嫌だな”と思っているわけではないらしい。
「まあ」
クロウは小さく息を吐いた。
「嫌でも行くしかないんだろうが」
「はい」
ヴェルミリアは静かに頷いた。
「ですが次は、今回より少し深く通れるはずです」
その言い方は、無理に明るくしていないぶん、妙に信頼できた。
クロウは窓の外へ目を向ける。
北は見えない。
だが白霜外界の白さだけは、頭の奥にまだ残っている。
近づくほど遠くなる場所。
見つけるほど見失う影。
そして、たぶんその向こうにある、まだ目覚めぬ王の痕跡。
「…面倒だな」
また同じ言葉が出た。
だが今度は、少しだけ意味が違う。
ただ嫌なだけではない。
どう面倒なのかが、前よりはっきりしてきた。
それはつまり、少しずつ向き合う形になってきたということでもある。
あまり嬉しくはない。
だが、たぶん悪いことでもない。
---
その夜、白霜外界の観測記録には、新しい整理項目が一つ追加された。
**白の浅まり。**
門影そのものではなく、門影が姿を定める手前で、白がどう薄くなるか。
それを次の踏査の主眼に置く。
記録にそう書き込まれた時点で、次の遠征はもう半分始まっているようなものだった。
死書官群は記録欄を増やし、影鴉衆は観測手順を書き換え、バルザードは観測機を絞ると言いながら絞り切れていない試作案を再整理し、ガルドは護衛配置の図面を静かに塗り替えていく。
白霜外界は、まだ門を開いていない。
だが、こちらももう前のままではない。
影を追うのではなく、影が現れる条件を見始めた。
それは少しだけ、向こうのやり方に付き合うということでもある。
白霜外界は、まだ沈黙している。
だがその沈黙は、無視ではない。
そう思うと、少しだけ背筋が寒くなった気がした。
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